京都大学大学院文学研究科21世紀COE 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」

王権とモニュメント


NEWS LETTER Vol. 9

update:2005年6月1日

  1. 2005年度の活動について
  2. 第15回研究会報告
    • 円宗寺の創建と中世王権(勝山清次)
  3. 第16回研究会報告   
    • 9・10世紀の朝鮮半島における山城の築造・修築とその歴史的背景(吉井秀夫)
  4. 今後の予定

2002年10月に発足した14研究会「王権とモニュメント」では、月1回のペースで研究会を開催し、世界各地における王権とモニュメントの諸相について議論を進めるとともに、主たるテーマとして京都市山科区に所在する安祥寺の調査研究を文献・美術・建築・考古など多面的な分野から進めてきた。

本年度は、このような活動を継続する一方で、これまでの研究・調査成果を総括し、広く世に問うための活動を進めていく。具体的には、今年11月に研究会の外からも講師を招いて安祥寺をテーマとするシンポジウムを開催するとともに、安祥寺についての研究・調査成果を総合的にまとめた報告書を刊行するため、準備を進めていく予定である。

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円宗寺の創建と中世王権

勝山 清次(京都大学大学院教授)

本報告は、これまでの研究史を踏まえて、円宗寺の画期性をめぐる論点を整理するとともに、円宗寺・六勝寺と中世王権との関わりを明らかにしようとしたものである。

円宗寺に先行する三つの天皇御願寺(円融・円教・円乗の三寺)は、(1)天皇個人がその祈願(現世安穏や来世における往生)を行うために建立した寺である、(2)天皇の死後、追善の法会(法華八講)が行われる菩提寺でもある、といった特徴をもっており、あくまでも天皇個人のための寺であった。

四円寺と総称されながら、円宗寺がそれまでの円融寺などと大きく異なっている点は、本格的な伽藍形式をとる国家的寺院であることである。供養の願文には鎮護国家の理念が掲げられており、それを具体的に示すかのように、金堂には本尊として二丈金色の毘盧遮那如来(大日如来)が安置されていた。また最勝会・法華会という国家的な法会も設けられていた。その一方で、円宗寺にはそれまでの天皇個人のための寺としての性格も継承されている。自身の極楽往生を願う施設である常行堂が建立されていることや、死後は法華八講が行われ、後三条天皇の追善の場となっていることがそれを物語っている。以上のように、円宗寺には天皇個人の祈願と追善の場という性格と、国家的な祈祷の場という性格が並存しており、これが寺の特徴となっている。そしてその特徴はそのまま六勝寺に継承された。

円宗寺・六勝寺と王権との関わりで注目される第一は、金堂の毘盧遮那如来安置からうかがわれるように、円宗寺の建立に国家意識の昂揚がみられることである。道長の法成寺の段階でも国家意識の高まりはみられたが、それは求心性に欠け、未熟なものであった。ところが円宗寺のばあいは、天皇が王権の中枢を担う主体として再生したことによってもたらされたものであり、その中心には天皇がすえられており、もはや求心性に欠けるところもない。第二に、円宗寺・六勝寺では個人としての天皇が前面に出てきていることである。これらの寺々は天皇個人のために建てられた寺院であり、そのままで国王のための国家的な寺院ともなっている。そこでは個人である天皇が公的な存在として前面に出てきているが、その点で「天皇という位にある個人」の御願を直截に伊勢神宮に伝達する意味をもつ公卿勅使が11世紀後半から急増することと共通する現象であったとみられる。

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9・10世紀の朝鮮半島における山城の築造・修築とその歴史的背景

吉井 秀夫(京都大学大学院助教授)

朝鮮半島の各地に所在する山城は、文献記録にあらわれる三国時代の「城」と関連づけて研究が進められてきた。しかし、発掘成果の進展と共に、9・10世紀に新たに築造されたり、大規模に修築された山城が少なくないとみる説が提起されている。本発表では、山城から出土した文字瓦の分析を通して、当該期における山城の築造・修復の様相とその歴史的意義についての予察をおこなった。

今回、主たる検討対象としたのは、忠清南道扶余郡の扶蘇山城である。三国時代の扶蘇山城は包谷式山城であったが、統一新羅時代以降、従来の城壁の一部を利用しつつ、北西峰と南東峰に鉢巻式山城が造られた。特に北西峰の鉢巻式山城は、高麗時代以降の遺構・遺物がほとんどないので、築造・修築年代をある程度限定できる。統一新羅時代における山城修築の様相を知る手がかりとなるのが、「會昌七年丁卯年末印」銘丸・平瓦である。この文字瓦には、瓦円筒の成形時に6種類以上の長板タタキを用いて文字を連続して押捺したものと、瓦円筒の成形から分割までの間に2種類の方形の原体で文字を押捺したものが存在する。前者は高麗時代、後者は三国時代から統一新羅時代の文字瓦によくみられる技法であり、移行期における製作技術の様相をよく示している。またこの文字瓦は、「城」銘軒丸瓦・「會昌丁」銘軒平瓦・「午年末城」銘軒平瓦とセットをなし、9世紀中葉における山城の築造ないし修築に際して、一括して生産・供給されたと推定できる。

「會昌七年」銘文字瓦のように、9・10世紀に山城の築造・修築のために一括して生産・供給された可能性がある瓦としては、慶州で出土する「在城」銘文字瓦や、全州市東固山城出土の「全州城」銘文字瓦があげられる。韓国各地の山城・土城から出土する「城」・「官」銘文字瓦の中にも、同様なコンテクストで理解できる例が少なくない。例えば「官城」・「官□国城」・「大官」・「官城椋」など、多様な文字瓦が出土した光州・武珍古城の文字瓦群は、武珍州治との関係からさらなる検討が必要であろう。

9世紀には、新羅の勢力が弱まって各地で豪族が台頭し、後三国時代を経て10世紀に高麗が覇権を握った。そのため、当該期に山城を築造・修築しえた主体は、新羅の他に、各地の豪族や高麗である可能性がある。そして、どの勢力を主体者と考えるかにより、築造・修築に対する歴史的背景の理解は大きく異なることになる。今後、発掘調査を通して山城の築造・修築過程を確実に把握すると共に、今回取り上げた文字瓦をはじめとする出土遺物の編年、および生産・供給体制の復元作業を進めることが大きな課題である。

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第17回研究会の開催

第17回研究会を、下記のとおり開催する予定です。研究会メンバーだけでなく、このテーマに興味をおもちのかたは、遠慮なくご参加ください。

日時
2005年6月21日(火) 18:30〜
場所
文学部旧陳列館1階 会議室
発表
向井 佑介(京都大学大学院DC2)
「慶陵の造営とその時代」