12th Meeting / 第12回研究会

 

対話論の対話─―宗教間対話と公共哲学

山梨有希子(南山宗教文化研究所研究員)


0. はじめに

これまでの宗教間対話は、まず宗教があっての対話であった。しかし、現在の宗教間対話およびそれをとりまく情勢を観察すれば、宗教間対話は従来の教理・教義をめぐる対話であるよりも、平和問題をはじめとして、環境倫理・生命倫理などの人類が直面する諸課題にたいして、いかに宗教や宗教間対話が貢献できるかが議論される傾向が強くなっている。

しかし、それらのいわば「公共的」問題にたいし、宗教間対話の出す解答はあくまで「宗教間にむけて」にとどまってしまう。つまり、宗教は「答え」を出せていないのである。この現状をどう打破していくか。

そこでは、近年叫ばれ始めた「公共哲学」が資するところ大である。そうすれば、諸宗教間の対話から、宗教を超えて、信仰を持たない人々をも包括する仕方で宗教間対話を活かすことができるのではないか。「公共哲学」「公共性」と結びつけるとき、そこには宗教間対話の新しい展開がもたらされるであろう。

現在の宗教間対話には閉塞感も感じられるうえに、さまざまな問題が指摘されてもいる。「宗教間対話論と公共哲学の対話」は、こうした行き詰まりの感がある宗教間対話に新たな頁を開くことになるだろう。

1. 宗教間対話の現状

  1.1海外の宗教間対話

海外でおこなわれる対話のほとんどが、キリスト教・ユダヤ教・イスラームの間でのものである。そして、それはまさに宗教間「対話」いう形態をとる。たとえば、1995年9月におこなわれたユダヤ教とキリスト教の対話では、ユダヤの過ぎ越しの祭りや最後の晩餐について語り合われ、1997年6月のイスラームとキリスト教の対話では、互いが互いをどう見、語ってきたかがテーマになっている。とくにユダヤ教とキリスト教、キリスト教とイスラームの間には歴史的に根深い対立があることから、その克服の試みとして互いの教理の読み直しをおこない、対立が教理によるものではないことを確認していくような地道な対話が積み重ねられている。

  1.2日本の諸宗教における宗教間対話・協力

日本の諸宗教の関係を特徴づけるのは、「平和」運動での「協力」ということができる。

戦後日本の諸宗教の平和運動を主に担ったのは「日本宗教者平和協議会」と「WCRP」であった。

1970年に設立されたWCRP(世界宗教者平和会議)は、仏教、キリスト教、イスラーム、ヒンドゥ教、ユダヤ教、儒教、神道、シク教、ゾロアスター教などといった世界中の宗教からの指導者が参加する世界最大規模の宗教間対話組織である。1970 年11月に京都で第一回WCRP大会が開催されてから、5年毎に世界大会をおこなっており、2006年には日本で第八回大会が開催されることが決定している。

とりわけWCRP日本委員会の活動は活発であり、1998年10月のボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争における宗教間の和解に寄与するなど、実際の功績も積み重ねているほか、「平和大学講座」や「平和のための宗教者研究集会」を毎年開催するなど、「平和」をキーワードに「対話」「協力」を精力的におこなっている。

以上のようにみてくると宗教間対話・協力は何の問題もなく、とりおこなわれているかのように感じられるだろう。しかし、現場にたつ宗教者たちにひろく共有されているのは「閉塞感」である。

  1.3対話の行き詰まり

海外の宗教間対話の従事者たちは「何度となく宗教間の会議・集会・出会いの場などを開いてきたが、それは政治的、社会的そして経済の場においてどれくらいの影響力を持つことができたのだろうかということについて確信をもてなくなって」きているという現実がある。2002年7月のセミナーでは「妥当で効力のある宗教間対話でありたければ、純粋に宗教的問題だけを扱うのではなく、社会における経済的、政治的側面を考慮にいれるべきだ」との文言もみられる。宗教間の対話は重ねてきた。しかし、それがなにをもたらしたというのかという疑問が宗教者たちの心にわきおこりつつある。宗教間「対話」を行なう者は、その意義が「宗教間」に限定されることに疑問を感じているのである。

地球的平和や環境・生命倫理などの分野で、宗教がその価値観をもってあるべき人間の姿、実践のあり方を示すことが求められている今、この宗教間対話の現状は社会にとっても宗教にとっても不幸なことといわざるをえない。

宗教・宗教間対話と公共的空間とを結びつける理論が必要とされているといえるだろう。

2.公共哲学としての宗教間対話論――「平和」をめぐる試論――

  2.1 宗教的「平和」と公共的「平和」

イスラーム学者の板垣は「宗教間対話」をさしてこう述べている。「宗教間の平和そのものに意義を見出そうとする動きもある。文明の衝突論の素朴な適用として、人間同士の争いは、こころに起因するから、宗教間の和解と協調、宗教的寛容こそ紛争の解決・回避の鍵だという考え方である。世界の主要な諸宗教の代表者が相寄って語り合い、ともに祈る集会が日本を含め世界各地で開かれているが、それは文明間対話の全面的推進に参与しようとする動きなのだろうか。それとも宗教間平和に自己完結する動きなのだろうか。」

「宗教多元主義」がめざす「宗教」の共生はどの次元で実現されるものなのだろうか。宗教協力で目指される「平和」はどこで実現するのだろうか。それはまさに板垣が述べるように「宗教間平和」に「自己完結」してしまう結果につながっているのではなかろうか。

そこで、宗教間対話が公共世界へ開かれたものになる可能性を公共哲学とのつながりで考えてみよう。

  2.2「平和」の公共的価値理念形成への貢献

日本の公共哲学をリードする千葉大学の政治哲学者、小林はこう述べる。「平和主義に確固たる思想的基礎を与える必要がある」と。それを構築するのが日本の公共哲学が有する一つのおおきな存在意義である。

宗教、宗教間対話はこの「平和」という価値理念形成に寄与し、その理念形成の対話に参加することによって公共哲学の一翼を担うことができるのではないだろうか。心主義の平和は「宗教」にしか平和をもたらさない。また、それは平和を築く価値理念ともなりえない。

では、どのような形で宗教、宗教間対話を公共哲学の場でいかすことができるだろうか。

平和とはなにか、つきつめればどういう理念か、実現するにはどうすべきか、その考えの下それをおこなったらどんな帰結がもたらされるのか。「平和」という公共的価値理念を形成するために、「宗教」としての共通理解をつくりあげるための「宗教間」での対話がまず必要となろう。その場合、諸宗教の「間」には公共的空間が形成されなければならない。つまり、複数性が保持された、「意見」が語られる場である。共通世界をめぐる言説の空間としての公共性からは絶対的な真理は排されている。「意見」は意見と意見が交換されるプロセスの中でより妥当なものに形成されていくであろう。

その「平和」理念は、宗教にとっての他者との「間」につむぎだされる空間における対話を経、さらなる他者の視野を得て妥当性をましていくはずである。今後、諸宗教はその公共的空間を広め、他宗教のみならず、信仰を持たない人々との間でも対話をしていくことが求められる。

また、小林は公共哲学における「平和」の思想的基礎構築は次のような形態をとるべきだという。それは平和という理想を追求しつつも夢想や観念論におちいることなくリアルに現実をとらえ、その中で平和の実現を図っていくという「理想主義的現実主義」ないし「現実主義的理想主義」という形である。

公共哲学は「社会の現状(「ある」)のリアルな分析と、望ましい(「あるべき」)社会の理想像の追求と、その理想の実現可能性(「できる」)の探索という三つのレベルを区別しながらも切り離さず総合的に論考する」という方法をとるのであった。宗教は平和という価値理念に確固とした思想的基礎を与える(「あるべき」)のみならず、これまでの平和活動を通じて得た現実主義的視点(「できる」)もあわせもっている。この意味で、宗教間対話は「公共善(価値理念)としての平和を目指す公共哲学」において重要な存在意義をもつことは間違いなく、また、宗教には「宗教の公共空間」からさらなる広い公共空間へ踏み出していくことが今後期待される。


京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp