Newsletter vol.7 (2003.12)

  1. 第8回研究会報告
  2. 今後の予定

第8回研究会報告

2003年 12月 6日(土) 13:30 〜 17:00 COE研究室にて
発表: 小林信之 「対話の可能性と不可能性――ハイデッガー『ある日本人との対話』を出発点として」
    大越愛子 「弔いのポリティクス」


「対話の可能性と不可能性――ハイデッガー『ある日本人との対話』を出発点として」

小林 信之

そもそも「対話」とはなにか、また一般に「対話」がどういう状況において成立するのかを突き詰めて考えてみると、クオリアの例をあげるまでもなく、他者とわたしとのあいだ、あるいは昨日のわたしと現在のわたしとのあいだには、すでに越えがたい断絶があることに気づく。しかし通常そのことは意識されず、わたしたちの日常においては、有意味的な活動性の圏域を形づくるかぎりにおいて、コミュニケーションと相互理解が成立していると想定されている。

しかしそれとは別の次元で生起するコミュニケーションもありうる。それは、いわば相互理解の不可能性を顕在化させる対話である。たとえば、いま現在わたしの感じている「痛み」の質そのものはけっして他者に伝ええないとしても、痛みをかかえているという自己のあり方それ自体を、ある特殊な言葉を媒介させて表現しようとする場合。それは、ある意味でわたしたち自身のもっとも固有な存在にかかわる次元の言葉であり、具体的にいえば、一回的な経験の固有性と切り離すことのできない詩や文学の言葉、または存在へのラジカルな問いを投げかける思索の言葉である。そのような言葉に揺り動かされてわたしたちは、他者とわたしたちを隔てる本来の断絶を知るのであり、それでもなお言葉を発せざるをえない必然性に思いいたるのである。わたしたちは、日々無数の会話をくりかえしながら、にもかかわらず同時に、狎れあった日常性の領域を一歩踏み出そうとした途端に対話が対話として生起することの挫折を日々経験せねばならない。

ところでこの場合、対話というテーマが、個人のレベルを超えて、異質な言語、異質な文化のあいだの対話、たとえば思想の解釈や翻訳といった問題にひろがる場合であっても、基本的には同じであると考えられる。そしてハイデッガーがおこなった「ある日本人との対話」(M. Heidegger, „Aus einem Gespräch von der Sprache, Zwischen einem Japaner und einem Fragenden“(1953/54), in: Unterwegs zur Sprache, GA 12.)を今日わたしたちが読み返すとき、まさに以上のような問題に対するハイデッガーなりの応答がそこに提示されていることに気づく。

ハイデッガーはこの論文で、異質な文化的由来に属する、異質な言語間の対話を、思索の次元においてはネガティヴに規定し、たとえば東アジア固有の思考を西欧的・形而上学的な概念体系で解釈することの危険性を指摘する。

だがそれならば、なぜハイデッガーはひとりの日本人との思想的対話をおこなおうとするのか。この会話が必要とされる必然性とはいかなるものなのだろうか。ふたつの異なった存在のあいだにそもそも対話が成立するためには、その対話の根底に、なにか共通のものがなければならないであろう。けれどもそれは、ハイデッガーによれば、近代的・技術的・西欧的思考様式が今日他の諸文化を支配し平板化していくという仕方で、強制的に生ぜしめられるような共通性であってはならない。だとすればハイデッガーは、この対話そのものを可能にしている共通の根源的根拠をどのようなものと考えているのだろうか。この点についてかれはただ示唆的にこう言うだけである。「対話のあり方は、唯一語ることをなしうると思われる者、すなわち人間が、いかなるものから語りかけられているかによって、その性格を規定されるのだ」と。この、人間に語りかけるものとは、存在の家として、わたしたち人間の現存在を根底において規定している言葉それ自身にほかならない。日本人との思想的対話においてハイデッガーは、かれが言葉の本質として考えようとしている事柄が、東アジアの言葉の本質にあっても適合するのかどうかを問題にする。ハイデッガーは、西欧的な言(Sagen)と東アジア的な言とが対話をかわし、両者がその源泉においてともに歌いだすことを可能にするような、共通の言葉の本質が、はたして経験されうるのだろうか、と問いかけるのである。

だから、言葉の本質への問いだけが、対話の内容をなすことができるのであり、また対話を推し進め、異なった思考様式と世界内存在とを近寄せることができる。そしてその後ではじめて、さまざまな思想的な基礎概念を異なった言語で解釈し翻訳するといった可能性も生じてくるであろう。

ハイデッガーは、異なった由来のあいだの対話を根底において支配している言葉の共通の根源を問う。そして具体的に、「言葉」という日本語とドイツ語の Sage との「近さ」を暗示し、断絶をへだてた両者の照応を見いだそうとする。じっさいハイデッガーが1930年代以降「放下」や「物」といった論文で展開してきた思想の傾向は、かれが知っていたかぎりでの東アジア的思考との類縁性を示しているということができる。なるほど、この「言葉についての対話から」という論文でも、明らかな誤解や日本語に関するあまりにおおざっぱな理解を示しているような箇所が散見される。しかしハイデッガーは、かれなりの仕方で、日本語に蔵された思考様式が、西欧とは別の世界内存在の有り方を提示しうることを示唆している。日本語にむけられたハイデッガーのまなざしは、字面の単なる解釈や翻訳を越えて、ふたつの文化のあいだで成り立ちうる対話の可能性を凝視しており、この意味において、他なる文化へのかれの関わり方は、技術によって一面的に支配され、またいわゆるグローバル化によって均質化された現代世界なかで、それに抗しつつインターカルチュラルな対話をかわす可能性を暗示しているといえよう。


「弔いのポリティクス」

大越 愛子

アフガン戦争に続くイラク戦争で世界が泥沼状態に陥っている現在、国家が行う「戦争」で死ぬことの意味が、大きくクローズアップされている。国家が強いる戦争のために、なぜ動員され、「敵」とされる見知らぬ人を殺し、敵方の人々の生活を破壊し、そして自らをも死ななければならないのか。このような根源的ともいえる問いは、「敵」とされる人々を他者化、異物化することで封印されている。現代では、「敵」は「テロリスト」と命名されている。植民地主義や奴隷制のトラウマ記憶は、再び封印され、世界はテロリスト側とテロリストの抹殺を企てる側とに二分化された。そして戦争で敵とされた人々を殺すこと、あるいは戦争で死ぬことを正当化する意識が立ちあがってきている。つまり戦争での「死」を合理化する「弔いのポリティクス」の時代が再出現しつつあるのだ。

「弔いのポリティクス」は、現在の日本においては靖国神社問題として論争を呼んでいる。そこでは国家による追悼を望まず、死者を家族に返すことこそ、「戦没者追悼」の国家利用を許さない道であるという主張がなされている。だが、死者を家族が弔うこともまた、弔うべき愛する死者と憎むべき敵とのあいだに境界線を引くことに変わりはないのではなかろうか。つまり、「家族の弔い」を「国家の弔い」と対置できると見なす考え方は、家族がいかに近代国民国家の戦争にとって必要な装置であったかを看過しているのである。

弔いをめぐる家族と国家の葛藤の議論といえば、即座に思い出されるのが、ソフォクレスの『アンティゴネー』である。アンティゴネーは近代思想において最も魅力的に語られてきた「女性イメージ」であるが、その存在を原理的な意味に突き詰めて捉えて、近代のジェンダー・モデルへと典型化したのは、ヘーゲルと言えるだろう。

ヘーゲルは、アンティゴネーにおいて、公的な政治世界に屹立して行く男性的精神に対抗しつつ、その「男性的精神」が生成する基盤となり、そのための犠牲となることに誇りをもち、「家族」の原理を体現する「女性的精神」の典型を見いだした。ヘーゲルにとってアンティゴネーは、さまざまな葛藤をもつ個人ではなく、「女性的」とされる「倫理的実体」を体現する自己同一的な主体である。「男性的精神」に対抗する「女性的精神」という内面的な自己同一的原理に自発的に隷従するSUBJECTである。男性は公的領域における自己実現の道を歩み、女性は家族という私的領域にとどまるというジェンダー化された近代公私二元論の倫理的正当性を、ヘーゲルは臆面もなく語っている。地上を支配する「男性」は、それ自体で存立しているのではなく、地下を支配する「女性」の支えがあるからこそ、その権力を維持しうるのだし、「女性」もまた「男性」を通して社会に対する関わりを保つのであり、その表面的な対立は、相補的依存関係の認識によって止揚されるというのだ。

ヘーゲル的弁証法は、男性主体が家族から出て、社会において自由に闘争する主体へと自己生成していくことが、同時に国家という絶対者と一体化するプロセスであることを示しているが、国家と一体化することは、同時に国家の基盤である家族へと回帰することでもある。ヘーゲルが重視した女性役割が、「弔いの女」であることが重要である。最大の敗者とは死者だからである。敗者、死者となるかもしれない危険を乗り越えて主体化の道を突き進むことができるのは、その弁証法の原動力として、どのようなみじめな状況にある敗者、死者をも祀る存在が前提されているのだ。その存在によって、彼は家族の血へ、そして民族の血へと回帰できるのである。

この意味で家族は国家の最大の共犯者に他ならないのだが、ヘーゲルはこのことをむしろ不可視にしようとしている。絶対主義的強権体制下と異なって、近代国民国家では家族の祭祀は強制によるものであってはならず、あくまで家族の自発性に基づいているというそぶりが示されねばならない。それゆえ家族を体現する女性は、国家共同体に全く癒着しているよりも、それに対立できるスタンスをもつ方が望ましい。アンティゴネーのように、一見国家と対立的でありながら、その自己犠牲によって、結果的に国家の礎を強固にする存在が必要になるわけである。

国家は人倫的な家族の祭祀の原理を弁証法的に止揚することで、つまり国民国家と家族は決して対立するのではなく、血の絆という点で内通していることをあらわにしていくことで、「弔いの祭祀」は次の段階に移行しうる。つまり家族祭祀と国家祭祀の一体化である。

このようなヘーゲルのアンティゴネー読解は、家族と国家をめぐる弔いのポリティクスを弁証法的に統一するために、見事に捏造されたものに他ならない。ヘーゲルは、家族祭祀と国家祭祀の内通関係をはからずもあらわにしているが、このようなヘーゲル的コンテクストを解体的に批判することなしに、「弔い」を国家から家族へ取り返せという言説戦略がいかに危ういものであるかは明らかであろう。  ジュディス・バトラーの近著『アンティゴネーの主張』は、アンティゴネーを家族神話から解き放つ読解をパフォーマティヴに試みている。バトラーがアンティゴネーに読みこむのは、ヘーゲル的な「女性的精神」の体現者としてではなく、むしろそうした「男性」「女性」のジェンダーを攪乱するエイジェンシーである。アンティゴネーの欲望は、家族内部の暴力や憎悪を自己犠牲的に受け入れ、浄化していく「埋葬する女性」になることではない。

近代国民国家主体形成のためにアンティゴネーを徹底的に利用するヘーゲルの戦略は、見事に成功し、彼女は近代的ジェンダー世界を象徴するヒロインとなった。「男性的精神」と異質な「女性的精神」という本質主義的神話は、自らの信念に生き、それに殉じたアンティゴネーの物語を通して説得力を持ち、ジェンダー本質主義は自然化され、ヘテロセクシュアリティは本能化された。血縁家族は愛と生の源泉と絶対視され、内部に潜む暴力は無化されてしまったのである。

バトラーは、家族の自然化、絶対化を図るヘーゲルのアンティゴネー物語の捏造を見抜き、その物語をパフォーマティヴに再構成することで、アンティゴネーを遂行することはいかなることかを展開してみせている。バトラーのアンティゴネーは父と兄を偏愛することにおいて家族を演じるのであり、それはすなわち暴力と滅亡に至る家族を演じることである。このような彼女のパフォーマンスによって明るみに出るのは、家族の内部に溜め込まれた暴力、ドメスティック・バイオレンスと言えるだろう。

バトラーのアンティゴネーは、ジェンダー・トラブルの実演者であり、家族が内包する暴力に感応し、秩序の破壊者となることを通じて、近代が作り出したジェンダー二元論的秩序、異性愛体制の虚構性を暴き出している。家族神話こそが、近代国民国家の基盤とされていることを顧みれば、このバトラーの読解が、国民国家神話を揺さぶるものであるに違いない。しかし、私はここで、バトラーと異なる角度からの『アンティゴネー』の読みの可能性を提示したい。アンティゴネーが侵犯し、そのために罪に落とされることとなった「弔いのポリティクス」を通してである。アンティゴネーをヘーゲル的な家族の原理の体現者として読むことは、ヘーゲル的な「弔いのジェンダー・ポリティクス」に回収されることになる。となれば、アンティゴネーをむしろ家族の規範の外部にいる者、審判者として読むとき、どうなるだろうか。

ここでは、アンティゴネーが反逆したのは、クレオンが命じた死者の弔いの峻別であると捉えたい。死者の弔いを選別するクレオンの論理に従順なイスメネは従うが、アンティゴネーはそうではない。彼女は、クレオンに対抗する論理として、「書き記されていなくても揺るぎない神の掟」を出すが、それをヘーゲルのように家族の論理とみる必要はない。国家の論理による死者の選別、それに応じた弔い方の著しい違いを無化する論理を彼女は提起していると考えられる。クレオンの論理では、国家生成の際にどのような暴力が激発しようとも、いったん国家秩序が成立した際に、国家成立のために犠牲となった者を弔うことで、暴力は鎮撫される。それゆえ国家秩序の安定のために、弔うべき者、弔われない者の峻別は必要不可欠なのであり、その儀式によって暴力の記憶は国家成立のための栄光の記憶に昇華されうるのである。それに対し、アンティゴネーは、むしろ国家によって切り捨てられた者、弔われることなく放置された者を敢えて弔うことで、国家が隠蔽しようとする暴力を明るみに出している。

死者を選別し、弔われる者を儀式において称えることで、弔われない者の記憶を抹殺する国家に抗して、アンティゴネーは命をかけて抵抗した。この彼女の抵抗が、ヘーゲルの読解によって、国家と異質な家族の論理へと矮小化されてしまったのである。「兄」だから弔うとする限り、「弔われない者を弔う」ことで国家の暴力を暴くアンティゴネーの抵抗の論理は、無価値化されてしまうからである。アンティゴネーの物語が示すのは、国家によって弔われない者とは、国家に反逆し、殺された屍は無残に放置され、その死すら国家の歴史から消去されるべき者であり、国家の論理に抵抗し、弔われない者の記憶を呼び起こそうとする者だということである。

国家の論理は、自らに従順か、そうでないかで死者を峻別する。それに対し家族の論理は、兄弟かそうでないかの血の論理で死者を峻別する。このような死者の峻別に、アンティゴネーは抵抗したと読むことができるのではないか。そしてこのような死者の峻別を拒絶し、むしろ国家や家族などの共同体から排除された者を弔い、彼等の記憶を呼び覚まそうとする者こそ、国家の「弔いのポリティクス」の陥穽をも暴くものではないだろうか。

1990年代以降、女性に対する国家暴力が明るみに出るに連れて、国民国家の暴力、戦争遂行主体としての暴力や開発暴力、植民地主義暴力、テクノロジー暴力に批評的スタンスをとる、トランスナショナルなフェミニズムが出現してきている。彼女たちは一国主義的、「帝国」的政策に抵抗するさまざまな戦略を編み出しているが、近年注目されているのが、国家の「弔いのポリティクス」に抗する女性たちの運動としての、「ウィメン・イン・ブラック(WIB)」である。WIBは、誰が生きるに値して、誰が生きるに値しないかを定めている規範に挑戦している。彼女達は哀悼する儀礼を、国家暴力に対する政治的抵抗の場へと転化し、自分たちの国の攻撃と軍事主義に反逆する戦術を遂行しているのである。このような抗議を通して、彼女たちは現代のアンティゴネーとして、現代において不可能となった対話の可能性を模索しているといえるのではないだろうか。

今後の予定

第9回研究会

日時:1月31日(土)13:30〜17:00
会場:COE研究室(京大文学部東館4階北東角)
発表:今村純子氏(宗教学OD)
     「沈黙における対話の可能性」
    Martin Repp 氏(NCC宗教研究所研究員)
     「日本の仏教における宗論とヨーロッパのキリスト教における論争と現代の宗教間対話」

◆ 今後も定期的に研究会を予定しておりますので、多くの方々のご参加をお待ちしております。

□研究会事務局□ 606−8501 京都市左京区吉田本町京都大学文学部
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