11th Meeting / 第11回研究会

 

「「生の自己証言」からの応答――ヨナスの「責任原理」は「対話原理」となりうるか?」

杉村 靖彦(京都大学助教授)


現代の科学技術文明が人間にもたらした途方もない力に対する「恐れ」を自らの思索の羅針盤として、人間に課せられてくる義務の内実を原理的に問い直し、まだ生まれていない者たちへの責任という「未来倫理」を提唱するに至った――これが、『責任原理』(1979)でその全容を現したヨナスの思想について、一般に共有されている基本的理解であると思われる。だが、ヨナスは単に、人類の存続が危機に曝されているから人類を存続させることが「未来世代への責任」になるというのではない。彼はこの責任を形而上学的・存在論的思索によって基礎づけようとする。ヨナス思想のこの側面は、テクノロジーという新しい問題に似合わない古風なスタイルで語られていることもあって、多くの場合敬して遠ざけられている。しかし、未来倫理とそれを基礎づける形而上学的思索との関係は、ヨナス思想の核心であるばかりか、私の見るところでは、われわれの研究会のテーマである「新たな対話的探求の論理の構築」が直面せざるをえない極度の困難を体現するものとしても解しうるように思われる。

ヨナスの未来倫理の眼目は、倫理的主体としての人格が現に存在することを前提し、ある人格が他の人格へと倫理的に呼びかけ応答を迫るという意味での対話的関係においてはあらかじめ排除されている「まだ生まれていない者」が、倫理的責任にとって第一に重要な関与者になってくるという点にある。すなわち、この倫理の新しさは、同様に人格である者どうしの対称的関係に基づくこれまでの倫理の限界を露わにし、倫理に固有の場を非対称的関係へとシフトさせるという点に存するのである。

だが、対話という問題から見た場合、この新たな倫理は、対話の相手とそのあり方について変更を求めるだけでなく、対話の「原理」自体を根底から考え直すという課題を担わざるをえない。ヨナスが単に新たな倫理を提唱するだけでなく、人間が背負うべき新たな責任の「原理」を求めて形而上学的・存在論的思索にまで踏みこんだことの意味は、そのような角度からも捉えられると思われる。しかし、問題はこの思索の内実である。ヨナスはそこで「存在の自己目的性」という観念に訴える。すなわち、彼は進化という生物学的事実の独自な解釈から、生命という自己目的的な存在様式の登場の内に存在が存在することの価値を読みとり、そこから自らの未来倫理を基礎づけようとするのである。だが、このような生命哲学であれば、科学技術時代に固有の脅威から出発しなくても、別のところから引き出してくることができるのではなかろうか。このようにして提示される新たな対話原理の新しさが仮象に過ぎず、従来の型の対話において排除されてきたものを救い出すように見えながら、その実この排除を決定的にしてしまいかねないことは言うまでもない。これは、われわれの研究会が目指す「新たな対話的探求の論理の構築」をもつねに待ち受けている陥穽であると思われる。

とはいえ、『責任原理』の議論を、グノーシス研究を起点にハイデガーの圧倒的な影響を受けつつその批判的乗り越えを図るというヨナス思想の通時的展開の中に位置づけて解釈し直すならば、彼の形而上学の中核となる「生命の自己目的性」という観念が、その見かけにもかかわらず、科学技術文明に固有の脅威として彼が捉える事柄自体から引き出されたものであることが見えてくる。その際に鍵になるのが、生の「自己証言(Selbstzeugnis)」という術語である。あらかじめ用意された目的実在論への依拠と、科学技術による未曾有の脅威を受けて初めて際立たせられる生の自己証言、ヨナスの思索はこの二つの間で揺れているように見える。この揺れを描き出すことによって、ヨナスの企てが直面した困難そのものを浮かび上がらせること、そしてそれを「新たな対話的探究の論理」を思索しようとするわれわれ自身の困難を照らし出すものとして受けとることが、この発表の狙いである。この揺れは、ヨナスの哲学思想の展開のみならず、彼が個人的信仰の問題であり「ミュートス」の形でしか語れないとする独特の神論(「アウシュヴィッツ以降の神概念」)をも視野に入れることによって、いっそう重層的な形で描き出されることになる。


京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp