15th Meeting / 第15回研究会

 

内村鑑三の「他力」 ――内村と仏教――

川端伸典 (大阪市立大学非常勤講師)


はじめに

今日では、国際的な宗教対話が盛んに行われ、宗教者、哲学、宗教学など、様々な立場から意見が交流されている。本稿では、そのような「対話」が成立する以前―明治初年―に、一人の日本人が伝統的宗教と異国の宗教の間でどのような思索を重ねたのかを振り返り、日本人にとっての国際的な宗教対話の原点を確かめてみたい。

本稿では、内村鑑三を取り上げるが、彼が日本にも、精神文明的には、物質文明を誇る西欧と比肩し得る要素があり、場合によっては、より優れた要素がある、と認識した段階での、内村による日本(アジア)の宗教と西欧のキリスト教との比較を検討する。比較とはいえ、精緻な文献考証的な比較論ではなく、近代日本の将来を見据え、且つ、自己の良心を基準とした実践的な比較をするところに内村鑑三のユニークさがある。以下に、「他力」という信仰態度に視点に、内村の内面で行われた、日本の宗教とキリスト教との比較、あるいは「対話」を検証する。

1. 加藤智見による内村鑑三の「他力」

本稿のタイトル「内村鑑三の「他力」」には違和感をもつ。内村の信仰はキリスト教であり、「他力」は浄土系仏教の概念であるから当然だが、加藤智見も内村の信仰を「絶対他力のキリスト教」 という言い方をする。では、「絶対他力のキリスト教」とはどのような信仰形態をいうのか。加藤は、次のように記す。

「自己の義」を排していることに関心の核があることに注意したい。つまり人間の自我の思い上がりでなく、自己の義を排し自己を徹底して否定していく法然や親鸞の姿にひかれているのである。特に親鸞が人間の「はからい」による「善」を否定している姿をルターの「信仰のみ」の姿に共通するものとして高く評価する。親鸞においてもルターにおいても徹底的な自己否定があったことが共通点とされている。

また、具体的には、内村が「信仰を「たまわる」もの」としていることと、次の引用、「彼等(法然や親鸞)が弥陀に頼りし心は、以て基督者がキリストに頼るべき心の模範となすことが出来る、彼等は絶対的他力を信じた」という、内村の言葉を、加藤は証左とする。

そこで、以下に内村の「他力」をもう少し内在的に検証する。

2. 内村鑑三自身による「他力」

まず、自力・他力に関する内村の説明を以下に略記する。

人には意志がある。故に自から計つて自から為さんと欲する。彼は道義の念に駆られ、其命に服(したが)ひて己が職責を完うせんとする。…(後略)
 然し乍ら人は人であつて神ではない。彼は努力だけで己が職責を充たす事が出来ない。彼は己が衷に根絶す事の出来ない罪を発見する。又己が外に打勝つ事の出来ざる種々雑多の勢力に逢着する。歩むべきの道は知るも之を行ふの力が欠乏する。茲に於てか彼は己れ以上の力に倚らんとする。…(中略)…神の祭壇に隠れてのみ彼等は安全なるを得るのである。茲に信頼の必要がある。何人も真剣に人生に面して此信頼が起こらざるを得ない。

この文章が書かれたのは一九二五(大正一四)年だが、その内容は、約四〇年前に内村が「贖罪信仰」へ至るまでに自身が"自力"でたどった道程を簡略化して描いているようにも思える。上記、加藤論文から引用した箇所でいえば、内村が「自己の義を排し自己を徹底して否定していく」過程である。

「自己否定」の状態にあり、「「畏れ戦(おのの)きて己が救を全ふせよ」(パウロ)とは自力を勧むる言である。之に次いで「神は御意を成さんために汝等の衷に働き、汝等をして志を立て、業を為さしめ給へば也」(パウロ)とは他力を示す言である」。ここで言われる自力-他力の関係を内村は次のようにも説明する。

然れども他力とは云へ、自己の外に働く他力でない。「汝等のうち衷に働き」といひて、衷に働く他力である。即ち自力と成りて働く他力である。…。我等をして志を立て業を為さしむる力である。…。人に聖き強き意志を与ふる事、是れが最善の賜物であつて最大の援助である。

さらに、ルカ伝を参照し、この働きを「聖霊」だとする。「聖霊は人の霊を同化して、彼の霊と成りて働く」と定義し、これを仏教の言葉になおして「他力が自力となりて働く」とする。もちろん、内村はこれが神学的には「説明」になっていないという自覚が十分にある――「以上は説明であつて説明でない、基督教者の実験である」。

以上をふまえて、先の「基督教は自力他力郭れである乎」という問いに対しては、「他力にして他力に非ず、自力にして自力にあらず、自力他力の両勢力を以つて己が救を全うする道」、「基督教は自力教に非ず又他力教に非ず、聖霊教である」と回答する。

このようにみると、加藤智見が内村の信仰を「絶対他力のキリスト教」としたことが、少なくとも全面的には支持することができなくなった。しかし、同時に「彼等(法然や親鸞)が弥陀に頼りし心は、以て基督者がキリストに頼るべき心の模範」と言った内村の真意はどこにあるのか、新たな疑問が生ずる。

また、なぜ、内村はこのような「愚かな質問」に説明にならない説明をしてまで回答したのか。

一つには、実践を通し、また自身の良心に照らした「信仰」であるため、彼の信仰そのものに、精緻に理論化された「説明」を拒むという性格があるとも言えよう。次章では、内村と仏教の関係を瞥見する。

3. 内村鑑三と仏教

内村は、「贖罪信仰」を獲得した米国留学から帰国後すぐ(一八八八(明治二一)年)に、キリスト教教育を行う北越学館に教頭として赴任する。ここで、聖書を教える一方で、日蓮宗の僧侶による講演を企画するが、その企図は内村の「二度目の回心(贖罪信仰)」の内容と「二つのJ」の関係とに深くかかわる。この点に関しては、拙論「内村鑑三の回心をめぐって―『二つのJ』の意味したもの」に記したので詳細は省くが、そこに記した内村の思想と信仰の枠組みから、内村と仏教についても説明できるだろう。そこで、仏教の宗教性がその枠組みの中でどのように捉えられたのか、という点に焦点をあて、「枠組み」を補強することが今後の課題となる。

内村の入信や回心という結果はことごとく、自ら選んだ道とは反していた。そのことを仏教的に振り返ると、「他力にして他力に非ず、自力にして自力にあらず、自力他力の両勢力を以つて己が救を全うする道」であり、キリスト教的には回心への全過程が「摂理」の中にあった、ということ。それが内村の実感であり、信仰の原型となった。この大枠においては、内村の中で仏教とキリスト教に区別はないが、次章で述べる点に相違を見出し、それにより、内村は仏教ではなくキリスト教を選んだ、とも言えるだろう。

4. 『羅馬書の研究』に見られる贖罪信仰

罪人を神はどのようにして赦すのか、が内村の最大の関心事であった。内村は『羅馬書の研究』(一九二一(大正一〇)年)の中で神の赦しと人間の罪をおおよそ次のように述べる。

まず、神が、もし罪人を無条件に赦すと、神の威厳は失せ、神の公義の権威は落ち、宇宙の秩序が破れ、神は神ならぬものとなる。

したがって、「罰」はなくてはならない。公義は厳として立ち、神といえども公義を宇宙の外に排除できず、公義は神をさえ束縛する。

この公義がある以上、神はただ罪を赦すことはできず、罰が当然ともなう。つまり、神は義を以って人の罪を赦すしかない。それだけでなく、軽々に罪が赦されることは、罪人にとっても不幸である。

義のためには罰しなければならず、一方、愛のためには赦したいと思う。滅ぼすべきか生かすべきか、の二者択一を迫られる。

この問題に対して神は、「その生み給える一人子」を世に遣わし、その子を十字架につけ、彼にありて 人類のすべての罪を永久に処分し、人の罪が赦される道が開き、彼を信じる者は彼にありて罪を罰せられ、彼にありて義とせられ、彼にありて復活しえるに至ったのである。

『余は如何にして』の段階から内村が、キリスト教にあって異教にないものとして、「贖罪信仰」と「善の悪からの完全な分離」をあげる。これは、「…仏教に基督教に似たる多くの点がある。浄土門の如き基督教の仏教化したる者である乎の観がある」 として「他力」に関して類似性を認めながらも、「愛」に関して、「弥陀の慈悲が慈悲の為の慈悲であるに対して、キリストの愛は義に基づける愛である」 として、「義」の有無を、両者の相違点として最晩年の一九二九(昭和四年)に指摘していることとも整合する。

そして、「同情」(隣人愛)についても「愛の泉源は神なり、我神に接して後、愛我を充たし而后又我より流れ出る」のであり、自らの力に依るのではない、とする。

今後の課題

内村は日本の国力を高めることと同時に、その日本が世界に果たすべき「日本の天職」を生涯、考察し続けた。晩年には、「贖罪信仰」を知らず堕落してゆく欧米のキリスト教徒よりも、ひたすら弥陀の本願にすがる仏教徒に親しみを感じ、日本においてこそ「純信仰の復興」ができると主張した。このことは、内村の初期の「殆ど総ての著書をむさぼるように読」み、「東京独立雑誌」にひきつづき「聖書の研究」も購読し、「宗門の革新と信心の相続に心を砕いて」いた 暁烏敏らとの対話と交流が内村を刺激したものと思われる。

神の前で罪を痛感し、同時に、神の愛を感受できる内村鑑三と、煩悩に塗れひたすら弥陀の本願にすがる暁烏敏らとの間には、宗門の違いを超えた連帯意識があるように思われる。罪と煩悩に対する人間の無力感を互いに交換可能な状態で共有する新しい共同体の萌芽をそこに見ることができないだろうか。その共同体形成に内村鑑三の信仰に対する峻厳さと寛容を見ることができないだろうか。その点の考察は今後の課題としたい。

参考文献

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp