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Newsletter No.1

2003年1月20日発行

活動報告

PaSTAの初回の研究会は以下のように盛況に開催されました。

日時:12月6日(金)午後3:00-6:00
会場:京都大学文学部東館4階(北東角)COE研究室

あいさつ 伊藤 邦武(文学研究科教授) 

反省する理性と多元的世界
三谷 尚澄(日本学術振興会特別研究員)

<一元性>神話の解体─ 多元的な科学方法論をめざして ─
出口 康夫(文学研究科助教授)

研究会開会のあいさつ

伊藤邦武

これから「現代科学・技術・芸術と多元性の問題」(通称Pasta)の第1回研究会を開きたいと思いますが、それに先立って、研究会の開会あいさつを兼ねて、「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」というプログラムのなかでの、この研究会の役割、意味についてお話したいと思います。
 わたしたちの研究会はその表題からも見てとれるように、現代世界における科学、技術、芸術を代表とするあらゆる文化現象のなかで、多元性というものがどういう具体的な姿をとり、それにたいしてどういう評価を行うか、という問題を扱うわけですが、この問題関心の中心にあるのは、こうした文化現象の多様性の社会的、記述的な研究にあるのではなくて、これを哲学的に研究するというテーマであります。つまり、「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」という総合的なプログラムのなかの現代哲学研究班というのが、わたしたちの研究会の位置づけになります。
 それでは、現代文化の多元性の「哲学的な研究」とはなにか。実は、この問題こそがこの研究会のさまざまな活動を通じて明らかにしてゆくべき当の問題だともいえるでしょう。というのも、多元性をめぐる哲学的反省というものが、どこにその焦点を置くべきであるかということは、現在の世界の哲学研究の情況を見回しても、けっして明確な指針が与えられているとは思われないからです。そして、ここにわたしたちの研究会の意義も困難さもあると思われるのです。
 一例をあげてみましょう。哲学の世界で多元性を扱った代表的な理論として思い浮かぶのは、たとえばウィリアム・ジェイムズの「多元的宇宙」の理論や、チャールズ・テイラーの「マルチ・カルチュラリズム」の理論です。これらは新旧の違いはあっても、20世紀のアメリカを中心とする世界を代表的な世界観であるといえます。そして、これらはいずれも、主観客観の区別を廃棄した純粋経験が構成する多元的世界や、個人に先行する文化の世界構成的機能を強調する点で、それまでの西洋の伝統的な二元論的で個人主義的な世界像にたいする強い批判という意義をもっていました。
 しかし、わたしたちは今日、世界の多元性ということを、彼らのいう純粋経験の多元性や文化形式の多元性という理解だけで、なお十分に解釈できるのかどうか。たとえば、今日では一方で科学の世界で、物理的な意味での多元的な「宇宙」であるとか、宇宙的規模での多元的な「生命圏」についての探究がなされている。そしてその一方で、インターネットの世界でのこれまでとはまったく異質な情報授受の「主体」の多元性が日常的な経験となりつつある。こうした、ジェイムズやテイラーの抱いた多元的世界以上に大規模な多元性の現実化を経験し、いわば「多元性の多様化」を目のあたりにするとき、われわれは哲学的な観点からこれにどう切り込んだらよいのか。
 ここではこの問いを、この研究会の問題関心の具体例のひとつとして提起するにとどめますが、こうした問題関心の拡大、変化、発展によって、わたしたちの研究会が真に新しい、意義のある哲学的研究の地平を開くことができるよう、これからのメンバー相互の活発かつ批判的交流の成果に期待したいと思います。簡単ですが、これでわたしのあいさつを終わります。

報告要旨

●反省する理性と多元的世界:文脈に根づいた自律(the engaged autonomy)の可能性について

三谷 尚澄

 平成14年12月6日のPASTA研究会で行った報告の概要は以下の通りである。

1. 多元主義とリベラリズム
 プロジェクトの課題である「多元性」の問題を、主として現代の政治哲学上の問題として考察した。具体的には、リベラリズムの想定する「自律的個人」の理想が、近年高まりつつある「多元主義」に立脚した「非リベラルな政治的主張」とどこまで整合的であり得るのか、という問題に焦点を絞って検討を行った。

2. クリスティーン・コースガードの反省的認証説(The reflective endorsement theory)
 上記検討課題の手がかりとして、「規範性の源泉」講義におけるクリスティーン・コースガードの「反省的認証説」を取り上げ、その概要を紹介した。コースガードの議論を取り上げたことの理由は、(1)「実践的アイデンティティ」及び「道徳的アイデンティティ」の概念を中心に、「自律的個人」の姿が「アイデンティティ」という現代政治哲学上の主要概念と密接に連関した形で論じられていること、(2)その意味で、「自律」を何より重視するカント主義の立場から、「アイデンティティ」概念を中心に展開される現代の多元主義の問題圏に探りを入れるのに最適の枠組みを与えてくれそうであること、の二点である。

3. 文脈に根づいた自律(the engaged autonomy)と反省的認証説の問題点
 「自己意識をもつ人間」という心理的・認知的能力に依拠しつつ人間精神の自律的構造を説明するコースガードの「反省的認証説」から、より柔軟な「文脈に根ざした」形で修正されたカント的自律のあり方が読み取られうること、また、同時に、反省的認証説はそれ独自の問題を抱え込まざるを得なくなることを指摘した。

4. 価値づけられた欲求(value-conferred desire)としての理由
 「反省的認証説」における「行為の理由」の概念を、『目的の国の創出』や「道具的理性の規範性」でコースガードが行う「意志」概念および「自己」概念の分析と総合的な形で明確化することを試みた。具体的には、「行為の理由」とは「価値づけられた欲求」として特徴づけられる概念であることを明らかにした。

5. 自己解釈・反省・認証
 「反省的認証」の作業は「何を行為の理由として採用するか」に関する「自己解釈」の作業として定式化が可能であること、そして、「行為の理由」に関する最終審級の役割は、「反省」の過程ではなく「認証」の過程に求められること(即ち「反省的認証説」が規範性概念に関する構成主義的立場を採用していること)を明確にした。

6. 規範性に関する構成主義と反省的認証
 以上のように解釈されたコースガードの「反省的認証説」ないし「規範性に関する構成主義」について、様々な角度から批判的検討を行った。具体的には、充分な理由付け、ないしは最終的な理由付けなしでも「反省的認証」の作業は充分に実行可能であること(=行為主体の動機付けは完了すること)を明らかにした。

7. 反省的認証に対する自己解釈の先行/先反省的行為主体性(Pre-reflective Agency)
 6. の議論を更に進めて、「自己解釈が反省に先立つ」こと、即ち、「人間の行為主体性は先反省的に成立している」ことを明らかにした。

8. 義務と「人間」の不在/あるいは非道徳的義務の成立について
 修正された「反省的認証説」の提示する行為主体性のあり方に関して、予想される反論を提示し、更にその反論に対する再反論を行っておいた。具体的には、「人間性を尊重する義務に違反するような義務」をどう考えるのか、という義務の多元主義的葛藤を問題として検討した。

9. 結論
 以上の議論から、「自由に選択する個人」にかわる、「人格構成的目的に基づいて、反省的に認証する自律的自己」の姿をスケッチとして取り出し、この概念には非リベラルな現実に対応することのできる、それ故にいわゆる「手続き主義」批判をうまく回避することのできる、新しいリベラルな行為主体の姿を求めることができることを確認した。ここから、「文脈に根をおろした自律的行為主体の意義深い選択the significant choice of an engaged autonomous agent」を取り込んだ、新しいリベラリズムの成立可能性が読み取られうることを最後に結論として主張した。以上。

●<一元性>神話の解体 −多元的な科学方法論をめざして− I

出口康夫

1. 研究プロジェクト
 私は、このCOE研究班において、「<一元性>神話の解体」というテーマの下に、いくつかの研究を行う予定であるが、ここではその内の一つ、「統計的方法論の多元性を扱う研究」について述べる。
 統計学は、現代の数理科学において、「実証データを収集・分析し、それによってモデルや仮説を実証する方法」として、対象領域の違いを超えて広く用いられている。しかし一口に統計学といっても、異なった複数の方法論が提唱され、それらの間で論争・対立が絶えない。このような現状を前にして、「<唯一の正しい、または最も優れた統計的方法論>なるものが存在し、現在の議論はいずれ、そのような方法論へと収斂する」と考える立場を「統計的方法論に関する一元論」と呼ぶ。本研究では、これに代えて、以下の諸テーゼを核とする「方法論的多元論」の樹立が目指される。(1)<唯一正しく・最も優れた方法論>は、統計的方法論という事柄の性質からして存在しえない。(2)統計的方法論は原理的に多元的あり、現在の論争が将来において終息する保証はない。(3)数理科学は、複数の統計的方法論を併用せざるを得ない。

2. 統計学の課題
 まず、そもそも統計学の課題とは何かを、その一分野たる仮説検定論に即して見ておく。十七・十八世紀以降の科学は、理論の説明力・予測力を高めるため、モデルの数理化を進める一方、測定の精密化を図った。しかし、測定が精密になればなるほど、一回ごとの測定値がばらつくのが常態となる。測定値がばらつけば、それと理論から導かれた予測値との一致・不一致を判定することが困難となる。この困難を克服するために、例えば、極端な値を「外れ値」として除外して、残りのデータから「平均」をとるといった「データ処理」が統計学の登場以前から行われてきた。しかしこのデータ処理の仕方が個々の科学者に全面的に委ねられた場合、自説に都合の良い恣意的なデータ処理や予測の成否の判定が横行する恐れがある。このような危惧を払拭し、科学的仮説の実証という作業の'間主観性'を確保するために、誰もが従うべき'客観的'なデータ処理の「規則」や予測の成否の「判定基準」を設定し、それらに対して一定の「理由・根拠」を与えることが、統計的仮説検定論の課題である。
 現代の様々な統計的方法論は、古典統計学とベイズ統計学の二大陣営に分けて整理できる。両方法論は測度論的確率論という数学的枠組みを共有するが、それぞれの統計的推論の核となる確率論的事実は異なる。また確率論的枠組みに両者が与える解釈にも異同がある。この解釈の違いに応じて、「統計的推論とは何か」、「統計的証拠とは何か」、「統計的規則や基準に従うべき理由は何か」、ひいては「統計学を用いた科学の実証とは何か」という問題に対する両者の解答も異なる。

3. 主観性を巡る方法論的論争
 古典統計学とベイズ統計学との間の論争は多岐にわたる。方法論の「主観性」を巡る議論もその一つである。ここでの主観性とは、一定の方法論に基づいて、ある仮説を同一のデータに照らして検証しても、個人によって検証結果が分かれることを言う。
 この点に関して、ベイズ統計学は様々な批判を受けてきた。ベイズ的仮説検定では、「ある個人が、相対立する一群の仮説に対して、検証を行う以前に抱いている信念の度合いの分布」と解釈される「事前分布」が前提の一つとして措かれる。確率論の公理系を満たすことが、この事前分布の条件であるが、この条件を満たした無数の分布の中から何を選択するかは、各人の自由に委ねられている。ところがこの選択によって、検定結果が左右されるケースが少なくないのである。
 このような主観性を克服するために、ベイズ的方法論では、これまで様々な改善策が提案されてきたが、それらは大きく次の二種類に整理できる。(1)事前分布に更なる条件を課し、個人の選択の幅を狭める。(2)確率論のある収束定理を持ち出して、個々人の間にある種の合意が成り立ってさえいれば、データが蓄積されるにつれて、個人間で異なる事前分布も一つに収斂することを示す。しかし、これらに対しても種々の反論がなされており、批判の余地のない改善策は未だ得られていない。
 一方、古典統計学も主観性の問題を抱えている。古典的仮説検定では、片側検定か両側検定かの選択といった細部のデザインの仕方によって、検定結果が左右される場合がある。検定の細部は、様々な事前情報を考慮に入れてデザインせざるを得ないが、それをいかにデザインするかに関しては、明確で客観的な基準は存在せず、科学者各人の判断に委ねられている。
 以上のように、主観性の問題に関して、古典的方法論とベイズ方法論のどちらか一方が、「完全無欠」ないしは「全く使い物にならない」、さらには「他方に比べて議論の余地なく優れている」と論証されているとは見なせないのが現状である。同様のことは、他の論点に関しても言える。両方法論を巡る論争は、どちらかが相手を一方的に論破したとも言えない、一種の拮抗状態にある。

4. 方法論的多元主義
 論争のこの拮抗状態は、一時的・偶然的なものではなく、統計的方法論という事柄の性質上、不可避のものである。このことを、ここでは以下のように論じよう。
 既に述べたように、統計学の課題とは、測定値のバラツキ問題を克服し、間主観的な作業としての科学的仮説の「実証」を実行可能とすることであった。更に言えば、統計学は、この課題を果たすことを通じて、「誰もが経験的に実証されたと認める理論を獲得する」という科学の「目的」に奉仕しているとも見なせる。すると「この科学の目的にどれだけ貢献できているか」という観点から統計的方法論の優劣・適否を判定することが、大局的に見れば、自然であろう。しかしこのような観点から統計的方法論の優劣を判定することは、原理的に不可能なのである。
 まず科学者が、背景理論T0とデータD0と仮説H0を共有する二つのグループに分かれ、一方は古典的方法論、他方はベイズ的方法論のみを用いつづけるとしよう。もし古典的仮説検定によって、H0がD0に照らして確証されれば、古典グループはT0にH0を加えたものを新たな理論として採用するであろう。他方、ベイズ的仮説検定によって、H0がD0に照らして確証されなかったとしたら、ベイズグループはT0に H0を付加しない。このような作業を重ねて、一定期間後に、古典グループがTC、ベイズグループがTBという相異なった二つの理論に到達したとする。これらの理論が、様々な実験・観察に照らしてどれだけ経験的に確証されているかを比べ、経験的により支持された理論を与えた方法論がより優れていると判定されるとしよう。
 しかしTCとTBがどれだけ確証されているかは、何らかの統計的方法論によって判定せざるを得ない。そして古典的方法論を用いた判定結果は、ベイズ主義者にとっては受け入れることはできず、同じことはベイズ的方法論による判定結果についても言える。また古典主義者もベイズ主義者も共に受け入れるような、第三の中立的な方法論などはそもそも存在しない。結局、方法論の優劣を判定するために、当の方法論を用いざるを得ない限り、上のような思考実験は成立しないのである。
 このように、両方法論の優劣・適否を一意的に判定することは原理的にできないと思われる。そもそも、古典的方法論やベイズ方法論のように、方法論的要請を一定の仕方で満たした方法論の間の優劣を問うこと自体、意味をなさないとも言える。このことはまた、先に挙げた「科学の実証とは何か」といった哲学的諸問題には、一意的な答えがありえないことをも意味する。

今後の予定

●「現代科学・技術・芸術と多元性の問題」PaSTA研究会

日時:1月24日(金)午後3:00-6:00
会場:京都大学文学部東館4階(北東角)COE研究室

電子暗号1─公開鍵暗号
伊藤 和行(文学研究科助教授)

デスクトップメタファーはどのようにして生まれたのか
喜多 千草(文学研究科博士課程修了)

●「現代科学・技術・芸術と多元性の問題」PaSTA研究会

科学哲学科学史研究室創立10周年記念行事

アインシュタインの思考をたどる
特殊相対性から一般相対性へ

日時:3月16日(日)午後1時─5時
場所:芝蘭会館(京大医学部北側)

あいさつ 伊藤 邦武(文学研究科教授)
司会 伊藤 和行(文学研究科助教授)

講演(一)相対的時空と等価原理
内井 惣七(文学研究科教授)
講演(二)重力と曲がった時空
内井 惣七

コメンテイター
石垣 寿郎(北大大学院理学研究科教授)
菅野 礼司(大阪市大理学部名誉教授)

※PASTA研究会の電子メール通知をご希望の方は瀬戸口(研究会補佐員)へご連絡下さい。(pasta-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp )

編集後記

ニューズレター第1号をお届けします。Webpageも開設し、研究会としてhttps://www.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/jp/projects/projects_completed/hmn/to-u.ac.jp/pasta/)。どうぞよろしくお願いいたします。(瀬戸口)

PaSTA事務局
〒606-8501 京都市左京区吉田本町 京都大学大学院文学研究科
現代文化学共同研究室 瀬戸口(研究会補佐員)
TEL: 075-753-2792
E-mail: pasta-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp
Webpage: https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/jp/projects/projects_completed/hmn/pasta/