14th Meeting / 第14回研究会

 

対話などしたくもない人――復讐と赦しから対話を考える――

佐藤 啓介


私たちには大抵、対話などしたくもない人、大嫌いな人がいる。

もちろん、そうした人と口もきかずに対話を拒んでいる状況もあろう。しかし、場合によっては、そうした拒否もできず、否応無く対面状況に引っ張り出されてしまっている場合もある。或いは、対話の拒否という消極的な嫌悪ではなく、対話するくらいならその人を攻撃しようとする積極的な嫌悪を抱いている場合もある(現実に各地で起こる紛争を想起すれば、決してそれは奇異な場面ではなかろう)。果たして、そのような場面を前にして、「新たな対話的探求の論理」なるものを探求する私たちは、何が言いうるだろうか。この問いに対して、対話などしたくもないという心情を引き起こす一つの原因、しかも、非常に極限的でありつつ、現代において現に剥き出しになっている「復讐」という主題から考えることが、本研究の課題である。

この復讐という主題を考える上で基本的な図式を提供したのが、H. アーレントである。人間が他の人間に関わる以上、その活動は、悪しき結果を生む可能性から、そして、その結果を被った側に復讐が生まれる可能性から免れることができない。アーレントはこうした復讐の過程を、物理的な力の作用−反作用になぞらえ、「活動の自然過程」として描き出す。この自然過程を止める手段は二つあるといわれている。その一つは、「赦す」ことである。ここでの赦しとは、復讐の連鎖を止めるためになされる、全く予期できず新しく始まる活動である。もう一つの手段は、「罰する」ことである。こうしてアーレントは、赦しの対極だと思われがちな罰を赦しの代替物と規定し、復讐に対立する二種類の活動として、赦しと罰を並置した。

しかし、リクールが指摘するように、罰と復讐は「対立」をなすだけではなく、同時に「起源を共有している」。何故なら、罰にせよ復讐にせよ、その起源にあるのは「こんなの不公平だ!不正だ!」という叫びだからである。現代においては、司法制度という媒介を経ることで、被害者と加害者の間に「正しい距離」を挿入し、復讐が罰へと昇華するよう慎重な手続きが踏まれている。そこに慎重な手続きが必要とされるのは、両者が「不正への叫び」という起源を共にしているからなのだ。

だが、ここで考えねばならないのは、その不正への叫びが「残り続け」「聞き遂げられる」のは何故か、ということである。とりわけ、「ある人Aが別のある人Bによって何かをなされ、それに対してさらに別の人Cが復讐を行なう」という、復讐の「誰」が交錯する場合、その問いは一層複雑になる。この復讐は、必ずしも殺人の例には限定できない(ここでは、そうした復讐の「誰」が交錯する条件を、「(自分が)復讐する立場に立つ可能性を、たとえ最小限の可能性さえをも潜在的に奪われた人」が存在するときだと定義しておく)。

さて、こうした第三者による復讐は、どのようになされるのか。その最も根本的な理由は、罪を犯した者への「憎悪」に他なるまい。しかし、それだけでは、「赦しは愛の業である」という命題がほとんど何も述べていないのと同じくらい、何も述べたことにはなるまい。そこで、その憎悪を可能にさせ、また憎悪を持続させているものが何なのかを見定める必要がある。ここでは、いささか図式的ながら、第三者による復讐を可能にさせている三つの前提を提示したい。第一は、被った受苦は、相手にも同等のものが要求されねばならないという前提(同等性要求)。第二は、「自分は、犠牲者の正しい記憶を引き継いでいる」と任じているという前提(正当性要求)。ただし、ここでいう正しい記憶とは、犠牲者が頭の中に抱いていた中身と合致するという意味での正しさとして理解する必要はない。それはむしろ、犠牲者に対する、そして過去そのものに対する「忠実さ」という意味での正しさである。第三は、「犠牲者に代わって、自分が復讐を行なう立場にいる」という前提、つまり、犠牲者の代理を務めることができるという自己認識(代理性要求)。以上三つの前提のうち、第一のものは「罰」の前提としても機能しており、後者二つの前提、つまり「記憶」に関わる二つの要求が復讐を特徴付けるものである。アーレントにおいてそうだったように、復讐はまるで一種の算術、あるいは作用−反作用の法則のもと、自然な行為だと考えられがちである。しかし、その稚拙な算術が成立してしまうのは、「自分が、犠牲者の正しい記憶を引き継いでいると任じることができる」と要求する復讐者の前提を受け入れているからなのである。だが、この前提は無条件に受け入れられるものなのだろうか。

とはいえ、正当性要求は、それが放棄されるや否や、過去の出来事の「忘却」という事態につながる。だが、「あった」ことを「なかった」ことにすることはできない。その結果、正当性要求の放棄は、犠牲者の記憶を引き継いだ者を、精神分析で言われるような「反復強迫」(抑圧された記憶を、意識することなく、行為によって反復してしまう症例)へと追い込みかねない。そのため、正当性要求の放棄とは、実際に復讐の火種を残したままにしておくことにつながりかねない。

他方で、代理性要求を放棄するや否や、今度はまたも私たちはアポリアに追いやられる。「犠牲者に代わって」記憶を引き継ぐことを諦めるならば、果たして、誰が記憶を引き継ぐのだろうか。私は、復讐の犠牲者のことを「(自分が)復讐する立場に立つ可能性を、たとえ最小限の可能性さえをも潜在的に奪われた人」と定義したが、この人の記憶は、果たして誰に、いや、どこに、何に受け渡されればよいのだろうか。

だが、その犠牲者の名のもとに復讐を行なうこと、つまり代理性要求を掲げて復讐する行為は、むしろ、正当性要求を根底において否定する行為でもある。犠牲者という「(自分が)復讐する立場に立つ可能性を、たとえ最小限の可能性さえをも潜在的に奪われた人」とは、同時にあらゆる「主権性」(ないしは能力)をも奪われた者であるはずだ。その座に、その記憶を引き継ぎ、それを救済することができると任じるもの――たとえ神であれ――が登場するのは、その奪われた者の立場を占有し、自らが主権性を有すると任じることではないのだろうか。それは記憶の引き継ぎではなく、むしろ、最も決定的にして最終的な形態を纏った記憶の忘却に他ならないのではないだろうか。要するに、犠牲者がもはやなしえなくなった復讐をその犠牲者の名の下になすことは、その犠牲者の立場を密かに占有することなのである。結果、犠牲者の名の下になされる復讐は、復讐する能力さえ奪われた犠牲者に最後に残されている場――復讐する能力が奪われているという立場――さえをも占有し、犠牲者を「なかった」ものにする最後の一閃を打ち込む行為、本質的に犠牲者への忠実さを裏切る行為に他ならない。

しかし、それではどうしたらよいのか。行き場のない記憶を忘却するのでもなく(正当性要求は保持されねばならない)、誰かが代わりに引き継ぐのでもなく(代理性要求は破棄されねばならない)、一体、どうしたらよいのか。このような文脈においてこそ、近年、宗教哲学の分野において主題となっている「赦し」の問題が考えられるべきである。そこにおいて希求されているのは、デリダが指摘したように、「主権性なき赦し」という、不可能としか形容するほかない赦しである(この赦しを考える上で争点となるのは、「第三者が介入することと、それが主権性を帯びることは同じことを意味するのかどうか」という問題となるだろう)。その見通しのない赦しを思惟するため、私たちは、思惟を中断させてはならない。

だが、仮にそうした方途が存在するとするとしても、それは必定、赦しにも復讐にも転じうる、ないし、その境界線上を常に揺れ動く性格を帯びたものになるであろう。その根拠は、復讐の源泉である「憎悪」にある。V. ジャンケレヴィッチの指摘によれば、憎悪が憎悪としてのその性格を先鋭化させればさせるほど、それは「愛」と同一構造を有する。何故なら、愛も憎悪も、その対象は相手の属性や特徴、功績などではなく、相手の人格そのものを目指すからである(唯一、ベクトルの向きが逆なだけなのだ)。もし、この愛と憎悪の同一構造という指摘が正しいとするならば、仮に赦し(代理性なき赦し)が愛を源泉とするならば、それと等しく、復讐へと向かう憎悪とも踵を接してしまっていることにもなろう。

赦しという途方もない出来事を思惟するとき、私たちは、常に同時にその背後に、復讐という、これまた途方もない出来事を思惟せざるをえない。そして、両者の源泉にある愛と憎悪が同一構造だとするならば、一方が他方へと反転する微かな稜線がどこにあるのか、いや、そもそもそうした稜線が定まったものなのか、そうした点から見定めていくほかない。

同時に、当初の問い「対話などしたくもない人」にしても、最も極限的にして誇張的な地点において、常に、他方の姿へと態度を反転させうる可能性を秘めている。だが、その逆もまた然り。喜んで対話せんとしている人が、いつや「対話などしたくもない人」という深い暗がりへと転じるやもしれないのである。私たちは、対話を歓待する態度が抱えている底無しの偶有性――何故だか知らないが、たまたまベクトルが対話の肯定の側に向いている――を忘れてはなるまい。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp