10th Meeting / 第10回研究会

 

対話の思想 ――Whitehead・Buber・西田を巡って――

山本誠作(関西外国語大学教授)


私見によれば、対話の思想は三つのカテゴリーに分類できるように思われる。まず第一に、ヘブライ的キリスト教的宗教伝統に基づくもの(ブーバー、エーブナー)である。第二に、仏教的な絶対無の自覚の立場から展開されたもの(西田)である。第三に、無神論的な哲学思想に基づくもの(ハイデガー、フッサール)である。『ブーバーに学ぶ人のために』(世界思想社、2004年)所収の拙論「対話主義の歴史」は不十分ながらも、これらの思想の歴史的展開を辿ったものであるが、ここでは第一と第二の立場を取り上げて比較検討する。

両者の相違点に簡単に言及すると、前者においては我−汝の対話的関係は、「独立」という状態と「関係に入る」という行為を通して成立するに反し、後者においては、それは神人冥合の神秘主義的立場において成立する。こうした神秘主義的合一は、西田の「自己の底に絶対の他を含む」とか「自己が絶対の無に含まれる」という言葉にはっきりと窺い知ることができる。

ところで、私は上述のことを明らかにするために、ホワイトヘッドの「有機体の哲学」の思想を援用したいと思う。というと、奇異の感を抱かれる方もあるかもしれない。なぜなら、彼はその諸著作のどこにおいても、対話の思想を主題的に取り上げてはいないからである。しかし、彼の思想は一方においてブーバーと、他方において西田と通底するような側面を持っている。そして西田の個物に相当するactual entityがそれ自身の世界におかれて、「作られながら作る」プロセスを通して開示されてくる同時的世界の存在論的構造を明らかにすることを通して、一方において、ブーバーの言う我−汝の対話的関係がいかにして独立と関係において成立するかを明らかにすると共に、他方において、ホワイトヘッドの同時的世界と西田の「周辺なくして到るところに中心を有つ無限大の球」とを比較検討することを通して、西田の言う「私と汝」が神人冥合とか自他不二とか物我一如などという言い回しによって記述される神秘主義的合一の立場に成立することを明らかにすることができるのではないかと思う。


ホワイトヘッドの言うactual entityは、まずemotionalな仕方で世界に触れるのであって、それが経験の原初相である。情的なものから知性が出てくる。「意識があって経験があるのではなく、経験があって意識がある」。actual entityはまず全体的なもの(世界)を自分へと受容する(negative prehension)。一方で、知性主義の立場(機械論)では情的なもの(直観)から切り離して知性を考えてしまうため、世界はばらばらなものの寄せ集めであって、真のsolidarityは成立しない。知性主義の立場から見られた空間化され無限分割可能な時間であるinstantではなく、momentとしての時間(持続)において広がる同時的世界でこそ、真のsolidarityは成立するのである。

同時的世界での個々のactual entityは因果的に互いに独立でありながら同じ世界を共有しているが、これは、ブーバーの《我−汝》における「独立」と「関係」という対話的出会いに相当する。その出会いは、知性主義(《我−それ》)においては開かれてこないものなのである。

一方、西田は「個物は一般的なものによって限定されなければならないが、それだけでは個物とは言えない。個物は自己自身を限定しなければならない」と述べ、ホワイトヘッドのactual entityの「先立つもの(世界)に限定されつつ自己自身を限定する」という構造と、驚くほどの類似性を持っている。ブーバーの対話が自他独立しており神秘主義的合一ではないのと同様、西田も単純にそうであるとは言いがたい。ところが、西田は弁証法論理を用いることでさらに進んで「個物的限定即一般的限定」と言ってしまい、その際個物的限定が先に考えられてしまうため、神秘主義的合一に陥ってしまうのである。ホワイトヘッドが弁証法的な側面を持っているとはいえ、弁証法論理を忌避しているのと対照的である。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp