Newsletter vol.6 (2003.10)

  1. 第7回研究会報告
  2. 今後の予定

第7回研究会報告

2003年 10月 19日(土) 13:30 〜 17:00 COE研究室にて
発表: 佐藤啓介 「対話の中の「わたし」」
    藤田正勝 「異文化理解(翻訳)の可能性」


「対話の中の「わたし」――わたしがわたしにもたらす揺らめきをめぐって」

佐藤 啓介

対話が成立するためには、最低二人の話しあう人間、話しあうことを可能にさせる言語、対話が行なわれる場、その三つが必要である。これら三つの要件が満たされている状況が、対話の基本的な構図であろう。その構図の中で、「対話の中でわたしが一人称の代名詞《わたし》を用いて話す」という些細にして不可欠な行為は、これまで少なからぬ思想家の注目を集めてきた。特に注目すべきは、言語学者E. バンヴェニストによる議論と、それを各々独自な形で受容・発展させた二人の哲学者、P. リクールとG. アガンベンの議論である。バンヴェニストの議論をリクールとアガンベンがどのように受容したのかを検討することで、「対話的探求」の最小単位の一つとしての「《わたし》と言うこと」の諸相を考察することが以下の主題である。

バンヴェニストは人称代名詞について言語学的検討を施した上で、一人称と二人称について、その指示対象が、その語が含まれている言述そのものによって同定され、かつ、そこへと送り返される人称だと規定する。つまり、それらの語は、それが実際に発話されている「言述の現実」を指し示すという、瞬間的で出来事的な性格をもつ。バンヴェニストはそうした発話を「言述の現実化行為」と呼ぶ。彼はこうした考察に基づき、「主体とは、《わたし》と言うことの中で構成されるものだ」という大胆な主張を打ち出す。そして最終的には、「個々の話し手が、自らを《わたし》として指し示すことでラング全体を自らのものとすることができるよう、言語は組織化されている」とさえ主張する。

しかし、このような主張はいくつかの問題を抱えている。《わたし》という語は、その人称で自らのことを指し示しながら話す人になら、誰にでも代入可能な空虚な人称である。だが、言述の現実化行為の中で、《わたし》は、そのつど話しているその人だけに専有され、誰にも代入され得ない《わたし》の固定化が起こる。この代入可能性とその固定化による代入不可能性の関係が、第一の問題である。さらに、誰にも代入されえない《わたし》の固定化が、あくまで言述の現実化行為の中での個別的な固定化であって、普通の意味での恒常的な生身の「わたし」に送り返されないというのが、第二の問題である。要するに、発話行為のみならず、発話する主体自身が離散的な出来事になってしまうのである。

リクールは、大筋においてバンヴェニストの考察に同意を示すが、これら二つの問題を解消するため、「言うこと」に先立ちそれを可能にさせている「主体」の働き、具体的には「語ることのできる能力」を前提として認めるべきだと主張する。ただし、そこでの主体とは、意志によっても意識によっても律することのできない欲動に突き動かされ、かえって「わたし」がわたしから失われつつある状態に陥っている主体である。そのため、主体としてのわたしは絶えず自らを捉え直さざるを得ない。リクールは、《わたし》と言う中で「わたし」が構成されるというバンヴェニストの主張を、《わたし》と言う中で「わたし」が捉え直されるのだと修正を施す。それによって、《わたし》を伴うそのつどの発話行為を、「わたし」自身をそのつど捉え直すための媒介行為として位置づけ、先の二つの問題を彼なりに解決したのであった。

他方、アガンベンは、リクールが矛盾と見なして解消しようとしたその二つの問題を、矛盾と見なすことなくそのまま受容する。そして、バンヴェニストの言述の現実化行為において、「主体化と脱主体化が同時発生する」と主張する。《わたし》と言う人は、言うことを通じて、言うことの潜勢力であるラング全体を自らのものとする。しかし、ラングとは話す人が話す前から既に確立しているものであり、それ故、語る人はラングを現勢化させながら語るほかない。従って、パロールにおいて語るのは、個人ではなく、ラングだということになる。この意味で、「わたし」と口にしている当の本人が自分で、いや、自力で語ることは不可能だという結果になる。それ故、言うことにおいて言述の主語としての主体化が起こると同時に、言う当の本人がラングに飲み込まれてしまうという脱主体化が起こるのである。これが、バンヴェニストの主張を字義通りに解した上でアガンベンが考える、主体化と脱主体化の同時発生である。アガンベンは、言うことを境とするこの同時発生を、言述の現実化行為によって構成される「主体」と、ラングに飲み込まれる「生きている者」との間の隔たりの間で交わされる「交替」として理解する。その二つの系は、決して一致することなく、そこには常に隔たりが介在しているとされる。事実、リクールが直ちに前提とした「語ることができる能力」の背後には、「ラングを持たないことがあり得る」というもう一つの可能性がある。アガンベンは、パロールという現勢態ではなく、ラングという潜勢態から「言うこと」を見つめ直すことで、主体化の裏側で同時に起こる脱主体化という出来事を発見したのである。

厳密な突き合わせは更なる考察を要するにせよ、バンヴェニストを受容したリクールとアガンベンの議論は、「《わたし》と言うこと」において「わたし」自身に反射的に跳ね返ってくる「言うことの力」、しかも多様な力が同時に存在することを示唆している。

対話的探求(ないし対話一般)の構成要素のごく一部のみを扱った結果、以上の考察では、話し相手としての他者や、話す状況としての場の問題が散逸してしまったのは否めない。しかし、その限定性の結果、少なくともこう言うことは可能になっただろう。対話の中で発する《わたし》というあまりにも些細な一語。それを口にするその瞬間にその語がわたしにもたらす「揺らめき」は、決して対話の中でわたしを安定させてくれないのだ、と。そして、対話的探求とは、言葉の中でわたしを絶えず揺るがせながらでしかなされえない探求なのだ、と。


「異文化理解(翻訳)の可能性」

藤田 正勝

考察の手がかりにしたいのは、井筒俊彦氏の「文化と言語アラヤ識――異文化間対話の可能性をめぐって」という論文である。井筒氏は、日本におけるイスラム学を確立した人として知られるが、この論文では、その副題が示すように、「異文化間の対話の可能性」ということをめぐって考察がなされている。

井筒氏がこの論文でまず出しているテーゼは、「異文化間の対話の可能性」ということが、すぐれて現代的な問題であるというテーゼである。なぜ「すぐれて現代的」なのか、そのことがまず問われるが、それはおそらく、われわれが「グローバル化」の、言いかえれば「地球社会化」の時代に生きているというということに関わっていると思われる。

われわれの社会の「グローバル化」ということを押し進める原動力になったのは、言うまでもなく「科学技術」であるが、それによって、われわれが持っていた空間的・時間的隔たりは、飛行機などの交通手段によって、あるいはインター・ネットなどの通信手段によってますます小さいものになってきた。文化的な隔たりも同様である。スピルバーグの映画や、マクドナルドに代表されるアメリカの食文化は世界を征服し尽くしたかのような感がある。言語の領域でもそういう現象を見ることができる。コンピュータやインターネットといった言葉は世界中で使われている。われわれの文化は、均一化、あるいは画一化の方向に向かって確実に動いているように思われる。

そういう時代状況と関わりがあると思うが、記号論の領域で「文化的普遍者」(cultural universals)という言葉がよく使われるようになったことに井筒氏は注目している。われわれのものの見方や感じ方、価値観、あるいは行動の仕方には、われわれが属する文化によって、それぞれに特徴的な型というものがある。ルース・ベネディクトが『菊と刀』のなかで区別した「恥の文化」と「罪の文化」というのも、その一例になるかと思う。そういう文化パラダイムが、「地球社会化」とともに画一化し、地球規模で共有されるようになってきたということを先ほど述べたが、そのような仕方で共有される一様化した文化の型が「文化的普遍者」である。

この文化の一様化によって異文化間の対話の困難さは克服されたというように考える人々が出てきている。異文化間の対話ということは、その前提として翻訳を必要とするが、この翻訳ということも――それに携わった人はよく御存知のように――決して容易ではなく、多くの困難を伴う。しかし、その困難についても、その問題は基本的には克服されつつある、あるいは少なくとも近い未来に克服されるであろうと考える人々がいる。

しかし井筒氏は、そういう状況に置かれているにもかかわらず、あるいはむしろ、そういう状況に置かれているからこそ、逆に「異文化間の対話、あるいは翻訳が可能なのか」という問いが、より先鋭に浮かび上がってきている、というように考えている。この逆説性、つまり、文化の一様化が進行しているにも拘わらず、「異文化間の対話が可能か」という問題がより先鋭な形で浮かび上がってきているということについて、まず考えてみたい。

井筒氏は、基本的には、言語というものをその表層においてだけではなく、その基底――それを氏は唯識の「アラヤ識」という概念をふまえて「言語アラヤ識」と表現する――まで含めて考えれば、異なった文化のあいだでどこまで相互理解が可能なのか、あるいは、そもそも相互理解というようなことが可能なのか、大いに疑問としなければならない、と考えているように思われる。  もちろん、文化と文化との接触には多くの摩擦や軋轢が生じる。しかし、それにも拘わらず、異なった文化間で互いを理解しあうということは可能なのではないか、文化間の摩擦や衝突が、逆に創造的なものにつながっていく可能性が考えられるのではないか、つつまり、摩擦や衝突によって、自らのものを見る見方の一面性が明らかになり、そのことを通してわれわれの知的地平が拡張されるのではないか、そのような点について考察を加えたい。

今後の予定

第8回研究会

日時:12月6日(土)13:30〜17:00
会場:COE研究室(京大文学部東館4階北東角)
発表:小林信之氏(京都市立芸術大学助教授)
     「対話の可能性と不可能性――ハイデッガー『ある日本人との対話』を出発点として――」
    大越愛子氏(近畿大学教授)
     「弔いのポリティクス」

◆ 今後も定期的に研究会を予定しておりますので、多くの方々のご参加をお待ちしております。

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