Newsletter vol.9 (2004.4)

  1. 第10回研究会報告
  2. 今後の予定

第10回研究会報告

2004年 3月 20日(土) 13:30 〜 17:00 COE研究室にて
発表: 今出敏彦氏(キリスト教学D1)「新たな公共性概念の構築に向けて」
     山本誠作氏(関西外国語大学教授)「対話の思想 ――ブーバー、ホワイトヘッド、西田幾多郎――」


「新たな公共性概念の構築に向けて―ハンナ・アーレントの『精神の生活』における「思考」の意義――」

今出 敏彦

いかなる公権力も干渉出来ない、各個人の内面的な「精神の生活」と、人々が共に生きる「公的な生活」の双方は、この世界に生きる人間の基本的条件である。しかしながら、20世紀の二つの大戦と全体主義的支配等による社会的破局によって、この伝統的な区分が持っていた意義は曖昧化され、社会との関わりの中で営まれる人々の実践的生が危機に直面するだけでなく、個々人の内面で営まれる精神の生活もまた、深刻な危機に晒されている。

ハンナ・アーレントの思想、特にその政治思想は、公共性概念に新たな息吹を吹き込んだ。アーレントの公共性概念の眼目は、人間の自由が実現し、一人一人のユニークな個性が十全に発揮されることであり、彼女はその達成を公的自由や公的幸福と呼ぶ。「公的なもの」とは、決して全体の利益を優先させるものではなく、人間の個性を輝かせるものであり、人間の自由は間違いなく、「公的なもの」と密接に関わるのである。このようなアーレントの思想的営為に一貫する、人間の自由の擁護という観点は、彼女の思想の総決算と目される『精神の生活』にも色濃く反映されている。

アーレントの公共性概念は、行為(action)と公的なもの(the public)によって特徴づけられている。彼女の行為の概念は、単なる固体の運動を意味するのではなく、人間の複数性を条件とした人々の間の関係性としての行為を意味する。無言の暴力や強制ではなく、行為や言論によって人々の共生が導かれる在り方を、アーレントは古代ギリシアの都市国家であるポリスを模範として展開する。古代ギリシアの都市国家では、自由な市民によって構成されたポリスの生活圏(公的領域)と各個人に固有な家族の生活圏(私的領域)が明確に区別されていた。家庭という自然的共同体は生命の維持と種の保存の必要から生まれたものであり、「経済的」なものであった。これに対して公的領域(ポリス)は自由の領域であり、人々はこのポリスでの自由のために家庭での生命維持の必要を克服しなければならなかった。「公的なもの」(the public)は二つの現象を意味しており、第一は、万人によって見られ、聴かれ、可能な限り最も広く公示される「現れの空間」(the space of appearance)であり、それは人々の関心が集まるような鮮やかに照らし出された舞台である。第二は、「世界そのもの」(the world itself)を意味する。それは、我々全ての者に共通するものであり、我々が私的に所有しているものとは違うものである。

アーレントの公共性概念は、古代ギリシアのポリスを模範として展開されたが、古代ギリシアのポリスが持つ固有の意義を殊更強調する彼女の政治理論の一面性やこだわりと偏りに対する批判が多く存在する。しかし、アーレントは、彼女の主著の一つである、『人間の条件』において、その主たる課題を「我々の最も新しい経験と最も現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討すること」と述べているが、その際、この課題を担う人間の能力である「思考」が機能しないこと、つまり「思考欠如」こそ、「我々の時代の明白な特徴の一つ」と指摘している。彼女の問題意識は、遺著となった『精神の生活』においても継承されており、正にこの遺著において、現代の危機的状況への彼女の思想的営為が展開されているのである。

さて、現象世界の中で営まれる精神の生活の「思考」の特徴とはいかなるものか。

思考(thinking)の主な特徴は、「見えないこと」(invisibility)である。従って、思考活動には、比類ない迅速さ(swiftness)があり、いかなる物質の抵抗も受けない。

思考活動のもう一つの特徴に、現象世界からの「退きこもり」(withdrawal)がある。 人間は現象世界の中にいながら、考える能力という機能を持っていて、これにより精神は世界を離脱することも超越することも出来ないのに世界から退きこもることが出来る。

アーレントは、思考活動における二元性、つまり、一人でいることによって、自分自身との対話がなされることを、「一者の中の二者」(the two-in-one)と呼び、「人間が本質的に複数性において存在する」ことの証左としている。複数性という人間の条件から、人間を孤立させて取り出すのは間違いである。同様に思考する自我の二元性、つまり、自分の自分自身に対する無言の対話もまた、人間の複数性を前提にしているのである。

以上で述べた思考の特徴とは異なり、複数性という人間の条件を否定する二つの在り方として、アーレントは、無思考性(thoughtlessness)と独我論(solipsism)を挙げる。

まず、アイヒマンに特徴的な無思考性について、その主要な特徴は(孤立)「loneliness」であるという。この孤立は、人間との交流から見捨てられているだけでなく、自分との関わりの可能性すらないのである。

次に、独我論の典型として、彼女は、デカルトのres cogitans(思考するもの)に注目するが、このres cogitans の重要な特徴は、1)自己充足(self-sufficiency)、2)世界欠如(worldlessness)である。このような自我は場所を必要とせず、物体的なものに依存しないということであり、自分は肉体を持っておらず、自分がいた世界をも存在しなかったかのように仮定するのである。アーレントが繰り返し強調する複数の人びとと共にいる世界との関わりを忘れ、デカルトのres cogitansに象徴される世界欠如によって、現実を超越せざるを得なった思考の「故郷喪失」は、現象世界からの「退きこもり」ではあるが、「現実逃避」なのである。

では、現象世界において「見えないこと」と「退きこもること」をその主要な特徴とする「思考」の積極的意義は、いかなるものか。思考の無制約性や「一者の中の二者」という特徴だけでは、精神の生活が現実に積極的に関わる契機にはならない。アーレントは、「見えないこと」に関しては精神と共通するが、全く性質の違う魂(soul)について述べているが、その際、重要な示唆がなされている。魂と精神は、それらが同一であるという昔からの暗黙の前提−この両者は不可視であるということ−によって身体とは対立させられている。しかし、精神にとって当てはまることが魂の生活には当てはまらない。魂は我々が始めるのではなく、受動的に作用を受けるものであり、制御出来ない。これに対して精神は純粋の活動であり、始めることも止めることも出来るものである。すべての精神活動は現象世界から退きこもるが、この退きこもりは自己ないしは魂の内面に向けてのものではない。このことは、思考が自律的であるということを意味しており、我々は、この思考の自律性によって、自己の生命維持の必要、つまり、「私的なもの」を乗り越えて、他者と共に生きる自由、つまり、「公的なもの」へと志向する契機を新たに得るのである。


「対話の思想 ――ブーバー、ホワイトヘッド、西田幾多郎――」

山本誠作(関西外国語大学教授)

私見によれば、対話の思想は三つのカテゴリーに分類できるように思われる。まず第一に、ヘブライ的キリスト教的宗教伝統に基づくもの(ブーバー、エーブナー)である。第二に、仏教的な絶対無の自覚の立場から展開されたもの(西田)である。第三に、無神論的な哲学思想に基づくもの(ハイデガー、フッサール)である。『ブーバーに学ぶ人のために』(世界思想社、2004年)所収の拙論「対話主義の歴史」は不十分ながらも、これらの思想の歴史的展開を辿ったものであるが、ここでは第一と第二の立場を取り上げて比較検討する。

両者の相違点に簡単に言及すると、前者においては我−汝の対話的関係は、「独立」という状態と「関係に入る」という行為を通して成立するに反し、後者においては、それは神人冥合の神秘主義的立場において成立する。こうした神秘主義的合一は、西田の「自己の底に絶対の他を含む」とか「自己が絶対の無に含まれる」という言葉にはっきりと窺い知ることができる。

ところで、私は上述のことを明らかにするために、ホワイトヘッドの「有機体の哲学」の思想を援用したいと思う。というと、奇異の感を抱かれる方もあるかもしれない。なぜなら、彼はその諸著作のどこにおいても、対話の思想を主題的に取り上げてはいないからである。しかし、彼の思想は一方においてブーバーと、他方において西田と通底するような側面を持っている。そして西田の個物に相当するactual entityがそれ自身の世界におかれて、「作られながら作る」プロセスを通して開示されてくる同時的世界の存在論的構造を明らかにすることを通して、一方において、ブーバーの言う我−汝の対話的関係がいかにして独立と関係において成立するかを明らかにすると共に、他方において、ホワイトヘッドの同時的世界と西田の「周辺なくして到るところに中心を有つ無限大の球」とを比較検討することを通して、西田の言う「私と汝」が神人冥合とか自他不二とか物我一如などという言い回しによって記述される神秘主義的合一の立場に成立することを明らかにすることができるのではないかと思う。

ホワイトヘッドの言うactual entityは、まずemotionalな仕方で世界に触れるのであって、それが経験の原初相である。情的なものから知性が出てくる。「意識があって経験があるのではなく、経験があって意識がある」。actual entityはまず全体的なもの(世界)を自分へと受容する(negative prehension)。一方で、知性主義の立場(機械論)では情的なもの(直観)から切り離して知性を考えてしまうため、世界はばらばらなものの寄せ集めであって、真のsolidarityは成立しない。知性主義の立場から見られた空間化され無限分割可能な時間であるinstantではなく、momentとしての時間(持続)において広がる同時的世界でこそ、真のsolidarityは成立するのである。

同時的世界での個々のactual entityは因果的に互いに独立でありながら同じ世界を共有しているが、これは、ブーバーの《我−汝》における「独立」と「関係」という対話的出会いに相当する。その出会いは、知性主義(《我−それ》)においては開かれてこないものなのである。

一方、西田は「個物は一般的なものによって限定されなければならないが、それだけでは個物とは言えない。個物は自己自身を限定しなければならない」と述べ、ホワイトヘッドのactual entityの「先立つもの(世界)に限定されつつ自己自身を限定する」という構造と、驚くほどの類似性を持っている。ブーバーの対話が自他独立しており神秘主義的合一ではないのと同様、西田も単純にそうであるとは言いがたい。ところが、西田は弁証法論理を用いることでさらに進んで「個物的限定即一般的限定」と言ってしまい、その際個物的限定が先に考えられてしまうため、神秘主義的合一に陥ってしまうのである。ホワイトヘッドが弁証法的な側面を持っているとはいえ、弁証法論理を忌避しているのと対照的である。


今後の予定

第11回研究会

日時:5月29日(土)13:30〜17:00
会場:COE研究室(京大文学部東館4階北東角)
発表:杉村靖彦氏(京都大学助教授)
     「生の自己証言」から/への応答
         ――ヨナスの「責任原理」は「対話原理」となりうるか?(仮題)

◆ 今後も定期的に研究会を予定しておりますので、多くの方々のご参加をお待ちしております。

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