Newsletter vol.8 (2004.2)

  1. 第9回研究会報告
  2. 今後の予定

第9回研究会報告

2004年 1月 31日(土) 13:30 〜 17:00 COE研究室にて
発表: 今村純子「沈黙における対話の可能性」
     Martin Repp「宗教間対話の歴史的な背景 ――仏教と基督教に関して」


「沈黙における対話の可能性」

今村 純子

極限の苦悩に陥れられたひとびとは、自らを語る「言葉」がない。同様の苦悩に直面しているひとびとは、唯一の共苦可能なひとびとであるのだが、そのひとたちは、「他者」の苦悩を認識しえても、「他者」の言葉に耳を傾け、救済する力がない。他方、救済する力のあるひとびとは、「肉体が死を厭うように」、極限の苦悩に直面することを避けるので、自らが虚無に直面しない範囲での安易な「想像力」のうちに「他者」を回収するか、あるいは、「他者」の「権利」を前面に押し出すことで、「他者」の言葉をかき消してしまう。したがって、極限の苦悩に直面しているひとびとの言葉は、「軽犯罪の裁判所で雄弁に語る裁判官の前でもごもごと口籠る被告人」の言葉のように、「沈黙を強いられる」という「不正義/不条理」のままに発せられる「沈黙の言葉」とならざるをえない。もっとも聞き取られるべき、もっとも救済を必要としているひとびとの「言葉」は、このように、不在として現前するという事実を、シモーヌ・ヴェイユは「不幸は唖である」と、そして、スピヴァックは「サバルタンは語れない」と、適確に言表したのであった。

この「沈黙の言葉」は、その伝達不可能性にもかかわらず、あらゆる「権力意志」から解き放たれた、たったひとつの「真実の言葉」であるといえる。なぜなら、私たち万人が、もし、同様の「不正義/不条理」に接すれば、必ず、「なぜ、このような目に合わなければならないのか?」という問いを「他者」に向かって発せざるをえず、この「なぜなのか?」という問いを発する私たちの心の部分は、究極の「共通感覚」であるといえるからである。そして、「不正義/不条理」に接して「なぜなのか?」と問わざるをえない、私たちのこの究極の「共通感覚」は、「他者は私に悪ではなく善をなしてくれるに違いないと期待する私たちの心のうちのなにものか」と表裏一体をなす、私たちの心のうちなるもっとも貴い部分である。この人間の心のうちなるもっとも貴い部分が発する「沈黙の言葉」を、その沈黙のままに放置するならば、疎外は疎外を生み、疎外の連鎖は、苦悩するひとびを虚無の深淵へと陥れてしまう。他方、私たちは、「真実の言葉」との接触不可能なままに、虚偽の生を歩むことを余儀無くされてしまう。私たちは、如何にして、たったひとつの「真実の言葉」であるといえる、他者の「沈黙の言葉」を聞きとることができるのであろうか。私たちは、如何にして、「沈黙の言葉」が聞き取られ、救いあげられるような社会を構築する可能性へと歩み出すことができるのであろうか。この絶望的ともいえる問いに風穴をあけようと意志する私たちに、森崎和江(1927-)の主要著作の一つである『第三の性』(1967)は少なからぬ示唆を与えてくれると思われる。ボーヴォワールの『第二の性』を想起させる題名をもつこの書は、男/女の「分断」を明らかにし、そこから両者の共生の道程を模索する「女性論」であることは疑いがない。だが、「女がわが性をあるがままに男性世界と向き合わせようとすることは死を意味していた」、現在とは異なる女性の抑圧状況(1958年前後)において執筆されたこの書は、現在において、狭義の女性論に留まらない、マイノリティ一般に対する広義の意味作用をもつと思われる。

病身の森崎と病で10年来床に臥せる森崎の友人との15回に亘る「交換ノート」から成るこの書は、その「対話篇」という構成によって、「第三の」超越の方向性を指し示していると看做すことができる。二人の女性の間の15回に亘る「対話」の持続において、投げかける/受け取る「言葉」が、反芻され、想起され、熟考し尽くされる彼方において、「真実の言葉」が、お互いに、徐々に発せられることになる。このことは、「対話」の過程において、お互いを「問いつめる」、「断罪する」あるいは「懇願する」ことを通して、お互いの心のうちのなにものかが徐々に変容していくことを意味している。そして、この対話の持続を可能にさせるのは、この書の副題となっている「はるかなるエロス」にほかならない。対話者の間に行き来し、持続する「はるかなるエロス」こそが、対話者同士の「対幻想」が決して「共同幻想」に回収されることがなく、しかも男女の性愛に留まらない、真の「対関係」を構築する触発剤となるである。この「はるかなるエロス」とは、どのような不可能性に直面しようとも、森崎の言語によるならば、「手と手を取り合える一点を探ろうとする欲求の持続」であるといえる。そして、もし、対話者同士の間に、この「はるかなるエロス」を基底にした、真の「対関係」が築かれるのであれば、この「対関係」を基点として、抑圧の「体制論理」を転覆させる契機を掴む可能性が拓かれるのである。

しかし、この真の「対関係」の構築には、それを阻む数々の陥穽を回避しなければならないのはいうまでもない。そして、この陥穽を徹底的に回避しうるのも、また、真の「対関係」において築かれる、反芻、想起、熟考といった「対話」に固有の働きにほかならない。「共同幻想」の陥穽には、1.被抑圧者が、([当時の]男性同様に女性も「男性を買う」という権利奪取を図るなどの)抑圧者/体制論理と同じ権利回復を図ること、2.被抑圧者が抑圧者/体制論理との接点を閉じた(「女の園」や「縁切り寺」のような)集団を形成し、被抑圧者の「量」を「力」にしていこうとすること、3.(「他の女性は石ころであるが君だけは女である」といわれて飛び上がってしまうような)被抑圧者側の少数者が、「成り上がり者」的に抑圧者側/体制論理側に移行することなどが挙げられる。こうした「共同幻想」には、いずれも、個人個人の自立を弱めてしまう作用があり、その内部から自己破壊的に「対関係」の構築を崩壊させてしまうのである。『第三の性』における対話は、「対話の不可能性」というアポリアの提示から始められる。森崎と森崎の友人は共に、(当時の)女性という「被抑圧者」であり、かつ、「病を背負う」という「二重の疎外」に直面している。だが、彼女たちの間には、病の軽/重という疎外の「落差」がある。つまり、「産める性/産めない性」、「生を限定されていないもの/生を限定されているもの」、というさらなる「分断」の重層が彼女たちの間に厳然として横たわるのである。それゆえ、この「分断」が、「他者」の言葉を聞き取るお互いの通路を遮断してしまう。しかし、「百姓の生まれではないから百姓の閉鎖は分からんとか、娼婦となれなかったから娼婦の苦痛にどう手だしもできんとか放言しあうだけではなんにも出てこない」という森崎のテキストは、この「分断」を「分断」として際立たせ、「真空地帯」といえる「共苦不可能性」の両岸に対話者同士が対峙することを通して、抑圧の在り処を掴むことを、共苦の出発点としているのである。

森崎が森崎の友人に、この「対話」を構築する「交換ノート」を持ちかけるのは、自らの病に途方に暮れ、同じく病に苦しむ友人へと自ずと同苦の心情が湧くからである。しかし、相対的弱者である森崎の友人の疎外は、相対的強者である森崎が優位にたつ対話を進めることにより一層深まってしまう。だが、この共苦しようと働きかける相対的強者である森崎は、相対的弱者である森崎の友人が、自らの苦悩を吐露できる稀少な人物である。そして、ノートの交換が7回目を過ぎるとき、森崎の友人は「あなたに私の苦悩の一体何が分かるのか」と森崎を断罪する。この鋭い言葉は、それまでの対話の持続を可能にさせてきた「はるかなるエロス」が行き交う絶対的信頼を基底にして発せられたものであるが、共苦しようと働きかける森崎自身が、森崎の友人を苦しめる抑圧の「体制論理」の一員にほかならないことを森崎に自覚させることになる。他方、この鋭い言葉を吐く森崎の友人自身は、それまでの温和な抽象性の高い自らの言説が、自らの苦悩と自らの存在欲[産みたい/生きたいという欲求]の深さを見つめることを回避させていたこと、さらに、(「わたしゃ子供を産んだんですよ。くやしかったら産んでみたらいい」と悪態つく母族殿堂の)抑圧の「体制論理」に自分自身が無意識に則り、自らをも疎外していたことを自覚する。このように、対話の持続が、彼女たちを、それぞれの絶望の在り処とそれぞれの加害の意識に直面させることになる。そして、自らの絶望の在り処の把持と自らの加害の意識の把持こそが、「なにわ節」に比せられる感傷性や他者の苦悩を対象化するカタルシスといった共苦の陥穽を回避するのである。

このようにして、本来、同苦不可能な両者の間に、極限の「分断」を超えて、真の「対関係」が築かれるとき、両者が、それぞれに、自らの苦悩の根源を自らの手で捉えることによって、抑圧の「体制論理」の構図そのものを捉え、抑圧の「体制論理」を転覆させる契機を把持することが可能となるのである。

誰かが誰かの言葉を代表/表象するのではなく、また、「われわれは」という「量」を「力」に代えていくのではなく、自立した個人個人が、「はるかなるエロス」の行き交う絶対的信頼に裏付けられた「対関係」において、「くりかえした対話の果てに観念がかちと音をたてて変革をみたとき、あるいはなにげない一片のことばが未開領域への暗示を発したとき」、「権力意志」から解き放たれた「真実の言葉」である「沈黙の言葉」を発する/耳を傾ける、わたしたちのうちなる力が湧出し、ここにこそ、「沈黙の言葉」が聞き取られ、救い上げられる社会が構築される鍵が見い出されるのである。


「宗教間対話の歴史的な背景 ――仏教と基督教に関して」

マルティン・レップ

1.日本仏教に於ける宗論

宗論とは「古来佛教と外道、或は佛教内の一宗派と他の宗派、又は一宗派内に於いて所見を異にするものの間に行はれたること」(望月:佛教大辞典)です。

日本仏教史上の一宗派と他の宗派との間では天台宗と法相との宗論は有名です。例えば、弘仁8年に天台の最澄と法相の徳一は三・一乗、又は仏性について論争しました。この論争の根本的な話題は全ての人が解脱できるのか(天台)、或はある人だけのか(法相)、というものでした。天台と法相の間にはこの宗論がつづきました。例えば、応和3年に天台の良源と法相の法蔵は同じテーマについて討論しました(応和宗論)。ここの場合では、(基督教の神学の概念を借りると)救済論の重要な問題を取り上げられています。

宗論の現象を分析すると二つの原理が出て来ます:(1)討論で真理を合理、理性・弁証法的に探究する事です。(2)結果の決め方は勝ち・負けのパターン。

他の宗派の間にも宗論があります。例えば浄土宗と日蓮宗とのあいだ。しかし、元和7年以来、徳川幕府は宗論を三回禁止しました。禁止の理由は「説法談義に於ける自讃毀他」でした(望月:佛教大辞典)。この政治的な禁止は宗論の善用・悪用の問題を指摘しています。この結果(仮説として)現代日本の既成宗教間同士は無関心といえるのではないでしょうか。この態度は、日本新興宗教との大分違います。

2.基督教に於ける論争・討論(disputatio)

中世期ヨーロパの修道院、又は大学ではdisputatioが教会と神学の発達に大きな役割を果たしておりました。それは教義の問題を解決するための手段だったのです。若い修道士、又は神学生は論争の訓練を受けました。教会史の有名な論争はマルテイン・ルターとヨハン・エックとの間で行われております。実際の討論以外には書物(フィクション)としての大切な討論もあります。こうした本には基督教、ユダヤ教とイスラム教の信徒達の間の会話が書かれております。例えば:
Jehuda ha Levi (ca. 1075-1141): Kitab al Chasari.
Abaelard (1079-1142): Dialogus inter Philosophum, Judaeum et Christianum.
Raymundus Lullus (1232/33-ca.1316): Libre del gentil e dels tres savis. Nicolaus Cusanus (1401-64): De pace fidei.

これらの本では、宗教の真理が会話の形で、或いは真理を合理的・理性的・弁証法的に探究されております。Abaelard 以来著者達は勝ち−負けのパターン・構想を乗り越えました。最終的な答えをあたえないず、相違をまもりながら共生の可能性を探っているのです。

1453年ムスリムがコンスタテイノーブル (Constantinopolis) を征服した後すぐにCusanusは(反応として)De pace fidei という本を書きました。Cusanusによれば、宗教対立が起こると、戦う(宗教戦争)か対話をするか二つの方法しかありません。 Cusanus は著作の中で宗教間対話によって相互理解の必然性を説いております。

3.日本に於ける仏教と基督教との出会い

基督教が16/17世紀に日本に来た時に宣教師と仏教の僧侶との間に度々討論が起りました。両者とも論争、宗論の古い伝統があったので、この出会いの中で共通の基盤が明らかになりました。彼らは宗教真理を理性的、または対話の形に探究できました。しかし、同時にそこには勝ち・負けの原理(或いは目的)があり、本来の宗教間対話が成り立たなかったのです。

4.結論(命題)

4.1 日本に於ける宗論・対話

(1) 前提:討論で宗教の真理を合理的・理性的・弁証法的に探究する。
(2) 参加者:宗教・宗派の中、あるいは諸宗教の間。
(3) 目的:勝ち・負けの原理か、あるいは相互理解・尊敬。後者の結果は、宗教平和・協力。
(4) 悪用の結果は、対立を深める。政治的な禁止の結果は、無関心を招く。
(5) 宗教間対話には訓練が必要。

4.2 現代宗教間対話の理論

(1) 主体と主体の関連・関係:即の原理(勝ち・負けの原理。一元論にもとづく。主体を対象化する。)
(2) 宗教間対話の始まりは聞くこと。
(3) 相互理解・学ぶ・誤解を訂正・誠実な態度。
(4) 理性的な方法(常識的に)、事実にもとづき客観的に考える。
(5) 色々なレベルで:日常生活から学問的レベルまで(幅広くて、様々な形で)。
(6) 誠実な会話は信頼を作る、信頼の上にいろいろ社会的な協力が可能になる。
(7) 他者との対話によって、自分の宗教的なアイデンテイテイを発見し、深めることができる。同時に他者への尊敬を深める。
(8) 宗教間対話を学ぶ為には訓練が必要。宗教団体は、特に若い人の為にプログラムを設立することがのぞましい。


今後の予定

第10回研究会

日時:3月20日(土)13:30〜17:00
会場:COE研究室(京大文学部東館4階北東角)
発表:今出敏彦氏(キリスト教学D1)
     「新たな公共性概念の構築に向けて」
    山本誠作氏(関西外国語大学教授)
     「対話の思想 ――ブーバー、ホワイトヘッド、西田幾多郎――」

◆ 今後も定期的に研究会を予定しておりますので、多くの方々のご参加をお待ちしております。

□研究会事務局□ 606−8501 京都市左京区吉田本町京都大学文学部
片柳研究室 TEL(075)753-2747 宗教学研究室 TEL(075)753−2839 担当:竹内
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