7th Meeting / 第7回研究会

 

異文化理解(翻訳)の可能性

藤田 正勝 (日本哲学史教授)

考察の手がかりにしたいのは、井筒俊彦氏の「文化と言語アラヤ識――異文化間対話の可能性をめぐって」という論文である。井筒氏は、日本におけるイスラム学を確立した人として知られるが、この論文では、その副題が示すように、「異文化間の対話の可能性」ということをめぐって考察がなされている。

井筒氏がこの論文でまず出しているテーゼは、「異文化間の対話の可能性」ということが、すぐれて現代的な問題であるというテーゼである。なぜ「すぐれて現代的」なのか、そのことがまず問われるが、それはおそらく、われわれが「グローバル化」の、言いかえれば「地球社会化」の時代に生きているというということに関わっていると思われる。

われわれの社会の「グローバル化」ということを押し進める原動力になったのは、言うまでもなく「科学技術」であるが、それによって、われわれが持っていた空間的・時間的隔たりは、飛行機などの交通手段によって、あるいはインター・ネットなどの通信手段によってますます小さいものになってきた。文化的な隔たりも同様である。スピルバーグの映画や、マクドナルドに代表されるアメリカの食文化は世界を征服し尽くしたかのような感がある。言語の領域でもそういう現象を見ることができる。コンピュータやインターネットといった言葉は世界中で使われている。われわれの文化は、均一化、あるいは画一化の方向に向かって確実に動いているように思われる。

そういう時代状況と関わりがあると思うが、記号論の領域で「文化的普遍者」(cultural universals)という言葉がよく使われるようになったことに井筒氏は注目している。われわれのものの見方や感じ方、価値観、あるいは行動の仕方には、われわれが属する文化によって、それぞれに特徴的な型というものがある。ルース・ベネディクトが『菊と刀』のなかで区別した「恥の文化」と「罪の文化」というのも、その一例になるかと思う。そういう文化パラダイムが、「地球社会化」とともに画一化し、地球規模で共有されるようになってきたということを先ほど述べたが、そのような仕方で共有される一様化した文化の型が「文化的普遍者」である。

この文化の一様化によって異文化間の対話の困難さは克服されたというように考える人々が出てきている。異文化間の対話ということは、その前提として翻訳を必要とするが、この翻訳ということも――それに携わった人はよく御存知のように――決して容易ではなく、多くの困難を伴う。しかし、その困難についても、その問題は基本的には克服されつつある、あるいは少なくとも近い未来に克服されるであろうと考える人々がいる。

しかし井筒氏は、そういう状況に置かれているにもかかわらず、あるいはむしろ、そういう状況に置かれているからこそ、逆に「異文化間の対話、あるいは翻訳が可能なのか」という問いが、より先鋭に浮かび上がってきている、というように考えている。この逆説性、つまり、文化の一様化が進行しているにも拘わらず、「異文化間の対話が可能か」という問題がより先鋭な形で浮かび上がってきているということについて、まず考えてみたい。

井筒氏は、基本的には、言語というものをその表層においてだけではなく、その基底――それを氏は唯識の「アラヤ識」という概念をふまえて「言語アラヤ識」と表現する――まで含めて考えれば、異なった文化のあいだでどこまで相互理解が可能なのか、あるいは、そもそも相互理解というようなことが可能なのか、大いに疑問としなければならない、と考えているように思われる。  もちろん、文化と文化との接触には多くの摩擦や軋轢が生じる。しかし、それにも拘わらず、異なった文化間で互いを理解しあうということは可能なのではないか、文化間の摩擦や衝突が、逆に創造的なものにつながっていく可能性が考えられるのではないか、つつまり、摩擦や衝突によって、自らのものを見る見方の一面性が明らかになり、そのことを通してわれわれの知的地平が拡張されるのではないか、そのような点について考察を加えたい。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp