Newsletter vol.13 (2005.1.19)

  1. 第14回研究会報告
  2. 今後の予定

第14回研究会報告

2004年 11月 28日(日) 13:30 〜 17:00 COE研究室にて
発表: 佐藤 啓介(大阪府立工業高等専門学校非常勤講師)
    「対話などしたくもない人 ――復讐と赦しから対話を考える――」
    山内 誠 (宗教学専修博士課程)
    「ジャン・ナベールにおける反省と悪の問題」


対話などしたくもない人――復讐と赦しから対話を考える――

佐藤 啓介(大阪府立工業高等専門学校非常勤講師)

私たちには大抵、対話などしたくもない人、大嫌いな人がいる。

もちろん、そうした人と口もきかずに対話を拒んでいる状況もあろう。しかし、場合によっては、そうした拒否もできず、否応無く対面状況に引っ張り出されてしまっている場合もある。或いは、対話の拒否という消極的な嫌悪ではなく、対話するくらいならその人を攻撃しようとする積極的な嫌悪を抱いている場合もある(現実に各地で起こる紛争を想起すれば、決してそれは奇異な場面ではなかろう)。果たして、そのような場面を前にして、「新たな対話的探求の論理」なるものを探求する私たちは、何が言いうるだろうか。この問いに対して、対話などしたくもないという心情を引き起こす一つの原因、しかも、非常に極限的でありつつ、現代において現に剥き出しになっている「復讐」という主題から考えることが、本研究の課題である。

この復讐という主題を考える上で基本的な図式を提供したのが、H. アーレントである。人間が他の人間に関わる以上、その活動は、悪しき結果を生む可能性から、そして、その結果を被った側に復讐が生まれる可能性から免れることができない。アーレントはこうした復讐の過程を、物理的な力の作用−反作用になぞらえ、「活動の自然過程」として描き出す。この自然過程を止める手段は二つあるといわれている。その一つは、「赦す」ことである。ここでの赦しとは、復讐の連鎖を止めるためになされる、全く予期できず新しく始まる活動である。もう一つの手段は、「罰する」ことである。こうしてアーレントは、赦しの対極だと思われがちな罰を赦しの代替物と規定し、復讐に対立する二種類の活動として、赦しと罰を並置した。

しかし、リクールが指摘するように、罰と復讐は「対立」をなすだけではなく、同時に「起源を共有している」。何故なら、罰にせよ復讐にせよ、その起源にあるのは「こんなの不公平だ!不正だ!」という叫びだからである。現代においては、司法制度という媒介を経ることで、被害者と加害者の間に「正しい距離」を挿入し、復讐が罰へと昇華するよう慎重な手続きが踏まれている。そこに慎重な手続きが必要とされるのは、両者が「不正への叫び」という起源を共にしているからなのだ。

だが、ここで考えねばならないのは、その不正への叫びが「残り続け」「聞き遂げられる」のは何故か、ということである。とりわけ、「ある人Aが別のある人Bによって何かをなされ、それに対してさらに別の人Cが復讐を行なう」という、復讐の「誰」が交錯する場合、その問いは一層複雑になる。この復讐は、必ずしも殺人の例には限定できない(ここでは、そうした復讐の「誰」が交錯する条件を、「(自分が)復讐する立場に立つ可能性を、たとえ最小限の可能性さえをも潜在的に奪われた人」が存在するときだと定義しておく)。

さて、こうした第三者による復讐は、どのようになされるのか。その最も根本的な理由は、罪を犯した者への「憎悪」に他なるまい。しかし、それだけでは、「赦しは愛の業である」という命題がほとんど何も述べていないのと同じくらい、何も述べたことにはなるまい。そこで、その憎悪を可能にさせ、また憎悪を持続させているものが何なのかを見定める必要がある。ここでは、いささか図式的ながら、第三者による復讐を可能にさせている三つの前提を提示したい。第一は、被った受苦は、相手にも同等のものが要求されねばならないという前提(同等性要求)。第二は、「自分は、犠牲者の正しい記憶を引き継いでいる」と任じているという前提(正当性要求)。ただし、ここでいう正しい記憶とは、犠牲者が頭の中に抱いていた中身と合致するという意味での正しさとして理解する必要はない。それはむしろ、犠牲者に対する、そして過去そのものに対する「忠実さ」という意味での正しさである。第三は、「犠牲者に代わって、自分が復讐を行なう立場にいる」という前提、つまり、犠牲者の代理を務めることができるという自己認識(代理性要求)。以上三つの前提のうち、第一のものは「罰」の前提としても機能しており、後者二つの前提、つまり「記憶」に関わる二つの要求が復讐を特徴付けるものである。アーレントにおいてそうだったように、復讐はまるで一種の算術、あるいは作用−反作用の法則のもと、自然な行為だと考えられがちである。しかし、その稚拙な算術が成立してしまうのは、「自分が、犠牲者の正しい記憶を引き継いでいると任じることができる」と要求する復讐者の前提を受け入れているからなのである。だが、この前提は無条件に受け入れられるものなのだろうか。

とはいえ、正当性要求は、それが放棄されるや否や、過去の出来事の「忘却」という事態につながる。だが、「あった」ことを「なかった」ことにすることはできない。その結果、正当性要求の放棄は、犠牲者の記憶を引き継いだ者を、精神分析で言われるような「反復強迫」(抑圧された記憶を、意識することなく、行為によって反復してしまう症例)へと追い込みかねない。そのため、正当性要求の放棄とは、実際に復讐の火種を残したままにしておくことにつながりかねない。

他方で、代理性要求を放棄するや否や、今度はまたも私たちはアポリアに追いやられる。「犠牲者に代わって」記憶を引き継ぐことを諦めるならば、果たして、誰が記憶を引き継ぐのだろうか。私は、復讐の犠牲者のことを「(自分が)復讐する立場に立つ可能性を、たとえ最小限の可能性さえをも潜在的に奪われた人」と定義したが、この人の記憶は、果たして誰に、いや、どこに、何に受け渡されればよいのだろうか。

だが、その犠牲者の名のもとに復讐を行なうこと、つまり代理性要求を掲げて復讐する行為は、むしろ、正当性要求を根底において否定する行為でもある。犠牲者という「(自分が)復讐する立場に立つ可能性を、たとえ最小限の可能性さえをも潜在的に奪われた人」とは、同時にあらゆる「主権性」(ないしは能力)をも奪われた者であるはずだ。その座に、その記憶を引き継ぎ、それを救済することができると任じるもの――たとえ神であれ――が登場するのは、その奪われた者の立場を占有し、自らが主権性を有すると任じることではないのだろうか。それは記憶の引き継ぎではなく、むしろ、最も決定的にして最終的な形態を纏った記憶の忘却に他ならないのではないだろうか。要するに、犠牲者がもはやなしえなくなった復讐をその犠牲者の名の下になすことは、その犠牲者の立場を密かに占有することなのである。結果、犠牲者の名の下になされる復讐は、復讐する能力さえ奪われた犠牲者に最後に残されている場――復讐する能力が奪われているという立場――さえをも占有し、犠牲者を「なかった」ものにする最後の一閃を打ち込む行為、本質的に犠牲者への忠実さを裏切る行為に他ならない。

しかし、それではどうしたらよいのか。行き場のない記憶を忘却するのでもなく(正当性要求は保持されねばならない)、誰かが代わりに引き継ぐのでもなく(代理性要求は破棄されねばならない)、一体、どうしたらよいのか。このような文脈においてこそ、近年、宗教哲学の分野において主題となっている「赦し」の問題が考えられるべきである。そこにおいて希求されているのは、デリダが指摘したように、「主権性なき赦し」という、不可能としか形容するほかない赦しである(この赦しを考える上で争点となるのは、「第三者が介入することと、それが主権性を帯びることは同じことを意味するのかどうか」という問題となるだろう)。その見通しのない赦しを思惟するため、私たちは、思惟を中断させてはならない。

だが、仮にそうした方途が存在するとするとしても、それは必定、赦しにも復讐にも転じうる、ないし、その境界線上を常に揺れ動く性格を帯びたものになるであろう。その根拠は、復讐の源泉である「憎悪」にある。V. ジャンケレヴィッチの指摘によれば、憎悪が憎悪としてのその性格を先鋭化させればさせるほど、それは「愛」と同一構造を有する。何故なら、愛も憎悪も、その対象は相手の属性や特徴、功績などではなく、相手の人格そのものを目指すからである(唯一、ベクトルの向きが逆なだけなのだ)。もし、この愛と憎悪の同一構造という指摘が正しいとするならば、仮に赦し(代理性なき赦し)が愛を源泉とするならば、それと等しく、復讐へと向かう憎悪とも踵を接してしまっていることにもなろう。

赦しという途方もない出来事を思惟するとき、私たちは、常に同時にその背後に、復讐という、これまた途方もない出来事を思惟せざるをえない。そして、両者の源泉にある愛と憎悪が同一構造だとするならば、一方が他方へと反転する微かな稜線がどこにあるのか、いや、そもそもそうした稜線が定まったものなのか、そうした点から見定めていくほかない。

同時に、当初の問い「対話などしたくもない人」にしても、最も極限的にして誇張的な地点において、常に、他方の姿へと態度を反転させうる可能性を秘めている。だが、その逆もまた然り。喜んで対話せんとしている人が、いつや「対話などしたくもない人」という深い暗がりへと転じるやもしれないのである。私たちは、対話を歓待する態度が抱えている底無しの偶有性――何故だか知らないが、たまたまベクトルが対話の肯定の側に向いている――を忘れてはなるまい。



ジャン・ナベールにおける反省と悪の問題

山内 誠 (京都大学大学院文学研究科博士課程(宗教学))

様々な領域、水準において、対話の重要性を訴える声が、近年ますます切迫した響きを帯びてきている。我々を取り巻いている現実がこの対話への要求を手ひどく裏切り続けているだけに、なおさらこの声は切迫した響きを帯びざるを得なくなる。しかし、なぜ対話は困難であるのか。対話は、人と人の間に生起する。しかし、そこは同時に、「文化の悪徳」と呼ばれるような多くの「悪」が機会を得る場所でもある。たとえば、直接的な暴力や他者への敵意という形で対話の現れる場所を閉ざし、対話そのものを不可能にしてしまう。あるいは、欺瞞のように対話のうちに入り込んでそれを内側から腐食させてしまう場合もある。したがって、対話を不可能にし、あるいは堕落させる人と人の間に生じる悪について考察し、またそのような悪からの解放の可能性を探ることは、対話について考える上でも重要な意味を持つように思われる。本発表はこうした観点から、フランスの反省哲学者ジャン・ナベールJean Nabert(1881-1960)の『悪論 Essai sur le mal』(1957)の考察を取り上げたい。ナベールはこの著作で、悪の経験に伴う罪責性の感情を反省的に深化させるのと同時に、この深化と相関的にのみ触れることのできる悪からの救いの道を照らし出そうとする、特異な思索を展開している。注目すべきは、この深化によって、「諸意識の断絶」、つまり意識間のコミュニケーションの切断を本質的な悪として発見するに至るという点であり、それによって、悪の経験が人と人の間に持っている関係を、単に経験的な観察においてだけでなく、表面的には現われることのないより深い次元から見て取っているという点である。このことは当然、悪からの解放の可能なあり方をも規定するはずである。

『悪論』の出発点は、悪を経験する人間の極めて個人的な感情的反応に置かれている。それは、自らの行為やそれを為しえた意志の邪悪さ、それが他者に蒙らせる不幸に面したときに我々が抑えることのできない、「正当化できない」という感情である。このような「感情」を反省の起点に置くことによってナベールは、悪を否定性や有限性へと還元してしまう形而上学的思弁を退けるのと同時に、悪を自由の倫理的規範に対する関係によって規定する道徳性の哲学をも退けようとしている。従来の主要な悪論は、すべての矛盾を包み込む全体性という形にせよ、あるいは常に自己と等しい自律的な自由という形にせよ、決して覆されることのない自己同一性の安全地帯から悪を論じることによって、悪の経験が本来持っている「正当化できない」という感情のリアリティーを見逃してしまっているのである。それに対して、本来悪の経験とは、もしその重みを真摯に受け取りその深さを突き詰めてみるならば、世界全体、自己の存在全体に対する信頼を覆すはずのものではないだろうか。つまり、自己の存在に克服不可能な亀裂を穿つはずのものではないだろうか。友人を裏切ったということが引き起こす感情は、決して単なる規範の侵犯の意識に留まりはしない。それに対する自己告発は、もしそれが伴う「正当化できない」という感情の衝撃に忠実であるならば、決してその行為に留まることなく、それを可能にした動機へ遡り、さらに究極的には、可能事としての裏切りの観念を発生させた自我そのものにまで及ぶのではないか。つまり、個別的な行為における罪責性の感情に撃たれた意識は、あらゆる悪しき選択の手前で常にすでに悪い存在であってしまっているという「根源的事実」としての自我の罪責性に気付かざるを得なくなる。ナベールはそうして、さしあたってはある悪い行為に向けられていると考えられる「正当化できない」という感情のリアリティーの出所を、どれほど根源的な選択であってもすでにその手前で自己があるべき自己ではないという、ナベールが「罪」と呼ぶ根源的罪責性に見出すのである。

しかしながらナベールによれば、罪の経験は、それが単に自己自身との関係においてのみ語られている間は、なお抽象的であり、なお罪責性のさらなる徹底化の余地を残している。というのも、悪の経験とは常に、犯される悪の経験であるばかりでなく、その悪が向けられる他者にとっての蒙られる悪でもあるからである。この点が考慮されなければ、正当化できないという感情の全幅を捉えることはできない。とりわけ、他者の破滅を意欲するような、カントが「悪魔的悪徳」と呼んだ絶対的悪から接近することによって、我々は他のすべての悪がその帰結に他ならない本質的悪に触れることができるとする。とはいえそれによって、我々がしばしば目にするような形での人間たちの間の争いや敵意のことが言われているのではない。そうした悪の経験について反省するならば、争いや敵意が可能であるのは実は、自我と他我が切り離されて存在しているという諸意識の島嶼性があるからに他ならず、ひいてはある根源的な切断のはたらきがこの島嶼性を生み出したからに他ならないことが気付かれる。通常、我々はこの意識の島嶼性を最初の所与として受け取っている。だが、もしそうであったとすれば、悪によって生じる意識間のコミュニケーションの断絶は、単にもとあった状態へと意識を差し戻すことにすぎなくなり、それゆえ、その経験は「私」が「私」であることになんら影響を与えることがないということになろう。しかし、経験が教えるように、実際には全くそうではない。罪の経験と同じく、他者との間のコミュニケーションを破壊する敵意や憎悪は、我々の存在そのものを脅かすからである。つまり、我々が普段信じているのとは逆に、対話の条件でもあり闘争の条件でもあるような原初的な意識間の相互性がまずあって、そこに断絶がもたらされることで初めて個別的で独立した意識の島嶼性が構成されると考えられるべきなのである。この相互的関係は、弁証法的な仕方によってであれ、あるいは間主観的な仕方によってであれ、相互性に先行する個別的な自我の間で構築されるものではない。相互性とは、複数の自我の間に張り渡される関係であるよりは、むしろそこから関係が始めて生じてくるような始原的な一性の表現とでも言うべきものである。注目すべきは、この断絶の悪と、自己自身との関係における罪とは別ものではないとナベールが述べている点である。実際、自己が自己であることの罪責性とは、相互性を切断することによって自己を自己として構成し、同時に他者を他者として構成するこの断絶の悪から生じるものとして、初めて理解することが可能となるのである。したがって、あらゆる悪の正当化できないという感情のリアリティーはこの諸意識の断絶にこそ由来しており、あらゆる悪の経験は本質的に他者との関係を含んでいると言えるのである。

さて、この地点において明白になるのが、正当化できないものに自己自身によって正当化を与えること、つまり自己義認の不可能性である。このことはすでに、罪の分析において予告されていた。自己が自己であることに正当化できないものの根があるとすれば、それを自己自身のどんな行為によって正すことができるだろうか。そしてさらに、この罪が諸意識の断絶という本質的な悪を通して他者が蒙る悪と不可分の関係を持っていることによって、自己義認の不可能性はいっそう確かなものとなる。なぜなら、たとえ我々が犯した悪を、革命的な改心によってであれ、漸次的な道徳性の向上によってであれ、自己自身によって正すことができたとしても、それが他者たちに及ぼした悪が放置されている限り決して正当化の要求に答えることはできないからである。それどころか、どれほど立派な行為によってであれ、自己自身の救いにいそしむ行為は却って諸意識の断絶を深くし正当化への道を遠ざけることになりかねない。つまり、自己義認の試みそのものが、その背後にある本質的な悪の証左だとすら言えるのである。

だが、このことは同時に、正当化の欲望が悪の負債からの解放のために赴くべきただ一つ残された方向を指し示しもする。ナベールによれば、我々の正当化の希望は、一切の自己のイニシアチヴに由来する行為から完全に離れて、「無償の行為」を行う他の意識との出会いへと委ねられざるを得なくなるのである。おそらく、そのような無償の行為の具体的なものの一つとして、ナベールが彼の遺稿である『神の欲望 Le désir du Dieu』(1966)で言及している「赦し」を考えることは間違いではないだろう。赦しは、無償の仕方で無条件的に他の意識の罪を背負い、それを消し去り、赦された存在者らの内に意識の一性を復活させる。だが、ナベールが「神的な行為」と呼ぶ赦しの他者との出会いは、全くの偶然性に委ねられている。それは、歴史の必然的な展開や計算可能性とは一切無縁であり、悪の負債を負うことの見返りとして「しかるべきときに」赦しが訪れることを保証してくれる何ものも存在しない。つまり、我々は赦しの訪れに対しては、なお無力なままなのである。唯一つ確実なことがあるとすれば、合理的計算によってであれ、精神的な弱さによってであれ、悪の正当化できないものの真の重みを負うことを避けるのは、見かけがどうあれ、悪からの救いの道を遠ざけることにしかならないということ、このこと以外にはないだろう。なぜなら、悪の自覚の徹底化という孤独の道を措いて、他者との真の出会いの可能性を開くものはないのだから。




第15回研究会

日時:1月22日(土)13:30〜17:00
会場:COE研究室(京大文学部東館4階北東角)
発表:川端 伸典(大阪市立大学非常勤講師)
   「内村鑑三の「他力」信仰」
   内山 勝利(西洋哲学史教授)
   「プラトンの「対話篇」を考える(仮)」

◆ 今後も定期的に研究会を予定しておりますので、多くの方々のご参加をお待ちしております。

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