6th Meeting / 第6回研究会

 

出会いにおける<自己発見> ――仏教における「諸宗教の教学」(試論)―― (発表要旨)

高田信良 (龍谷大学教授)


1.

シュベーベル教授の論考「信仰に由来する寛容」に接する機会を得た。それへのひとつのレスポンスとして、仏教(的世界にいる者)にとっての「対話的探求の論理」追求という観点から、《仏教における「諸宗教の教学」》について愚考する。

「信仰に由来する寛容」が関心事となるところでは、《自己と他者との関係》のことがらとしての「寛容」と宗教的文脈に生きる(生きている)という「信仰」とが不可分的な仕方で問われている。現代の宗教多元的世界における《不寛容な現実》のなかへ投げ込まれている宗教者が、「寛容」(他者との関係)と「信仰」(自身の宗教のあり方)とを同時に問うている。

「信仰に由来する寛容」が問いとなっている《啓示の宗教》との出会いのなかで、「転迷開悟」を関心事とする仏教(的世界)に生きる者が、自宗教を《覚の宗教》として「発見」する。「転迷開悟」における根本的な論理は「転ずる」ということがらである。「転ずる」という事態は《仏法に照らされて自身の姿を知る》ことに他ならない。浄土門仏教の文脈においては、《末法濁世の凡夫にとっての、阿弥陀仏の本願との出遇い》に他ならない。それは、浄土門仏教のなかに生きている者が、自宗教を《覚の宗教》、とりわけ、《末法観に立つ信仰》として<発見>することに他ならない。

宗教多元状況のなかで、さまざまな<他者>に遭遇する。他者を<発見>することにおいて自己自身を<発見>する。自宗教を《覚の宗教》として、また、とりわけ、《末法観に立つ信》として<自己発見>するということが、<対話的探求の論理の構築>へのひとつの可能性ではないだろうか。

2.《他宗教》理解におけるパラドックス

《宗教多元状況》において、自宗教を《諸宗教》の内に見い出し、《他宗教との出会い》の経験のなかから自宗教のアイデンティティを思索する営為を「諸宗教の教学(神学)」と理解する。《他宗教との出会い》を思索しようとする関心、「宗教[間]対話」ということがらにはパラドックスが存在する。《他宗教を理解する》という課題を前にして、ひとは、きわめて懐疑的になる。宗教的真実(の理解)の有り様が相互に異なるところで、はたして、《他宗教》を理解するということが可能だろうか、と。しかしながら、他宗教が自宗教とは根本的に異なる、ということ真に理解されたとき、実は、相互の理解が成立している、つまり、《対話が成立している》のである。宗教対話は、対立点を巡っての交渉において、なんらかの妥協点を見いだす試みではなく、むしろ、自他の差異に対する根本的な相互承認に他ならない。

また、「宗教[間]対話」に関心を持つ人にとっては、自身が宗教者であること、自身が自宗教の内にあること、また、自身は自宗教を理解している、とのことが前提されている。他宗教に生きる人も、同じく、その人にとっての自宗教を理解している、と前提されている。しかしながら、《他宗教との出会い》のなかで自他の宗教が見つめられるとき、他宗教についての新たな知識が得られるだけではなく、自宗教についての(それまでの)自己理解が修正されるのではないだろうか。むしろ、他宗教のみならず、自宗教についても、《新たな》(それまでには自覚されていなかったような)理解が生まれてくる可能性があるのではないだろうか。

3.「諸宗教の教学(神学)」――《啓示の宗教》と《覚の宗教》、《末法観》と《終末論》

3-1.《啓示のショック》――cf.「非有のショック」(Tillich)

報告者(高田)にとって所与の宗教は仏教(浄土門仏教、とりわけ、親鸞の流れとしての浄土真宗)である。いつしか、関心を持つようになった《他の宗教》は、「キリスト教」であった。そして、「仏教とキリスト教」が関心事となるところで、両者が《覚の宗教》と《啓示の宗教》としての差異性が《発見》されていった。さらに、「キリスト教」に関して、《ヨーロッパ・キリスト教》(存在神論ontotheologyという形而上学を有し、西欧文化としてあるようなキリスト教)と、《宗教としてのキリスト教》との差異(キリスト教という宗教の持つ多面性)が《発見》される。「ヨーロッパ・キリスト教徒」にとって「東洋の宗教、仏教」のなかに見る「非有」が衝撃的な事態であるという証言(P.ティリッヒ、H.ヴァルデンフェルス)に対応する表現をすれば、《啓示の宗教》――アブラハムへの啓示、モーセへの啓示、ムハンマドへの啓示――との出会いは《啓示のショック》に他ならない。

神が人間に啓示をしてくる。その啓示に応答するところに自身の人生を見いだす。そこには、啓示してくる存在が創造主であり、自身(人間)および自身がその内にいるところ(世界)が被造物として理解される。「我と汝、我とそれ(Ich-Du、Ich-Es)」関係として「神・人間・世界」の構造があり、そのような《歴史世界における神との出会い》において生きることが「信仰」に他ならないという宗教は、仏陀(覚者)に成ることが究極の理想である仏教、《覚の宗教》である仏教(徒)にとっては、まさに、《見経験の、見知らぬ、他なる事態》に他ならない。そのような出会いを《啓示のショック》と表現することができるだろう。

3-2.《終末論に立つ信仰》と《末法観に立つ信仰》

さらには、「我と汝、我とそれ」を根元語とする《啓示の宗教》の世界にあって、メシア(救い主christos)を「イエス(言行)」において告白する「キリスト」信仰の《独自性》が登場してきた(キリスト教が成立した)。この「メシア/キリスト」信仰に関しては、ユダヤ教とキリスト教との差異性が存在し、また、それは、(アブラハムを信仰の父とする《啓示の宗教》のなかでは最後に成立した)イスラームからのユダヤ教理解、キリスト教理解とも関係しているが、それらは《啓示の宗教》における《内》の問題であって、《外》の者には直接の関心事となってこない。

《啓示の宗教》のなかで、キリスト教に関しては、まさに、その「キリスト」信仰の要素が、非信者にとっては、いわば、《謎》に見えるものである。ナザレのイエスが何か《新たなこと》を語っているところに根本的な事態が存在するのであるが、いったい、そこには何があるのか。それこそ、キリスト教徒が求め続け、語り論じ続けているものである。そのような「キリスト」信仰における一つの要素、つまり、「終末eschaton」が(筆者にとっては)注目すべきものとなってきた。それは、大乗仏教、特に、聖道門・浄土門が判別されるところで選び取られる「信」(末法観に立つ信)、さらに、そのなかで、さらなる独自な仕方で「信」(行信)を語る《親鸞の教え、浄土真宗》との間で、それぞれの独自性(特異性)の依拠しているところ(いわば、《謎》の出所)に、類似性が看取されてくる。

3-3.自宗教の《発見》――「転ず」

仏教は「転迷開悟」の真理を教える。そこにおいて働く論理は「転ずる」ということがらである。「十牛図」「二河白道の譬喩」(図)において、基本的に《おなじ》ことがらが語られている(同時に、explizitな表現で、相違する箇所がある)。ここでは、浄土門仏教の文脈において見ておきたい。伝統的に、「二種深信」(機の深信、法の深信)として語られているが、《末法において、真実を説く経典に出遇い、仏法に照らされて自己を知る》ということで、《末法観に立つ信仰》は、《時と機と法》「深信」として《発見》される。

親鸞『唯信鈔文意』(真宗聖教全書二、p623)
また「自」はおのづからといふ、おのづからといふは自然といふ、自然といふはしからしむといふ、しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切の罪を善に転じかへすといふなり。転ずといふは、つみをけしうしなはずして善になすなり。よろづのみづ大海にいればすなはちうしほとなるがごとし。弥陀の願力をしんずるがゆへに如来の功徳をえしむるがゆへにしからしむといふ。はじめて功徳をえんとはからはざれば自然といふなり。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp