Newsletter vol.4 (2003.6)

  1. 第5回研究会報告
  2. 今後の予定

第5回研究会報告

2003年 5月 10日(土) 13:00 〜 18:00 COE研究室にて
発表: Christoph Schwöbel 「信仰に由来する寛容(Toleranz aus Glauben)」
     松井吉康 「存在とロゴス」

「信仰に由来する寛容(Toleranz aus Glauben)」 クリストフ・シュヴェーベル

寛容の問い――適切な理由があって拒絶される信念や行動が、それでも忍んで受け入れられうるのか、そしてそうした考えを持ち、実行する人々に、その考えを表明し、それに応じて行動することを許すような承認を与えうるのか、との問いが、宗教的‐世界観的な多元主義の状況では、ラディカルな形で提起される。この問いがどう答えられるかは、自分と他者との間の差異が保持されうるかどうか、しかもその際、自らのアイデンティティと信念がそれによって損なわれることなく、また他者のアイデンティティがそれによって否定されず、また他者の信念がその真理要求を奪われることなく、差異が保持されうるかどうかにかかっている。宗教的‐世界観的多元主義とは、次のような社会の状況を示すと言えよう、つまりそこにおいて様々に異なった宗教的‐世界観的な、基礎的方向づけが共存し、競い合って存在しているような社会状況である。諸宗教、諸世界観の多元主義は、21世紀の初頭の地球上の多くの国々において、日常的な経験となっている。生活の方向づけと生活スタイルの多様性は、我々の社会生活のあらゆる領域で出会われる。社会の文化は、様々に異なった文化の競演によって規定され、社会は異なった共同体の複合体になるのである。文化的、世界観的、宗教的多様性はもはや、主として社会の境界の外で出会われるのでなく、その境界の内部の共同生活の具体的な状況のうちで出会われている。遠くの見知らぬ人が、隣人になったのである。

宗教的‐世界観的多元主義の状況によって、社会の全構成員は個人的なアイデンティティの問い、そして自らが属する社会集団のアイデンティティの問いに直面させられている。それが他の個人であれ、他の集団であれ、見知らぬ他者との出会いは、自分自身のアイデンティティへの問いを投げかける。「私は誰なのか」という問いは、一つの社会集団への自明的所属への指示によってもはや応えられない場合に、生の中心的な問題へと先鋭化される。「我々は誰なのか」との問いは、他の見知らぬ社会的アイデンティティを代表している。

宗教的‐世界観的多元主義の状況は、それ故二重の挑戦を内に含んでいる。一方で、多元主義的社会は、他者に対しての寛容がそのうちで行われることを頼りにしている。しかし他方そのことが可能なのは、多元主義的社会のうちに、アイデンティティの獲得とアイデンティティ維持の可能性が存する場合だけである。こうした可能性こそ安定した寛容を遂行しうるアイデンティティの形成に寄与するのである。アイデンティティ形成と寛容形成(教育)は互いに他方の条件なのである。諸教会,諸宗教共同体はそこで特別な責任を担うことになる。これらにおいて二つのことが遂行されねばならない:他者との出会いを自分自身のアイデンティティへの脅威として恐れる必要のないアイデンティティの形成と、他者を他者として尊敬する寛容への教育とである。

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電子工学的伝達体系による地球全体の通信網化とそれによって可能となった地球規模での経済的、政治的相互作用は、21世紀初頭においてアイデンティティと寛容の問いがそのうちで提起される新たなコンテキストである。グローバル化の議論において二つの局面が区別されうる。そのうちの最初のものは、グローバル化の積極的な潜在的可能性を強調するものであり、第二のものは、グローバル化の否定的結果に集中するものである。両頭の怪物ヤーヌスのように、祝福と呪いの両面をもったグローバル化の曖昧さが、このようにして注目の的になったのである。このことは殊に、アイデンティティと寛容の問題にも当てはまる。

我々がグローバル化を寛容とアイデンティティの関係への問いのもとで考察する場合、西側でない国の視点から見るなら、西方諸国の経済的侵攻に対して、まるで自分たちに寛容が求められているかのような観を呈しているといえよう。この経済的侵攻は同時に、西方文化の諸象徴を非西方文化の文化的基軸通貨と為しているのである。強制された寛容は、アイデンティティを強烈に脅かされているとの感情を引き起こすものであり、この感情はグローバル化への抗議として発現している。徹底した非寛容――完全な自己閉鎖からテロリスト的暴力に至るまでの――が強制された寛容の結果であることがありうるのである。この力学が一人歩きしだすと、諸文化間の衝突に至る傾向を排除出来ないことになる。 もちろんグローバル化への抗議も、グローバル化の手本を免れてはいない。グローバル化批判もグローバル化そのものと同様グローバルである。その結果非寛容のグローバル化が生じることになる。グローバル化批判がテロリスト的な暴力を手段として用いると――これが9.11のテロ攻撃の少なくとも一つの面のように思える――この批判は地球規模のテロリスト的脅威を表示している。グローバル化を引き戻すことは出来ない。しかし強制された寛容によって、徹底した非寛容のうちにまたも表明されている一層深いアイデンティティの危機へ導くのでないような仕方でグローバル化が形成されることは、如何にして可能であろうか。「世界統治」への諸概念は、それがこの問いに如何なる応えを用意しているかに応じて、その適切さを測られねばならないであろう。

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神学的に解釈するなら、原理主義は間違った場所に根源性を見る現象である。キリスト教的原理主義を例にとってみればそのことは容易に納得されよう。聖書は神の啓示の証言であり、媒介であって、啓示そのものではない。聖書はその権威を無謬の書であるがゆえに所持しているのではない。そうではなく聖書は、神の真理の自己啓示の証言、道具として権威を所持しているのである。キリスト教信仰の原理主義的歪曲はそのかぎりで、キリスト教的パースペクティブからだけ正されうる。原理主義的立場の宗教的不適切さと神学的いかがわしさが宗教的神学的に批判されることによってである。宗教の度を弱めることが、原理主義の修正の鍵なのではなく――世俗化の度を強めることは、原理主義のさらなる推進力をかき立てるだけであろう――鍵は深められた宗教である。神学の度を弱めることでなく、神学をよりよくすることこそ、原理主義の治癒に貢献しうるのである。

ここから明らかになる課題は、寛容の源泉を宗教的伝統そのもののうちに尋ねることである。寛容の命令は宗教的アイデンティティの相対化のうちに根拠づけられるのでなく、宗教的アイデンティティの深められた自己化のうちにである。この課題によって必要となってくるのは、寛容の根拠づけの手助けとなることが明らかな方策を、宗教的伝統のうちに探し出すことである。原理主義が間違った場所に根源性を見る現象であるなら、これが修正されうるのは、その批判が宗教的伝統の根源に遡って根拠づけられることによってだけである。

(翻訳・レジュメ作成:片柳)

「存在とロゴス」 松井吉康

本発表では、プラトンが主張する「言説(logos)は、主語となる名詞(onoma)と述語(rhema=述べ)からなる」という西洋形而上学の基礎テーゼを出発点として考察を進める。『ソピステス』において彼は、ソフィストと哲学者の区別を明確にしようとするが、その過程で「ソフィストとは虚偽を語る者であるが、虚偽を語ることは、それ自体『存在しないものを語る』ことなのであるから、この議論が成立するためには、『存在しないもの』を語る可能性というものが確保されねばならない」と指摘する。ここから「存在しないものは存在しない」というパルメニデスの主張との対決が始まるのである。

プラトンは、「存在しないもの」とは「存在するもの」という形相の「反対」(=「端的な無」)ではなく、「異なる」ものを意味するという。そうした議論を踏まえて「ロゴスは、名詞(主語)とは『異なる』述語が語られることで意味を持つものとなる」という。「そうした互いに異なる形相(ここでは主語と述語)の結び付きによって、初めて理性的な――つまり真偽が判定可能なロゴスが可能となる」というのがプラトンの主張なのである。つまり意味ある言説には、「何であるか」が確定された「名詞」とそれについての――しかもその名詞自身とは異なる――「述語(=述べ言葉)」が必要だとされるわけである。

「それについて真偽が判定できる言説」というものがあるならば、それには普通「明確な主語」がなければならない。こうした議論は当然であるように思われる。しかしそれを根底から論駁する議論が存在する。パルメニデスの主語なき「存在する」というテーゼがそれである。その議論の冒頭でパルメニデスは、主語を明示しないまま「存在するのかしないのか」ということを問うが、ここで注意しなければならないのは、彼がそうした問いを、「非存在は不可能なのか、それとも必然なのか」という問いと同義と捉えている、ということである。それは、そもそも「無なのか、それとも無ではないのか」、つまり「まったく何もないのか、それともそうではないのか」という問いなのである。だが、「『何か』について述べる」という仕方で理解されたロゴスの基本構造では、「無」を問題にすることは出来ない。「無」は、それについて何かを語りうるような、つまり「述語づけが可能となるような」「何か」ではないからである。

プラトン的に言えば、「まったく何もないのか」という問いは、ロゴスの資格を持たない。だが、私たちは、この問いが無意味であるとは思わない。「まったく何もないのか」という問いは、表現上、何の矛盾も持たない。そして私たちは答える。「まったくの無というわけではない」と。しかし恐らく多くの人は、その答えとともに言うであろう、「だが、そんな自明なことに何の意味があるのか」と。勿論そうである。私たち自身の存在を初めとして、文字通り「一切が」、それを自明の前提としている。では、それは、どういう意味で「自明」なのか。「無ではない」ということは、論理的に導出された答えではない。しかし、たとえ「私」というものがなくても、たとえ「主観」というものがなくても、つまり後代が繰り返し問い続けたような「何が存在するのか」についてまったく不明なままでも、何はともあれ「まったくの無ではない」ということだけは確かなのである。

パルメニデスの言う「存在」は、私たちが言う「存在」と同じではなく、「まったくの無ではない」ということを意味する。しかし「存在」という語が、そのように用いられるとなると、その主語に来るべきものは、その否定が直ちに無を意味するようなものとならねばならない。だが、私たちが「存在するもの」とみなしているもので、それの否定が直ちに「まったくの無」を意味することになるようなものは存在しない。「それが確定される」ということ自身を、「存在の主語」は原理的に拒否するのである。つまり私たちが普段存在していると考えているものは、実は、何一つ「存在している」のではない。パルメニデスの主張は、「無ではない」という確認から、そうした異様な結論を導きだす。「存在したり」「存在しなかったり」するような「存在の主語」、すなわち「現前 (anwesen)」と「不在(abwesen)」の主語の位置の置かれるような主語は、パルメニデスの視点からすれば、「存在」の名に値しないのである。

では、パルメニデスの語る存在は、ロゴスそのものを否定するのだろうか。確かにそれは、プラトンが理解するようなロゴスとは相容れない。しかし、たとえば彼の主張には――私の解釈が正しければ――「存在に主語はない」ということが含まれているが、それは、疑いもなく一つの言説、一つのロゴスである。それに論理的に先んずる「まったくの無ではない」(=「存在する」)というのもまた、立派な一つの言説、ロゴスである。しかしそうしたロゴスを継承した西洋の思想家は極めて少ない。その少ない一人がマイスター・エックハルトである。彼らの議論には、西洋形而上学を「ロゴスでもって」相対化する視点が含まれている。それらは西洋の中から西洋形而上学を食い破っている思想なのである。「西洋形而上学の解体」と同時に「異文化間の対話可能性」ということが叫ばれる今日、こうした論理を展開したパルメニデスやエックハルトの主張に向き合うことは、必ずしも無益なことではないように思われる。

今後の予定

第6回研究会の予定

日時:7月26日(土)13:30〜17:00
会場:COE研究室(京大文学部東館4階北東角)
発表:高田信良氏(龍谷大学教授)
    「出会いにおける<自己発見>」(仮題)
水野友晴氏(大阪外国語大学非常勤講師)
     「日本におけるトマス・ヒル・グリーンの受容史から垣間見えるもの」

◆ 今後も定期的に研究会を予定しておりますので、多くの方々のご参加をお待ちしております。

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