4th Meeting / 第4回研究会

 

退歩と邂逅 ―東西の哲学的対話に向けて― (発表要旨)

Bret Davis (文学研究科 日本哲学史専修 共同研究者)


グローバルな時代において、哲学は、何らかの意味での「比較哲学」を避けることはできない。しかし、現代に必要とされているのは、傍観的な「比較」ではなく、諸文化の出会いに実際に立脚する「対話」である。比較哲学は最終的には思索的対話へと変貌しなければならない。そのために、まずそれを基礎付ける解釈学的な反省が必要なのである。

ハイデッガーの言う、東西の対話によって可能となる「地球規模の思索」das planetarische Denkenを準備するためには、まず西洋と東洋の邂逅を真に経験しなければならない。しかしハイデッガーによれば、現代はむしろ「人間と地球の西欧化」の時代、つまり「地域的・民族的に成熟した諸国の文化」が消え去り、その代わりに、技術的な世界観の支配する「世界文明」が普及する時代なのである。W. ハルプファッスが指摘するように、現代世界における状況では、東洋と西洋が対等の相手として出会うことはもはやできない、むしろ「それらは西洋的な世界において、また西洋的な思索の仕方のなかで出会うのである」。このような状況のなかで、われわれは如何に東西の哲学的対話を開くことができるのであろうか

真の対話を可能にするためには、東西の双方は自らの伝統に〈退歩〉し、そこにおける思索の可能性と限界を徹底的に経験しなければ、他伝統との邂逅に向かって〈進歩〉することもできない。つまり、邂逅することによってより深く退歩することが可能になり、またその深くなった自己理解によって、より根源的な邂逅が可能になるのである。この〈自己理解への退歩〉と〈他者との邂逅への進歩〉のあいだを廻る一種の解釈学的循環こそ、現代の比較哲学に欠かせないものなのである、と私は考える。この発表では西洋哲学、殊に思索的対話の解釈学に関係している幾人かの思想家やそのテクストを取り上げてみた。特に、西洋哲学の内部から東洋との対話を開けるための手掛かり、またはその妨げ、となっている思想に注目した。

西洋哲学史には根本的なアンビヴァレンス(相反する力・衝動)がみられる。一方には、自己の特殊性を開き普遍性へと至ろうとする希求があり、他方には、自己の特殊性を〈優秀な事例〉と為しその中へと普遍性を凝縮しようとする欲求があり、その〈引っ張り合い〉がさまざまな形をとって現われている。対話については、〈他者を(自己の内部の概念でもって)理解しようとする意志〉という形でそのアンビヴァレンスが現われているといえよう。つまり哲学者には、自己を他者へと開きながらも、その他性を自己の理解できる範疇に還元してしまう矛盾的な傾向があるということである。

このアンビヴァレンスは、ソクラテスの対話の仕方に既に現われていた。「人間的知恵」anthropoine sophiaをもつソクラテスによると、人間が所有することのできない「超人間的な知恵」には、無限に接近することしかできず、そのために他人と終わりなき対話を行なう必要がある。他方、「想起論」を主張するソクラテスによると、対話はただ自己が既に所有する知識を想起anamnesisするための手段でしかない。

ヘーゲルの認識論はソクラテスの想起論の徹底的な展開であり、それによると、知識は全く新しいものや他性的なものを学ぶのではなく、「絶対の他的存在のうちにおいて純粋に自己を認識すること」なのである。そして、ヘーゲルの歴史論によると、精神の自己疎外化と還帰の運動は、一方通行的に東洋から西洋へと進むのである。ヘーゲルの〈対話に先立つ結論〉では、西洋哲学は東洋思想を追い越したのみでなく、それを「止揚」している。東洋思想は既に西洋哲学に「内化」 er-innert されているので、それは「われわれ」にとって「記憶」Erinnerung でしかない。したがってヘーゲルによると、西洋哲学は、ときどき東洋思想を「思い出す」意義はあるにせよ、今さらそれと対話する必要はないのである。

「ヘーゲルの弁証法Dialektikは思惟の独話Monologであり」、他者に耳を傾ける対話ではない、とガダマーは批判する。しかしながらガダマーの「哲学的解釈学」の所々においても、われわれは西洋哲学の根本的なアンビヴァレンスの現われを発見することができる。ガダマーの哲学的解釈学によると、(西洋)哲学の本質は伝統のテクストとの対話にある。ガダマーの解釈学は、諸文化間の対話を行なうにあたって手掛かりとなるさまざまな洞察を含んでいるが、その本来の目的が、西洋哲学の伝統的なテクストを現代の観点から読解することであったことも忘れてはならない。ガダマーの主な関心は、終始「われわれの過去」を忠実かつ創造的に継承することであった。私がここで注目したいのは、ガダマーが「われわれ皆が共に所属している歴史的伝統」と言うとき、その「われわれ」は、西洋の「ひとつである偉大な地平」を継承している「われわれ」を指している、ということである。西洋の伝統に含まれないテクストや文化遺産と如何に対話すべきか、またそもそも「われわれ」はその非西洋のものに耳を傾ける必要があるのか、という問題に対しては『真理と方法』は無言に近い著作なのである。

ガダマーは、その師であったハイデッガーの解釈学的現象学から出発はしたものの、彼自身の哲学的解釈学は、ハイデッガーの変革的な思索に比べ保守的な方向へと進んだ。ハイデッガーの思索は、より徹底的に西洋哲学史に対して問いかけているので、それと同じ程度、東洋との思索的対話を準備している、ということも期待できると思われる。ただし、ハイデッガーは東洋との対話へと進む前に、西洋哲学の始源への「退歩」der Schritt zuruck を徹底しなければならないことを強調する。過去の思索は弁証法的に「止揚」されると主張するヘーゲルの進歩論に対して、ハイデッガーは自らの「存在歴史的な思索」において、「思索の歴史との対話の性格はもはや止揚ではなく退歩である」、と説明する。しかし、その「退歩」は単なる「歴史学的な逆戻り」ではない、なぜなら「始源的なもの」das Anfangende は、単なる時代的な出発点 der Beginn とは異なり、伝統を貫いているからである。

ハイデッガーの「退歩」はどのように非西洋思想と邂逅し、如何に〈地球規模の対話〉へとつながるのだろうか。ハイデッガーは、「最初の始源」der erste Anfang を「追想」Andenken するのは、到来する「別の始源」der andere Anfang を準備するためである、と考える。あるテクストでハイデッガーは、次のような興味深い表現を残している。〈西洋=夜の国〉 das Abendland の歴史的運命 Geschickは、その歴史全体が集合 Versammlung した後、「全く異なった仕方で〈朝の国〉と成るin einer ganz anderen Weise das Land eines Morgens zu werden」、と。むろん、そこで考えられている Morgenland は、通常の意味での「東洋の国」ではない。しかし、ハイデッガーによる退歩的な思索が、いつか根源的に異なった思索と邂逅できるようになるために準備を行なっていたことはたしかである。

ハイデッガーは始源的な東西対話を望んでいた。西洋の「偉大なる始源」は、もはや「その西欧の孤独に留まることはできず、他の幾つかの偉大な諸始源den wenigen anderen grosen Anfangenに対して自身を開きつつある」とまでも、あるテクストで述べている。しかし、多くの東洋人思想家と付き合いはあったものの、ハイデッガー自身が東洋思想との対話に何処まで参入したかについては、議論の余地がある。また、ニヒリズムについての〈われわれが壊したものはわれわれしか直せない〉というような彼の考え方には、〈地球規模の対話〉への道において妨げとなる西欧中心主義の要素が残る。

ガダマーやハイデッガーの思想を含む近・現代西洋哲学には、本研究会の課題である「新たな対話的探求の論理の構築」にあたって思索的源泉となるものがすくなくない。しかし、西洋哲学のみが諸伝統間の対話の原理を究明でき、それを一方的に全世界に与えるというような主張は〈原理的にも〉矛盾しているといわざるをえない。今日求められているのは、西洋哲学のみを手掛かりに、新たな対話の原理を構築するのではなく、東洋の(また他の非西洋の)諸伝統も批判的かつ創造的に展開し、対話について多元的に議論することではないだろうか。東西双方において〈退歩と邂逅〉という解釈学的な道を歩むことによって、種々の〈止揚された西欧中心主義〉を脱し〈対話についての対話〉を開く、ということがわれわれの課題であると考えられる。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp