10th Meeting / 第10回研究会

 

新たな公共性概念の構築に向けて――ハンナ・アーレントの『精神の生活』における「思考」の意義――

今出 敏彦 (キリスト教学D1)


はじめに

いかなる公権力も干渉出来ない、各個人の内面的な「精神の生活」と、人々が共に生きる「公的な生活」の双方は、キリスト教信仰を特徴づけるものである。この「公」と「私」を巡る問題は、より広い次元で、政治と宗教の関係性、つまり公共性と宗教の関係性において重要な意義を持っている。しかしながら、20世紀の二つの大戦と全体主義的支配等による社会的破局によって、この伝統的な区分が持っていた意義は曖昧化され、「孤立化した個人」(isolated individuals)や「原子化した社会」(atomized society)に特徴づけられる現代にあって、社会との関わりの中で営まれる人々の実践的生が危機に直面するだけでなく、個々人の内面で営まれる精神の生活もまた、深刻な危機に晒されている。

本発表では、ハンナ・アーレント(1906-1975.ドイツに生まれたユダヤ人の女性政治思想家。ナチスによる迫害を逃れ、アメリカに亡命し、その地で著した『全体主義の起源』によって世界にその名を知られるようになった。生涯を通じて全体主義との対決及び人間の自由について深く洞察した)の思想的営為の集大成と目される『精神の生活』(全三巻、一.思考、二.意志、三.判断――未完、)を扱うが、特に第一巻「思考」を採り上げ、現代の危機的状況に対する彼女の問題意識を把握し、『精神の生活』の今日的意義を明らかにしたい。

ハンナ・アーレントの思想、特にその政治思想は、公共性概念に新たな息吹を吹き込んだ。アーレントの公共性概念の眼目は、人間の自由が実現し、一人一人のユニークな個性が十全に発揮されることであり、彼女はその達成を公的自由や公的幸福と呼ぶ。「公的なもの」とは、決して全体の利益を優先させるものではなく、人間の個性を輝かせるものであり、人間の自由は間違いなく、「公的なもの」と密接に関わるのである。このような人間の実践的生の復権を企図した彼女の思想的営為には、多くの政治理論家や研究者の関心が寄せられている(1)。アーレントの思想的営為に一貫する、人間の自由の擁護という観点は、彼女の思想の総決算と目される『精神の生活』にも色濃く反映されている。

1.現象世界における人間の条件――「公的生活」

1-a.行為(action)

アーレントの行為(action)の概念は、労働(labor)、仕事(work)、行為(action)からなる人間の三つの基本的な活動力(2)の一つであるが、それは、物の介在によらず直接人々の間で行われる活動力であり、人々は行為と言論からなるこの能力によって正に人間的な価値を生み出すことが出来る。この活動力の人間的条件は複数性(plurality)である。アーレントはローマの言葉である「生きる」ということと「人々の間にある」(inter hominess esse)ということ、そして、「死ぬ」ということと「人々の間にあることを止める」(inter hominess esse desinere)ということは同義語であると述べる(3)が、彼女の行為の概念は、単なる固体の運動を意味するのではなく、人間の複数性を条件とした人々の間の関係性としての行為を意味する。

アーレントによれば、人間の複数性には同等(equality)と相違(distinctness)という二重の性格があり、このことが行為と言論の基本条件となっている。人間の行為と言論が開示するものは、その人の「正体」(who)、つまり、その人が誰であるかということであり、我々にとって行為と言論が人間の相違性を明らかにする。人間の行為と言論の開示的性格は、人間である以上止めることが出来ない「創始」(initiative)を前提にしており、この創始は人間の始まり、つまり、人間の誕生によって促されたものである。そして、この言論と行為の開示的特質は、「人々が他者の犠牲になったり、他者に敵意を持ったりする場合ではなく、他者と共にある場合、つまり、純粋に人間が共生する場合に前面に現れる」(4)

無言の暴力や強制ではなく、行為や言論によって人々の共生が導かれる在り方を、アーレントは古代ギリシアの都市国家であるポリスを模範として展開する。古代ギリシアの都市国家では、自由な市民によって構成されたポリスの生活圏(公的領域)と各個人に固有な家族の生活圏(私的領域)が明確に区別されていた。古代において公的領域と私的領域との境界が極めて明確だったのは、私的領域が私的財産によって位置づけられた家庭から成立していたからである。家庭という自然的共同体は生命の維持と種の保存の必要から生まれたものであり、「経済的」なものであった。これに対して公的領域(ポリス)は自由の領域であり、人々はこのポリスでの自由のために家庭での生命維持の必要を克服しなければならなかった。古代ギリシア人にとって自由とは公的領域内にあり、必要は前政治的現象であって、私的な家庭組織の特徴と見なされていた(5)。アーレントにとって政治の存在理由は自由であり、自由であるということは、人々が共に語り行為する公的=政治的生活を意味している。「自由であるという状態は解放の作用から自動的に帰結するものではない。自由は、単なる解放に加えて、同じ状態にいる他者と共にあることを必要とし、さらに他者と出会う為の共通の公的空間、言い換えれば、自由人の誰もが言葉と行為によって現れうる政治的に組織された世界を必要とした」(6)

以上のように、アーレントの行為概念は、他者との共生と密接に関連しており、その共生の中で各個人のユニークな個性が発揮される在り方が「公的なもの」なのである。

1-b. 「公的なもの」(the public)

アーレントによれば、この「公的なもの」(the public)は二つの現象を意味しており、第一は、万人によって見られ、聴かれ、可能な限り最も広く公示される「現れの空間」(the space of appearance)であり、それは人々の関心が集まるような鮮やかに照らし出された舞台である。第二は、「世界そのもの」(the world itself)を意味する。それは、我々全ての者に共通するものであり、我々が私的に所有しているものとは違うものである。我々全ての者に共通する世界の共通性は、「我々がやってくる前から既に存在し、我々の短い一生の後にも存続するものである。それは、我々が現に一緒に住んでいる人々と共有しているだけでなく、以前にそこにいた人々や我々の後にやってくる人々とも共有しているものである」(7)。まず公的なものの第一現象である現れの空間により、行為の現れが実在性(reality)を形成する。そして、公的なものの第二現象である世界そのものは非常に広義の概念である(8)が、この世界の主要な意義は、客観性、共通性、相対的永続性であり、このことは人間の生にとってきわめて重要である。「人間の生と死は、単純な自然の出来事ではない。それはユニークで、他のものと取り換えることの出来ない、そして繰り返しのきかない実体である個人が、その中に現れ、そしてそこから去っていく世界に関わっている。世界は、絶えざる運動の中にあるのではない。むしろ、それが耐久性を持ち、相対的な永続性を持っているからこそ、人間はそこに現れ、そこから消えることが出来るのである。言い換えれば、世界は、そこに個人が現れる以前に存在し、彼がそこを去った後にも残存する。人間の生と死とはこのような世界を前提としているのである」(9)

アーレントの公共性概念は、古代ギリシアのポリスを模範として展開されたが、古代ギリシアのポリスが持つ固有の意義を殊更強調する彼女の政治理論の一面性やこだわりと偏りに対する批判が多く存在する。アーレントの公共性概念は、政治が経済的・社会的環境に深く組み込まれている近代世界において、要求度があまりに高く、それゆえ現実への適用可能性を持たない概念に留まらざるを得ない(後述)。

しかし、アーレントは、彼女の主著の一つである、『人間の条件』において、その主たる課題を「我々の最も新しい経験と最も現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討すること」と述べているが、その際、この課題を担う人間の能力である「思考」が機能しない、つまり「思考欠如」こそ、「我々の時代の明白な特徴の一つ」と指摘している(10)。彼女の問題意識は、遺著となった『精神の生活』においても継承されており、正にこの遺著において、現代の危機的状況への彼女の思想的営為が展開されているのである。

2.現象世界における精神活動――「精神の生活」

アーレントは『精神の生活』の分析に当たり、我々が住まう世界の現象する性格についての概説から始める。「人間が生まれてくるこの世界には多くのものが含まれている...これらのすべてに共通なのは、それらが現象すること、したがって、見られ、聞かれ、触れられ、味ききされ、そして嗅いでみられることを意味しており、相応しい感覚器官を備えた感覚能力のある生物によって知覚される。もし、現象の受け手、つまり、それらに気付き、認め、そして反応することが出来る生命体が存在しなければ、何物も現象することが出来ないだろうし、『現象』という言葉が意味をなさないだろう。生命体がそれらを恐れるのか、あるいは欲するのか、それらを是認するのか、否認するのか、さらにはそれらを非難するのか、賞賛するのかという反応の違いはあるが、現象は単にそこに存在するというだけでなく、生命体に対して現象し、それらに知覚されるようになっているのである」(11)

さて、このような現象世界の中で営まれる精神の生活の「思考」の特徴とはいかなるものか。以下で詳しく検討したい。

思考(thinking)の主な特徴は、「見えないこと」(invisibility)である。アーレントは、この「見えないこと」に関しては精神(mind)と共通するが、全く性質の違う魂(soul)について述べている。魂と精神の同一という昔からの暗黙の前提――この両者は不可視であるということ――によって身体とは対立させられている。しかし、精神にとって当てはまることが魂の生活にとっては当てはまらない。魂は我々が始めるのではなく、受動的に作用を受けるものであり、制御出来ない。これに対して精神は純粋の活動であり、始めることも止めることも出来る(12)

思考活動のもう一つの特徴に、現象世界からの「退きこもり」(withdrawal)がある。「思考が現象世界から退きこもるときは、感覚に与えられるものから退きこもるし、従ってまた、常識に与えられる実在感覚からも退きこもる」(13)。このことは、精神が自律的であり、無制約であることを意味している。「精神活動が自律しているということは、さらにいえば、その活動が制約されていないということが含まれている。生活ないしは世界の制約のどれ一つとして精神活動に直接対応するものはない...精神としてはこのような制約をすべて乗り越えていくことが出来る」(14)。だからといって、この精神活動によって現実が直接変革されることはない。しかし、「我々が行為する際の原則と我々が自分の生活について判断し行動する際の基準は、究極的には精神の生活によって成り立つのである」(15)

・精神の反省的性格

「あらゆる精神活動それ自身が反省的性格をもっていることによって、意識自身に備わっている二元性(duality)が証拠付けられている。精神的な働きは、暗示的にも、明示的にも、自分に振り返って作用することによってのみ可能なのである」(16)

2-c.一者の中の二者(the two-in-one)

・複数性と二元性

「複数性はこの地上における人間生活の基本的実存的条件の一つである−従って(inter hominess esse)、人々の間にいるというのは、ローマ人にとっては生きていること、世界と自己が現実であることを自覚していることの印なのである。そして(inter hominess esse desinere)、人々の間にいることを止めることは、死と同義なのである−のだから、一人だけでいて自分と交流していることは、精神生活の際立った特質である。精神がそれ自体の生活を持っているとは、精神がこの交流を実現し、そこで、実存的に言えば、複数という性格が二者という性格へと還元されているときに言いうる」(17)

・一者の中の二者(the two-in-one)

アーレントは、思考活動における二元性、つまり、一人でいることによって、自分自身との対話がなされることを、『一者の中の二者』と呼び、「人間が本質的に複数性において存在する」ことの証左としている(18)。その際彼女は、ソクラテスの対話的思考を取り上げ、無思考性と悪の関係という問題に再び向かうが、「一人であるのだから、それゆえ自分自身と不調和であるわけにはいかない」(19)というソクラテスの発言の中に、「私という人間は他者に対しているだけでなく、私自身にも対しており、この後者の場合には明らかに私はたんに一人であるわけではない。私の一人であることの中に差異が持ち込まれているのである」(20)ということを発見する。

・差異性と他者性

複数性という人間の条件から、人間を孤立させて取り出すのは間違いである。同様に思考する自我の二元性、つまり、自分の自分自身に対する無言の対話もまた、人間の複数性を前提にしているのである。「他のものとの脈絡から一つのものだけを取り出して、その自分自身との『関係』――つまり同一性――だけで考えようとしても、差異性、他者性は出てこない...思考活動自体が統一体を構成しているのではなく、『一者のなかの二者』を統一しているのでもない。それとは逆に、『一者のなかの二者』が一者になるのは、外部の世界が思考する者の中に侵入して思考過程を中断させたときである」(21)

アーレントは、私が私自身と関わっているという実存的状態を(単独)「solitude」と呼び、(孤立)「loneliness」から区別する(22)が、この孤立は、人間との交流から見捨てられているだけでなく、自分との関わりの可能性さえなく孤独なのである。これに対して、孤立した人間は、他者との関わりを失っているだけでなく、自分自身との関わりをも喪失している。「彼は、アイヒマンの如くに他者の与える秩序にただ盲従するだけの受動的ニヒリストにすぎない。彼の犯す悪は陳腐であり、実を言えば彼自身がイデオロギーで操られ、テロルを蒙る犠牲者なのである」(23)

・思考の欠如

思考の欠如は人間の営み中で一番強力なものである。「それは、大多数の人の行為についてそう言えるというのではなく、全ての人の行為について当てはまるのである。人間の営みの中でまさに差し迫っていること、ア・スコリア(a-scholia)、余裕がないことがあると、その場しのぎの判断に頼り、習慣と伝統、すなわち偏見に依拠することになる」(24)

以上で述べた思考の特徴とは異なる一元論的な哲学的思考を、アーレントは批判する。

彼女は、デカルトのres・cogitans(思考するもの)に注目するが、このres cogitans の重要な特徴は、1)自己充足(self- sufficiency)、2)世界欠如(worldlessness)(25)である。このような自我は場所を必要とせず、物体的なものに依存しないということであり、自分は肉体を持っておらず、自分がいた世界をも存在しなかったかのように仮定するのである(26)

自己充足と世界欠如を特徴とするres cogitansの確実性は、現象する世界と、その中で現れ、消える我々人間の実在性に取って代わった。デカルトの懐疑が与えた影響は、キリスト教における伝統的な救済の確かさを失わせ、人々から信仰を奪った。近代の世俗化の本当の意味は、人々が救済の確かさを失ったとき、彼らは世界に投げ返されたのではなく、自分自身に投げ返されたということであった(27)

アーレントはこのような近代の帰結を「世界疎外」(world alienation)という概念を用いて解釈したが、この「世界疎外」の問題は非常に根本的なものであるという(28)。彼女はその原因を、西欧政治思想の祖プラトンにおける「思考と活動の同一視」に注目して考察する。彼女によれば、プラトンは思考と活動の区別を支配者と被支配者に分けることと同一視したという。プラトンは「知と命令=支配と同一視し、活動を服従=執行と同一視した」(29)のである。このような同一視は、プラトンの「哲人王」の考えに基づいているように思われるが、それは単に、支配によって「多数者はあらゆる点で一つになる」、つまり人間の複数性が否定されるだけでなく、「プラトンが『法律』の終りのところではっきりと述べているように、『始まり(アルケー)』だけが支配する(アルケイン)権利を与えられているということは、彼にとって極めて重要である...プラトン的思想の伝統では、『始まり』はすべて支配を正統化するものとして理解されるようになった。しかし最後には、『始まり』の要素が支配の概念から完全に消滅し、それと共に、人間的自由に関する最も基本的な本当の理解も政治哲学から消えた」(30)のである。哲学者の真理探究、形而上学的な問いへの関心は、単独であることを必要とした。しかし、この単独であることの経験から、哲学者の関心事は、「彼らの単独な状態が保証され、市民としての義務を遂行することなどのあらゆる妨げから解放されていること」となり、彼らが行き着くところは「市民の行為が期待されていないような暴政への共感」であり、単独であることの経験は、哲学者に「人間の複数性という事実から生ずる、人びとと彼らが構成する領域との間の関係性のことを忘れさせてしまったのである」(31)。「世界疎外」の問題性を非常に根本的なものと考えたアーレントの問題意識は、近代の「観照と活動、思考と行為の単なる転倒」より深いものに焦点が当てられている。それは、一つには、「世界疎外」の状況下に置かれた人びとの無世界的メンタリティーの帰結としての無思考性の問題があり、二つには、哲学者の単独の経験による思考活動においては、複数の人びとと共にいる世界との関わりを忘れ、デカルトのres・cogitansに象徴される世界欠如によって、「現実を超越」せざるを得なくなり、思考は、「故郷を喪失」したということである(32)。アーレントにとって、「世界疎外」とは、単に人間の実践的生の危機を意味するのではなく、精神的生の危機をも含む、正に人間存在の危機的状況なのである。従って、全体主義との対決及び世界疎外の克服という彼女の実践的生の復権の試みは、精神的生の復興、つまりこの世界のただなかに精神的生を位置づけ、人間の精神的活動が現実に積極的に関わることを抜きになし得ないのである(33)

3.『精神の生活』における「思考」の意義

3-a.『精神の生活』の三つの精神活動力の評価

『精神の生活』は、全三巻(一.思考、二.意志、三.判断――未完)からなる彼女の遺著であるが、これら三巻のアーレントの立場を巡って、研究者の間でも未だ十分なコンセンサスが形成されていない。ただ、R.ベイナーの編著によるアーレントの『カント政治哲学講義』に収められている、彼の解釈的試論によって「既に完成された二つの精神的能力の考察は、やがて用意される第三の考察によって補われるはずであったばかりでなく、むしろそれら二つの考察自体が、『判断』において予期された総合なしには、効力を欠くものに留まるのである」(34)と結論づけられるに至り、この点については、研究者の間でも基本的な了解が得られていると思われる(35)。しかし、アーレントの「判断」には、二つの異なった位相(一.実践的生の特徴としての判断、二.観照的生の特徴として、つまり精神的活動力としての判断)が存在し、この二つの位相を巡り、研究者の間で『精神の生活』全体の評価が分かれるのである。まず、第一の実践的生の特徴としての「判断」に重点を置く研究では、『精神の生活』の目標は、政治的自由の達成であり、その際重要なのが自分自身の観点だけでなく、他者の可能的な観点から行う「判断」であると考える(36)。次に、第二の精神的生の特徴としての「判断」に重点を置く研究では、アーレントの「意志」が、人間の誕生という事実に根拠を置く自由論であったことから、我々がそのような自由を好もうが忌み嫌おうが関係ないという袋小路に入り込んでしまい、そこで、我々の「快・不快の感情」に対応する能力、つまり「判断」の分析によって、「我々は人間の自由を受け入れ、そうして我々のような生まれ、そして死ぬ存在にとっての自由を担い得るものとみなす、そのような道を見出し得る」(37)ということ、つまり、アーレントの『精神の生活』における「判断」の展開が、人間の自由をより根本的に捉えるものであると考える。しかし、両者は「判断」を中心に『精神の生活』を解釈するため、精神生活内部の思考・意志・判断の統一的な把握は出来ず、このような実践的生と観照的生の分離にあっては、精神的活動力によって捉えられた、より根本的な自由を実践的生において担うことは出来ない。そこで、両者とは異なり、ヤング・ブリューエルは『精神の生活』を、「精神をよく統治することについての論策」であると述べ、「アーレントは、ちょうど政府の三部門のようにチェック・アンド・バランスする三つの精神の能力というイメージを提出しようと試みたのである。どの一つの能力も他の二つを支配してはならないし、それぞれは自由に生き、その存在を保持しなければならない。そういう精神的調和の前提条件は、三つの能力それぞれの内的自由である」(38)と分析し、三つの能力相互の関係を平等に捉え、「判断」中心論の難点を克服する可能性を開いたと思われる。しかし、ブリューエルの分析においても、人間の実践的生と観照的生を分離したままなのである。本発表では、『精神の生活』第一巻.「思考」を採り上げ、単に「判断」によってその効力を認められる従来の理解に対して、又、人間の実践的生と観照的生とを分離したままの『精神の生活』に対する理解に対して、先述のアーレントの公共性概念の理解に沿って、彼女はいかに「思考」を考えたかを再考した。

3-b.『精神の生活』における「思考」の意義

1)無思考性、ア・スコリア(a-scholia)、余裕がないことがあると、その場しのぎの判断に頼り、習慣と伝統、すなわち偏見に依拠することに抗して
アーレントは、習慣とは、「それらを変えることはテーブルマナーを変えるのと同様にたやすいことであろう。ある状況の下では簡単に変化する」ものであるという。具体的にはナチ時代のドイツで起こったことを想定しているのだが、「第三帝国の崩壊後のドイツ人の『再教育』が驚くほど容易であってまるで自動的に行われたかのようであった」(39)という。現象としては前と同じことなのである。孤立した人間が大勢に流され、現実に埋没する在り方は、全体主義的支配の温床であり、「ヒトラーはすでに原子化された社会の堅い基礎の上に彼の組織を打ち立てることが出来、その原子化をさらに人為的に推し進めた」(40)のであった。このような状況は現代の我々の社会にとっても脅威であろう。

2)一元論に抗して
アーレントが繰り返し強調する複数の人びとと共にいる世界との関わりを忘れ、デカルトのres・cogitansに象徴される世界欠如によって、「現実を超越」せざるを得なった思考の「故郷の喪失」は、現象世界からの「退きこもり」ではあるが、「現実逃避」であった。

3)「思考」の積極的意義
それは、無思考性によって現実に埋没せず、逆に一元論的な哲学思考によって現実を超越する逃避でもない「精神の生活」を可能にさせること。それには「退きこもり」の積極的意義の確認が重要である。もう一度、思考の退きこもりの特徴を確認すると、思考は、感覚に与えられるものから退きこもり、また、常識に与えられる実在感覚からも退きこもる。このことは、精神が無制約であることを意味しており、世界の制約のどれ一つとして精神活動に直接対応するものはなく、精神はこのような制約をすべて乗り越えていくことが出来るということであった。現象世界からの退きこもりによって、意志は直接的な欲望から退きこもり、志向することが出来る。そして、判断は直接的な利害から退きこもり、判断力を行使出来る。つまり、退きこもりは、精神活動の必須の条件であったのだ(41)

確かに、このような退きこもりによる欲望からの、そして利害からの退きこもりなど、常識からすれば無意味なように見える。しかしながら、我々人間は、常識には無意味なもの、あるいは答えようのないものを問わずにはいられないのである。「神、自由、不死のようなものは決して経験に与えられないために認識されることのないものだが、我々にとっては存在する。それは、理性がそれらについて考えずにはいられず、人間と精神的生にとって最大の関心事であるという強い意味においていえることである」(42)。アーレントが魂と精神を区別し、内的感覚や常識の推論と思考活動を区別するのは、常識では無意味な問いを破棄することなく、答えようのない問いへと我々を導くためであった。そのことが受動的ニヒリズム、あるいは無思考性、そして独我論的一元論に対抗出来る。

結びにかえて

・課題

1)退きこもりの意義付け
「精神の生活」と「公的生活」の関係性について、アーレントは明確な立場を取っているか? 確かに、『精神の生活』では、「行為者」(actor)と「観察者」(spectator)とを区分し、後者の優位を強調している(43)。そのため、両者の関係についての立場は、たとえ「公共的生活」の意義と復権を主張するアーレントであっても曖昧なままに留まる(44)

2)「公的なもの」のジレンマ
「ハンナ・アーレントは、ギリシアのポリスから作りあげた形象を様式化して政治的なもの一般の本質とした」(45)ため、「公」と「私」あるいは「社会的なもの」、国家と経済、自由と必然、政治的・実践的活動と生産的・社会的運動との間に硬直した概念的二分法を打ち立てた。しかし、現実はこの二分法からは隔たっているのである。このような「公」と「私」あるいは「社会的なもの」との区分への固執は、現代の市民運動や社会運動の意義を適切に把握できるものではない(46)。また、「アーレントは理論と実践の古典的な区別に固執する。実践は、厳密な意味では真理性の資格がない意見や説得に依存している...究極的な明証性に立脚する理論的認識という今日では時代遅れになってしまった概念のために、ハンナ・アーレントは実践的問題に関する相互理解を合理的な意志形成として把握することができないのである」(47)。理論的認識と実践的思考、つまり意味探求との区別への固執は、合理的な合意を不可能にするものであると批判される。理論的認識の一元的・強制的性格に対抗するために、あくまで人間の複数性に基づいた多元的・説得的性格を守ろうというアーレントの立場は、あまりに無防備であるというのである(48)

・展望

理論と実践の問題に対して、アーレントは次のように示唆する。「ヘーゲルとマルクス以来、こうした問いは歴史の地平において、しかも人類の進歩のようなものがあるという仮定の下で扱われてきた。結局、我々には、これらの事柄のうちにあるただひとつの選択だけが残されるだろう。つまり我々はヘーゲルと共に、世界史は世界法廷である(Die Weltgeschichte ist das Weltgericht)と述べて、その究極的判定を成功に委ねるか、あるいはカントと共に、人々の精神が自律しており、ものごとの現状およびそうなった由来から精神が独立できると主張することができるかの、いずれかという選択である」(49)。アーレントは、明らかに後者に与するものであり、人間の精神が世界史という法廷に自らを委ねるのではなく、むしろ、思考の自律性によって、精神がその尊厳を取り戻し、判断力を行使出来るようにすることを企図しているのである。我々が思考している時には、「過去と未来の間の溝」において、時間のなかでの我々の場所を見出すのである。「この位置に立つということは、その不可思議さに究極の回答が与えられるわけではなく、どんな場合にせよ、問いに対していつでも新しく答える用意ができているという位置につくことなのである」(50)

これこそ、アーレントの政治思想の主要課題である、「全体主義を理解すること」が可能になるということに他ならない。アーレントが「全体主義を理解することは何かを赦すことではなく、そもそも全体主義を可能にした世界と我々が和解することを意味する」(51)と述べるとき、たとえ全体主義が我々の思考様式を危機に陥れたとしても、我々の思考能力そのものは問題とはならず(52)、「思考」は、その自律性により、我々に意志と判断力を行使出来るようにするのである。

・「being meant to be」(存在するべく意図されていること)

「全ての人が『存在するべく意図された』という命題は容易に反駁されうる。しかし、『私は存在するべく意図された』という確信は反駁に対して無傷のまま生き残る。何故なら、それは、『私は存在する』ということについての全ての思考の反省において固有のものだからである」(53)。アーレントは、「being meant to be」という命題を掲げることで、答えようもない、けれども問わずにはいられない問いへと我々を導こうとする。このように、ロゴスの枠内に留まりつつ、しかし、それだけでは捉えることの出来ない我々のビオスの存在論的把握を志向する彼女の思想的営為(54)の核心は、彼女が最も好んで用いたアウグスティヌスの次のような言葉に表明されている。

「始まりがあるように、それ以前には誰も存在しなかった人間が創られた」(Initium ergo ut esset, creatus est homo, ante quem nullus fuit.)(55)

答えようのない問いを思考し、他者という永遠に見知らぬものを理解しようとする「思考」の意義は、決して脆いだけのものではない。このような人間の「『理解する心』だけが永遠に見知らぬものである他者と同じ世界に共に生きていくことに私たちを耐えさせ、また他者たちが私たちと共に生きていくことに耐えることが出来るようにする」(56)のである。

  1. 例えば、川崎修『アレント』講談社(一九九八)における公共性の復権、Craig Calhoun & John Mcgowan,ed,Hannah Arendt & The Meaning of Politics,Mineneapolis:University of Minnesota Press,1997における政治的なるものの探求、David Tracy,Plurality and Ambiguity,(The University of Chicago Press,1994)におけるDialogical Theology,等。
  2. Hannah Arendt,The Human Condition(Chicago:The University of Chicago Press,1958)〔以下HCと略記〕,pp.5-7
  3. HC,p.7, Hannah Arendt,The life of the Mind,Vols,T:Thinking&U:Willing(SanDiego and New York and London:Harcourt Brace Jovanvich,1978)〔以下LMと略記〕,volT,p.19
  4. ibid.,pp.179-180
  5. ibid.,pp.30-32
  6. Hannah Arendt,Between Past and Future(New York:The Viking Press,1968)〔以下BPF〕,p.148
  7. HC,p.55
  8. アーレントは主に二つの世界概念を使用している。第一は「自然物もあれば人工物もあり、生きたものも死んだものもあるし、一過的なものも永続的なものもある」という包括的な世界性である。そして第二は人工物や人間事象に結び付く狭義の世界である。「ここでいう世界とは地球とか自然のことではない。むしろ、ここでいう世界は、人間の工作物や人間の手が作った制作物に結び付いており、さらに、この人工的な世界に共に生きている人々の間で進行する事象に結び付いている...つまり、世界は、全ての介在と同じように、人々を結び付けると同時に人々を分離させている」(HC,p.52)。本発表では、専らその客観性、共通性、そして相対的永続性のみを問題とするため、このどちらかには限定しない。
  9. HC,pp.96-97
  10. HC,pp.5-6
  11. LM. volT,p.19
  12. ibid.,p.72
  13. ibid.,p.52
  14. ibid.,p.70
  15. ibid.,p.71
  16. ibid.,p.74
  17. ibid.,p.74
  18. ibid.,p.185
  19. ibid.,p.183
  20. ibid.,p.183
  21. ibid.,p.184
  22. ibid.,p.74
  23. 小野紀明『現象学と政治』行人社(一九九四)、四〇八−四〇九頁
  24. LM. volT,p.71
  25. この世界欠如は、アーレントにとって鍵概念の一つである「世界疎外」(world Alienation)という全体主義的支配における人間の悲惨な状況を表す概念を内包していることに注意が必要である。
  26. LM,volT,p.48.
  27. 本発表res・cogitansの問題性を参照、そしてHC,p.320ff.
  28. HC,pp.248ff.本発表註33。
  29. ibid.,p.225.
  30. ibid.,pp.224-225.
  31. Hannah Arendt,Essays In Understanding,ed,by Jerome Kohn,San Diego and New York and London:Harcourt Brace Jovanvich,1994(以下EU),p.360.
  32. EU,p.35.
  33. 佐藤和夫、「世界疎外と精神の生きる場」(『アーレントとマルクス』、吉田傑俊・佐藤和夫・尾関周二編、大月書店、二〇〇三)、九四頁。
  34. Hannah Arendt, Lectures on Kant’s Political Philosospy,ed.Ronald Beiner,Chicago:The University of Chicago Press,1982(以下LKPPと略記),p.89.
  35. 千葉眞『アーレントと現代』岩波書店(一九九六)一六六頁参照。
  36. James S,J.,Berunauer,“The Faith of Hannah Arendt,” in Amor Mundi,ed,Bernauer S.J.,Boston:Martinus Nijhoff Publishers,1987,pp.5-12.
  37. LKPP,p.93.
  38. Elisabeth Young-Bruehl,Hannah Arendt For Love of the World,New haven and London:Yale University Press,1982,p.458.
  39. LM,volT,pp.177-178
  40. EU,p.341
  41. LM,volT,p.74
  42. ibid.,p.41
  43. ibid.,p.92
  44. 吉田傑俊「アーレントにおける市民社会と大衆社会――その理念性と脆弱性を中心として」(『アーレントとマルクス』、吉田傑俊・佐藤和夫・尾関周二編、大月書店、二〇〇三)、六五−七三頁
  45. Jürgen Habermas, Philosophische-politische Profile,(Surkamp,1981),S.239
  46. 豊泉周治「コミュニケーション的行為と『人間の条件』――ハーバーマスとアーレント」(『アーレントとマルクス』、吉田傑俊・佐藤和夫・尾関周二編、大月書店、二〇〇三)、二〇三−二〇四頁。
  47. Jürgen Habermas,1981,S247,Michael Th.Greven“,Hannah Arendt――Pluralität und die Gründung der Freiheit“, Die Zukunft des Politischen Ausblicke auf Hannah Arendt,Herausgegeben von Peter Kemper,Frankfurt am Main,1993,S.77
  48. 齋藤純一「政治的公共性の再生をめぐって――アーレントとハーバーマス」(『ハーバーマスと現代』、藤原保伸・三島憲一・木前利秋編、新評論社、一九九五)、二六七頁
  49. ibid.,p.216.
  50. ibid.,pp.209-210.
  51. EU,p.308.
  52. LM,volT,p.11.
  53. LM,volT,p.61
  54. 千葉眞、一九九六、一八六頁参照。
  55. HC,p.177,アウグスティヌス、『神の国』第12巻第21章の4、(『アウグスティヌス著作集13』、泉治典訳、教文館、一九八一、一四二頁)
  56. EU,p.322.

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp