Newsletter vol.11 (2004.8.20)

  1. 第12回研究会報告
  2. 今後の予定

第12回研究会報告

2004年 7月 19日(月) 13:30 〜 17:00 COE研究室にて
発表: 山梨 有希子(南山宗教文化研究所研究員)「対話論の対話─宗教間対話と公共哲学」
    宮原 勇(愛知県立大学外国語学部教授)「コミュニケーションにおける相互人格的承認」


対話論の対話─宗教間対話と公共哲学

山梨 有希子

0. はじめに

これまでの宗教間対話は、まず宗教があっての対話であった。しかし、現在の宗教間対話およびそれをとりまく情勢を観察すれば、宗教間対話は従来の教理・教義をめぐる対話であるよりも、平和問題をはじめとして、環境倫理・生命倫理などの人類が直面する諸課題にたいして、いかに宗教や宗教間対話が貢献できるかが議論される傾向が強くなっている。

しかし、それらのいわば「公共的」問題にたいし、宗教間対話の出す解答はあくまで「宗教間にむけて」にとどまってしまう。つまり、宗教は「答え」を出せていないのである。この現状をどう打破していくか。

そこでは、近年叫ばれ始めた「公共哲学」が資するところ大である。そうすれば、諸宗教間の対話から、宗教を超えて、信仰を持たない人々をも包括する仕方で宗教間対話を活かすことができるのではないか。「公共哲学」「公共性」と結びつけるとき、そこには宗教間対話の新しい展開がもたらされるであろう。

現在の宗教間対話には閉塞感も感じられるうえに、さまざまな問題が指摘されてもいる。「宗教間対話論と公共哲学の対話」は、こうした行き詰まりの感がある宗教間対話に新たな頁を開くことになるだろう。

1. 宗教間対話の現状

  1.1海外の宗教間対話

海外でおこなわれる対話のほとんどが、キリスト教・ユダヤ教・イスラームの間でのものである。そして、それはまさに宗教間「対話」いう形態をとる。たとえば、1995年9月におこなわれたユダヤ教とキリスト教の対話では、ユダヤの過ぎ越しの祭りや最後の晩餐について語り合われ、1997年6月のイスラームとキリスト教の対話では、互いが互いをどう見、語ってきたかがテーマになっている。とくにユダヤ教とキリスト教、キリスト教とイスラームの間には歴史的に根深い対立があることから、その克服の試みとして互いの教理の読み直しをおこない、対立が教理によるものではないことを確認していくような地道な対話が積み重ねられている。

  1.2日本の諸宗教における宗教間対話・協力

日本の諸宗教の関係を特徴づけるのは、「平和」運動での「協力」ということができる。

戦後日本の諸宗教の平和運動を主に担ったのは「日本宗教者平和協議会」と「WCRP」であった。

1970年に設立されたWCRP(世界宗教者平和会議)は、仏教、キリスト教、イスラーム、ヒンドゥ教、ユダヤ教、儒教、神道、シク教、ゾロアスター教などといった世界中の宗教からの指導者が参加する世界最大規模の宗教間対話組織である。1970 年11月に京都で第一回WCRP大会が開催されてから、5年毎に世界大会をおこなっており、2006年には日本で第八回大会が開催されることが決定している。

とりわけWCRP日本委員会の活動は活発であり、1998年10月のボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争における宗教間の和解に寄与するなど、実際の功績も積み重ねているほか、「平和大学講座」や「平和のための宗教者研究集会」を毎年開催するなど、「平和」をキーワードに「対話」「協力」を精力的におこなっている。

以上のようにみてくると宗教間対話・協力は何の問題もなく、とりおこなわれているかのように感じられるだろう。しかし、現場にたつ宗教者たちにひろく共有されているのは「閉塞感」である。

  1.3対話の行き詰まり

海外の宗教間対話の従事者たちは「何度となく宗教間の会議・集会・出会いの場などを開いてきたが、それは政治的、社会的そして経済の場においてどれくらいの影響力を持つことができたのだろうかということについて確信をもてなくなって」きているという現実がある。2002年7月のセミナーでは「妥当で効力のある宗教間対話でありたければ、純粋に宗教的問題だけを扱うのではなく、社会における経済的、政治的側面を考慮にいれるべきだ」との文言もみられる。宗教間の対話は重ねてきた。しかし、それがなにをもたらしたというのかという疑問が宗教者たちの心にわきおこりつつある。宗教間「対話」を行なう者は、その意義が「宗教間」に限定されることに疑問を感じているのである。

地球的平和や環境・生命倫理などの分野で、宗教がその価値観をもってあるべき人間の姿、実践のあり方を示すことが求められている今、この宗教間対話の現状は社会にとっても宗教にとっても不幸なことといわざるをえない。

宗教・宗教間対話と公共的空間とを結びつける理論が必要とされているといえるだろう。

2.公共哲学としての宗教間対話論――「平和」をめぐる試論――

  2.1 宗教的「平和」と公共的「平和」

イスラーム学者の板垣は「宗教間対話」をさしてこう述べている。「宗教間の平和そのものに意義を見出そうとする動きもある。文明の衝突論の素朴な適用として、人間同士の争いは、こころに起因するから、宗教間の和解と協調、宗教的寛容こそ紛争の解決・回避の鍵だという考え方である。世界の主要な諸宗教の代表者が相寄って語り合い、ともに祈る集会が日本を含め世界各地で開かれているが、それは文明間対話の全面的推進に参与しようとする動きなのだろうか。それとも宗教間平和に自己完結する動きなのだろうか。」

「宗教多元主義」がめざす「宗教」の共生はどの次元で実現されるものなのだろうか。宗教協力で目指される「平和」はどこで実現するのだろうか。それはまさに板垣が述べるように「宗教間平和」に「自己完結」してしまう結果につながっているのではなかろうか。

そこで、宗教間対話が公共世界へ開かれたものになる可能性を公共哲学とのつながりで考えてみよう。

  2.2「平和」の公共的価値理念形成への貢献

日本の公共哲学をリードする千葉大学の政治哲学者、小林はこう述べる。「平和主義に確固たる思想的基礎を与える必要がある」と。それを構築するのが日本の公共哲学が有する一つのおおきな存在意義である。

宗教、宗教間対話はこの「平和」という価値理念形成に寄与し、その理念形成の対話に参加することによって公共哲学の一翼を担うことができるのではないだろうか。心主義の平和は「宗教」にしか平和をもたらさない。また、それは平和を築く価値理念ともなりえない。

では、どのような形で宗教、宗教間対話を公共哲学の場でいかすことができるだろうか。

平和とはなにか、つきつめればどういう理念か、実現するにはどうすべきか、その考えの下それをおこなったらどんな帰結がもたらされるのか。「平和」という公共的価値理念を形成するために、「宗教」としての共通理解をつくりあげるための「宗教間」での対話がまず必要となろう。その場合、諸宗教の「間」には公共的空間が形成されなければならない。つまり、複数性が保持された、「意見」が語られる場である。共通世界をめぐる言説の空間としての公共性からは絶対的な真理は排されている。「意見」は意見と意見が交換されるプロセスの中でより妥当なものに形成されていくであろう。

その「平和」理念は、宗教にとっての他者との「間」につむぎだされる空間における対話を経、さらなる他者の視野を得て妥当性をましていくはずである。今後、諸宗教はその公共的空間を広め、他宗教のみならず、信仰を持たない人々との間でも対話をしていくことが求められる。

また、小林は公共哲学における「平和」の思想的基礎構築は次のような形態をとるべきだという。それは平和という理想を追求しつつも夢想や観念論におちいることなくリアルに現実をとらえ、その中で平和の実現を図っていくという「理想主義的現実主義」ないし「現実主義的理想主義」という形である。

公共哲学は「社会の現状(「ある」)のリアルな分析と、望ましい(「あるべき」)社会の理想像の追求と、その理想の実現可能性(「できる」)の探索という三つのレベルを区別しながらも切り離さず総合的に論考する」という方法をとるのであった。宗教は平和という価値理念に確固とした思想的基礎を与える(「あるべき」)のみならず、これまでの平和活動を通じて得た現実主義的視点(「できる」)もあわせもっている。この意味で、宗教間対話は「公共善(価値理念)としての平和を目指す公共哲学」において重要な存在意義をもつことは間違いなく、また、宗教には「宗教の公共空間」からさらなる広い公共空間へ踏み出していくことが今後期待される。



対話論の対話─宗教間対話と公共哲学

山梨 有希子

1.伝達可能性の条件としての「意味の理念的同一性」

フッサールの言語論では、言語表現の「意味」は理念的対象と同様の同一性をもつとされている。それはそのつどの言語表現の理解が生じている際に、同一表現であれば同一の意味が確保されているはずだ、という想定の上に成り立っていると言える。つまり、コミュニケーションが十全に遂行されるということは、まずは同一表現が同一の意味で理解されて初めて可能となる。フッサールが「意味の理念的同一性」ということで言おうとしたことは、現実のコミュニケーションにおいて常に意味の同一性が確保されていると言うことではなく、もしコミュニケーションが十全に遂行されるならば、その可能性の条件として各表現の意味の同一性が確保されていなければならないというものだ。ということは、逆に言えば、各言語表現の同一性は、コミュニケーションによって確かめられるというものではない。先行的な条件である限り、事後的にその同一性が確証されるものではない。このように言語コミュニケーションの可能性の制約として要請される意味の同一性とは、厳密なる同一性を意味し、その同一性を体現する「意味」とは理念的な存在として措定されることになる。このような論理は、フッサールにおいてのみならず、フレーゲにおいても見いだされるものである。そのような理念的存在は、現実の個別的な物理的存在者や意識の内在的領域を構成する個々の具体的な意識の働きや具体的意識内実とも違った存在形態を持つものである。フレーゲにおいても、フッサールにおいてもそれは<コミュニケーション可能性の条件>として要請されたものが、ある意味で実体化されたものといえよう。そもそも、厳密なる同一性を要請するという論理は、その同一性を体現する存在者の実体化につながる。

2.「コード」神話の崩壊

しかし、コミュニケーションの具体的遂行以前にその遂行を可能にする条件として意味の同一性がなければならない、という論理自体を反省してみると、果たしてコミュニケーション以前に厳密なる同一性を担う<意味>という存在を認めることはできるのか、という問題が出てくる。

Sperber&Wilsonの『関連性理論』が出てきて以来、記号論で言う「コード」なる存在に対して疑問が提示されてきた。「コード」というのは、まさにフッサールで言う<厳密なる同一性を有する理念的存在>にあたる。つまり、伝達可能性を保証する働きがあるのであり、その点ではコードなのである。「コード」(code)の特徴は、記号論で言えば、記号発信者と記号受信者間においてあらかじめ同一なものとして設定されているものだ。つまり、ポイントは、「同一性」があり、「時前性」があるということだ。<理念的同一性>を担う「意味」も同じだ。ということは、そのようなコードの存在を否定する「関連性理論」が展開する論理に対してどのように対処するかを考えておかねばならない。どうするのか。「関連性理論」によれば、対話者同士、相手が何について話しているかを想定しながら対話しているのであり、もともと二人の人間が同じ表現に対して同一の意味を込めて話をしている、ということはそう簡単には考えられないのだ。ただ、相手がその表現に対してどのような意味を込めているかという想定をおこなっているにすぎない。それは、しかし同時にあいてもそのような想定をおこなっているのではないかという想定をおこなうのだ。つまり、そのような想定は自分自身の方に戻ってくる想定である。それを「相互反照的想定」と呼ぶことができるだろう。意味の同一性は、そのような相互反照的想定により、互いに意味の齟齬を修正していくというプロセスの中で確保されていくのである。それはちょうど、二人でオールを片方ずつ持ち、ボートを漕ぐようなものだ。意味の同一性は、そのような共同行為の帰結なのだ。

3.志向性の等根源的主体としての承認

さて、次に志向性とは単に<対象についての認識一般>を表すのではなく、その本質には<他の志向的システムを自らと等根源的システムとして認識しうる>という働きが属している、というテーゼを主張したい。つまり、これは「志向性」、ないしは「志向的システム」の「再帰的」(recursive)な定義である。他のものが自分と同じように意識を持ち、場合によっては心を持っているという想定をなし、そのように関わることができるというものだ。このように関わりを「志向的態度」と呼ぶと、志向性とは他のものに対して志向的態度をとりうる存在を言う。これはもう一つの循環的定義になっている。しかし、単なる循環論法ではなく、定義の内部に自らを組み入れる定義として考えたい。そうなると、志向性自体に「相互性」、さらには「相互反照的承認」が本質的に属していることになる。そうなると、志向性の意味内容がかなり限定されることになるが、われわれ人間にとって外界の様々な対象に関する認識をおこなうということと他の人間を自らと同じ認識主観として認識することとは次元が違うことなのではないだろうか。他のものを自らと同じ認識主観として認識するということは、そこから視点を共有し、共通の認識視線を生みだし、その都度の認識から生じた知識を共有するということも可能となる。つまり、コミュニケーションによる知識の伝達の以前に、「協同的視点」の生成があるのであり、それは「共同志向性」の成立といってもよい。そのような他者への関わりがあって、具体的知識の伝達が可能となるといってよい。

4.志向性独自の合理性とは

われわれが他の存在者に対して志向的態度(スタンス)をとる場合には、なにを手がかりにするのだろうか。ごく自然主義的に自分と姿形が似ているから、という場合もあろう。しかし、姿を現さなくとも声だけで判断することもある。また、ロボットのようなものに対しても、あるいは犬や猫に対しても全く人間と同様の接し方をする人もいる。こう見ると手がかりなどは一切不要のように思える。

それでは、逆に志向的スタンスでは通用しなくなる場合とは何かを考えたらどうか。その存在者なり、システムなりが志向的スタンスでは理解できなくなる場合はどうかということだ。すくなくとも、「理解」することができなければならない。つまり、自己と等根源的主体の場合は、一定の理解可能性ということが求められる。因果的な仕組みとして「理解」することもあるので、理解可能性ということを広義にとると、「志向性」とは無関係になっていく。そこで、志向的システムはそれ独自の合理性を有すると判断された場合のみ、志向的主体として意識や心が帰属させられるのである。その合理性とは志向的主体の振る舞いに関わる限り、まさに「主体性」を表現するものでなければならない。それは、もう既に「意志」的に色彩を帯びているはずだ。それは、そのシステムが意図性をもち、かつ判断をしているという特徴、つまりそのシステム内部で「判断」をおこなっているかのような振る舞いが必要だ。つまり、サーモスタットのように一定の条件下におかれると同一の反応をすると言うことであれば、われわれはそれが心や意識を持っているとは考えない。つまり、機能的な合理性と志向的合理性とは根本的に違う。意図性、選択性がなければ、主体性は出てこない。単に機能的合理性や合目的合理性だけでは、予測可能となってしまう。実は、自らと同じ主体であるということは、自らの予測により全てが理解されてしまっていては「等根源的」とは言えない。予測不可能な独自の振る舞いがなければならない。予測不可能なのだが、いったんある振る舞いが成された場合には、それはそれで一定の理屈付けが可能な場合、より人間らしい振る舞いとみなされる。事後的な解釈が全く不可能な場合には、ノーマルな志向性を有してはいないということになる。

5.相互承認の形式的構造と実質的原理

以上が志向性に本質的に内在する、主体間の相互反照的承認の「形式的構造」とその論理であったが、もちろん実際のコミュニケーションにおいては「相互人格的承認」の実質的な原理としての<尊敬>が働いている。コミュニケーションが、当然のことながらそれも一つの相互行為である限り、一定の人格として承認することがなければならない。

「承認関係についていえることは、---中略---相互に出会う主体どうしが暴力に頼らず社会的な相手を一定の仕方で承認することを余儀なくされるということだけである。わたしが相互行為のパートナーとして承認しなければ、わたしは相手の反応のなかで自分が同じように一定の人格として承認されているのを見いだすことができない。なぜなら、わたしは、まさにわたしが相手に依って確証されたと感じるはずの性質と能力を、相手に対しては否認してしまうからである。」(アクセル・ホネット『承認をめぐる闘争』)

このようにホネットは、一時期のヘーゲルの理論を解説しながら承認関係の相互性を協調しているが、さらには社会的コンフリクトの原因は人間としての尊敬の「欠如」にあることを指摘している。ということは、相互行為の成立にはそれに関わる人間同士が互いにパートナーとして尊敬し合いということが不可欠であることを主張していることと同じなのである。

[5に関しては拙著『ディアロゴスの現象学』(1998)晃洋書房の第4章を参照のこと]



第13回研究会

日時:9月19日(日)13:30〜17:00
会場:COE研究室(京大文学部東館4階北東角)
発表:Jacynthe Tremblay(外国人共同研究者)
   「時間性と自己の時間化―─西田とアウグスチヌスとの対話――
   川口 茂雄(宗教学D3)
   「赦し、ほとんど狂気のように―─デリダの宗教哲学への一寄与――

◆ 今後も定期的に研究会を予定しておりますので、多くの方々のご参加をお待ちしております。

□研究会事務局□ 606−8501 京都市左京区吉田本町京都大学文学部
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