13th Meeting / 第13回研究会

 

時間性と自己の時間化――西田とアウグスティヌスとの対話

トランブレー・ジャサント


序論

西田幾多郎の哲学は、西洋の哲学界においては「場所的論理」という名前で知られ始めている。場所的論理の重心となるのは場所の概念である。それゆえ、まず第一に、この概念のもつ多義性の全体を、とくにプラトンのそれと対照させながら把握することが重要である。それによって、この概念に西田の時間性についての考え方を接木することが可能になり、そうして、(1)この時間性の概念がいかにして展開されるか、(2)この概念がいかにして西田哲学の他のさまざまな重要テーマと関係づけられるか、を示すことが可能になるだろう。以上の行程の全体にわたって、西田がアウグスティヌスとつねに関わっているということが、決定的な意味を持ってくるであろう。

西田の諸論文を注意深く検討することによって、時間性についての彼の考察が経るさまざまな段階をはっきりと(これは必ずしも簡単なことではないが)示すことができる。それゆえ、この小論において、私は何よりも先ず西田の論文自身に専念したいと思う。それによって、時間性についての西田の考え方と、そこに含まれるさまざまなテーマを引き出すことができるであろう。

1− すべて有るものは何かに於てある

西田の時間性概念の基礎となるのは、「永遠の今の自己限定」 という論文中の「すべて有るものは何かに於てある」 (NKZ 6, 223)という言明である。ここでは直接プラトンが引き合いに出されている。「プラトンがパルメニデスに於て云って居る様に「有るもの」は何かに於てあると云はねばならぬ」(NKZ 6, 223)。プラトンの命題は、正確には次のようになっている。「ところがしかし、およそ存在するものは、いつもまた何処かにあらねばならない」 (1)

プラトンがこのように参照されているのは、とても意義深いことである。というのも、この引用は、西田のいう「場所的論理」を照らし出す役目を果たすからである。実際、「すべて有るものは何かに於てある」 という西田の言明は、プラトンの命題から四つの主たる要素を捉え直している。すなわち、囲むものとしての全体、内容としての部分、円という形象、および「に於てある」こととしての分有(メテクシス) 、である。(2)

囲むものまたは入れ物と見なされ、「包む」という面において捉えられるものとして、西田の場所は、「に於てある場所」、すなわち、文字通りある内容が「そこに於てある場所」である。ここでは、「に於てある」という表現が強調されており、西田はこれを「限定」と「自己限定」という関係概念を用いて明確化する。それらの概念については、後ほど問題にすることにしよう。

このように、けっして西田は、ある内容がその場所に於てあるという面から離れて、場所そのものを問題にすることはない。これはつまり、上で述べたように、場所はつねにその内容に対して限定されるということである。内容とは、あれこれのものとして特徴づけられるのに先立って、「に於てあるもの」である。ここでもまた、「すべて有るものは何かに於てある」という西田の中心的言明の中軸を成す「に於てある」が強調される。それが場所的論理の本質であり、この論理の極めて複雑な構造連関を理解するための核となるものである。

このように見ると、場所的論理はとても単純に見える。ただし、単純だから簡単だというわけではない。というのも、各々の場所は、つねにその内容に対して限定されるからである。さらに各々の内容は、それがそこに於てある場所の自己限定となる。そして各々の限定は、ノエマ的限定とノエシス的限定に二重化されるので、各々の場所には二重の内容が含まれることになる。

続いて、各々の場所は、その内容も含めて、さらにそれを包含する場所によって包まれることが見てとられると、事はいっそう複雑になってくる。その時、包含される場所はこの包含する場所にとっての新しい内容となり、そうして最初の内容は、より広い場所において新しい地位を得るようになる。以下同様のことが続き、ついには西田が「絶対無の場所」と呼ぶもっとも包含的な場所に至ることになる。それは、より広い場所に包含されることも、より広い場所によって限定されることもできないような場所である。そして、これまで述べてきた場所は全て、それぞれの段階では最終的な場所と見なされていたが、絶対無の場所から見ると、各々が場所として自分自身の内容を含みつつ、さまざまな内容を含む包含の連続ということになる。

「に於てある」を中心にして場所と内容を包含していくのこのような包含構造の全体は、まったく静的なものではない。というのも、全ての場所がそれに於てあるものに対して限定される一方で、全ての内容はそれがそこに於てある場所に対して限定されるからである。西田はまず、「於てある場所」は「於てあるもの」に対して形式となるのだと説明する。「於てあるもの」と「於てある場所」との関係は、内容と形式との関係なのである。

しかしながら、「形式があって内容が之に対して与えられるのでなく、形式と内容とは同時に与えられるのである」(NKZ 6, 223)。言い換えれば、内容から切り離され、「於てある」という次元のないところでは、形式は存在しないであろうし、また逆に、どんな内容であれ、それがそこに於てある形式が同時に与えられなければ、与えられることはない。さらにいえば、内容は形式に於てあるが、最終的には、それは絶対無に於てあり、絶対無の自己限定となるものである。そして、絶対無に於てある以上、内容は弁証法的に自己を限定するのであり、つまりは必ず形式の関係の内で自己を限定するのである。

先述のように、絶対無の場所は、いかなる述語付けや限定の対象にもなりえないものである。全てのものがこの場所の自己限定であるのに対して、この場所自身は、さらに包含的な場所に於てあることも、そのような場所によって限定されることもありえない。絶対無の場所のこのような非限定性を、西田は円の形象を用いて次のように表現している。「絶対無の場所というもの」は、「周辺なくして至る所が中心となる円の如きもの」である(NKZ 6, 235)。あるいは、単に「周辺なき円」とか「一般者の一般者」とも言われる。以後、全てのもの―とくに時間―が、この「周辺なくして至る所が中心となる円」の自己限定として考えられることになる。

限定不可能な絶対無の場所は、多様な限定(私と汝の関係、社会、自己、時間、実在界等々)を生じさせるものである。それらの限定は、それぞれ自らの内容に対してさまざまな包含の度合をもっている。その包含の度合に応じて、それらは絶対無をもとに、ノエシス的なものからノエマ的なものへと段階づけられている。そして、限定される面と限定する面とがつねに弁証法的に関係づけられるという意味で、これらの限定は、全て「円環的限定」であり「弁証法的限定」であるということになる(参照 NKZ 6, 200-01, 222)。

2−すべて実在的なるものは時に於てある

前章では、「すべて有るものは何かに於てある」とはどのような意味かを示すことができた。それを前提にして、これからは時間についての西田の問いを直接取り上げることができる。

西田は、「私と汝」という論文において「すべて実在的なるものは時に於てある」(3)と主張する 。西田にとって、「実在的なるもの」とはいつも何かに「於てある」「内容」である。それゆえ、「於てある」という表現がこの言明の中心となる。

ところで、「すべて実在的なるものは時に於てある」という表現に続いて、「時は実在の根本的形式」(NKZ 6, 342)であると言われている。まさしくここで、重要な一歩が踏み出されることになる。すでに前章で確認したように、西田のいう「形式」とは、質料より前に存在し質料に対立する「形相」(いわゆる質料形相論)ではなく、「於てある所」である「場所」という意味での形式であった。このような形式概念は、場所とその内容との間、目下の場合は時と実在との間の全体的な弁証法的運動を告示している。時間とは、静的な形で予め存在する空虚な母胎のようなものではなく、いつもすでに、そこに於てある実在との関係において考えられるものである。逆から言えば、時という場所への必然的なつながりがなかったとすれば、実在ということを口にすることはけっしてできないであろう。

時間が実在と結ぶこのような本質的な関係を、西田は「絶対矛盾的自己同一」という概念で要約する。このことが意味するのは、時間の自己同一、また同様に実在の自己同一は、静的なものではなく、相互関係の中で、自己否定という様態のもとで成立し発展するものだということである。時間と実在との間に見いだされた絶対矛盾的自己同一というこの概念は、時間による実在の包含というレベルに制限されるものではない。この概念は、実在を構成するすべての要素の内にも同様に見出される。すべて「実在的なるもの」、「時に於てあるもの」は絶対矛盾的自己同一という様態で限定される。実在を構成するものは、前もって固定した本質を持っているのではなく、他の物とさまざまな関係を結んでいるのである。

そうであるならば、西田哲学において、「実在」と「実在的なるもの」とは厳密にはどのようなものであるか、ということが続いて問題になる。ここで直ちに理解されるのは、実在はそれが「於てあるところ」に対して、すなわち「時間」であるような場所に対して内容と見なされるのだが、その実在自身が、すぐさまさらに新たな内容を包含する新たな包含的場所として現れるということである。事実、実在は多様な内容を含んでいるが、それぞれの内容が実在という性質をもち、「実在的なるもの」となるのである。

実在は、「於てある場所」として、他の全ての場所と同じく静的なものではない。実在は時間の内容であって、時間ほどには包含的ではないものの、そこに於てあるものに対しては、動的で相互関係的な性格を保持している。そして、この実在に含まれる諸内容もまた、同じく動的で相互関係的な性格をもっている。さらに、諸事物がその「於てある場所」においてなす相互行為によって、反対に実在へと形が与えられる。それゆえ、「絶対矛盾的自己同一」、「相互行為」、「自己否定」といった概念は、つねに実在と結びついたものとして見出される。これらの概念は、実在とそれに於てあるものの間にあり、また同様にこの実在を構成する諸要素間にもある動的な性格の様相と言ってもよいものなのである。

3− 現在の自己限定としての時間

前章において、我々は「すべて実在的なるものは時に於てあると考えられ、時は実在の根本的形式と考えられる」という言明から出発した。そこでは、まずは時間が包含的場所として考えられ、それからこの場所の内容である「実在」を検討するという手続きをとった。つまり、時間としての場所から出発して、より包含的でない場所としての実在へと赴いたわけである。

しかし、これとは別の進み方も可能である。すなわち、やはり場所として考えられた時間から出発するのだが、そこからより一層包含的な場所へと進んでいくという仕方である。これから用いるのはそのような進み方である。さて、時間を包含する場所、時間がその自己限定であるような場所とは、いったいどのようなものであろうか。

この問いに答えるのはそれほど困難ではない。というのも、西田のさまざまな指摘を通して、そこへと至る各段階を確定できるからである。西田は「すべて実在的なるものは時に於てあり」、「時は実在の根本的形式である」と主張した後で、直ちに付け加えて次のように述べている。「然るに、時は現在が現在自身を限定するということから考えられるのである」(NKZ 6, 342)。これによって、以後、「現在」という重要な概念が問題になってくる。現在自身が絶対無という最高度に包含的な場所に於てあるのだから、時間を現在の内に位置づけるというのは、絶対無の方向に向かうということになる。実は、時間と現在は両方とも絶対無の自己限定なのである。

ただし、「現在」という語で西田が何を意味しているのかをさらに明確にする前に、時間という概念そのものに立ち戻り、今後は現在の内容であり自己限定であるものと見なされる時間について、その意味を伝統的な時間概念との対比で画定しておくことが重要である。

時間に関する西田の考えが凝縮されている論文が、「永遠の今の自己限定」(参照NKZ 6, 181-232)である。この論文の冒頭で、西田は手始めに次のように問う。「時とは固如何なるものであり、如何にして考え得るものであらうか」(NKZ 6, 182)。同じ問いが、論文「歴史」(参照NKZ 12, 39-43)の第3章の冒頭で再び繰り返されている。そこでは、西田の時間性概念が総括されることになるのである。

この問いは、構造的に言って、アウグスティヌスが『告白』で提起するのと同じ問いである。『告白』第11巻の見事な叙述の中で、アウグスティヌスは、「それでは時間とはなんであるか」 (4)と問う。そうして、人間の魂の二つの特徴である「精神の集中」(intentio animi) を「精神の広がり」 (distentio animi)とを対決させる。実を言えば、時間の問いを追求して、アウグスティヌスは時間と永遠との諸関係についての省察へと入っていくのであるが(5) 、私は永遠の問題へと先走りせずに、まず時間の問題自体を検討したいと思う。永遠の問題は、西田にとっても決定的なものとなるであろう。

西田は、アウグスティヌスが指摘した幾つかのアポリアを捉え直して、自分の時間性の概念を発展させる。最初の問いの後、まず西田は時間がどのように考えられているかを問い、一般に流布する時間の定義を記す。「時とは固如何なるものであり、如何にして考え得るものであらうか。時とは無限の過去から無限の未来に向かって進み行く無限の流と考えられる、直線的進行と考えられる」(NKZ 6, 182, 参照NKZ 6, 234 ; NKZ 10, 525 ; NKZ 12, 39)。

そうして西田は、彼以前にカントがしたように、時間の直線的な性質のものとする見方の問い直しを宣言する。だが、西田がとくに発想の源とするのはアウグスティヌスである。アウグスティヌスは、過去から現在、そして未来へと直線的に流れるものとして時間をとらえる紋切り型の見解を、きわめて早い時期に問い直した。西田は、アウグスティヌスの時間解釈から出発し、その論述に密着しながら自らの論を展開していく。そうして、彼の時間性概念は、つまるところ日常的な時間の直線性の支配を問い直すものとなる。実際、一方向への無限の連続だけが時間の意味ではないのである。

このように直線的な時間概念を批判した後で、西田は次の点に注意を促す。「未来は未だ来らざるものであり、過去は現れたるものといえどもそれは既に過ぎ去ったものであり、加え我々は何処までも過去の過去を知ることはできない」(NKZ 6, 182)。

これもまた、アウグスティヌスにおける直線的な時間概念への批判から直接に着想を得たものである。アウグスティヌスにおいて、重要なのは時間の測定のアポリアであるが、「このアポリア自体が、時間の存在と非存在のアポリアという、さらに根本的なアポリアの枠内に位置づけられている」(6) 。アウグスティヌスは、周知の懐疑主義的論法を取り上げて、時の非存在へと向かう。

しかし、それではこの二つの時間、即ち過去と未来とは、過去はもはや存在せず、未来はまだ存在しないのであるから、どのようにして存在するのであろうか。また、現在もつねに現在であって、過去に移りゆかないなら、もはや時間ではなくして永遠であるであろう。それゆえ、現在はただ過去に移りゆくことによってのみ時間であるなら、わたしたちはどうしてそれの存在する原因がそれの存在しないことにあるものを存在するということができるであろうか。すなわち時間はただそれが存在しなくなるというゆえにのみ存在するといって間違いないのではなかろうか 。(7)

この逆説は、時間の測定という中心的な逆説から発してくるものである。実際、存在しないもの、あるいは広がりをもたないものをいかにして測定できるであろうか。西田はこのような問題を見落とさずに指摘し、次のことを強調している。「過去は既に過ぎ去ったものであり、未来は未だ来らないものと考えられるが、所謂現在とは達するべからざる数学的点の如きものに過ぎない」(NKZ 4, 31)

だが、西田は引き続きアウグスティヌスの思索の展開を追跡して、「我々は唯現在を中心として過去未来を知るの外ないのである」(NKZ 6, 182)と言う。そうして彼は、アウグスティヌスと共に「時が現在に於てある」(NKZ 6, 183)ことを認めるのである。したがって、時間は直線的な性質に固定されるものではない。むしろ、「過去も現在に向かって流れ、未来も現在に向かって流れるのである、我々の世界は現在より出て現在に還るのである」(NKZ 6, 132)。

当然ここにおいて、西田が論じている「現在」は、過去と未来の場所という新たな地位を獲得することになる。これは、すでにアウグスティヌスにおいて萌芽的に見てとれる地位である。このことはきわめて重要である。現在とは、単なる「達すべからざる数学点」ではなく、むしろ過去と未来がそれに於てある中心である(参照NKZ 4, 31)。「時はいつも現在が現在自身を限定するということから考えられるのである、現在から過去、未来が考えられるのである」(NKZ 12, 39)。

以後、現在とは、「過去は既に過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らざるものであり、未来は未だ来らざるものでありながら既に現れている」(NKZ 9, 150)ような場所であることになる。とはいえ、現在に於ける過去と未来のこのような結合は、抽象論理から発する組合せに過ぎないものではない。むしろそれは、相互否定という形で遂行される結合である。すなわち、過去と未来は、現在の矛盾的自己同一として、現在に於て相対立するのである。

「現在の矛盾的自己同一」という表現によって西田が強調するのは、場所という概念が、彼が密接に関係づけながら提示する全ての主題にまで及ぶものだということである。矛盾する二つの項―ここでは過去と未来―の対立は、つねに場所において、すなわち目下の文脈では現在において行われる。矛盾する諸項をある場所の内に置くことによって、単なる対立という枠組から外に出て、この対立をそれが発する地点に置き直すことが可能になる。こうして、ついに厳密な論理的二元性を免れて、諸々の矛盾をたえず発生させては消滅させる運動の中に入ることができるのである。

要するに、場所的現在の意味は次のように総括される。「現在が過去を負い未来を孕む一つの時間的連続である、一つの世界である」(NKZ 9, 169)。過去と未来はこの場所的現在に属するのであるから、現在は時間の継続全体を包含するものとなる。アウグスティヌスが『告白』において言うように、「全ては現在という基準から測定されるのであって、現在の外ではそれらの意味を理解することはできない」。こうして、無限の過去から無限の未来へと広がる時間において、瞬間の無限の連続は現在に、すなわち「今ここ」に依存するのである。

重要であるのは、この西田の現在の概念が空間の概念と不可分に結びつくものだということである。無数の瞬間の共存であり、多の一である現在は、「所」、「時の空間」、「時間的空間」のようなものとして露わになる(参照NKZ 9, 149-50, 152)。この意味で、現在は全て「場所的空間の中での時間的総合」という意味をもつ。こうして西田は、現在の概念と場所の概念とを明確に結びつけるのである。

アウグスティヌスもまた、時間が「いかにして」あるかということだけでなく、時間が「どこに」あるかということも問うていた。

もしも未来と過去とが存在するなら、それらがどこに存在するかをわたしは知りたいと思う。それらがどこに存在するかを知ることができなくても、しかもわたしはそれらがどこに存在しようと、それはそこにおいて未来または過去であるのではなく、現在であるということを知っている。それらは、もしもそこにおいても未来であるなら、まだそこに存在しないのであり、またもしもそこにおいても過去であるなら、もはや存在しないからである。(8)

リクールが指摘したように、時間が「どこに」あるかを問うとは、「語られるものとしての過去、予め言われるものとしての未来のための場所を探すことである」(9) 。こうして、記憶を含む「語り」と期待を含む「予見」というアウグスティヌスの概念は、今後「どこに」という問いの枠内に位置づけられるのである。

「中心的現在」における過去、現在、未来の関係という問題は、時間と場所とのこのような結びつきを基礎にして解決すべきものである。そのような観点から、西田は次のような解決を提示する。

現在を中心として記憶によって過去と結合し、未だ来らざるものを予感することによって、過現未の関係が成立すると考えることができる。即ち現在に於て過ぎ去ったものも未だ過去として終らざるものがあり、未だ来らざるものも既にその先端を表しており、現在に於てあるものが既に傾斜を有っている、否現在そのものが過去から未来への推移であるということから時の関係という如きものが考えられるのであると思う(NKZ 6, 182-83)。

記憶と予見の問題を論じるために、西田はまたしてもアウグスティヌスの思索を出発点にする。まず記憶について言えば、アウグスティヌスは、記憶が無限の幅と深さをもつものであることを認めないわけにはいかなかった。実際、天も地も含めて、そして記憶自身も含めて、全てが記憶において保持され、記憶の内に位置している。このように記憶は中心的な位置を占めており、忘却さえも記憶の内に位置するほどである(参照NKZ 5, 311 ; NKZ 6, 139, 229, 406 ; NKZ 7, 350)。これは単に比較や類比の事柄ではなく、実際の事実なのである。

予見については、西田はこの主題自体を論じているわけではない。彼はアウグスティヌスにならって、「過去は記憶の中に」、「未来は希望の中に」あると述べているだけである。実は、予見は記憶と同じメカニズムに従って働くものである。まだ起こっていない出来事は、すでに存在する心像によって表象されるのであろうか。アウグスティヌスは知らないと言う。だが、我々が未来の行為にあらかじめ思いを致す場合、行為の方は未来のものとしてまだ存在し得ないのに対して、その思いはすでに現在に属している。予見した行為を実際に企てる時には、それはもはや未来のものではなく、現在のものとして存在することになる。期待とは未来の事物の徴候ないしは原因であって、そのような仕方であらかじめ告げられるのである 。(10)

以上、アウグスティヌスと西田の双方において、過去は記憶において、未来は期待において存在し、過去の事物は記憶に、未来の事物は期待に委ねられる定めにあることを示した。次いで二人は、記憶と期待をリクールの言う洗練された現在、すなわち「拡大され、弁証法化された現在」(11) に含ませる。ちなみにリクールは、現在を場所として理解するという方向に進んだものの、アウグスティヌスの「どこに」という問いが、クロノロジカルな現在概念の洗練にとどまらず、それとは別の意義を持つ強調点の移動を含んでいることには気づかなかったようである。

したがって、西田の言う「真の現在」、すなわち自己限定する現在とは、点的な現在 (到達不可能な数学的点)でも、推移する現在でも、クロノロジカルな現在概念の洗練でもないということになる。一体それはどのようなものであろうか。まさしくここで、西田はアウグスティヌスの「深い考え」(参照NKZ 4, 31)をあらためて主張する。

さて以上の考察によって次のことはもう明瞭であって疑いをいれない。すなわち未来も過去も存在せず、また三つの時間すなわち、過去、現在、未来が存在するということもまた正しくない。それよりはむしろ、三つの時間、すなわち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するというほうがおそらく正しいであろう。じっさい、これらのものは心のうちにいわば三つのものとして存在し、心以外にわたしはそれらのものを認めないのである。すなわち過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直覚であり、未来のものの現在は期待である 。(12)

この考え方から、「我々の世界は現在より出でて現在に還る」(NKZ 6, 132)のであって、「唯現在あるのみ」(NKZ 4, 31, 85 ; NKZ 6, 39)であることが結論されるであろう。

リクールはアウグスティヌスの「準空間的な言語」。(13) に着目して時間の「場所」(site)へと進んだが、この問題設定をそれ以上推し進めることはできなかった。「場所的論理」を展開することによって、西田は過去と未来を包むという現在の包含的局面を認めることができたばかりか、リクールがアウグスティヌスに見出せるとする、クロノロジカルな時間の部分としての現在の「洗練」をも乗りこえることができたのである。

では、アウグスティヌスの「現在の現在」を捉え直すことによって、西田はクロノロジカルな意味での「現在」と、過去、現在(クロノロジカルな意味での)、未来の場所としての「現在」とを厳密にどう区別するのであろうか。第二の現在が単に第一の現在を洗練したものではないとするならば、それは正確にはどのような地位をもつのであろうか。

西田が再解釈した「現在の現在」とは、「現在が現在の中に現在を限定する」(NKZ 6, 138)ことを意味するものである。この表現の中心となるのは「現在の中に」という言葉である。すなわち、何よりも先に強調されるのは「場所的現在」なのである。

この「場所的現在」それ自体は、他の何によっても限定されないもの、さらには「?み得ざる」(NKZ 6, 185)ものである。言い換えれば、過去とクロノロジカルな現在と未来を包むこの現在が自己自身を限定するということは、まさしく無にして自己自身を限定するものの自己限定である。究極的には、現在はそれ自身「無の一般者」(NKZ 6, 234)となる。西田は次のようにも述べている。「時は現在が現在自身を限定するということから考えられるのである。現在が現在自身を限定するということは、限定するものなきものの自己限定、無の自己限定ということを意味していなければならない。現在の背後には何物もあってはならない、何物かがあって現在を限定すると云えば現在ではなくなる」(NKZ 6, 234 ; 参照NKZ 6, 185)。ここであらためて、きわめて重要な概念である「絶対無」が登場する。それによって、場所的現在は「無論的」(méontologique)地位を得るのである。

この絶対無の概念には自己否定の次元が含まれているが、それは現在のみならず時間それ自体を触発するものである。西田においては、実在、時間、現在、絶対無というどの場所を持ち出す場合でも、それに於てあり、それに包含されるものの自己否定が求められる。クロノロジカルな時間(過去・現在・未来)は場所的現在に於てあるが、場所的現在に包含されることで自己自身を否定する。それゆえ時は自己自身に於て矛盾する(参照NKZ 6, 185)。だが逆に、自己否定の相の下で存在する時間は、「尚自己自身を限定する意義を有っている」(NKZ 6, 265)のである。

こうして西田は、クロノロジカルな現在から無論的現在の概念へと移行する。クロノロジカルな現在は無論的現在に於てあり、第二の現在は第一の現在の創発する地点となる。

このような条件の下で、「真の時」とはどのようなものとなるであろうか。それは、限定するものなく自己自身を限定するものの自己限定として、すなわち「飛躍的統一」として、「各瞬間に消え各瞬間に生まれる」(NKZ 6, 278)時間である。それは、「非連続の連続」として、各瞬間に消えると共に各瞬間に絶対無に接する。すなわち、「永遠の無」に於て消える一方で、「絶対に無なるもの」の自己限定として成立するのである(参照NKZ 6, 234, 276)。

以上の指摘によって、西田がいかにして「絶対無」、「現在」、「時間」という諸概念を相互に結びつけているかを確かめることができた(参照NKZ 12, 39) 。それ以降、西田は場所的論理のより包含的な諸構造へとますます深く入り込もうとしているのだということである。言い換えれば、過去、現在、未来を包含する場所的現在は、最終的には、それ自身「永遠」ないしは「永遠の今」に於て包含され、以後その自己限定となるのである。これについては第五章で論じよう。次章では、なお時間性と自己の関係を検討しなければならない。それは、すでに場所的現在の文脈において姿を現しているものである。

4−時間の場所としての自己

前章では、現在が時間の場所であること、すなわち、過去・現在・未来という時間的連続の場所となり創発点となるのが現在であることが明白に示された。だが、その現在自体はどこに於てあるのだろうか。すなわち、現在よりも包含的で、現在をも包むような場所とは、どのような場所であろうか。

『告白』11巻の21-31章の中で、アウグスチヌスは時間の測定という謎を解くことを通して、人間的時間の解明にとりくんでいる。彼は、時間が広がりを持ち測定されるということの基礎を、ただ魂の中にのみ、それゆえ三重の現在という構造の中にのみ見出す。「わたしの魂よ、わたしはあなたにおいて時間を測るのである」(14)

このように時間が心に内属していることは、アウグスティヌスが三重の現在という構造を提示した際にすでに問題になったことである。「じっさい、これらのものは心のうちにいわば三つのものとして存在し、心以外にわたしはそれらのものを求めないのである。すなわち過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直覚であり、未来のものの現在は期待である」(15) 。ここで大切な点は、測定されるのは過去のものや未来のものではなく、過去のものの記憶と未来のものの期待だということである。

引き続きアウグスティヌスに着想を求めつつ、西田もまた同じ主張に至る。「アウグスチヌスの考えた如く、我々の心の中に過、現、未がある、而して過去は記憶の中に、未来は希望の中に、現在は直覚の中にあると云うことができる」(NKZ 4, 42-3。参照NKZ 4, 31 ; NKZ 6, 185, 195)。

西田は、記憶と期待の心への内属という考えを掘り下げていくことによって、場所の概念を深めようとする。西田の言うには、具体的意識には過去が於てある記憶と未来が於てある期待も含まれるのであるから、具体的意識は直覚に限られない。このようにして、(記憶に帰着する)過去も、(直覚に帰着する)現在も、(期待に帰着する)未来も、その場所である心「に於て」ある。「真の現在」としては、「深く深く我の中に入って行くのである」(NKZ 4, 31)。要するに、それ自身場所である現在は、自己または心に於てさらに深く包まれるに至る。以後、心もまた場所の地位を得るのである。

心(自己)と現在とのこのような密接な関係は、西田の初期の著作からすでに確立していた。『善の研究』では、純粋経験はつねに「現在の経験」として提示されている。この概念は『自覚に於ける直観と反省』でも登場する。そこでは、現在は「自覚的発展たる直接経験全体の重心と考えることができる」(NKZ 2, 250)ことが示されている。現在において人間は宇宙の中心に触れるのである。過去の我(想起された我)も、未来の我(想像された我)も、真の我である行為的自己ではない。真の我とは「唯現在の我」であり、過去の我と未来の我とは「唯現在の我の表象としてその一部分を成すまでである」(NKZ 2, 256)。

成熟期の著作である『無の自覚的限定』では、自己と現在とのこうした関係は、絶対無と自覚の概念に基づいて深められている。自覚とはここでは「自己が自己を知る」ことであるが、それは自己が自らを無にして有を限定することを意味する。この自覚には、いつも現在が自己自身を限定するということが伴っている。「自己が自己自身を知る所、そこに現在があり、現在が現在自身を限定する所、そこに自己があるのである」(NKZ 6, 185)。自己が自らを無にして自己自身を限定するということは、自己の底には何物もないことを意味する。かりに自己が何かによって限定されるとすれば、自己は消え去るしかないであろう (先に見た「現在」についても同じことが言われていた)。

それゆえ、「無にして自己自身を限定する一般者の自己限定として即ち絶対無の自覚的限定として時というものが考えられるのである」(NKZ 6, 186)。「絶対無の自覚的限定」とは、絶対無として自己自身を限定する自覚、すなわちその背後に何物もない自覚、客観化されえず純粋なノエシスの段階に於てある自覚、のことである。

自覚と無という概念に、西田は包含する円という概念を結びつける。一般者の自己限定は全て、絶対無の自覚的限定によって包含される。これは真に自己限定するものであって、掴まれる(あるいは客観化される)ことができない現在である。さらにこの「現在」は、「自由なる人」に他ならないのであって、それを西田は「絶対無の場所的限定」と名づける(参照NKZ 6, 187)。言い換えると、真の現在と同一視された自由なる人は、彼自身が時間を包含する場所となる。自由なる人は、無にして自己自身を限定し、絶対に客観化されえない場所となるのである。

以上のことから、時間は、前章に見た通り現在の自己限定から出発するものであると同時に、自己の自己限定から出発するものでもあることになる。人間は無として自己自身を限定するものであり、それによって無と同じく「自己自身の中に時を包む円環的限定」(NKZ 6, 187)となるのだと考えるならば、このことは理解できる。そして、無にして自己自身を限定する円である全ての自由な人は、今度は「絶対無の自覚的限定」によって限定されることになる。これを西田は、パスカルの球から着想を得て「周辺なくして至る所が中心となる無限大の円」(NKZ 6, 188)と見なしている。

西田は「現在が現在自身を限定するということによって自己があるのではなく、自己が自己自身を限定する所に現在があるのである」(NKZ 6, 277)と主張するのであるが、これが自己と時間性関係を解明する上での決定的な一歩になる。すなわち、「我が時に於てあるのでなく、時が我に於てあるのである」(NKZ 6, 187 ; 参照NKZ 6, 277 ; NKZ 12, 79)。この意味で、自己は時のhypokeimenonと考えられうる。事実、別の箇所で、時間的限定の底において時間を包み限定するものとして自覚が持ち出されるという文脈において、次のように言われている。「時のヒポケーメノンを自己と考えることができるのである。ゆえに現在が現在自身を限定すると考えられる所、そこに我々の自己があるのである、我々の自己はいつも現在の自己から考えられるのである」(NKZ 12, 40;参照NKZ 6, 190, 212, 266)。

このようにして、現在と自己の関係が明らかになった。そこには創発と場所(または包含)という二重の次元が含まれている。というのも、永遠の過去は自己から発して自己に於て消され、永遠の未来へと向かうものは、自己から出て自己に於て始まるからである。

もう一歩踏み込んでみよう。自己を時間性の内に刻み込んで時のhypokeimenonとして性格づけることによって、真の自己とは現在の自己であることが見出される。ところで、この現在の自己は、まさに過去の自己と未来の自己の、あるいは「昨日の私」と「今日の私」の統一点である。ここから、「意識統一」という重要な問題へと導かれることになる。西田は、現在の意識の野に於て過去と未来が結合されるという点に、意識統一の基礎を見るのである (参照(NKZ 9, 166, 171)。

1930年以前の西田では、「意識統一」という主題は、自己の行為、超時間的意識、意志といった主題と結びつけられていた(参照NKZ 3, 452-53 ; NKZ 4, 9-37)。だが、『一般者の自覚的体系』以来、(西田が解釈し直した意味での)ノエシス的なものとノエマ的なものの区別を援用することによって、この主題はさらに明確化されることになった。すなわち、「意識統一」とは、昨日の私と今日の私が一つの私になることを意味するのであり、このような統一は、ノエマ的限定をその底から越えてそれを内に包む純粋なノエシス的限定によって可能になる。「特に昨日の私と今日の私とが直に一つの私と考えられる場合、昨日の意識と今日の意識とがノエマ的に結合するのではない、ノエシスとノエシスとが直に結合するのである」(NKZ 5, 311)。

昨日の私と今日の私との結合をノエシスのレヴェルでの直接的な結合として捉えるというのは、論文「私と汝」の基調となる発想である。この結合は、論文の冒頭で次にように定義されている。「私は現在私が何を考え、何を思うかを知るのみならず、昨日何を考え、何を思うたかを直ぐに想起することができる。昨日の我と今日の我とは直接に結合すると考えられるのである」(NKZ 6, 341)。次いで「内界」という文脈で、同じ問題が再び取りあげられる。「内界」とは、自己の意識現象が一日中さまざまに変化するにもかかわらず内面的統一を保つこと、「昨日の我と今日の我とは直接に結合する」(NKZ 6, 343)ことを意味する。結局のところ、自己が一つの個人的自己であるというのは、そのような直接の結合があるということである(参照NKZ 6, 358)。絶対現在の自己限定の焦点としての「現在の意識」のただ中で二つの純粋なノエシス(昨日の私と今日の私)が直接結びつくということ、真の個人的自己とはそのような結合に他ならない。

この意識統一の問題から、時間性に根ざす自己の意義についての西田の思索の深まりがはっきり見てとれる。しかし、時間性の問題には、だんだんと深く包含的になっていくさまざまの円が含まれているのであって、この意識問題はまだそうした深化の一段階でしかない。以上のことを踏まえて、最後の章では、ついに「永遠の今」の問題へと移ることにしたい。

5−瞬間:自己が時間化する地点

「永遠の今」の概念は、西田の時間性において非常に重要な地位を占めている。場所的論理において、「絶対無」がもっとも包含的な一般者であるのと同様に、「永遠の今」は時間性の問題における最終的な包含者と言える。実際、「永遠の今」は、それ自身絶対無の場所に於てあり、最終的にはまさに無の場所そのものである。

永遠の今という概念を作り上げるために、西田はアウグスティヌスがうち立てた時間と永遠との関係を活用した(例えばNKZ 1, 178-79, 184 ; NKZ 2, 331 ; NKZ 3, 453 ; NKZ 4, 9-37 ; NKZ 6, 234を参照のこと)。だが、アウグスティヌスは古代の世界観にとらわれていたので、永遠を時の彼方に置いた。この考え方はキリスト教において捉え直され、nunc aeternunは現在との対照において―とはいえたいていは現在と対立するものとして―考えられることになった。

だが、西田は「永遠の今」の概念をまったく違う意味で用いる。彼は次のように説明する。「しかし私の永遠の今の限定というのは唯、現在が現在自身を限定することを意味するのである。移り行く時と永遠とは現在に於て相触れているのである、否、現在が現在自身を限定するというこの現在を離れて、永遠というものがあるのではない、現在が現在自身を限定すると考えられる所に真の永遠の意味があるのである」(NKZ 6, 138)。

このように見ることによって、永遠の今を人間の時間性および歴史と密接に結びつけることができるようになる。永遠の今は、人間の時間性から根本的に分離しているのではなく、むしろ、そこから直線的時間性が繰り広げられる「於てある」所となる。逆に、過去、現在、未来は、永遠の今が自己自身を限定する三つの仕方として現れる。言い換えれば、時間は永遠の今の自己限定として成立する。さらに言えば、「時は永遠の今の中に回転する」(NKZ 6, 366 ; 参照NKZ 6, 377)のである。

さて、もっとも決定的な点に赴くことにしよう。真に自己自身を限定する現在は瞬間である。瞬間は把握不可能である。なぜなら、西田はプラトンから発想を得て(16) 、瞬間を時間の外に位置づけるからである(参照NKZ 6, 376-77)。瞬間とは時間を包む永遠の自己限定であって、自己自身を限定することによって時間を限定するのである。「時は永遠の今の中に回転するのである。時は無限の過去から考えられるのでもなく、無限の未来から考えられるのでもない、時は現在が現在自身を限定することから考えられる、その根底に於て瞬間が瞬間自身を限定するという意味がなければならぬ。かかる意味に於て自己自身を限定する瞬間と考えられるものは、唯、時を包む永遠の今の自己限定としてのみ考えられるのである。[...] 自己自身の限定によって時を限定する瞬間と考えられるものは、永遠の今の外延という如き意味を有ったものでなければならない」(NKZ 6, 377)。

ところで、永遠の今の自己限定として自己自身を限定する「瞬間」は、他ならぬ自由な人間である。無にして自己自身を限定する自由人は、瞬間の極限において、真の時間ないしは絶対の時間に触れる。そうして「我々の自己は自己の中に時を包み、各人は各人の時を有つ」(NKZ 6, 187)のである。

このようにして、いかにして時間が自己と現在との自己限定から始まり、またいかにして「我が時に於てあるのでなく、時が我に於てある」(NKZ 6, 187)のかが理解できるようになる。たしかに時間はすべて「有るもの」の場所であるが、自己が特別な位置を占めることは明らかである。自己は超包含的なものであり、絶対無の最高に「自覚的」(あるいは「ノエシス的」)な自己限定としての把握不可能な瞬間と一致する。それゆえ、自己は時間の場所となる。ここでもまた、場所の概念が西田の時間性を理解するための鍵であることが確認できるのである。

纏め

これまでの道のりを振り返ってみよう。プラトンの場合と同様に、西田にとって、「有るもの」または「実在的なるもの」は全て何かに於てある。ところで、全ての実在的なものは、さらに時間に於てある。場所としての時間から出発して、二つの方向に進むことが可能であった。

第一の方向は、時間よりも包含的ではない諸々の場所へと向かうものであるが、そこでは、時間は実在の根本的形式として現れた。時間の内容であった実在は、今度は、自らの持つ多様な内容に対する「於てある場所」という地位を得るのであった。

第二の方向は、時間性のより包含的な場所へと向かうものであるが、その起点となったのは、時間の直線的性格に関する問い直しであった。その結果、時間はむしろ「現在が現在自身を限定する」ことから考えられるようになった。この表現は、現在が過去と未来の場所になると同時に、自己限定によって現在それ自身の場所となることを示すために用いられた。

ここから西田は、さらに決定的な一歩を踏み出して、より包含的なレヴェルへと視野を拡大していった。すなわち、現在自身が新たな場所に於て、自己に於てあるというのである。事実、西田は現在と自己という二つの概念をきわめて密接に結びつけるのであって、その結果、ついには真の自己は現在の自己、現在として自らを限定する自己に他ならないことになった。この文脈で意識統一の概念を検討したのは、もっぱら現在と自己の間のこうした関係を確認し、強化するためであった。

この自己という焦点から、さらに時間性の超包含的なレベルへと向かうことによって、「永遠の今」という概念へと導かれた。それは、そこにおいて時間が回転する場所である。永遠性は、現在自体の深さとして現れることになった。実際、「現在の現在」である「今ここ」だけが実在的なのである。

こうして最後に登場したのが、絶対無という概念である。現在および永遠の今は、絶対無として自己自身を限定するのである。この段階で、自由人という概念が、現在の自己限定の極限である瞬間の概念と結びついて、あらためて導入されることになった。

以上の考察によって、西田の時間性が場所の概念を中心とすること、これに含まれる諸要素がそれぞれ相互に関係していることを明らかにすることができた。

  1. プラトン, 『プラトン全集, 4 パルメニデス、ビレボス』, 東京、岩波書店 1980, 432 p.; p. 93 (151a3-4). 参照 p. 76 (145d6-e1)。
  2. 参照 プラトン, 『プラトン全集, 4 パルメニデス、ビレボス』, p. 11 (129b-c); p. 38-9 (138a3-138b1); p. 71 (145d5); p. 93 (150e5-151a1,4-5)。
  3. NKZ 6, 341. 統辞論的立場から見れば、この表現は「すべて有るものは何かに於てある」と厳密に同一である。両方は三つの部分に分解される:(1)内容 (すべて有るもの/すべて実在的なるもの);(2)場所 (何か/時);(3)言明の中心(に於てある)。
  4. 聖アウグスティヌス、『告白(下)』、東京、岩波書店、2002, 291 p. ; p. 114。
  5. 参照 Paul Ricoeur, 『時間と物語、I 』東京、新曜社、1999, 412 p. ; p. 7。
  6. Ricoeur, 『時間と物語、I 』p. 10。
  7. 聖アウグスティヌス、『告白(下)』、p. 114。
  8. 聖アウグスティヌス、『告白(下)』、p. 119-20。
  9. Ricoeur, 『時間と物語、I 』、p. 15。
  10. 参照 聖アウグスティヌス、『告白(下)』、p. 120-21。
  11. 参照Ricoeur, 『時間と物語、I 』、p. 16。
  12. 聖アウグスティヌス、『告白(下)』、p. 123。参照NKZ 4, 31, 42; NKZ 6, 182, 195。
  13. Ricoeur, 『時間と物語、I 』、p. 18。
  14. 聖アウグスチヌス、『告白(下)』、p. 136。参照Paul Ricoeur, 『時間と物語、I 』、p. 31。
  15. 聖アウグスチヌス、『告白(下)』、p. 123。
  16. 参照プラトン, 『プラトン全集, 4 パルメニデス、ビレボス』, p. 114 (156d2-e3)。

謝辞

本稿の日本語訳にあたり、杉村靖彦京都大学助教授の助力を得た。記して感謝する。

参考文献