1st Meeting / 第1回研究会

 

同一性と差異性の新たな理解を求めて − コリングウッドの歴史理解を通して

片柳 栄一 (文学研究科 キリスト教学専修 教授)


今日は、多元主義の基本的な問題を考えるために、歴史的相対主義の問題で苦闘したイギリスの思想家 R. G. Collingwood (1889-1943)について述べてみたいと思います。彼は歴史という問題を哲学的に深く考察した人であり、歴史的知のうちに同一性と差異性との新たな統合の可能性を見いだそうとした人です。現代の立場からは、なお不十分であるとの批判はあると思いますが、考えるべき課題が何であるかについて示唆を与えてくれるものと思います。

(1)

彼の同時代の多くの思想家同様、コリングウッドもその思想の出発点を第一次世界大戦の経験に置く。この大戦は人間の知性の面目を失わせるものであった。「人間に関わる事柄 human affairs を支配する能力が減じるのと同じ度合いで "自然" を支配する人間の能力は増大しているように見える。これは誇張のしすぎかもしれない。しかし1600年頃からの自然を支配する能力の巨大な進歩が、それに対応する人間の状況 human situation を支配する能力の増大を伴っていなかったことは、紛れもない事実である・・・必要なのはより一層の人間の善意や、より一層の人間的感情といったものではなく、人間的事柄へのより一層の理解であり、如何に状況を扱うべきかに関するより以上の知識である」(R. G. Collingwood, An Autobiography, Oxford 1939, pp.91)。彼にとって歴史的知とは糊と鋏で、年表をつくり出すにすぎないものではない。これこそ人間の状況を支配しうる力としての知なのである。そのような価値を与えている歴史的知とは如何なるものなのであろうか。

この点を彼の論文「歴史的知の限界」から探って見よう。歴史的知 historical knowledge の負う制限とは、正確で信頼に足る資料がきわめてわずかであるということである。アレクサンドリアの図書館が焼けていなければ、フランス革命による大量の資料の破壊がなければ、といった嘆きである。こうしたことから歴史的知へ懐疑が向けられる。これに対してコリングウッドは、次のような歴史家の経験を述べる。それは未だ解決していない困難な歴史的問題を第一線の歴史家同士が論争し合う場合である。そこでは紛れもない、一つのいわばゲームのルールのようなものが存在している。それは君がそれに対して証拠を提出しえないようなことは、たとえそれが真実であっても言ってはならないというルールである。このゲームに勝つのは、実際に起こった事件を再構成しうるものではなく、すべての人々に近づきうる証拠に支持された見解を述べる者である。そしてコリングウッドによれば、このゲームのルールこそが、歴史的思惟の定義なのである。「歴史的思惟 historical thinking とは出来る限りの批判的技術をもって、到達しうるあらゆる証拠 evidence を解釈すること以外ではなく、"実際に起こったこと" というのが、"証拠が示すこと" 以外のことであるなら、歴史的思惟とは、実際に起こったことを発見することではない。」(The Limits of Historical Knowledge, in Essay in the Philosophy of History, p.99)例えばそれに関する如何なる証拠も残っていない事件がかつて起こったとしても、その事件は歴史家の世界の一部にはならない。このような意味での実際に起こったことは、物自体であり、認識者との如何なる関係も持たないものであり、「それは知られていないというだけでなく、知られえないものであり、知られえないというだけでなく、存在しない non existent ものである」(ibid., p.99)ここでコリングウッドは、あらゆる思惟の抜きがたい傾向としての素朴なリアリズムとでもいうべきものを指摘する。対象を物自体として考える傾向であり、認識とのいかなる関係ももたない、それ自体において存在しているものと考える傾向である。こうした観点からすると歴史の対象は、生起した出来事の総体として現れ、歴史家の目的は過去自体の発見であり、生起した全てを見つけだすことにあるように思われる。

コリングウッドは歴史認識におけるリアリズムを批判し、その内に含まれた前提を取り出す。こうした考えによれば生起した出来事は何でも、歴史的知の可能で正当な対象であり、歴史家は本来みなそれを知るべきだということになる。すると歴史的知の限界は過去としての過去の限界でしかないことになり、カエサルがルビコン川を渡る前の日の食事が何であったかという問いは、彼が皇帝になろうという意図があったかどうかという問いと同じような歴史の問題であることになる。さらに歴史的リアリズムによれば、過去は今なおそれ自体として何処かに存在していることになり、ガリレオはいまも物体を塔から落としていることになり、ネロのローマの煙りは今もどこかで燻っていることになる。「生起することを終えた出来事は、まさに何ものでもないのであり、それは如何なる種類にせよ存在をもたないのである。過去は端的に存在しない」(ibid., p.101)歴史家は過去を取り扱う場合このことを痛切に感じるのである。「歴史家が欲しているのは、ありのままの現在である。彼は自らを取り巻くありのままの世界を欲するのである。・・・彼は、彼の世界が、現在あるようになったその経過を、心のうちに再構成したいのである。そしてこの経過は現在進行しているのではない。リアリズムが主張するような認識の説明、つまり自存的に現存する対象の知覚といった説明は、歴史家の認識には適用されない」(ibid., p.101)歴史的思惟が目指すのは、我々が現在知覚しうるこの現在の過去であり、理想的には、知覚しうる現在の全てを証拠 evidence として用いて過去を再構成することである。もちろんこの理想は達成されないが、この理想と現実の乖離は何も歴史学だけに固有のことではない。この意味で歴史学の成果は決して最終的なものではない。evidence の所在としての現在そのものが変化するからであり、また evidence を検証する基準そのものが変わるからである。「しかしこれは歴史的懐疑主義に組みする議論ではない。これは唯、歴史的思惟の第二の次元の発見にすぎない。それはつまり歴史の歴史(the history of history)のことである。歴史家自身、彼に近づきうる証拠の総体を形成する今-ここ共々、自らが研究している過程の一部であり、その過程のうちに自らの場を持つということ、そして現在の瞬間にそのうちに彼が場を占める立場からだけしか、この過程を見ることができないということの発見である」(The Idea of History, Oxford 1946, p.248)。歴史家は己の現在という中心からものを見るのである。こうして歴史家は己の世界が、自らのうちに中心を持つモナドの世界であることに気づく。「しかし自らの思惟について反省する、つまり哲学することによって、歴史家は、自らがモナドであることに気づく。そして自らが自己中心的境位のうちにあることを自覚することは、それを超出することである。・・・それ故歴史的思惟について哲学することは、歴史的思惟のモナド主義を超出することであり、モナド主義を後にしてモナドロジーに向かうことである」(The Nature and Aims of a Philosophy of History, in Essays in the Philosophy of History, Oxford 1965, p.55)

(2)

我々はようやくコリングウッドの有名な歴史的知 historical knowledge の定義を問題にしうる地点に到達したように思われる。「歴史的知とは、歴史家がその歴史を研究している思想を、歴史家の心の内で再遂行 re-enactment することである」(An Autobiography, p.113)この定義は必ずしも充分理解されていないように思われる。この定義は単に、過去の思想の解釈の問題に関わるのでなく、先にコリングウッドが歴史的思惟の第二の次元、ないしモナドロジー的世界に関わるものであり、歴史の解釈についてではなく、歴史というものの本性に関わるものであるように思う。

彼はこの考えを有名な「歴史の理念」第五部第一章で展開している。彼はまず歴史性 historicity という言葉の曖昧な使い方をいましめる。生物の進化論や現代の物理学や天文学の主張では、全ての事物が或る時間を経ることによって本性を変えてゆくという意味での変化を歴史性と呼ぶ場合が多い。こうした考えを哲学的に述べたのが、ベルグソンやアレクサンダー、またホワイトヘッドである。すると自然の経過と歴史の経過との区別は取り払われたように思われる。

このような考えを歴史家に述べると、彼は否定的に答える。歴史と真に言えるのは、人間の事柄だけだと。歴史家が過去の出来事を探査する場合、彼はいわば、出来事の外面と内面とを区別する。外面とは例えば、カエサルがルビコン川を家来と共に渡ったとか、元老院でブルータスに殺されたとかいうことである。これに対して内面とは、共和国の法に対するカエサルの不信とか、ブルータスとカエサルとの政策面での相違とかいうことである。歴史家は単に外面的事件のみを探るのではなく、行動 actions を探るのであり、これは内面と外面との統一なのである。自然の経過は、こうした内面と外面との区別を持たない。それに対して人間の歴史は、行動の経過であり、内面を持っている。そしてコリングウッドはこの内面を思想 thought と呼ぶ。この出来事の内面を理解するのは、歴史家がこの thought を自らの内で繰り返すことによってのみである。だから歴史とは単に継起する出来事を物語ることではなく、また単なる変化の記述でもない。歴史家は自然科学者と異なり、出来事そのものに関心を示すのではなく、思想を外面的に表現したような出来事、つまり行動に関心を示すのである。

ここでコリングウッドは歴史家の歴史理解の方法を述べているように思える。しかしコリングウッドの意図はもっと根本的なものであるように思える。彼が述べようとしているのは、先の歴史的認識の定義がまた歴史的経過というものそのものの定義であるということであるように思える。歴史家という、人間の知性活動を専門とする特殊な人間の活動は、或る意味で、人間が日々の生活のうちで繰り返していることを、最も明瞭な形で為しているに過ぎないとも言える。先人が残してくれた生活形態、ものの考え方、そうしたものをそれぞれが繰り返すことを通して、受け継ぎ、批判し、改良してゆく過程、それが歴史的過程であり、他者の思想を自らのうちで再遂行するということは、歴史過程そのもの、あるいは、歴史そのものの定義であるとも言えよう。自然の変化の過程と人間の歴史の過程を根本的に分けるものは、人間の場合は、先のものの受け渡しが、内面における再遂行という形でしかなされないという点にある。決して先人のものを、物の受け渡しのようには受け取れないのであり、物の受け渡しのごとく受け取られるものによっては、歴史は生じないのである。この内面の再遂行の行為、これこそ歴史の根源の姿であり、歴史の淵源であることをコリングウッドは見ているように思える。

コリングウッドは先に、歴史的思惟の第二の次元ということを語り、それは単なるモナド的な歴史家の世界でなく、モナド的世界であることを認識することによってそれを超出する哲学者の立場であることが示唆された。「事実の世界、それは歴史にとって思考の外面的前提であるが、この事実の世界は哲学にとって、それぞれがその中心に歴史意識を持つ透視図 perspectives の世界である」(The Nature and Aims of a Philosophy of History, p.56)コリングウッドの先の歴史的知の定義は、先にも述べたようにこの世界、この次元を語っているように思える。ここではもはや直接、事物の経過が考察の対象になっているのではなく、そうした事物や事件の中で、意識的にではなくとも、己の中心に歴史意識を持った人間、全体を己のパースペクティブで映し出しているモナドとして生きている人間によって繰り返され、再遂行されている、いわばモナドロジー的世界が問題になっているのである。

コリングウッドも述べるごとく、歴史的知は他者に関わる知のことであり、それは自らのうちで、他者の思想を再遂行することによってのみ得られるものである。他者の思想を自らのうちで再遂行する時、そして再遂行する中で、この他者は、自らと同一の世界に有るものとなる。まさにこの再遂行こそモナド的世界の超出なのであり、しかもこの再遂行において、歴史的世界は、真に私の、他者との共通の世界になってゆくのである。

コリングウッドは先の歴史的知の定義を「自伝」の中で次のように補足している。「歴史的知とは、カプセルの中に入った過去の思想を、現在の思想のコンテキストの中で再遂行することである」(An Autobiography, p.114)コリングウッドは、それぞれ異なった状況において、同一の思想が繰り返しうると考える。そして我々は過去の思想を己の状況の中で再遂行しなければならないのである。彼は例を挙げる。プラトンは『テアイテトス』の中で感覚主義の批判をしている。我々にはプラトンが同時代のどの様な感覚主義を念頭においていたか判らない。しかし我々がプラトンの議論を理解する時、我々は同一の思想を再遂行しているとコリングウッドは言う。これに対してガダマーはコリングウッドを高く評価しながらも、ここでコリングウッドは自家撞着に陥っているのではないかと批判している(H. -G. Gadamer, Wahrheit und Methode, S.486f.)。コリングウッドは自伝の中で、或る思想は、それを述べる人の問いと答えの連関の中で考えられるべきで、そのコンテキストから切り離しては理解されないと述べているからである(p.29-43)。しかしこれはガダマーの誤解であるように思われる。ガダマーはコリングウッドの問題を、他者の思想を理解するという解釈学の問題に矮小化しているように思う。コリングウッドはもっと広い視野で考えているように思える。つまり歴史の生起の問題、プラトンの思想を現代において遂行する問題として考えていると思う。確かにプラトンの思想は彼の当時の状況の中でのみ正しく理解されるであろうが、我々が現代において現代の状況の中で、現代の感覚主義を批判してゆく時、プラトンの思想の核心を再遂行することが有りうるのである。それ故問題は、過去の他者の思想(いわば物自体として)そのものの理解ではなく、現代の我々の思想の遂行において、過去の思想がその核心において再遂行される可能性なのである。

そしてコリングウッドは、そうした思想の繰り返しの可能性の根拠を、過去は死んだものではなく、生ける過去 living past であることに求める(The Idea of History, p.225)。我々が過去に出て行くのではなく、過去は現在に生きているのである。「歴史家の目的は、思考する存在の目的として現在の認識である。この現在へあらゆるものが回帰しなければならないのであり、この現在の周りをすべてのものが回転しなければならないのである」(The Philosophy of History, in:Essays in the Philosophy of History, p.??)そしてこの現在は己の現在であり、プラトンの世界も己の世界になるような現在なのである。

ところで同一の思想が異なった状況の中で繰り返すという表現は誤解を与えかねない。同一のものが始めからあって、それが変わらず繰り返すように考えられる。しかしそれなら時間と歴史は意味ないことになる。コリングウッドはそのような同一性を考えているのではない。それでは他にどのような同一性と差異性の捉え方が存するのか。コリングウッドはこの問題を「哲学的方法についての試論」(An Essay on Philosophical Method, Oxford 1933)で扱っている。

(3)

コリングウッドはこの書のうちで、哲学に固有の論理を見いだそうとする。彼はそうした論理を overlap of the class (組分けされたものの重なり合い)と呼ぶ。自然科学の場合、classは重ならない。例えば生物という類 genus は、動物と植物という種 species に分かれる。もちろん微生物の中にはどちらにも分けられないものもあるが、生物学はその体系からしてどちらかに分けようとし、そのどちらにも属するというようなことを原則的に認めない。類の下に属する subclass は互いに排除しあうという特徴を持っており、動物は植物を、生物であるかぎり自分の仲間だと認めるが、動物である限りにおいて、植物を己の仲間から排除する。こうした分類を我々は通常用いている。

しかしコリングウッドは哲学の対象の場合、こうした分類は必ずしも当てはまらないという。アリストテレスはニコマコス倫理学の中で、善という概念は、彼の創出したどのカテゴリーにも入り得ず、カテゴリーの区分けを突き抜けていることを認めている。このことはスピノザの「全ての存在は一にして、真であり、善なるものである」という表現にも当てはまる。統一と真と善とは、互いに排除しあう三つの種 species ではない。哲学においては、或る類概念をさらにその種に区分する時、その種に分けられたもの同志が互いに排除しあうということは必ずしも当てはまらず、相互に重なり合うとコリングウッドは言う。

彼はこの overlap of the class、つまり哲学特有の、同一性と差異性の統合の問題をさらに考究する。彼はこうした重なり合いを説明するために、或る種の、difference of degree (度合いの相違)を考えねばならないとする。しかしそれだけでは組み分けclassが生かされないので、何らかの、difference of kind (種類の相違)も考える。この二つの相違を組み合わせる必要がある。彼は一つのモデルとして水の場合を考える。水と水蒸気と氷とは、或る意味で三つに組分けされるが、この区分は絶対的なものではなく、一つの本質が温度差によって分けられたものである。彼はこうしたモデルを scale of form (形態の階梯)と呼ぶ。つまり一つの類を同じくする本質が、幾つかの転換点 critical point を境にして形態を変えるような列のことである。哲学の場合の代表的なものは、プラトンの知識の scale である。ここではドクサ(臆見)、ディアノイア(知識)エピステーメー(真知)のように区分される。哲学と水の scale における相違は、二つある。一つは度合いの相異という場合の度合いが、水の場合、測りうるものであるが、哲学の場合は質の度合いであり、本来測り得ないものであり、しかも一種の増減が考えられる。もう一つの相異はより重要で、水の場合、それぞれの scale の形態は、このものの類的本質 generic essence にとって外的である。この場合本質は H2O で表されるが、ガス的状態、流動状態、固形状態という三つの形態は、先の本質と単に外面的な関係しか持っていない。これに対して哲学的 scale の場合、変化するものはその本質において類的な本性と同一である。 

先のプラトンの例で言えば、ドクサやディアノイアもやはり知識である。そして程度の高いものほどその本質を明瞭に explicit に示しているが、低いものもその本質を暗々裡に implicit に含んでいる。この scale は、パスカルの二つの無限のように、両方に限りなく開かれている。コリングウッドは善と悪をもこの scale で考える。どんなに悪と見えるものも、まったく善を欠いたものはなく、この scale を降りて行っても、決してゼロには至らない。無限に小さく分割されながら、そこになお善の要素が残されていると考える。この scale の上の二点をそれ自身でみれば、善であるが、高いものから見ると、低いものは、自らの転倒であり、否定されるべきものであり、悪であると言える。あるいは低いものは、高いものの現象であり、高いものが実在であることになる。このようにこの scale 上のそれぞれは、それに至るまでの階梯すべてを総決算したものであり、そのどの地点も、それより上のものから見ると、単に現象に過ぎず、実在はこの高いものに有ることになる。しかしそのいずれも類的本質は同じであり、上に行くに従ってそれまで implicit であったものを explicit に表すのである(ibid., p.91)。

コリングウッドがこうした階梯の論理を持ち出すのは、これこそ歴史の論理を示すからである。先の歴史的知の定義に見られた思想は、この scale の上にあるものである。他者の思想を己のコンテキストのうちで再遂行するとき、同じものが繰り返されるが、単にすでに不変なものとしてあるものの同一性が繰り返されるのではない。再遂行は本質的に批判であると彼は言う(ibid., p.217)。先人の思想においてそのうちに implicit に含まれながら覆われているものを、再遂行する者は explicit にし、それを覆っているものを批判によって取り除かねばならないのである。

歴史の論理はこの階梯の論理だという時、誤解してはならないのは、この scale は時間と同一のものではないということである。時間を経るに従って、scale の上にいるというのではない。彼の死の直前に著した New Reviathan という歴史文明論の中で、偶成の原理 principle of contingency ということを挙げている。この scale が時間のそれでもなく、論理的発展でもないからである。

彼は歴史の中にこの階梯の論理を見る。彼にとって歴史の scale の類的本質は精神 mind である。歴史はその根底において mind の世界である。各々が自らのうちに中心を持ち、その perspective から世界全体を映し出し、歴史を映し出しているモナドである。そしてこの孤立したモナドは、自らのうちで他のモナドの世界を再遂行する時、モナドを超出する。超出するといっても、自らは自らに留まりながら、つまりあくまで自らの思想 thought でありながら、他者の世界を繰り返し、この批判的再遂行のうちで、これまで implicit であった mind の本質を explicit にしてゆくのである。そしてこの mind の本質は、抽象的に言えば「自由」ということである(The Idea of History, p.315-320)。しかしそれが本当に explicit になるかどうかは、批判的再遂行がどこまでなされるかにかかっているのであり、しかもそれはけっしていわゆる歴史の必然などではない。確かにそこには論理はある。しかし後から発見するのである。確かに我々現在までの、つまり我々が今ある現在の論理構造を明らかにすることは出来る。確かに現在は、過去を総計しているという意味では頂点にある。しかしこの頂点は越えられるのである。そしてどのように越えられるかは、現在にある我々には知られ得ない。それがこの scale の根本特徴であり、偶成 contingency とはそのような意味である。しかしこれは歴史相対主義ではない。コリングウッドをそのように誤解するのは、この階梯の論理を見落としているからである。mind を本質とするこの scale から、歴史は外れることなく、我々のこの現在に implicit に含まれていないものは、歴史の未来に explicit にされることはない。このような mind の現在の場がコリングウッドが立つ最後の場であると言えよう。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp