18th Meeting / 第18回研究会

 

総括3 対話的探究の論理の過去と現在

片柳榮一 (キリスト教学教授)

1. 歴史を振り返る

我々の研究会のテーマは対話的探究の論理の新たな可能性を探ることであるが、こうした探求の論理の歴史を振り返る時、改めてプラトンの存在の大きさを思わされる。この点で内山勝利教授が我々のためになしたお話は極めて示唆的であった。教授はプラトンの著作の対話編的構成を彼の思想の深い現れと捉える。単にギリシア思想の伝統としての共通のロゴスを匿名性において探求するというに尽きず、内山教授は、対話を通しての自他の主体的吟味によって真理は開示されるという「主体的モメント」をより本質的なものとする。ソクラテス的問がもつ否定の巧妙さは、答え手が自らの誤った思いなしを的確に捉えていないことに気づかせることにある。このようにしてなされた対話の合意は真に共有されるものになりうるのであり、真理はこのようにして自己化(Aneignung)されるのである。そしてそのことがまた、共同性の根拠ともなるのである。

内山教授は、こうした主体的モメントを重視する立場から、プラトンの想起説をも解釈し直す。対話編「メノン」における有名な想起説の核心は、無知な少年が問いかけを通して、基本的には独力で、正しい答えを発見したことである。これは問い手が事柄を熟知している場合にもっとも有効になされるが、「問いかけ」自体は、答えを知らない発問者にも可能であり、ソクラテス的対話の基本図式は、知らぬ者と知らぬ者との間の対話なのである

内山教授によれば想起説とは、「対話」の意味を保障し、知への可能性を確保する根拠を与えるものであるが、それと共に我々に、知の在り方に関して根本的な態度変更を迫るものであるという。「想起」という新たな「学び」の在り方によれば、我々の知は、人から伝え聞くことによって授けられるものではなく、各自の内発的努力の所産なのである。

内山教授によれば、プラトンの想起説とは、知らぬ者と知らぬ者との対話的探究を可能にする根拠、論理であり、それは形においては、我々の根底に既に在る、共通、不変の同一性である。我々この研究会に課せられているのは、プラトンが前5世紀後半のギリシアの困難な知的状況(ソフィスト的智者という、無知であることを、知らない者が横行した)において想起説として打ち出したような、対話的探究の根拠、論理を、我々現代のコンテキストにおいて新たに見いだすこと、或いは少なくとも、新たな方向性を模索することである。

2. 現代における対話的探究の論理

現代において対話が極度に困難であることは、我々の研究会でなされた数々の発表で繰り返し指摘されてきた。一見他者に開かれた姿勢と見えるものも、根本的には、自らと異なるものの異他性を、自らに理解できる範疇に還元してしまう傾向を脱し得ないところに、現代の対話の困窮の真因があると言えよう。このような対話の困難さを見つめつつもそれを乗り越えようとする試みの一つを、宮原勇氏の「コミュニケーションにおける相互人格承認」という我々の研究会での発表に見うると思う。氏は、議論の出発点を、フッサールが提起した、伝達可能性の条件としての「意味の理念的同一性」の要請に求める。ここでの問題は、事実コミュニケーションがなされているかということではなく、もしコミュニケーションが十分遂行されるならば、その可能性の条件として、意味の同一性が確保されねばならないということである。宮原氏は、Sperber & Wilsonの「関連性理論」における次のような会話の構造に注意を向ける。つまり対話者同士、相手が何について話しているかを想定しながら話している、意味の同定はできないながら、相手がその表現に対してどのような意味をこめているかという想定を行っている、そして同時に相手もそのような想定を行っているのではないかという想定をおこなう。「相互反照想定」である。意味の同一性はそのような相互反照性により、互いの意味の齟齬を修正してゆくプロセスの中で確保されてゆく。

ここから宮原氏は、次のような自らのテーゼを提起する。つまり志向性とは単に「対象についての認識一般」を表すのではなく、その本質には「他の志向的システムを自らと等根源的システムとして認識しうる」という働きが属しているというテーゼである。人間にとって、外界の様々な対象に関する認識をおこなう、ということと、他の人間を自らと同じ認識主観として認識することとは次元が異なるのである。そこから氏は「協同的視点」「共同志向性」の成立の可能性を示唆する。

これによって単なる事物への関わりと異なる他者への関わりが可能なのである。宮原氏がここで取り出した「共同」は、プラトンのアナムネーシスに通うものであり、我々が探らねばならないのは、この構造の明瞭化である。

私見によれば、宮原氏が取り出した「共同志向性」をコリングウッドは歴史認識の本性として理解している。彼は歴史の相対主義を徹底化する。「歴史家自身、彼に近づきうる証拠の総体を形成する今-ここ共々、自らが研究している過程の一部であり、その過程のうちに自らの場を持つということ、そして現在の瞬間にそのうちに彼が場を占める立場からだけしか、この過程を見ることができないということの発見である」(The Idea of History, Oxford, 1946, p. 248)。歴史家は己の現在という中心からものを見るのである。こうして歴史家は己の世界が、自らのうちに中心を持つモナドの世界であることに気づく。「しかし自らの思惟について反省する、つまり哲学することによって、歴史家は、自らがモナドであることに気づく。そして自らが自己中心的境位のうちにあることを自覚することは、それを超出することである。……それ故歴史的思惟について哲学することは、歴史的思惟のモナド主義を超出することであり、モナド主義を後にしてモナドロジーに向かうことである」("The Nature and Aims of a Philosophy of History", in Essays in the Philosophy of History, Oxford, 1965, p. 55)

彼の有名な歴史認識のテーゼ「歴史的な認識とは、歴史家がその歴史を研究している思想を、歴史家の心のうちで再遂行することreenactmentである、つまりカプセルの中に入った過去の思想を、現在のコンテキストの中で再遂行することである」(R. G. Collingwood, Autobiography, p. 114)。

彼の歴史のモナドロジーを支えているのは、歴史はその根底においてmindとしての同一性に貫かれた世界であるということである。しかしここでのmindとは単なる対象ではない。mindを持つ者の行為(理解も含めて)の同一性であり、次のようなクーンに先駆するともいえる歴史理解である。「思惟の形態としての自然科学が存在し、これまでいつも存在してきたのは、歴史のコンテキストの中においてであり、自然科学はその存在を歴史的思考に負っているということである」(The Idea of Nature, p. 177)。

コリングウッドによれば、人は歴史においていつも自らのモナド的世界に留まりながら、他者の世界を繰り返し、その批判的遂行において、これまでimplicitであったmindの本質をexplicitにしてゆくのである。

まとめ

探求の共同性を何処にみいだすかが根本的な我々の課題であるが、問う主体の自覚の共同性とでも言えるものが、見いだされうるのではないかと思う。その構造をできるだけ明瞭化し、表現にもたらすことが我々の課題であろう。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp