15th Meeting / 第15回研究会

 

プラトンの「対話」について

内山 勝利 (西洋哲学史教授)


1. プラトンの対話篇の特異性

本発表では、近著『対話という思想―プラトンの方法叙説』(岩波書店、2004)に基づき、プラトンにおける「対話」の特質が考察される。林達夫は「『タイス』の饗宴」の中で、後代の多くの対話体をとった哲学書が「仮想的な形而上学的亡霊ないし思想的ロボットの無味乾燥な、退屈な、果てしのない概念的対話の連続」になってしまっているのに対して、プラトンの対話篇は「血の通った、肉のある人間による思想争闘劇」であると高く評価する。プラトンがこのように、プラトン以降ほとんど現れることのなかった独特の対話体をもってその思想表明をおこなったということは、プラトンにとって必然的なことであった。対話篇という形式は、プラトンの思考法の実質をなす。それは、彼の知識論であり、また、そのまま彼の哲学そのものである。プラトンの思想が、対話篇というスタイルを必然的に要請したのである。

対話篇のもつアスペクトは、文学性/伝達(教育)性/哲学(思想)性という三つのアスペクトに分解することができる。一般に、これらのいずれかのアスペクトから対話篇を捉えようとする試みがなされてきたのだが、本発表では、哲学性において三つが一体化した形で結びついていると考える。

2. 想起説と対話篇

プラトンの代表的な教説である想起説は、対話篇という構造と密接な連関をもっている。『メノン』は、初期対話篇の構造を要約した上で中期思想への展開の基盤を開いた、プラトンの「方法序説」とも言うべき著作である。そこでプラトンは、幾何学を学んだことのない召使の少年が、ソクラテスとの対話を通して幾何学の公式を自ら発見するプロセスを描き、それをもって想起説の証明としている。召使の少年は、正方形の面積を二倍にするためには一辺の長さをどれだけにすればよいかという問題の答えを、ソクラテスとの問答に導かれながら、自分自身で見出す。これは、少年が、幾何学を学んだことがないにもかかわらず、すでに幾何学を知っていたことを示すものである。

少年の答えが、ソクラテスの誘導尋問によって得られたものであったことは、まぎれもない。少年は質問に対してイエスかノーかを答えたのみである。しかし、その答えはソクラテスによって押し付けられたものではない。少年は、イエスかノーかを自発的な判断を発揮して答えたのであり、その意味で確かに自分で問題を解いたともいえる。ここには、対話篇の理想モデルが見られる。それは、どこがわからないか、ということを対話のうちで積み重ねることによって正しい答えに至る、という共同探求の方法である。この方法をとるならば、知らないもの同士の対話でも知への道が可能となるであろう。

3. 知の内発性

想起説は、知のあり方の根本的な態度変更を迫るものである。想起説は、しばしば誤解されるような知的オプティミズムではない。それは、内発的な知的努力により自分自身の力で考え抜くことを要求するものである。学びとは、教え込むことではなく想起させることでなければならない。問いかけによって触発された思考の力が、自分自身の内側から判断をおこなうとき、はじめて学びは成立するのである。

『パイドン』では、感覚・経験と知との想起説的関係が語られる。目で見、耳で聞くということは、それ自体では知識とはいえない。それに対して応答し、それを内側から捉えなおすとき、はじめて知的な活動となる。そのプロセスは、想起という構造をもっている。外から与えられるものをすべて自分への問いかけとして受け止め、各自の内からの言葉で応答するとき、すなわち想起によって、はじめて知が成立するのである。

思いなし(ドクサ)とは、判断を鵜呑みにし、当て推量でものを考えることである。当て推量は、社会的な成功者において見られるように、当たり続けることもある。しかし、プラトンはこれを知とは認めない。知として成立するためには、内側における判断根拠、裏づけがなければならない。これがいわゆる原因の思考であり、ここに知と思いなしとの決定的な違いがある。知において重要なのは、外側に目を向けるよりも、その刺激から内面に向かうことである。

有名な洞窟の比喩も、同じことを表したものにほかならない。それは、知が外からもたらされるものではないことを示している。われわれは、視力ははじめからもっている。ただ、視力を向ける向きがちがっているから真実を見ることができないのである。重要なのは、視力を向ける向きをかえることである。教育とは、向け変えの技術、すなわち、魂の目を外にではなく内に向けるよう促すことにほかならない。

4. むすび

対話とは、自己自身の見解を明確化する場である。話し合えば分かるという前提のもとで、合意を目指すものでは必ずしもない。話し合いの場にさらされ、相手の言葉を自分自らのうちに取り返しなおし、そのやり取りを通じて自己の見解を明確化すること、これが対話である。知は、人から注ぎ込んでもらうものではない。われわれは、外からの刺激を受けて自らの知を呼び覚ますほかない。情報を内発的に問いかけとして受け止め返すのでなければ知にはならない。プラトンの思想が対話篇という構造を要求するのはそのためである。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp