5th Meeting / 第5回研究会

 

存在とロゴス

松井 吉康 (大阪外国語大学非常勤講師)

このプロジェクトでは「新たな対話的探求の論理」が問われているが、私は、「論理」に的を絞ってこのテーマに切り込んでみたい。しかし「論理」について議論するということは、――「論理なき思想」というものがあれば別であろうが――およそあらゆる種類の思想を問題にするということにならざるを得ない。そこで本論では、論理を巡る一つの非常に狭い問題設定、すなわち「言説(logos)は、主語となる名詞(onoma)と述語(rhema=述べ)からなる」という西洋形而上学の基礎テーゼ(恐らくそれは西洋形而上学の基礎であるだけでなく、多くの言語の基礎でもあるだろうが)に焦点を絞って考察を進めることにする。結論から先に述べておけば、本論は、「ロゴスは、主語となる名詞と述語からなるのでなければならない」という理解に異議を唱えることになるだろう。本論では、こうした理解とは異なる「論理」が可能であるという視点が提出されるだけでなく、さらにそうした「別の論理理解」からすれば、こうした普通の論理理解が或る種の「思惑」に過ぎないということが導出されるのである。こうした主張は勿論強い抵抗にあうだろう。ともあれ、そうした議論を巻き起こしてみたいというのが、本発表の狙いである。

周知の通り「ロゴスは主語となる名詞と述語からなる」というのは、プラトンが『ソピステス』で提出しているテーゼである(262c2-5)。しかしこうした理解は、プラトンを引き合いに出さずとも、今日では私たちの日常の中でかなり当然のこととして前提されている。「西洋の論理とは異なる論理を持つ東洋的思惟」ということが言われる一方で、実際の日常においては、「主語(=主題となるもの)のない文章」を聞かされれば、今日の私たちは「何が?」と尋ねずにはおれない。無論日本語ではしばしば主語が省略される。しかしそれは、多くの場合、あくまでも「省略」しているのであって、「主語が存在しない」のではない。私たちが問題にするのは、西洋形而上学の論理理解だけではなく、私たち自身の論理理解でもある。

プラトンのロゴス

西洋形而上学は、その長い歴史を通して「真に存在するのは何か」という問いを問い続けてきた。つまり「存在の真の主語」すなわち「実体」を問うてきたのである。プラトンであれば、イデアもしくは形相がその答えであり、アリストテレスでは個物がそれであった。また中世以降は、神こそが真に存在するものとなった。近代では、人間の主観(主体性)がその位置を占めているように見える。では、この問いに対する今日の解答は何か。恐らく「そのようなものは存在しない」という意見が大勢を占めよう。哲学は最早実体を問うたりはしない。では、今日、論理はどうなっているのか。

実体というものを問わなくなった今日でも、論理は相変わらず主語を必要としている。現代の形式論理学(述語論理)においても「何々であるようなXが存在する」という表現が当たり前のように姿を表す。ここで再び私たちは「存在」という表現と出会うのである。論理は再び存在と結び付く。しかしこうした論理と存在の関係は、既にプラトンが『ソピステス』においてかなり詳細に論じている問題なのである。「論理を問う」ということは、結果的に深く「存在」を論じることになる。では、プラトンにおいて、それはどういう議論となったのか。

まず、こうした問題設定に向かうプラトンの議論の大筋を見ておこう(1)。そもそもの議論の出発点は、「哲学者とソフィストの区別」である。プラトンによれば、ソフィストは、「実物を真似てその似姿を作るところの、一種のいかさま師」(234e7-235a1)である。しかしそうだとすると、かの区別においては、「そう見えたり思われたりするけれども、実際にはそうではないということ、また、何事かを語ってはいるけれども、真実を語っているのではないということ」(236e1-3)が問題となる。なぜなら、もし「存在しないもの(ta me eonta)が存在するとは決して証しされないであろう」(DK Fr.7.1-2)(2)というパルメニデスの言葉に従うならば、「実際にはそうではない」とか「真実を語ってはいない」ということが、そもそも原理的に不可能になるからである(237a3-4)。「虚偽を語る」ということは、それ自体「存在しないものを語る」ことなのである(240d9)。したがって先の問題を解明するためには、「そもそもいかにして虚偽(すなわち実際には存在しないこと)を語ることは可能となるのか」という問いが解決されねばならない。ここからプラトンのパルメニデスとの対決が――対話編の中ではパルメニデスの弟子という設定の「エレアからの客人」の口を通して――始まるのである。

「存在しないものども(ta me onta)」がどういう意味で「存在する」のかが問題である(241d5-7)。しかしそうした議論に先立ってプラトンは「存在しないものとは、端的な無のことではない」と言う(237b7-8)。なぜならそのような「存在しないもの」については語ることが出来ないから。そもそも語るという行為そのものが、「存在するもの」を語るために出来ているのだ。具体的には「端的な無」には単数も複数もないはずだが、実際には「存在しないもの(to me on)」というように単数形もしくは「存在しないものども(ta me onta)」といった複数形――これは言うまでもなく「存在するもの」についてのみ妥当する表現である――で語らざるを得ない(237b10-c1)。またギリシャ語では、「無を語る」と「何一つ語らない」は、いずれ meden legeinという同じ表現をとる(237e4-6)。こうした説明でもってプラトンは「端的な無」を語ることは出来ないと主張するのである。したがって彼の見るところ、「存在しないもの(to me on)」とは、「存在するもの(to on)」という形相の反対(enantion)(=「端的な無」)を意味しない。それはあくまでも「存在するもの(to on)」とは「異なる(heteron)」ものを意味するというのである(257b3-4)。こうした議論の中で、「ロゴスは名詞と述語から成る」という事が言われる。つまり「名詞(主語)とは『異なる』述語が語られることで、ロゴスは意味を持つものとなる」というのである(Cf.262c2-5)。「そうした互いに異なる形相(ここでは主語と述語)の結び付きによって、初めて理性的な――つまり真偽が判定可能な――言説(=ロゴス)が可能となる」(Cf.260b1-2)というのがプラトンの主張なのである。つまり「存在しないもの(to me on)」というのは、意味ある言説に不可欠な「異なる」という基本カテゴリーのことだ、というのである。

ここでまず注意しなければならないのは、「意味ある言説」というものをプラトンが追求しているということである。そしてそれには、「名詞(onoma)」とそれについての――しかもその名詞自身とは異なる――「述語(rhema=述べ言葉)」が必要だとされる。しかしプラトンの場合、「名詞」さらには「述語」と呼ばれているものは、「形相(eidos)、イデア」である。つまり「ものの何であるか」「どうあるか」(言葉の意味内容)ということがそれぞれに確定されて、その結び付きがロゴスの成立を可能にする、というわけである。こうした見解は、プラトン自身を引き合いに出さずとも、当然のことのように思える。主語となる名詞の「何であるのか」を明確にする、というのは、議論する際に決定的に重要な作業だからである。しかもそれについて語られる述語は、あくまでも同語反復ではなく、主語とは「異なる」何かでなければならない(「異」という基本語が極めて重要なゆえんである)。さもないと、そこで語られる言説は「意味あるもの」とはならない(こうした議論にソシュールの先取りを見るのは誤りであろうか?)。ここでは明らかにパルメニデスの「存在するものが存在する」という同語反復が念頭に置かれている。つまりパルメニデスの言語世界からは「意味ある言説」を取り出すことは不可能になる、というのがプラトンの主張なのである。上述の議論を逆から見れば、真偽の判定が出来る言説が可能となるためにこそ、形相の差異性ということが言われねばならなかったのだとも言えるだろう(この点こそ、ニーチェが西洋形而上学の陥穽と見た点である)。

「それについて真偽が判定できる言説」というものがあるならば、それには普通「明確な主語」がなければならない。そしてそれはその主語だけで完結してはならない。主語だけでは、真偽の判定可能な言説にはならず、そうした言説であるためには、主語とは異なる述語が付加されねばならない。そうした「(相互に異なる)主語と述語の結び付き」が、「理性的な言説」つまりロゴスとなるのである。「理性的な言説は、明確な主語とそれとは異なる述語の結び付きによって形成される」というのは、――主語と述語をそれぞれ形相と見なすかどうかは別として――かなり普遍的な理解であると言えよう。しかし私はこうした確認をすることで、このプラトンの主張に「普遍的な論理の可能性」を見て取ろうというのではない。むしろ私たちのまなざしはまったく異なる方向に向かうのである。

プラトンの議論、もしくは「確定した主語の存在」というものは、彼の議論を離れても、私たちが日常前提としていることである。しかし実は、そうした日常の前提を否定するような論理が存在している。それがパルメニデスの論理であり、さらにはエックハルトや他の宗教言説に垣間見える論理なのである。それらは、「私たちが普段当然のこととして前提にしている『特定の主語』つまり『特定の物』などというものは、実は存在しないのだ」と言う。つまり私たちが世界の中に存在すると信じているものの一切は、実は「存在しているのではない」と言うのである。

存在の論理

別の論考(3)で指摘したことであるが、パルメニデスの「存在するものが存在する」「存在しないものは存在しない」という言明は、プラトンが理解しているような意味ではない。そこで言われている「存在」は形相ではないからである。「形相ではない」とはどういうことか。それは、それの「何であるか」を問う事が出来ない、ということである。パルメニデスの存在に対して、「それは何なのか」と問う事は出来ない。何故か。

パルメニデスの探求する存在には主語が存在しない。まずその点を彼のテキストから確認しておこう。彼の議論の冒頭は以下の通りである。

さあ、私は語ることにしよう、……
いかなる探求の道だけが思惟されうるのかを。
一つは、「存在する」(hopos estin)、
そして「非存在は不可能」(hos ouk esti me einai)という道、
これは説得の道である(というのもそれは真理に即しているから)、
もう一つは、「存在しない」(hos ouk estin)、
そして「非存在が必然である」(hos khreon esti me einai)という道、
これがまったく探ねえざる道であるということを、私は示してあげよう。
というのも汝は、存在しないもの(to me eon)を知りえないだろうし、
語ることもできないであろうから。(DK Fr.2.1-8)

いきなり「存在する」そして「非存在は不可能」という表現が出現する。それとは別の道もまた「存在しない」そして「非存在が必然である」という表現となっている。これらは、先に見たプラトンの「真偽が判定できる言説」というロゴスの規定からすれば、ロゴスではないように見える。そこには主語が欠けているからである。「何について」が欠落しているような文章は、真偽が判定できない。これは、プラトンの指摘を待つまでもなく、私たちの日常的な言葉遣いからしても異様な表現である。いきなり「存在する」と言われれば、「何が?」と問い返すのは当たり前だろう。事実、これまでのパルメニデス研究の多くは、そうしたパルメニデスにおける「存在の主語」探しに明け暮れているのである。人は、そこに主語が見つからないと落ち着かない。事実、日常的な言葉遣いとしてみれば、「存在する」「存在しない」という述語は、「何が」という主語が明確となっている場合にのみ意味を持つ――少なくとも、「存在」という表現が、何物かの「現前(anwesen)」を意味するのであれば、つまりハイデッガーの言う「存在するものの存在」を意味するのであれば。

問題は、存在という言葉が、「現前性(Anwesenheit)」「存在するものの存在(das Sein des Seienden)」の意義に尽くされるかどうか、であろう。パルメニデスの上記の言葉に続く議論を見てみれば、彼の語る存在もまた「存在するものの存在」であると結論を下したくなる。なぜなら彼自身が、まさに「存在するもの(to eon)が存在する」(DK Fr.6.1)と言っているからである。しかしそこで言われる「存在するもの」という表現を、私たちが普段言うような意味での「存在するもの」と取るべきかどうかは、慎重に考察しなければならない。パルメニデスの言う「存在するもの(to eon)」がどういう意味合いで使われているのかが、それだけではまだ明確ではないからである。

冒頭の文章で、パルメニデスは「存在するのかしないのか」ということを問うている。ここで注意しなければならないのは、彼がそうした問いを、「非存在は不可能なのか、それとも必然なのか」という問いと同義と捉えている、ということである。差し当たり「不可能」「必然」という様相表現をはずせば、それは「非存在ではない」のか、それとも「非存在なのか」と問うているのである。ここで私たちはパルメニデスの問いが、極めて周到に計算された「第一の問い」であることを想起しなければならない。「第一の」問いとして問われている――「非存在なのか」それとも「非存在ではないのか」。

ここで言われている「非存在」という表現が、実は「無」を意味しているというのは、後の文章に現れる「無ではない(meden d' ouk estin)(DK Fr.6.2)という言葉からも明らかである。つまり上記の問いは、そもそも「無なのか、それとも無ではないのか」ということなのである。「無か、無ではないのか」という問いは、論理的に見て第一の問いである。どのような問いも、論理的にこの問いに先行することは出来ない。しばしば形而上学の究極の問いとして引き合いに出されるライプニッツの「そもそもなにゆえに或るものがあって、無ではないのか(pourquoi il y a plutôt quelque chose que rien?)」(Principes de la nature et de la grâce fondés en raison, §7)という問いも、実は上記の問いに対して「無ではない」という答えが与えられて初めて問いうるものとなる。ついでにいえば、このライプニッツの問いを厳密に「存在の問い」として問おうとするならば、それは一つの矛盾に陥るはずである。というのもこの問いは、「存在以前」を問うているからである。「存在はなぜ存在するのか」という問いは、「存在以前」へ向かう問いである。無論、そこで言われる「存在」というものが、現実のこの世界に限定されるのであれば、この問いは理解可能であろう。つまりそれは「神はなぜこの世界を創造したのか」という問いを意味するからである。しかし厳密に存在論的に問うならば、「存在以前」などというのは、形容矛盾である。それは、存在以前にその存在根拠が「存在する」と言っているのであるから。私たちはさらにその「存在根拠の存在」に対しても、「なぜ」と問わねばならなくなるだろう。神学的に「神が究極の存在根拠だ」と言われるのに対して、存在への問いは「では、なぜ神は存在するのか」という問いを――原理的には――立てうる。もちろん「立てうる」と言っても、実際の西洋の思惟の歴史において、こうした「神はなぜ存在するのか」という大胆な問いを立てた者は、そう多くはいない。大抵の場合、それは「神は自己原因である」という、それ自身何の説明にもなっていない言葉でうやむやにされてきたのである。私のわずかな知識では、この問いを明確に意識して主題化したキリスト教の思想家は、エックハルトだけである。後述するように、エックハルトはパルメニデスの存在理解と同じ軌道を歩む数少ない思想家である(4)。しかしここでは、その点を示唆するに留めて、先の第一の問いへ戻ることにしよう。

「無か、無ではないのか」、それが問題である。ここでは無が主語である。しかしそもそも「無」とは何か。「ない」ということではないのか。それが不在を意味するのであれば、やはり「『何が』ないのか」と私たちは問いたくなる。だが、そのような理解は、この問いの原初的性格に反する。というのも「何が」という主語を求めるならば、その主語の存在が、先の問い以前に立てられることになってしまうからである。したがってここで言われる「無」は、「まったく何もない」という意味でなければならない。つまり先の問いは、「まったく何もないのか、それともそうではないのか」ということなのである。

「無」を「まったく何もない」という意味で理解するというのは、先に見た通り、『ソピステス』でプラトンが拒否した立場である。しかしプラトンのその議論は、かなり怪しげな議論であった。私たちの言語は、存在を語るためのものであり、そういう意味では、無を語ることには不向きだというのは、プラトンの指摘通りである(Cf.238c5-6)。それどころかこの指摘は、私たちの今後の議論にとって決定的に重要な役割を果たすだろう。しかしだからといって「まったく何もない」という言明が無意味だということにはならない。ここには、言語上の混乱がある。日本語では簡単に「まったく何もない」と言える。つまり「存在」という語を使わずに語ることが出来る。しかしこれをギリシャ語で言うのは難しい(敢えて言えば、meden 一言だけで言うことになるだろうが、それはプラトン的に言えばロゴスではない)。「まったく何もない」という日本語に対応する「命題」をギリシャ語で語るのは容易ではない。なぜか。それは、文章の構造が、プラトンが指摘したようなものとなっているからである。すなわち「主語があって、それについての述べが続く」という文章構造が、そうした言語には潜んでいるのである。「主語があって」ということは、当然「主語となるもの(=主語が指し示すもの)」があって、ということである。しかし先の文章においては「無」が主語である。では「無」は存在するのか。無は存在しない。したがって無は、先の規定からすれば主語とはなりえない。「ないもの」について、何かを「述べる」ことはできないからである。「無のロゴス(logos medenos)はロゴスとしては不可能である」(263C9-11)とプラトンは言う。ここにおいてプラトンがなぜパルメニデスを理解出来なかったのか、ということが理解可能となる。

「『何か』について述べる」という仕方で理解されたロゴスの基本構造では、「無」を問題にすることは出来ない。「無」は、それについて何かを語りうるような、つまり「述語づけが可能となるような」「何か」ではないからである。したがってそれはプラトン的な意味では、主語とはなりえない。しかしまさに「主語とはなりえない」という仕方で、それを論じることは可能なはずである。とはいえ、それに対しては、「だとすれば無は、主語とはなりえない『何か』」なのではないのか、という問いが立てられるであろう。ここに言語表現上の困難が潜んでいるのは確かである。「無について語る」というのは、確かに論理的に矛盾している。それは、そもそも語るべき主語そのものの位置に「まったく何もないこと」という言葉が置かれるのであるから。それについて語ってしまえば、その「それ」は、何らかの意味で存在するものとなってしまう(アリストテレスの「存在するもの」を見よ)。「無」についても、それを語ってしまえば、自ずから「存在するもの」となってしまう。言語表現上、無は、実体化されてしまう運命にあるように見える。

問題は、「真偽が問題にできる文章」の構造そのものの理解にある。言葉というものが、常に「何か」を指し示すものだと仮定するならば、「無」という言葉もまた、それが言葉であるかぎり、「何か」を指し示すのでなければならない。しかしそれは矛盾である。「まったく何もない」という「無」は、まさに「指し示す何もない」ということを言わんとする語だからである。それに対してプラトンの議論は、少々乱暴な言い方をすれば、その言語理解においても、決定的にプラトン主義的なのである。つまり「言葉(形相)には、かならずそれに対応する実在がある」(或いは「言葉はすべて形相である」)というのが、彼の言語理解なのである。しかし私たちの「何もない」という意味での「無」という用法は、そうした理解に納まらない言葉の存在をあらわにする。「無」は、まさにそうした「指示対象をもたない」という特異な「意味内容」を持つ言葉なのである。

問題は「無か、無ではないのか」ということであった。プラトン的に言えば、この問いは、ロゴスの資格を持たない問いである。だが、私たちは、この問いが無意味であるとは思わない。「まったく何もないのか」という問いは、表現上、何の矛盾も持たない。そして私たちは答える。「まったくの無というわけではない」と。しかし恐らく多くの人は、その答えとともに言うであろう、「だが、そんな自明なことに何の意味があるのか」。

「無ではない」というのは自明である、と言われる。勿論そうである。私たち自身の存在を初めとして、私たちの言明、理解、行動など、文字通り「一切が」、それを自明の前提としている。したがって私たちが「意味」と呼んでいるものの一切もまた、それを前提としている。つまり私たちが「意味がある」「意味がない」というのは、その前提を自明視したうえで、初めて語られるということである。しかしそれは翻って言えば、その自明性そのものは、私たちが言う「意味、無意味」という判断では捉えられない、ということである。その自明性を問う事は、私たちの普通の「意味、無意味」という判断の下に入らない。そこから人は言うのである、「そんな自明なことを論じるのは無意味だ」と。しかしそれは、彼らが言う「無意味」というのとは異なる次元で「無意味」なのである。つまりそれは、期せずして、そうした無意味を指摘する者自身の「意味の基準」そのものが、その前提には適用できない、ということを告白しているのである。事実、後述するように、こうした「無ではない」という次元へのまなざしは、私たちの世界観を根底から揺さぶることになるだろう。そういう意味でも、人々がこの次元へのまなざしを(大抵は無意識にであろうが)、「恐るべきもの」として拒否しているというのも十分に理解出来る。存在への問いは、結果的に「一切が実は無意味である」ということを明らかにする。とはいえ、そこで言われる「無意味」が問題である。

「無ではない」というのは、では、どういう意味で「自明」なのか。同語反復という自明もあれば、そうではない自明もある。「無ではない」というのは、同語反復ではない。「無は存在しない」というのは同語反復であるが、「無ではない」と「無は存在しない」は同義ではない。さらに言えば、それは論理的な真理を主張する命題でもない。かつては、パルメニデスの「存在するものは存在する」という命題を思想史上初めて同一律を主張したものと読む解釈があったが、それは、パルメニデスの議論のすべてを論理上の議論として展開したものと読む一面的な理解である。なぜなら「無ではない」ということは、論理的に導出された答えではないからである。それは実は、或る意味での経験命題なのである。私はそれを今、「経験命題」と呼んだが、それは、いわゆる「私たちの経験する内容」というレベルでの「経験」ではない。それは、たとえ「私」というものが幻想であったとしても、主観・客観という構図が一つの思惑に過ぎないとしても、それでも妥当し続ける命題だからである。なぜならたとえ「私」というものがなくても、たとえ「主観」というものがなくても、つまり後代が繰り返し問い続けたような「何が存在するのか」についてまったく不明なままでも、何はともあれ「まったくの無ではない」ということだけは確かだからである。

意味があるのかないのかはさておき、「無ではない」ということが、あらゆる真理さらには虚偽の前提であり、基盤となっている。「何が存在するのか」はさておき、「まったくの無ではない」「まったくの無ではあり得ない(=非存在は不可能)」ということは真である。「不可能」というのは、それがどういう形であれ無を否定しているならば、それはとにもかくにも「無である」という可能性を全面的に否定するものとなるからである。ここで論じられている無は、一瞬でも否定されるなら、永遠に否定されるからである――無論ここでの議論に「一瞬」とか「永遠」という言葉を用いることが出来るとしての話だが。では、パルメニデスは、こうした「無ではない」という確認からどういう議論を導き出すのだろうか。

まず基本的な確認であるが、パルメニデスの言う「存在」は、私たちが言う「存在」と同じではない。それは、「存在するものの存在」を意味するのではなく、「まったくの無ではない」ということと端的に同義、すなわち置換可能なのである。このことは、彼自身が「存在する」という第一命題を直ちに「非存在は不可能」と言い換えていることからも明らかである。ところが存在をこのように解すると、パルメニデスの存在には主語が存在しないということになる。それは、厳密に言えば、「何かが存在する」という表現すらも拒むことになるのである。無論「主語が存在しない」というのは、奇妙な表現である。一般的な論理の中では、「無ではない」と言えば、「何かが存在する」ということになって、そこからさらに「何が存在するのか」という様に議論が進む。しかしパルメニデスの場合、議論はそうした方向に向かわない。彼の議論に私たちの通常の論理(そしてそれは先に見たプラトンを初めとする西洋形而上学の論理)は通用しないのである。

では、パルメニデスの議論はどのように展開されるのか。彼の言う「存在」は「まったくの無ではない」ということを意味する。しかし「存在」という語が、そのように用いられるとなると、その主語に来るべきものは、その否定が直ちに無を意味するようなものとならねばならない。だが、私たちが「存在するもの」とみなしているもので、それの否定が直ちに「まったくの無」を意味することになるようなものは存在しない。言葉の理解次第では、「世界」とか「神」とかいえば、それの否定が「まったくの無」を意味するようにも思える。しかし実は、私たちは「世界」という「存在するもの」、「神」という「存在するもの」を確定できるわけではない。もしも私たちが、敢えて「世界こそが存在する」「神こそが存在する」というように、パルメニデス的な意味での存在の主語に「世界」「神」といった語を置いたとしても、それらの主語は結局のところ、プラトン的な意味で「確定可能な形相」とはなりえないのであり、結果的に、それらは「世界」とか「神」という言葉遣いが普通に含意しているもののほとんどを拒否するものとならざるを得ない。なぜなら私たちが普段「世界」「神」と呼んでいるものは、既に何らかの仕方で特定の意味付けがなされ、そういう意味で限定されている「何か」だからである。

「それが確定される」ということ自身を、「存在の主語」は原理的に拒否する。それでも存在の主語の位置に敢えて「神」「世界」という語を置く、ということは可能かもしれない。しかしその場合、それらの語が普段担っている意味のほとんどが放棄 されねばならない。だとすればいっそのこと、そうした表現を使わない方がましであろう(5)。事実、パルメニデスはそうした表現を存在の主語としては拒んで、その主語の位置に「存在するもの(to eon)」という、或る意味で同語反復的な表現を置く。しかしこの主語は、特定の何かを意味しているのではなく、むしろ「存在」という語が、「存在するもの」という特定不可能な表現以外の主語を受け入れないということを主張していると読むべきである。つまりそれは、私たちが普段「存在するもの」であると考えている一切が、パルメニデスの言う意味での「存在」の主語にはなりえない、ということを主張しているのである。

私たちが普段存在していると考えているものは、実は、何一つ「存在している」のではない。パルメニデスの主張は、「無ではない」という確認から、そうした異様な結論を導きだすのである。それは私たちの日常を確定し、基礎づけるどころか、一切を崩壊に導く。私の右手に電気スタンドがあり、目の前にパソコンがある、といった事実の総体から成り立つとされる「世界」は、パルメニデスが語る「存在する」という言葉の主語にはなりえない。それらは、すべて「存在しない」のである。「存在したり」「存在しなかったり」するような「存在の主語」、すなわち「現前 (anwesen)」と「不在(abwesen)」の主語の位置の置かれるような主語は、パルメニデスの視点からすれば、「存在」の名に値しない。それらはすべて「死すべき者の思惑」に過ぎない。それらは、単なる「名前」(onoma =名目)に過ぎないのである。無論そこでプラトンのように、とにもかくにも「名前」というものが「存在する」のではないか、と反論することも出来よう。しかし繰り返すが、問題は「存在」という言葉で何を考えるかという点にある。プラトンは、そのロゴス理解の出発点からして、あらゆる「述べ」には「主語となる名詞」が先行して存在しなければならないとする。「述べ」はあくまでも「特定の名詞(主語)」について言われるのであって、「主語(名詞)なき述べ」というのは、そのロゴス理解からしてあり得ない。したがって「存在する」という「述べ」に対しても、その主語が先行的に存在しなければならない。しかし主語が先行的に確定されているということは、それについて述べられる「存在」というものが、「現前(anwesen)」を意味するということである。他方、パルメニデスが探求した「存在」は、そうした「現前」とは異なる。それは「何かについて」「存在するのか、しないのか(anwesen oder abwesen)」を問うような、そういう存在を意味していないのである。

存在のロゴス――結びに代えて

では、パルメニデスの語る存在は、ロゴスそのものを否定するのだろうか。確かにそれは、プラトンが理解するようなロゴスとは相容れない。したがってそれは、プラトン的なロゴスの系譜を引く一切の論理、つまり西洋形而上学のみならず、今日に至る科学の論理とも相容れない。パルメニデスの語る「存在」は、「科学とは別の思惟」「科学とは別の論理」の対象なのである。では、一切の主語を拒む論理とはどのようなものなのか。主語がなければ、プラトンが言うように、いかなるロゴスも成立しないのではないか。

先に見てきた通り、パルメニデスの議論は、私たちが普段受け入れている世界観を根底から覆すものである。しかしそうした事が可能なのは、少なくともそこに或る種の論理が成立しているからである。たとえば彼の主張には――私の解釈が正しければ――「存在に主語はない」ということが含まれている。しかし「存在に主語はない」というのは、疑いもなく一つの言説、一つのロゴスである。それに論理的に先んずる「まったくの無ではない」(=「存在する」)というのもまた、立派な一つの言説、ロゴスである。ちなみに、『ソピステス』中の議論の確認において見た通り、プラトン自身は、この命題を明確に意識し、それについて立ち入った言及をしている。意識していたからこそ彼は、「まったくの無である」という文章を、「無は、単数形も複数形も受け入れないのだから、言葉に表現できない」という理屈で拒否したのである。無論こうした理屈は、的を射たものではない。なぜならそのような指摘は、単に既存の言語がもつ表現能力の限界を私たちに思い知らせているだけだからである(事実、単数と複数の違いをそれほど強調しない日本語では、こうした論難は不可能となる)。そこには、自分たちの言語が持っている文法や語彙の限界が、ただちに思考の限界であるとする思い込みがある(6)

ここで注意すべきは、「まったくの無ではない」も「存在に主語はない」も、どちらも否定命題の形をとっているということである。彼の第一命題は確かに「存在する」という形をとっているが、既に見た通り、それは「まったくの無ではない」ということの言い換えであった。形の上で肯定命題に見えるものでも、実質的には否定命題である、というケースが、パルメニデスの文章には多く見られる。たとえば「存在するものは一である」というテーゼが現れるが、それは「存在するものに部分などというものはない」ということである。また後世が繰り返し反論しようとした悪名高き(?)「生成はない」というテーゼも、内容的に見れば「生成ということを言うためには、生成するところのもの(名詞)の確定が必要であるが、それは不可能である」という事の帰結と読むべきだろう。プラトン以降、パルメニデスの「存在」は、ヘラクレイトスの「生成」と対立するものとして扱われるのが常であるが、少なくともパルメニデスの立場からすれば、「生成」は決して「存在と対立しうるもの」ではない。なぜなら「生成」ということを語る立場も、少なくとも「何もないのではない」という、パルメニデスの「存在」を認めざるを得ない、つまり前提せざるを得ないからである。したがって「存在」と「生成」を対立的に捉えるプラトンの理解は、実はパルメニデスの立場の誤解に基づくのである。そして後代の哲学の歴史は、この誤解を長年にわたって継承し続けたのである。

プラトンによるパルメニデスの誤読が西洋の思惟の歴史に与えた影響は、決定的と言って良いものであった。もちろんパルメニデスの思想が長らく誤解の闇に沈んでいた事の原因をすべてプラトンに帰するわけにはいかない。むしろ西洋がそうしたプラトンの誤読を継承し続けたのは、パルメニデスの主張が「普通の私たちの感覚」に真っ向から対立するものであったからである。つまりパルメニデスの主張は、「現象を救」わないのである。この点で、パルメニデスは確信犯である。彼の語る存在は、特定の主語といったものを拒むため、普通に私たちが語る命題の一切を無意味なものとしてしまう。プラトンの言葉を借りれば、それは「哲学」の可能性すら奪ってしまうのである(Cf.260a6-b2)。しかしここに至って私たちは問わねばならない。プラトン以降の西洋形而上学の歴史は、思惟の可能性の総てなのであろうか、と。

二十世紀の西洋哲学は、それまでの西洋形而上学の歴史に対する徹底的な反省に動かされていたと言って良い。そしてその起爆剤となったのがニーチェの思想であったということは、二十世紀を代表する多くの思想家がニーチェから決定的とも言える影響を受けているという事実からも確かめられよう。周知の通りハイデッガーは、西洋形而上学とは「別の思惟」の可能性を探求し続けた思想家である。彼は、ニーチェを自らが対決する西洋形而上学の終着点とみなしているが、それでも両者の西洋形而上学に対するスタンスに深い共通点があることは見まがいようもない。ところがそのハイデッガーが、西洋形而上学と対決する際に、繰り返し言及するのが、パルメニデス(とアナクシマンドロス、ヘラクレイトス)なのである。彼のパルメニデスとの対決は、その思想家としての一生を貫いていると言っても過言ではない。彼は、彼の言う「別の思惟」に類したもの(あくまでも「類したもの」に過ぎないが)をこうした Vorsokratiker に見て取っているのである。私の見るところ、彼が語る「思惟 Denken」は、パルメニデスの言う「思惟 (noos, noein)」から決定的な影響を受けている。そしてその彼が、パルメニデスと並んで自らの思索の同伴者として名前を挙げているのが、エックハルトなのである(7)

パルメニデスとエックハルトの議論には、西洋形而上学を「ロゴスでもって」相対化する視点が含まれている。それらは西洋の中から西洋形而上学を食い破っている思想なのである。しかし周知の通り、そうしたエックハルトの議論(そして私の解釈が正しければパルメニデスの議論)は、非西洋文化に見られる幾つかの特徴的な思惟、たとえばインドのヴェーダーンタ思想、仏教思想、イスラム神秘主義、老荘思想、さらにはいわゆる「京都学派の哲学」といったものと深い共通点を持つ。それは西洋形而上学を相対化するとともに、それ以外の諸思想と通底する何かを提示している。様々な誤解を引き起こすことを承知の上で敢えて言うならば、彼らの思想は、ほとんどあらゆる文化に見られる「神秘主義」という思想群に共通する論理を提示しているのである。

パルメニデスの論理に、こうした異文化間の対話可能性を開くものを見て取ろうとする試みは、世界的に見てもまだまだ少ない。他方、エックハルトは、その再発見の時期から既にそうした解釈の方向を刺激し続けてきた。とはいえそうしたエックハルトの思想に、極めて深い論理性を見て取った研究はほとんどない。日本の代表的なエックハルト研究者達、つまり西谷や上田の研究をみても、エックハルト思想のもつ論理性にはほとんど注目していない。だが、エックハルトはパルメニデスの論理を引き継いだ極めて数少ない西洋の思想家なのである。そこに注目しない、ということは、異文化間の対話という、より大きな問題設定からしても極めて大きな損失であるだろう。

さらに本論が問題としてきた「主語と述語」という枠組みは、西田哲学においても決定的な役割を果たしている。西洋が「主語となって述語とはならない」という実体の方向に目を向けたのに対して、西田は「述語となって主語とならない」もの、つまり「場所」に注目したのである。こうした問題の枠組みから見た場合、私たちが考察してきたパルメニデスの「存在」は、極めてユニークな位置を占めるだろう。というのも彼は、「主語‐述語」という枠組みそのものを拒否するようなレベルで「存在」を捉えているからである。もちろん言葉遣いをテクニカルに組み替えれば、パルメニデスの「存在」を西田の「場所」と重ね合わせて考えることも可能になるだろう。しかし両者の間にはやはり決定的な違いがある。というのもパルメニデスにおいては、「主語なき存在」と「私たちが普通に存在すると思っている世界」の間を橋渡しするものがないのに対して、西田の場合は、それらが――「場所」と「絶対無の場所」の間に非連続の連続があると言われるにせよ――ひとつの体系内で語られているからである。西田には、西洋形而上学に端を発する今日の知識体系を基礎づけようという意志がある。他方、パルメニデスは、それを「死すべき者の思惑に過ぎない」という言葉で切って捨てる(ニーチェでいえば「生きるために必要な誤謬」)。こうした問題設定において、西田(そして西洋形而上学)とパルメニデス、この両者のどちらに 理があるのかを判断することは、今の私の能力をはるかに越えている。しかし本論が提示したパルメニデス理解が正しければ、彼の主張から目をそらすことは最早許されない。私たちは、プラトンが自ら「父殺し」と呼んだ「パルメニデスの封印」時代に舞い戻ってはならない。「西洋形而上学の解体」と同時に「異文化間の対話可能性」ということが叫ばれる今日、西洋形而上学を内側から食い破ったパルメニデスやエックハルトの主張に向き合うことは、必ずしも無益なことではないように思われる。

  1. プラトンからの引用は、バーネット編集のOCT版からである。なお引用の際は、幾つかの訳語の選定を除いては、概ね岩波版プラトン全集の藤沢訳にしたがった。
  2. パルメニデスからの引用は、H.Diels & W.Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker Band I, 6. Auflage, Berlin, 1951.(以下DKと略)からである。引用の際に基本とした邦訳は、『ソクラテス以前哲学者断片集2』岩波書店、一九九七年、所収の藤沢・内山訳であるが、訳語の選定など、すべてがこの邦訳の通りというわけではない。
  3. 拙論「存在の風景」『宗教哲学研究』第一九号、二〇〇二年、並びに拙論「パルメニデスと形而上学」『マラナタ』第一〇号、二〇〇二年、を参照。
  4. エックハルトとパルメニデスに見られる思想上の親縁性については、拙論「存在と神」『マラナタ』第一一号、二〇〇三年、を参照。
  5. 事実エックハルトは、「神」という表現の代わりに「存在」という表現を用いて終始議論を展開しようとしたことがある。彼は、「神は存在である」と言うだけでなく、「存在は神である」というテーゼを主張したのである。この点に関しては、前掲拙論「存在と神」を参照。
  6. 「言語の限界が私の世界の限界」だといって、このことに反論する者もいるだろうが、私がここで言っているのは、「文法や語彙の限界が、ただちに『思考全般』の限界であるとは言えない」ということである。
  7. Vgl. Martin Heidegger/Karl Jaspers, Briefwechsel 1920-1963. Hrsg.v. W. Biemel und H. Sahner. Frankfurt a.M. 1990. S.181f.なお、こうしたエックハルトとハイデッガーに見られる親縁性については、拙論「別の思惟」『宗教哲学研究』第一七号、二〇〇〇年、を参照。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp