8th Meeting / 第8回研究会

 

対話の可能性と不可能性――ハイデッガー『ある日本人との対話』を出発点として

小林 信之 (京都市立芸術大学助教授)


そもそも「対話」とはなにか、また一般に「対話」がどういう状況において成立するのかを突き詰めて考えてみると、クオリアの例をあげるまでもなく、他者とわたしとのあいだ、あるいは昨日のわたしと現在のわたしとのあいだには、すでに越えがたい断絶があることに気づく。しかし通常そのことは意識されず、わたしたちの日常においては、有意味的な活動性の圏域を形づくるかぎりにおいて、コミュニケーションと相互理解が成立していると想定されている。

しかしそれとは別の次元で生起するコミュニケーションもありうる。それは、いわば相互理解の不可能性を顕在化させる対話である。たとえば、いま現在わたしの感じている「痛み」の質そのものはけっして他者に伝ええないとしても、痛みをかかえているという自己のあり方それ自体を、ある特殊な言葉を媒介させて表現しようとする場合。それは、ある意味でわたしたち自身のもっとも固有な存在にかかわる次元の言葉であり、具体的にいえば、一回的な経験の固有性と切り離すことのできない詩や文学の言葉、または存在へのラジカルな問いを投げかける思索の言葉である。そのような言葉に揺り動かされてわたしたちは、他者とわたしたちを隔てる本来の断絶を知るのであり、それでもなお言葉を発せざるをえない必然性に思いいたるのである。わたしたちは、日々無数の会話をくりかえしながら、にもかかわらず同時に、狎れあった日常性の領域を一歩踏み出そうとした途端に対話が対話として生起することの挫折を日々経験せねばならない。

ところでこの場合、対話というテーマが、個人のレベルを超えて、異質な言語、異質な文化のあいだの対話、たとえば思想の解釈や翻訳といった問題にひろがる場合であっても、基本的には同じであると考えられる。そしてハイデッガーがおこなった「ある日本人との対話」(M. Heidegger, „Aus einem Gespräch von der Sprache, Zwischen einem Japaner und einem Fragenden“(1953/54), in: Unterwegs zur Sprache, GA 12.)を今日わたしたちが読み返すとき、まさに以上のような問題に対するハイデッガーなりの応答がそこに提示されていることに気づく。

ハイデッガーはこの論文で、異質な文化的由来に属する、異質な言語間の対話を、思索の次元においてはネガティヴに規定し、たとえば東アジア固有の思考を西欧的・形而上学的な概念体系で解釈することの危険性を指摘する。

だがそれならば、なぜハイデッガーはひとりの日本人との思想的対話をおこなおうとするのか。この会話が必要とされる必然性とはいかなるものなのだろうか。ふたつの異なった存在のあいだにそもそも対話が成立するためには、その対話の根底に、なにか共通のものがなければならないであろう。けれどもそれは、ハイデッガーによれば、近代的・技術的・西欧的思考様式が今日他の諸文化を支配し平板化していくという仕方で、強制的に生ぜしめられるような共通性であってはならない。だとすればハイデッガーは、この対話そのものを可能にしている共通の根源的根拠をどのようなものと考えているのだろうか。この点についてかれはただ示唆的にこう言うだけである。「対話のあり方は、唯一語ることをなしうると思われる者、すなわち人間が、いかなるものから語りかけられているかによって、その性格を規定されるのだ」と。この、人間に語りかけるものとは、存在の家として、わたしたち人間の現存在を根底において規定している言葉それ自身にほかならない。日本人との思想的対話においてハイデッガーは、かれが言葉の本質として考えようとしている事柄が、東アジアの言葉の本質にあっても適合するのかどうかを問題にする。ハイデッガーは、西欧的な言(Sagen)と東アジア的な言とが対話をかわし、両者がその源泉においてともに歌いだすことを可能にするような、共通の言葉の本質が、はたして経験されうるのだろうか、と問いかけるのである。

だから、言葉の本質への問いだけが、対話の内容をなすことができるのであり、また対話を推し進め、異なった思考様式と世界内存在とを近寄せることができる。そしてその後ではじめて、さまざまな思想的な基礎概念を異なった言語で解釈し翻訳するといった可能性も生じてくるであろう。

ハイデッガーは、異なった由来のあいだの対話を根底において支配している言葉の共通の根源を問う。そして具体的に、「言葉」という日本語とドイツ語の Sage との「近さ」を暗示し、断絶をへだてた両者の照応を見いだそうとする。じっさいハイデッガーが1930年代以降「放下」や「物」といった論文で展開してきた思想の傾向は、かれが知っていたかぎりでの東アジア的思考との類縁性を示しているということができる。なるほど、この「言葉についての対話から」という論文でも、明らかな誤解や日本語に関するあまりにおおざっぱな理解を示しているような箇所が散見される。しかしハイデッガーは、かれなりの仕方で、日本語に蔵された思考様式が、西欧とは別の世界内存在の有り方を提示しうることを示唆している。日本語にむけられたハイデッガーのまなざしは、字面の単なる解釈や翻訳を越えて、ふたつの文化のあいだで成り立ちうる対話の可能性を凝視しており、この意味において、他なる文化へのかれの関わり方は、技術によって一面的に支配され、またいわゆるグローバル化によって均質化された現代世界なかで、それに抗しつつインターカルチュラルな対話をかわす可能性を暗示しているといえよう。

京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp