京都大学大学院文学研究科21世紀COE 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」

王権とモニュメント


NEWS LETTER Vol. 7

update:2004年11月10日

  1. 第11回研究会報告
    • 幕末の天皇陵改造―文久の修陵―(山田邦和)
  2. 第12回研究会報告
    • レバノン・ティロス遺跡の学術調査2004年―フェニキア考古学の可能性―(泉 拓良)
  3. 今後の予定

幕末の天皇陵改造―文久の修陵―

山田邦和(花園大学教授)

王権を荘厳するモニュメントとしては、都城、寺院など、さまざまなものが考えられる。しかし、その中でも最も特徴的なものが帝王陵であることは論をまたない。そして、日本における帝王陵とはいうまでもなく天皇陵であり、王権の研究に天皇陵が果たす役割は限りなく大きいのである。

天皇陵の研究を進める上で最も重要なのは、それぞれの天皇陵の原形を確かめることである。しかし、現在見られる天皇陵は、多かれ少なかれ江戸時代において改造が加えられている。したがって、我々は江戸時代における天皇陵の修築の様子を明らかにしておかねば、天皇陵の実像に迫ることはできないのである。

江戸時代においては何回にもわたって天皇陵の探索と修造がおこなわれてきた。たとえば、元禄10〜12年(1697〜1699)には「元禄の修陵」 が、享保3・4年(1718〜1719)には「享保の修陵」がおこなわれた。また、幕府機関による天皇陵調査としては、文化3年〜5年 (1806〜1808)の「文化の天皇陵調査」、安政2年(1855)の「安政の天皇陵調査」などがおこなわれている。しかし、その中でも最大の規模を誇るのは、文久2年〜慶応元年(1862〜1865)に実施された「文久の修陵」であった。

「文久の修陵」は、文久2年(1862)閏8月に下野国宇都宮藩主戸田忠恕[ただゆき]が幕府に提出した「修陵の建白」に端を発する。それが幕府に認められたために宇都宮藩は総力をあげてこの事業にとりくむのであるが、その実質的な推進力であったのは同藩の前家老・戸田忠至[ただゆき](間瀬和三郎)であった。また、注目されることは、文久の修陵のブレーンなったのが、京都在住の国学者で当代最高の山陵研究者として名高い谷森善臣[よしおみ]だったことである。つまり、この修陵事業は学問的にいっても当時の最高水準を保持していたのである。

文久の修陵の中でも特に重視されたのは、初代神武天皇の山陵であった。文久3年(1863)2月24日に同天皇陵は完成し、朝廷より山陵使が派遣されて奉献祭がおこなわれている。この時が文久修陵のいわばクライマックスであった。なお、将軍徳川家茂は元治元年(1864)に神武天皇陵修陵の功によりに従一位に叙位されているし、この事業の指導者であった戸田忠至は慶応2年(1866)に独立した大名としての地位を得て下野国高徳藩を興すという栄誉に輝いている。

文久修陵についてさらに注目されるのは、この事業のきわめて精細な絵図が残されていることである。これは「文久山陵図」と通称され、宮内庁書陵部に所蔵されていることが従来から知られていた。ところが、最近の調査によって国立公文書館にもさらに一本が所蔵されていることが判明するにいたった。おそらく、宮内庁本は朝廷に、国立公文書館本は幕府に対して献上されたものだったのであろう。今回、近世・近代史研究者の外池昇(田園調布学園大学短期大学部助教授)が国立公文書館本による文久山陵図の復刻を企画し、筆者もそれに協力して共同研究をおこなった。今回は、その成果を報告することにする。

文久の修陵によって、それぞれの天皇陵はかなりの環境の変化をきたしている。それを分類すると、ほぼ次のようになるであろう。

第1類 古墳の天皇陵の場合、墳丘の周囲に水濠を掘削する。これはさらに、a「水田区画などとして残っていた周濠痕跡を再掘削」(例:欽明天皇陵、以下同じ)、b「残存墳丘の周囲に幅の狭い濠を新設」(開化、孝謙、成務)、c「貯水池(溜池)としての役割を担わせるために濠を大規模化」(崇神、景行)、といった区別がある。中でも問題なのはbとcであり、これにより古墳の形が著しく変形してしまい、後世の我々を惑わす結果となるのである。

第2類 周囲の環境整備をおこなう。これはさらに、a「植樹、拝所や参道の整備をおこなう」(仁徳)、b「かなりの大工事をして墳丘を荘厳化する」(推古)、c「本体はそのままにして、周囲に山陵区画を整備する」(神武・仁明)、といった別がある。aは巨大古墳の場合が多く、本体にはほとんど手をつけずに周囲の環境を整えるものである。bもまた環境整備だといえるけれども、墳丘の下方に大規模な盛土をおこなうため、古墳のイメージがかなり異なったものになる。cは、山陵の本体とされた墳丘には手をつけずに、周囲に大規模な空堀を掘り、さらに拝所や参道などを配置するもので、原形と比べていちじるしい荘厳化がおこなわれている。cの一例として、陽成・土御門の両天皇陵は八角形の形状に造り替えられているが、その理由は判然としない。なお、この文久修陵中に崩御した孝明天皇の山陵は、石垣積みの三段築成の円墳で、頂部平坦面だけを八角形として柵を巡らし、頂上に巨石を据えるというきわめて特異な形状に造営されている。

第3類 法華堂の新造をおこなう。これは平安時代後期以降の天皇陵に特徴的なもので、天皇陵の本体を宝形造で平面正方形の御堂に造り替えている。後嵯峨・亀山両天皇陵や鳥羽天皇陵では既存の建築物を撤去してまで法華堂を新造しており、この時代の天皇陵についての一貫した修造方針があることがうかがえる。

以上のように、文久山陵図を分析することによって、従来は知られていなかった幕末の天皇陵修造の実態がかなり明らかになるのである。詳細は、外池昇編、外池昇・山田邦和・西田孝司解説『文久山陵図』(新人物往来社より近刊)を参照願えれば幸いである。

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レバノン・ティロス遺跡の学術調査2004年―フェニキア考古学の可能性―

泉 拓良(京都大学大学院教授)

報告者は1999年からレバノンにおいて考古学的調査を実施してきた。1999年と2001年はティール市の東に予定されていた高速道路とインターチェンジの予定地、及びインターチェンジ予定地と市街地の間の地域において、遺跡確認踏査を行い60以上の遺跡を発見した。2002年からは、遺跡保存の為に移動が決定された旧インターチェンジ予定地において、踏査で発見したフェニキアからローマ時代に至る墓地の一部を発掘した。2002年には、縦穴部をもつ地下墓2基を発掘し、また、開口していた壁画地下墓の清掃・保存をおこなった。2003年には、盗掘を受けた紀元後2世紀頃の地下墓と、フェニキア期、ヘレニズム期の遺物が豊富に出土した性格不明の遺構を発掘した。2004年度はこれまでの発掘・踏査等で出土した遺物の整理・研究と遺跡の測量調査、壁画地下墓の保存修復研究をおこなった。

タニット記号付分銅今回の発表はその成果の一部として、2003年の発掘で出土したタニット女神の記号の付いた分銅(写真)について紹介し、考古資料からフェニキアを研究する可能性について述べた。

発見した分銅は2003年に盗掘を受けた性格不明の遺構から出土した。 遺構の年代は出土したアッティカ式土器片やランプからみて、紀元前5世紀から紀元後2世紀までと考えられるが、正確には時代を決められない。分銅は鉛製で、長さ3.2cm、幅3.0 cm、厚さ1.1 cm、重さ61gである。表面にはギリシア文字が描かれ、裏面にはカルタゴ・フェニキアの女神タニットを象徴する記号が描かれている。

表面の文字はLBIと読むことが可能である。アンフォラの把手に押されたスタンプに関する最近の研究に依れば、Lは年、Bは2、Iは10を示す。すなわちこの分銅は12年に鋳造されたことになる。古代テュロスは紀元前126年にセレウコス朝シリアから独立し、独自の年号を持ったことがわかっているので、西暦になおすと紀元前114/5年になる。その他の分銅の出土例から見て妥当な年代と考える。

タニット女神の記号はチュニジアやシチリアからの出土例が多く知られていたので、従来はカルタゴの女神といわれていた。現在集成を進めているが、少なくとも紀元前5世紀に遡るテラコッタ像に記されたタニット女神記号は、テュロス、アッコからの出土であり、この女神もまたフェニキア、テュロス起源であった可能性が指摘できる。

もし、以上の推測が可能ならば、ローマ時代にはカルタゴの創建者エリッサの像を貨幣に刻んだことも、重要である。セレウコス朝シリアからの独立間もないテュロスが、自らの年号と、かつて繁栄したテュロス時代の象徴としてタニット女神を分銅に刻んだと考えられよう。

テュロス市への入り口では、スペイン隊がトフェット様の墓地遺構を発見しており、フェニキアと地中海沿岸のフェニキア・カルタゴ系諸都市をつなぐ考古学的資料が近年増加していることは喜ばしい。

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第13回研究会の開催

日時
2004年11月16日(火) 18:30〜
場所
文学部旧陳列館1階 会議室
研究発表
根立研介氏(京都大学大学院助教授)「安祥寺に現存する仏像について−本堂安置の仏像を中心に−」

第14回研究会の開催

日時
2004年12月14日(火) 18:30〜
場所
文学部旧陳列館1階 会議室
研究発表
○石村 智氏(日本学術振興会特別研究員・京都大学)
Patrick Nunn(Department of Geography, University of the South Pacific)
「Shock to the System: AD1300 event and social stratification in Oceania」
 オセアニア各地には、マラエやモアイといった石造モニュメントが分布し、その背景には階層化した首長制社会の存在が想定される。しかし、近年の年代の見直しによると、こうした建造物は比較的新しい時代、せいぜい1000年ほどしか遡らない頃に属することがわかってきた。本発表では、そうした推定にもとづいて、AD1300年頃に起こった気候変動が社会システムを大きく変えた可能性を指摘する。