Newsletter vol.12 (2004.11.24)

  1. 第13回研究会報告
  2. ヴェトー教授講演会報告
  3. 今後の予定

第13回研究会報告

2004年 9月 19日(日) 13:30 〜 17:00 COE研究室にて
発表: 川口 茂雄(京都大学大学院文学研究科博士課程(宗教学))
     「赦し、ほとんど狂気のように ――デリダの宗教哲学への一寄与――」
    Jacynthe Tremblay(外国人共同研究者)
     「時間性と自己の時間化 ――西田とアウグスチヌスとの対話――」


赦し、ほとんど狂気のように ――デリダの宗教哲学への一寄与――

川口 茂雄

1999年のデリダの小著作『Le siècle et le pardon世紀[世俗]と赦し』(Paris, Seuil社)のうちに、"どのようにして赦すか/赦されるか"などといった話題を期待していた読者は、直ちに落胆させられることになるだろう。"赦しとは何か"という問いを立てることすらそこではいまだ自明のものとはなっていないからである。どう問われるべきか、どう問われうるか、"誰にとって"問われるのか、あるいは"何について"問われるのかすらも全く定かならないという事態こそが、この論述にとっての唯一与えられた場であるかのようである。そもそも、なぜことさらにいま"赦し"などということが問われる必要あるいは要求が生じてきているわけなのか。

「赦しpardon」は刑法の次元での事柄なのではない。それは、実際上はどう捉えられているにせよ、「恩赦」等と混同されるものではない。赦しは近年、とりわけこの十数年来、世界の至る所で、しかも様々な集団・単位において、しばしばそれらの代表者の名において、「請われ」ているように見える。その意味では赦しは「普遍化の途上にある」。しかしながら他方、そうした「赦しの劇場」の内実を担うものである言語活動(ランガージュ)は、「アブラハム的言語活動」として、「特定の宗教的伝統」の記憶を、ただし既に「法律の、政治の、経済の、あるいは外交のイディオムと化した」仕方において、再上演するものである。その意味では赦しは明確に特定の伝統に由来する特殊的な(言語)活動でしかない。「赦しの劇場」のこの捻れた根本事態は、例えば無論「アブラハムないしイブラヒム的記憶」、「一神教的伝統」には属さないとみられる「JaponあるいはCoréeの場合においてもそうなのである」。

なぜこのようなことが問題になるのか。それは、デリダの考えるところでは、「赦されえぬものl'impardonnable」がある、ということと、「mondialisation(グローバル化)」ということとは、無関係ではないからである。

赦しとはすべからく「不可能な赦し」でしかありえない、とデリダは言う。そして、それゆえに、「赦しはただ赦されえぬもののみを赦すLe pardon pardonne seulement l'impardonnable」のである。しかしこのような発言、自己破綻的命題は、一体どのような場から発せられているのか。それは、「赦されえぬものと共に始まったひとつの歴史」という場所においてである。この歴史が厳密にいつ自らをそのようなものとして示したのかということは明確に言われることはおそらくできないだろうが、しかしひとはそれを"現代"という時――第二次大戦をそのひとつの指標としてもよい――においてだとみなすことができようし、実は常に既にそうみなしているのかもしれない。それはいわば"ヨーロッパ"の歴史が、キリスト教=ヨーロッパ文化・文明の歴史そのものが、ヨーロッパの"外部"に対して、そしてまさにヨーロッパ自身にとって、「赦されえぬもの」として露呈したことだと言わなければならないのかもしれない。

赦しという語彙ないし概念に注意を馳せる事によって分節化されてくるこうした"歴史認識"は、近年の"デリダの倫理的転回"と呼ばれるものの一表出であり、またそれに尽きるということになるだろうか。あるいは、一例としては1995年のシラク大統領の発言によって初めて公の形でナチス占領下のユダヤ人迫害についてフランス国家がその罪を認めたことに見られるように、それは"フランス"が自らの過去(とりわけ植民地政策時代)の夥しい負債へと反省を深めていったという一般的な身振りの思想的一表出であり、またそうであるに尽きるのだろうか。おそらく、当面の文脈において、必ずしもそのように事柄を限定する必要はないと私には思われる。むしろ、1962年の最初の公刊著作『「幾何学の起源」序説』において、「ヨーロッパ的理性」の「危機」をめぐる後期フッサールの仕事についての批判的読解の試みを通じて、ヨーロッパ文化・文明の歴史、危機、その行き先に関するところのデリダの哲学的‐哲学史的思索は、既に口火を切られていたのであるから。

ハイデガー存在史という極めて重要かつ問題的なひとつの"ヨーロッパ観"を真正面から批判し、しかし或る意味では最も積極的にそれを継承する思想傾向のひとつでもあるデリダの哲学的試みは、よく知られているように、おそらくはレヴィ=ストロースやフーコーが捉えていたよりも一層、「西洋中心主義」の重さと逃れ難さをわきまえるものでもあった。そうした意味において"ヨーロッパの歴史"とその運命は、デリダの多種多彩な――時に過剰に饒舌な――テクスト群の各々において何らかの形で見出されうるひとつの要素的モティーフであると言わざるをえないだろう。そして、『Le siècle et le pardon』のデリダは、進行しつつある「赦し」の普遍化と特殊性との混合・浸透・拡大・希薄化の世界規模的運動のことを、その混合性をそのままに表現する語彙鋳造でもって、「mondialatinisation(グローバルラテン化)」として書き記す。換言すれば、それは「もはやキリスト教教会を必要としないキリスト教化の過程」(この表現は翌年のリクールの大著『記憶、歴史、忘却La mémoire, l'histoire, l'oubli』(Paris, Seuil社, 2000年)の中でも引用されることになる)に他ならない。

1992年の『死を与えるDonner la mort』以来際立ってきたデリダ哲学のこうした一つの深まりを、デリダの宗教哲学、あるいはデリダの宗教哲学と呼ぶことも可能であろう。21世紀という時代にあってその賭金の重さは推して余りある。本発表は、到底デリダ哲学全般についての網羅的考察とも、また当該の現実的な事柄に関する十全的な取組みともたりえないが、その意図するところは、さしあたってこの稀に見る哲学的深まりが描き出すところのひとつの輪郭を、つまり、いわば論理的思惟にとっても実践的思惟にとってもおそらくは昏がりと抵抗としてしか現出してこないような、「赦されえぬもの」をめぐる極めて困難で不確かな場の輪郭を、少しでも明瞭に捉え出してみるということにある。そしてまた、「mondialatinisation」と「不可能な赦し」との関わりをめぐってデリダが考えようとしている、ほとんど「夢」か「狂気folie」にすぎないような、しかし人間達が要請しないではいられないのかもしれないそうした或る次元をめぐって、何らかの(不‐)可能な方向性というものを少なくとも模索をしてみたいと思う。(無論、まさに「もはやキリスト教教会を必要としないキリスト教化の過程」が一見希薄にしかし確実に進行してきたところの日本列島、日本語文化圏において、そのような試みが何を意味しうるのかは決して自明ではないのだけれども。)


追記 : 本発表の約三週間後、ジャック・デリダの訃報が日本にも伝えられた。74歳。フランス現代思想の気概と水準を現在に伝える最後の人物達の一人として、その存在の大きさは失われてなお一層大きなものであったと感じられてくる。しかしエクリチュールの人たる彼ならばむしろそうした「現前の形而上学」を一笑に付すであろうか。哀悼の意を表するばかりである。



時間性と自己の時間化――西田とアウグスチヌスとの対話――

Jacynthe Tremblay(外国人共同研究者)

西田幾多郎の哲学は、西洋の哲学界においては「場所的論理」という名前で知られ始めている。場所的論理の重心となるのは場所の概念である。それゆえ、第一に、この概念のもつ多義性の全体を、とくにプラトンのそれと対照させながら把握することが重要である。それによって、この概念に西田の時間性についての考え方を接木することが可能になり、そうして、(1)この時間性の概念がいかにして展開されるか、(2)この概念がいかにして西田哲学の他のさまざまな重要テーマと関係づけられるか、を示すことが可能になる。以上の行程の全体にわたって、西田がアウグスティヌスとつねに関わっているということが、決定的な意味を持つ。

西田の諸論文を注意深く検討することによって、時間性についての彼の考察が経るさまざまな段階をはっきりと示すことができる。本小論において、私は何よりも先ず西田の論文自身に専念した。この結果、時間性についての西田の考え方と、そこに含まれるさまざまなテーマを引き出すことを可能にした。


プラトンの場合と同様に、西田にとって、「有るもの」または「実在的なるもの」は全て何かに於てある。ところで、全ての実在的なものは、さらに時間に於てある。場所としての時間から出発して、二つの方向に進むことが可能である。

第一の方向は、時間よりも包含的ではない諸々の場所へと向かうものであるが、そこでは、時間は実在の根本的形式として現れる。時間の内容であった実在は、今度は、自らの持つ多様な内容に対する「於てある場所」という地位を得る。

第二の方向は、時間性のより包含的な場所へと向かうものであるが、その起点となったのは、時間の直線的性格に関する問い直しである。その結果、時間はむしろ「現在が現在自身を限定する」ことから考えられるようになる。この表現は、現在が過去と未来の場所になると同時に、自己限定によって現在それ自身の場所となることを示すために用いられる。

ここから西田は、さらに決定的な一歩を踏み出し、より包含的なレヴェルへと視野を拡大している。すなわち、現在自身が新たな場所に於て、自己に於てあるというのである。事実、西田は現在と自己という二つの概念をきわめて密接に結びつける。その結果、ついには真の自己は現在の自己、現在として自らを限定する自己に他ならないことを導く。この文脈での意識統一の概念の検討は、もっぱら現在と自己の間のこうした関係を確認し、強化する。

この自己という焦点から、さらに時間性の超包含的なレベルへと向かうことにより、「永遠の今」という概念へと導かれる。それは、そこにおいて時間が回転する場所である。永遠性は、現在自体の深さとして現れることになる。実際、「現在の現在」である「今ここ」だけが実在的なのである。

こうして最後に登場したのが、絶対無という概念である。現在および永遠の今は、絶対無として自己自身を限定する。この段階で、自由人という概念が、現在の自己限定の極限である瞬間の概念と結びついて、あらためて導入されることになる。

以上の考察により、西田の時間性が場所の概念を中心とすること、これに含まれる諸要素がそれぞれ相互に関係していることを明らかにした。



ヴェトー教授講演会報告

シモーヌ・ヴェイユ研究とドイツ観念論研究とで知られるミクロス・ヴェトー氏(ポワティエ大学教授)を京都にお招きし、本研究会の主催で以下の二つの催しを行った。

  • 10月11日(月)、14時〜17時30分 於大谷大学博綜館5階 第二研究室 
       ヴェトー氏の著書La métaphysique religieuse de Simone Weil についての質問会
    (特定質問者:稲葉延子、加國尚志、柴田美々子、富原眞弓、長谷正當; 司会・通訳:杉村靖彦)
  • 10月12日(火)、14時45分〜17時45分 於京都大学時計台記念館、国際交流ホールI
       ヴェトー氏講演会 「シモーヌ・ヴェイユにおける善の欲望」(司会・通訳:杉村靖彦)

     以下に、二日目の講演の要旨を掲載する。


    シモーヌ・ヴェイユにおける善の欲望

    ミクロス・ヴェットー(ポワチエ大学教授)

    要約:今村純子(宗教学OD)

    前日大谷大学で行なわれた講演、ヴェットー氏の著書『シモーヌ・ヴェイユの宗教形而上学』(Miklos, VETÖ, La métaphysique religieuse de Simone Weil, Pairs, Vrin, 1971.)の第2章「欲望と注意」を中心に、2004年現在の氏の視点から、シモーヌ・ヴェイユを新たに読み直したものである。この講演において特徴的であるのは、1971年当時には刊行されていなかったシモーヌ・ヴェイユの若年期の草稿が収められている『シモーヌ・ヴェイユ全集第一巻-初期哲学論文集-』(Simone Weil, OEuvres complètes I, Premiers écrits philosophiques, Pairs, Gallimard,1988.)が縦横に用いられ、氏が強調するシモーヌ・ヴェイユにおけるカントとプラトンの影響、とりわけ両者の連関が先鋭化されることによって、「善の欲望」への狙いが正確に定められていることである。しかしながら、基本軸はすでに『シモーヌ・ヴェイユにおける宗教形而上学』において余すところなく語られており、40年の年月を経て、「自らの著作のうちでもっとも好きな著作であり、おそらくもっとも善い著作である」と氏自ら語った前書の質の高さを伺わせる。氏の力量はさることながら、同じく氏自身が語ったように、この本の誕生に、博士論文作成時の指導教官であるアイリス・マードックとの3年間にわたる知的交感が大きな寄与を果たしているであろう。2001年にはその生涯が映画化された彼女の作品(小説、哲学書)におけるシモーヌ・ヴェイユの影響は、現在決定的なものとされている。そして、彼女の哲学的著作のひとつが『善の至高性』(Iris Murdoch, The Sovereignty of Good, Routledge, 1970.)と題されたものであることを想起すると、今回の氏の講演の起草には、おそらく彼女へのひそやかなオマージュが込められていたであろうことが感じられるであろう。


    1.カントとプラトン

    古来、善への欲望は、理性的存在者にとっての至高の能力とされてきた。だが、善とは一体何であり、欲望はどのようにして善へと向かうのであろうか。質料的な存在者が質料的な善に向かうのに対し、知性をもち、道徳的であらんとする人間は、善の欲望として意志をもつ。哲学や思想は、理性的存在者に固有の善と、道徳的・形相的な善の欲望である意志を見極めようとしてきた。

    純粋な欲望である意志は、純粋な善、条件づけられていない善へと向かう。対象が形式化され、普遍化されているので、意志は、形式化され、普遍化された能力となる。シモーヌ・ヴェイユの善への欲望の観念は、この形而上学的論理に倣っている。だが、その観念の生成の方向は逆である。彼女は、善への欲望であるカントの意志を、存在と本質の彼方であるプラトンの善によって省察している。

    シモーヌ・ヴェイユにとってプラトンは、「真正の」、「完璧な」哲学者であり、成熟期の思索において、彼女はつねにプラトンを伴走させている。だが、彼女の省察の形而上学的な構造は、つねにカントに根差している。晩年繰り返しプラトンを読み返すのに対し、彼女はカントを読み返すことはなかった。だが、カントは彼女の思索の形成に生き続け、概念の構築に決定的な重要性を与えている。カントの主要なテーマ(目的なき合目的性、時間の主観性など)が、プラトンの光のもとで省察されている。『ティマイオス』における善の原因と必然の原因は、ヴェイユの形而上学の核をなす善と必然に呼応するが、この善と必然は、カントの本体的因果性と現象的因果性として現わされている。


    2.存在と本質の彼方の善

    ヴェイユの哲学は、善の形而上学である。この善は、存在の彼方の善であり、この世のものとは別の実在をもつ。形而上学や神秘主義に伝統的なこの直観は、シモーヌ・ヴェイユの反省に生気を与えている。善への欲望は、つねに叶えられる願いであり、それ自体で効力がある。通常、計画や企ては、実現や完遂とは異なるものであるが、善に関しては、欲望と所有が同一のものとなる。ここで、プラトンの形而上学において、カントが現れ、善の欲望は、<善意志>となる。わたしが善を意志するとき、わたしの意志はそれ自体善であり、善へ到達している。わたしが<善>を欲望するとき、その<善>は善の欲望と同次元の実在をもち、善の欲望が善の所有となるのである。

    プラトン、福音書、キリスト教神秘主義に傾倒しつつ、ヴェイユは善の欲望についての省察を繰り返している。これらは、カントから受け継いだ形而上学的構造へと収斂され、善の欲望の観念の骨格を構築している。

    個別の特殊な善は<善>ではない。なぜなら、<善>は個別の特殊な実在ではないからである。<善>は意志が目指す表象可能なものではなく、善は、善の欲望のうちにあり、善は善の欲望にほかならない。

    プラトンの形而上学に倣ったこのテーゼは、善が心のうちにあることを示しており、カントの道徳と有機的に結び合されている。実践理性の世界は必要性の世界に還元されえず、意図が行為の真理であり、報いである。西洋の古典哲学に根差しているものの、シモーヌ・ヴェイユの思想の展開はきわめて逆説的である。善が存在でも本質でもないかぎりにおいて、善の欲望は善の所有となる。存在や本質と無縁の<善>があり、それらと無縁であって、<善>は実在をもち、効力をもつ。

    <善>が存在の彼方であるのは、<善>が感性界を超えており、存在が有限であるからだけではなく、存在は無価値で、非現実的であるからである。<善>は非存在として<至高善>になるのである。

    本質に関しても同様であって、<善>は本質の彼方である。だが、表象可能な個別の善を拒絶していても、彼女の思想は、<原理>の彼方の<本質>という否定神学的な見方をとっていない。プラトンのテーマを読み解くために、彼女は、カントの実践理性、自由に訴える。「善は本質を拒絶し、善は本質が自由によってもたらされることを示している」。


    3.欲望が傷つかないこと

    カントの実践理性、自由によって、<善>は本質の彼方であることが理解される。この自由は、道徳的な自由であり、道徳的に自由であるとは、実践理性が、「存在とではなく善と」かかわっていることを意味する。そして、カントにストア派の思想を浸透させることによって、実践理性の優位が明示されている。実践理性に叡智界へ到る力が見い出されるならば、その力は自律である。自由は自己のうちにあって不断に創造されるというストアの教えがヴェイユの説の貴重な核になることによって、なにものによっても傷つきえない善への欲望である意志の至高性が証示されている。

    あらゆる欲望は本来的には善への欲望であるというプラトンのテーゼを、シモーヌ・ヴェイユは、カントとキリスト教の境位から省察している。善への欲望の豊穣性は存在論的な直観ではない。善への渇きが尽きることがないならば、この渇きは善き渇きでなければならない。彼女は、一切の執着から解き放たれた善き渇きである善への欲望を繰り返し見極めようとしている。


    4.欲望の受動性と能動性

    善き渇きである善への欲望を見極めるために、シモーヌ・ヴェイユは、欲望することと意志することを明確に区別しようとしている。若年期には、意志に至高の実践能力を見ていたが、神秘体験を経て、熟年期には、意志と欲望の位置が逆転し、欲望としての善の渇きに、至高の実践能力を見い出すことになる。意志によって善を得ることはできず、沈黙のうちに受動的である欲望、愛の眼差しだけが善を得ることができるのである。

    愛はなにも求めないので、救いをも放棄する。救われるとは、神のうちで完全な歓びに満たされることである。神であり善であるのは、神であって、わたしではない。それゆえ、愛が充溢するために、わたしの救いは問題とはならないのである。

    欲望は渇きであり、この渇きが純粋であるならば、欲望は満たされる。人間の苦悩は、「眺めることと食べることが二つの異なる働きである」ことであり、永遠の至福は、「眺めることが食べることである状態である」。これは、単なる物語やメタファーに留まるものではなく、道徳的能力の真理を現わしている。

    この形而上学的-霊的テーゼは、注意の観念によって展開されている。注意は、理論と実践、受動性と行動の交差点に位置する能力であり、個別の対象に固着することなく、満たされ、完結する極度の努力、強烈な集中である。さらに、注意、同意、欲望は一つのものとなり、注意と善が結びつけられる。

    理論の領野においても創造的であるが、注意の働きが存分に発揮されるのは、実践の領野においてである。自己に個別の善をもたらさない対象、ましてや自己に悪をもたらす対象に対して、われわれの眼差しは向かない。だが、愛だけは、この対象を、つまり存在していない対象を見つめ、この愛の同意の眼差しが、この対象に存在を与える。人間性を剥奪された不幸なひとは、そのひとを愛するひとにとってのみ存在する。愛によって動かされている注意は、自己を脱し、自己ではない実在に同意することによって、他者を証し立てるのである。この注意は、<善>へ参与しようとする欲望であるが、注意が不断に創造されていなければ、執着の欲望が再び生じてきてしまう。


    5.欲望の効力

    欲望の開花にほかならない注意の創造的な働きは、ヴェイユの哲学の核となるテーゼである。「魂すべてをあげて向き直らなければならない」というプラトンの教えが、カントから省察されている。つまり、理論理性が制約を受けるのに対して、実践理性である意志は、意志することにおいて自由であり、また、意志するとは行為を意志することである。論理的-形而上学的には、意志による純粋な行為は徳の行為であり、「徳は行使されるものである」。意志の働きは時間においてなされるが、欲望が純粋であるならば、即座の同意がなされ、この善への同意が、意志を善意志へと移し変える。欲望は創造的であるので、純粋で完全な善に欲望を傾けるのなら、欲望は、善を弛みなく受け取る。善をじっと見つめていると善をなさずにはいられなくなってくる瞬間がやってくる。他方、悪をじっと見つめ、悪をなそうとする誘惑に抗していると、ついにはこの誘惑は枯渇し、悪をなすことができなくなってくる瞬間がやってくる。このように、注意を動かしている欲望は、善への欲望であり、また、悪の誘惑が枯渇したのちには、善への欲望が到来するのである。


    6.善の所有としての善の欲望

    善意志は至高善であり、善意志が直ちに到達する<善>は超越的である。他方、悪しき意志は悪そのものであるが、この悪は内在的でしかない。そのため、個別の善の拒絶は、真の善へ到る道程であるだけではなく、この拒絶そのものが善への欲望なのである。

    一切の善が欠如していることへの同意が、唯一の純粋な欲望であり、したがって、唯一の善である。欲望の価値は欲望することにある。欲望は、執着や貪欲へと拡散しないかぎりにおいて、満たされている飢えであり、魂は泣き叫ぶのであるが、この飢えは所有であるので、この叫びは歓びの叫びである。

    欲望は所有であるという修辞的表現は、厳密な哲学であり、ここで、福音書、ウパニシャッド、プラトン、ストア派、カントが生き生きと結びつけられる。われわれは、自らの力によって善を手に入れることはできず、自己から離脱して、善を欲望することによって、善は与えられるのである。


    7.欲望すること

    意志することと善を意志することが同一のことであるかぎり、意志することである欲望は、つねに善を意志することである。人間は善へと向けられているという古典的なテーゼは、そのままでは善の可能性にすぎず、善へ向かうことが行為になるときにのみ善になる。つまり、欲望は欲望することでならなければならないのである。欲望が所有であるならば、所有されている<善>は超越的である。善への希求は人間の心のうちにあるが、善は、この世を超えたところにある実在である。

    シモーヌ・ヴェイユの思想は、<善>、超越的な神の観念に収斂される。そして、純粋に祈るひとを間違いなく天へと上げる神の超越性は、自律と呼応し、欲望の行為において価値をもつ。「善は罪のない状態ではなく、永遠の行為である」。欲望は、欲望している状態ではなく、欲望していることである。われわれが欲望できるのは欲望することだけなのである。




    第14回研究会

    日時:11月28日(日)13:30〜17:00
    会場:COE研究室(京大文学部東館4階北東角)
    発表:佐藤 啓介(大阪府立工業高等専門学校非常勤講師)
        「対話などしたくもない人――復讐と憎悪から対話を考える(仮)」
        山内 誠(京都大学大学院文学研究科博士課程(宗教学))
        「ジャン・ナベールにおける反省とコミュニケーション(仮)」

    ◆ 今後も定期的に研究会を予定しておりますので、多くの方々のご参加をお待ちしております。

    □研究会事務局□ 606−8501 京都市左京区吉田本町京都大学文学部
    片柳研究室 TEL(075)753-2747 日本哲学史研究室 TEL(075)753−2869 担当:杉本
    e-mail dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp URL https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/jp/projects/projects_completed/hmn/dialog/