Newsletter vol.5 (2003.8)

  1. 第6回研究会報告
  2. 今後の予定

第6回研究会報告

2003年 7月 26日(土) 13:30 〜 18:00 COE研究室にて
発表: 高田信良 「出会いにおける<自己発見>」
    水野友晴 「日本におけるトマス・ヒル・グリーンの受容史から垣間見えるもの」


「出会いにおける<自己発見>――仏教における「諸宗教の教学」(試論)――」

高田信良

1.

シュベーベル教授の論考「信仰に由来する寛容」に接する機会を得た。それへのひとつのレスポンスとして、仏教(的世界にいる者)にとっての「対話的探求の論理」追求という観点から、《仏教における「諸宗教の教学」》について愚考する。

「信仰に由来する寛容」が関心事となるところでは、《自己と他者との関係》のことがらとしての「寛容」と宗教的文脈に生きる(生きている)という「信仰」とが不可分的な仕方で問われている。現代の宗教多元的世界における《不寛容な現実》のなかへ投げ込まれている宗教者が、「寛容」(他者との関係)と「信仰」(自身の宗教のあり方)とを同時に問うている。

「信仰に由来する寛容」が問いとなっている《啓示の宗教》との出会いのなかで、「転迷開悟」を関心事とする仏教(的世界)に生きる者が、自宗教を《覚の宗教》として「発見」する。「転迷開悟」における根本的な論理は「転ずる」ということがらである。「転ずる」という事態は《仏法に照らされて自身の姿を知る》ことに他ならない。浄土門仏教の文脈においては、《末法濁世の凡夫にとっての、阿弥陀仏の本願との出遇い》に他ならない。それは、浄土門仏教のなかに生きている者が、自宗教を《覚の宗教》、とりわけ、《末法観に立つ信仰》として<発見>することに他ならない。

宗教多元状況のなかで、さまざまな<他者>に遭遇する。他者を<発見>することにおいて自己自身を<発見>する。自宗教を《覚の宗教》として、また、とりわけ、《末法観に立つ信》として<自己発見>するということが、<対話的探求の論理の構築>へのひとつの可能性ではないだろうか。

2.《他宗教》理解におけるパラドックス

《宗教多元状況》において、自宗教を《諸宗教》の内に見い出し、《他宗教との出会い》の経験のなかから自宗教のアイデンティティを思索する営為を「諸宗教の教学(神学)」と理解する。《他宗教との出会い》を思索しようとする関心、「宗教[間]対話」ということがらにはパラドックスが存在する。《他宗教を理解する》という課題を前にして、ひとは、きわめて懐疑的になる。宗教的真実(の理解)の有り様が相互に異なるところで、はたして、《他宗教》を理解するということが可能だろうか、と。しかしながら、他宗教が自宗教とは根本的に異なる、ということ真に理解されたとき、実は、相互の理解が成立している、つまり、《対話が成立している》のである。宗教対話は、対立点を巡っての交渉において、なんらかの妥協点を見いだす試みではなく、むしろ、自他の差異に対する根本的な相互承認に他ならない。

また、「宗教[間]対話」に関心を持つ人にとっては、自身が宗教者であること、自身が自宗教の内にあること、また、自身は自宗教を理解している、とのことが前提されている。他宗教に生きる人も、同じく、その人にとっての自宗教を理解している、と前提されている。しかしながら、《他宗教との出会い》のなかで自他の宗教が見つめられるとき、他宗教についての新たな知識が得られるだけではなく、自宗教についての(それまでの)自己理解が修正されるのではないだろうか。むしろ、他宗教のみならず、自宗教についても、《新たな》(それまでには自覚されていなかったような)理解が生まれてくる可能性があるのではないだろうか。

3.「諸宗教の教学(神学)」――《啓示の宗教》と《覚の宗教》、《末法観》と《終末論》

3-1.《啓示のショック》――cf.「非有のショック」(Tillich)

報告者(高田)にとって所与の宗教は仏教(浄土門仏教、とりわけ、親鸞の流れとしての浄土真宗)である。いつしか、関心を持つようになった《他の宗教》は、「キリスト教」であった。そして、「仏教とキリスト教」が関心事となるところで、両者が《覚の宗教》と《啓示の宗教》としての差異性が《発見》されていった。さらに、「キリスト教」に関して、《ヨーロッパ・キリスト教》(存在神論ontotheologyという形而上学を有し、西欧文化としてあるようなキリスト教)と、《宗教としてのキリスト教》との差異(キリスト教という宗教の持つ多面性)が《発見》される。「ヨーロッパ・キリスト教徒」にとって「東洋の宗教、仏教」のなかに見る「非有」が衝撃的な事態であるという証言(P.ティリッヒ、H.ヴァルデンフェルス)に対応する表現をすれば、《啓示の宗教》――アブラハムへの啓示、モーセへの啓示、ムハンマドへの啓示――との出会いは《啓示のショック》に他ならない。

神が人間に啓示をしてくる。その啓示に応答するところに自身の人生を見いだす。そこには、啓示してくる存在が創造主であり、自身(人間)および自身がその内にいるところ(世界)が被造物として理解される。「我と汝、我とそれ(Ich-Du、Ich-Es)」関係として「神・人間・世界」の構造があり、そのような《歴史世界における神との出会い》において生きることが「信仰」に他ならないという宗教は、仏陀(覚者)に成ることが究極の理想である仏教、《覚の宗教》である仏教(徒)にとっては、まさに、《見経験の、見知らぬ、他なる事態》に他ならない。そのような出会いを《啓示のショック》と表現することができるだろう。

3-2.《終末論に立つ信仰》と《末法観に立つ信仰》

さらには、「我と汝、我とそれ」を根元語とする《啓示の宗教》の世界にあって、メシア(救い主christos)を「イエス(言行)」において告白する「キリスト」信仰の《独自性》が登場してきた(キリスト教が成立した)。この「メシア/キリスト」信仰に関しては、ユダヤ教とキリスト教との差異性が存在し、また、それは、(アブラハムを信仰の父とする《啓示の宗教》のなかでは最後に成立した)イスラームからのユダヤ教理解、キリスト教理解とも関係しているが、それらは《啓示の宗教》における《内》の問題であって、《外》の者には直接の関心事となってこない。

《啓示の宗教》のなかで、キリスト教に関しては、まさに、その「キリスト」信仰の要素が、非信者にとっては、いわば、《謎》に見えるものである。ナザレのイエスが何か《新たなこと》を語っているところに根本的な事態が存在するのであるが、いったい、そこには何があるのか。それこそ、キリスト教徒が求め続け、語り論じ続けているものである。そのような「キリスト」信仰における一つの要素、つまり、「終末eschaton」が(筆者にとっては)注目すべきものとなってきた。それは、大乗仏教、特に、聖道門・浄土門が判別されるところで選び取られる「信」(末法観に立つ信)、さらに、そのなかで、さらなる独自な仕方で「信」(行信)を語る《親鸞の教え、浄土真宗》との間で、それぞれの独自性(特異性)の依拠しているところ(いわば、《謎》の出所)に、類似性が看取されてくる。

3-3.自宗教の《発見》――「転ず」

仏教は「転迷開悟」の真理を教える。そこにおいて働く論理は「転ずる」ということがらである。「十牛図」「二河白道の譬喩」(図)において、基本的に《おなじ》ことがらが語られている(同時に、explizitな表現で、相違する箇所がある)。ここでは、浄土門仏教の文脈において見ておきたい。伝統的に、「二種深信」(機の深信、法の深信)として語られているが、《末法において、真実を説く経典に出遇い、仏法に照らされて自己を知る》ということで、《末法観に立つ信仰》は、《時と機と法》「深信」として《発見》される。

親鸞『唯信鈔文意』(真宗聖教全書二、p623)
また「自」はおのづからといふ、おのづからといふは自然といふ、自然といふはしからしむといふ、しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切の罪を善に転じかへすといふなり。転ずといふは、つみをけしうしなはずして善になすなり。よろづのみづ大海にいればすなはちうしほとなるがごとし。弥陀の願力をしんずるがゆへに如来の功徳をえしむるがゆへにしからしむといふ。はじめて功徳をえんとはからはざれば自然といふなり。


「日本におけるトマス・ヒル・グリーンの受容史から垣間見えるもの」

水野友晴

トマス・ヒル・グリーンの思想が全くそのままの形で移植された時期は戦前の日本においてただの一度もなかった。グリーンの思想はその都度の事情と要求によってある部分は拡大され、また別の部分は無視されることによって、あたかもカメレオンのごとくその色付けを改変させられながら戦前の日本倫理思想において一方の勢力であり続けた。そしてそのような改変は、明治三〇年代、「最盛期」といわれる比較的自由な研究が可能であった時期においても無関係ではありえなかった。

本来グリーンは19世紀後半のイギリス社会における市民社会成立という状況下で思索を展開した人物であり、なかでもそのような市民社会における新たな自由概念の策定――自由を自由放任としてとらえるのではなく、むしろ進んで義務を果たすことこそが自由であるとする自由概念――を自らの課題とした思想家であった。

グリーンはベンサム、ミルらの功利主義に含まれる自然主義的態度を鋭く批判する。すなわち、善悪正邪の価値は快楽のような自然的事実によって定義されるのではなく、むしろそれらを生み出す「望ましいもの」の働きに依存する。つまりその価値は快楽の属する現実的次元に属するのではなく、それを超越する理想的次元に属する。したがって、人間の行為の価値は、この「望ましいもの」をいかにして現実の世界に滞りなく実現するかによってはかられることになるが、「望ましいもの」は社会制度や法律を媒介としてわれわれの前に既に立ち現れてきているので、それらの精神を汲んで進んで社会的、政治的義務を遂行することが各人に求められる善行為であることになる。その際、そのような行為は誰かから命令されて強制的に行う行為ではなく、むしろもっとも望ましいことを自らの意志において行為するのであるから、義務の遂行においてわれわれは真に自由に行為するということができる。グリーンの自由思想は以上のように要約することができる。

しかしそのような自然主義批判、理想主義的態度などを十分にふまえてグリーンが日本に受容されることはなかった。グリーンはさまざまな政治的意図のもとで受容されることになった。ある時には、自由民権運動が採用するミルらの功利主義に対抗する「官学」として、ある時には政府による思想統制に対抗するアカデミズム擁護の思想的根拠として、そしてまたある時にはマルクス主義に対抗する思想的根拠として、グリーンの思想は本来の適用範囲を大きく踏み越えてその場その場の意図から都合よく利用されていったのである。

このことは対象を客観的に理解すること、学説を歪まずに移植すること、それがいかに困難な試みであるかを示している。少なくともグリーンの例を通じて我々はこのことに自覚的になるべきである。

その裏返しとして第二点として指摘したいのは、ある思想を受容するという試みには必ずそれを受容しようとする受容側の意図・事情がそこに含まれるということである。その意味で受容される思想は受容側の「鏡」なのであり、注意深い仕方でオリジナルな思想と受容後の姿とを比較することで、われわれはそこに隠れている受容側の意図・事情を探り当てることができる。対話は相互理解であるとはよくいわれることであるが、そこでいわれる相互理解とは単に相手を理解するということにとどまるべきではない。まず相手を理解したうえで、その他者理解をよく自己理解へと転じえてはじめて相互理解が真の意味で実り多いものとなるということができるであろう。そこには他者と自己とを互いに映しだしあうことのできる共通の地平獲得という意味が含まれている必要があり、逆にそこまで進んで初めて対話は本来の目的を達したということができる。

つまりそこにおいては、個人間に見られる考え方の相違は単に個々人の個性の反映であるという以上の意味が担わされることになる。個人間の見解の相違が実は彼等が参与している社会、文化からの反映であり、我々はむしろその差異に注目することによって社会性、文化性の相違に対して目を開かれることになる。考えの相違はその背後にある者を映しだす鏡なのである。

たとえば西田によるグリーン批判も、それは西田とグリーンとの間の対決であると同時に、イギリス社会と日本社会との対峙なのであり、しかもそれは抽象的な意味でのイギリス社会対日本社会ではなく、具体的な一九世紀イギリスの市民社会対一九世紀日本の空虚な社会である。そしてそのいずれに対しても我々はグリーンと西田の比較というテーマを入り口に踏み込んでゆけるはずであり、それが可能になるまで徹底して比較の作業を続けなければならない。比較という作業は、第一の方向としてグリーンと西田の相違、そしてその背後にあるイギリスと日本との相違という特殊的差異性を明らかにしてゆくことであると同時に、第二の方向として西田「と」グリーンという両者を包括する根源的な地平を開拓することであるといえる。そのような地平を開拓し、われわれ自らがそこにおいて立つとき、われわれは真にグリーンと西田を公平な視点から眺め、比較することが可能となるといえよう。

今後の予定

第7回研究会の予定

日時:10月19日(日)13:30〜17:00
会場:COE研究室(京大文学部東館4階北東角)
発表:佐藤啓介氏(キリスト教学博士課程)
    「対話の中の「わたし」」(仮題)
藤田正勝氏(日本哲学史教授)
     「異文化理解(翻訳)の可能性」

◆ 今後も定期的に研究会を予定しておりますので、多くの方々のご参加をお待ちしております。

□研究会事務局□ 606−8501 京都市左京区吉田本町京都大学文学部
片柳研究室 TEL(075)753-2747 宗教学研究室 TEL(075)753−2839 担当:竹内
e-mail dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp URL https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/jp/projects/projects_completed/hmn/dialog/