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グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成

NEWS LETTER

(文学と言語を通してみたグローバル化の歴史)


No.2

2003年3月31日発行

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(主な内容)
第3回研究会報告と発表要旨
学外から参加される研究員の紹介
 他

<学外から参加されている研究会メンバーの紹介>
 34研究会発足後、学外から参加されることになった方々をご紹介します。

 E.M.クレイク(京都大学文学研究科元教授:西洋古典学)
◇ Ideas of Western and Eastern Medicine: A Symbiosis
  Eastern and Western medicine have developed separately from different roots, and each has a long and rich tradition. In recent times, there has been interaction between these two traditions, each borrowing from the practical methods and the theoretical ideology of the other, to their mutual benefit.

 小川 正廣 (名古屋大学文学研究科教授:西洋古典学)
◇古代ギリシア・ローマのグローバル化時代における自己と他者
  アレクサンダー以降、地中海周辺の範囲内において現代の「グローバル化」に類似した現象が進行した。このヘレニズムから ローマ時代に、「自民族と異民族」「自由人と非自由人」「主人と奴隷」「男と女」などの二項対立的な人間・社会・国際関係が どのように変化したのかを、古典作品を通じて探る。

 丹下 和彦 (大阪市立大学教授:西洋古典学)
◇ポリスから帝国へ・・・ヘレニズム期の文化
  アレクサンドロス東征後、拡大したギリシア世界は従来のポリス文化に変容と拡散を促した。一方でそれは南イタリアからローマに 至り、ローマ文化の発展に大いなる影響を与えつつ同化し、他方でそれはアレクサンドリア図書館という文化の収集装置を通過する ことによって、現在に至るまでの時間的距離をも獲得することになった。このヘレニズム期におけるポリス文化の変容と拡散の様態を 考察する。

<第3回研究会の発表要旨>

川島 隆:カフカの中国・中国人像

   19世紀末から20世紀初頭は、ヨーロッパにおいて東洋の文学・思想受容の気運が高まった時期である。かつての儒教に かわって道教(老荘思想)が中国思想の代表と目され、広く支持を受けた。その背景には、時代を覆っていた新ロマン主義的な空気が ある。老荘思想は、その文明批判的思潮の受け皿として機能したのである。また、李白・杜甫らの漢詩が翻訳紹介されて詩壇の人気を 集め、中国人になりかわって「中国詩」を詠むことが流行したという。
   ハンス・ハイルマン編訳の中国詩アンソロジー(1905)などを通じて中国文学に親しんでいたカフカは、自ら数回にわたって 中国人の像を描いた。初期の断片『ある戦いの記録』初稿に見られる、(ハイルマンが紹介する李「太白」をモデルにしたとされる) コミカルな「太った男」が、その最も早い例である。後のフェリーツェ・バウアーとの文通の中で、清代の詩人・袁子才(袁枚)の 詩句から得た「中国人学者」のイメージを、カフカは一種の自画像として磨き上げてゆく。すなわち、孤独な営みである文学活動と、 他者との共同生活のあいだで揺れる人物像として。そして一度は破綻したフェリーツェとの関係が修復された1916年から翌年にかけて、 カフカは精力的に作品を執筆したが、そのころ書かれた掌篇(「八折り版ノートB」収録)に再び「中国人学者」が登場する。 ここでカフカは、フェリーツェへの手紙に触発されて生まれた初期代表作『判決』(1912)のパースペクティヴを反転させ、 今度は「父親」の側から同じ「父と子の物語」を語ってみせた。その結末では、「息子」の無抵抗主義により、父子の対立が融和へと 至るかのようである。
   この掌篇と同時期の作『万里の長城建設』の中国像は、時代状況を色濃く反映したものとなっている。中国文化の紹介者としても 先駆的業績を残しているマルティン・ブーバーは、「文化シオニズム」の理論的指導者としてカフカの周囲のユダヤ人社会に多大な 影響力をふるった。「個人」と「民族」、ひいては全「人類」の統一を謳い、その構成単位となるべき宗教的な共同体を建設することを 説いた点が、その民族思想の特徴であった。その際、一個人と民族全体とを仲介する理想的伝達形式を「荘子」の文学性に見た ブーバーの中国思想解釈は、彼の初期神秘思想と民族主義とを接続する役割を果たしている。さらに、「東洋的土壌から引き離された 結果『遊牧民』と化した東洋人」としてユダヤ人を位置づけることで、ブーバーは「中国」という伝統的トポスに(ユダヤ人にとっての) 新たな含意を付与したのだった。カフカの描いた「長城」の「分割工事」や「遊牧民に対する防衛」、「新しいバベルの塔」などの モチーフは、このブーバーの民族思想を形象化して批判的応答を形作るものである。
   西洋人として「中国人になる」ことの困難を述べたヘルマン・ヘッセとは対照的に、カフカは自ら「中国人」と名乗っている。 その感情移入は、ベンヤミンやカネッティをして「カフカの中国性」を論じさせた。しかし、カフカの慎重な態度が、同時代人の熱狂とは 著しく隔たっている事実を見逃してはならない。カフカが短篇『十一人の息子』(1917)で描いた「老子」の戯画は、以上で概観したような 中国・中国人への関心を自己総括したものである。同時にその言葉は、文化的他者を前にして、人種的偏見にも、その裏返しである理想化にも 埋没しない中立を貫いた例として評価されるだろう。

天野 恵:ルネサンス期北イタリアの文人とトスカナ語

   イタリア半島において日常語まで含めた総合的な言語統一のプロセスが始まるのは19世紀の国家統一を待ってのことであるが、 文学語に関してはそれよりもはるか以前、すでに16世紀前半の段階でトスカナ語による統一、しかも同時代のトスカナ語ではなく 14世紀の、いわゆる黄金期のトスカナ語による統一が達成されていた。言うまでもなく、この「グローバル化」現象は政治的・軍事的な 統一を背景としたものではなく、ほぼ純粋に文化的な要因によるものである。
   決定的な役割を果たしたのは1525年に出版されたピエトロ・ベンボの『俗語散文論』Prose della volgar linguaであったとされる。 しかし、実際にはベンボはこれよりもずっと早い1501年、アルドゥス書店からペトラルカの俗語作品集の校訂版を出した時点において、 すでに俗語に関する自らの理念を確立していたものと推定される。ペトラルカの自筆手稿と信じていた写本(現Vaticano Latino 3195)を 参照することができたにもかかわらず、そのディプロマティック・エディションを作ろうとはしなかったからである。 これに関してとかくの議論のあったことは、羊皮紙版の奥付に残された訂正の痕や、エディションの末尾に付加されたfascicolo Bと 通称される分冊の存在から窺い知ることが可能であるが、ベンボはその理念をいささかも変えることなく24年後の『俗語散文論』第3巻 58章においては、「前置詞in+定冠詞」をすべてne lo, ne la, ne l' といった結合形にするべきであり、ペトラルカもこの規範を守って いる旨の主張を展開する。実際には、彼自身の校訂したアルドゥス版ペトラルカにもこの規範に従っていない箇所があったのであるが、 彼は1538年の『俗語散文論』第二版において、ついにペトラルカ作品をよりいっそうペトラルカ風にするためと称して、事実上、 ペトラルカ自身の詩句にさえも変更を加えることを提案するにいたる。
   こうした、いわば強硬なアルカイズム路線が、カスティリオーネやアリオストなど北イタリアの文人たちが発表しつつあった 当時のベストセラーにおいてどのように受け入れられ、あるいは拒絶されていったのかを具体的に検証するのが本研究の目的である。 調査対象となるテキストとしては、とりあえず『狂えるオルランド』の1516年版、21年版、そして32年版、さらに同作品の32年版に おける付加部分について現存するアリオストの自筆ノートを、また、パラメーターとしては上記の「前置詞in+定冠詞」をすべて結合形に するという規範を取り上げた。これは、韻文の場合、問題の規範を守るための詩句の変更がほとんど常に音節数の変化をもたらし、 そうなると該当部分を含む詩行全体を見直す必要が生じるという事実に着目してのことである。つまり、15世紀中の諸作品をはじめとする、 誰がいつ、どのような手を加えたのかを完全に突き止めることが困難なテキストの場合にも、二重子音の扱いや、口蓋音と歯擦音の 混同による接続法半過去の活用の誤りといった当時の北イタリアの文人によく見られる他のパラメーターに比して、いわば「外乱」の 影響を極度に受けにくいパラメーターであると考えられるからである。
   現段階における予備的な調査結果からは、『狂えるオルランド』の1516年版および21年版にあっては、問題の規範から逸脱する 選択の行なわれていたケースが40%程度であり、1528頃と推定される自筆ノートにおいても、創作の初期段階を見る限りこの値は まったく低下の兆候を示しておらず、むしろ45%程度に上昇していたらしいことが垣間見えてくる。こうした値は、例えば15世紀の トスカナ詩人による同タイプの八行詩節を採った作品は言うに及ばず、ボイアルド作品などと比べてもかなりの高率である。 それが32年版の印刷までにゼロになっているのであるから、少なくともこのパラメーターに関しては、アリオストがベンボの規範理念を 極めて忠実に体現しようと努めたことが看取されると言って差し支えなかろう。ちなみに、この28年頃というのは、ちょうどペトラルカ 作品とベンボの主張する規範との食い違いが議論になっていたと推測される、まさにその時期である。

<活動状況>
 ◎第3回研究会 2003.2.18 14時より17時  於:東館4階会議室
出席者 天野恵、池田晋也、川上穣、川島隆、北岡倖代、佐々木茂人、高橋  宏幸、中務哲郎、西村雅樹、野村佳代、真壁靖史、増田真、松村朋彦
下記の研究発表に続いて質疑応答と討論を行った.
 [研究発表]
  ・川島 隆:カフカの中国・中国人像
  ・天野 恵:ルネサンス期北イタリアの文人とトスカナ語

<今後の予定>
 ◎第4回研究会
  5月20日(火)16時半から18時半 於:東館4階会議室

報告者
川上 穣:『イリアス』における「自己」の意識
田口紀子:「歴史小説」から「小説」へ ― フランス小説史でのウォルター・スコットの役割