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1.はじめに
機能概念や機能的説明の使用は、生物学と物理学の大きな相違点のひとつと考えられてきた。生物学者は「心臓の機能は血液を循環させることである」といった言明を頻繁に用いるし、機能を用いてある器官や形質の存在を説明すること(機能的説明)もよく用いられる(「なぜ心臓はある?」「血液を循環させるため」)。しかも、説明についての一般的な枠組みとされてきた被覆法則モデルに機能的説明はうまく収まらない。こうしたことから、機能や機能的説明について長い間議論が行なわれてきた。
本発表では、機能について現在有力な見方のひとつである機能の因果説(Etiological Theory)について、(1)因果説がL・ライトによる初期の形からどのような変換をこうむってきたかを述べ(2)「偶然の瓜二つ」(Accidental Doubles)という因果説に対する反論について考えた。
2.因果説
因果説を初めて提唱したL・ライトは、Xの機能がZになるのは、(i) ZはXが存在することの結果であり、かつ(ii)XがZをするからXが存在する場合であるとした。この定義の下では、あるアイテム(器官や行動など)がそれの属する系にたまたま恩恵をもたらすとしても、上の(ii)を満たさないのでそれに機能を付与する必要がなくなる。ライトはこの定義の利点を、このように機能による成功と偶然による成功を区別できることにあると考えた。これに対して、肥満による運動不足[(i)]は更なる肥満を招く[(ii)]が、肥満には運動を妨げる機能はないといった反例が提出された。
そうした反例に対して因果説の支持者(R・G・ミリカン、P・グリフィスなど)は、問題は(ii)のフィードバックのメカニズムがライトの定義では特定されていないことにあると考え、(ii)に自然選択を導入することでライトの定義を改訂した。
またミリカンは、機能について考える際にはアイテムの現在の振る舞いではなくそれが通過してきた歴史に着目することが重要だとした。彼女はこの歴史の重視によって、「機能をもっているがそれを果たせない」という機能不全の状態を因果説は定義に組み入れられると考えた。つまり適当な選択の歴史を持っていれば、現在のアイテムの振る舞いが過去のメンバーの振る舞いと違っていても機能を付与できるわけである。
なお生物の機能を考える際、因果説では突然変異そのものには機能を付与しないということに注意する必要がある。これは突然変異で生じた形質はまだ選択を受けていないと因果説では考えるからである。そして環境が有利であるかどうかに突然変異の出現は左右されないという意味で突然変異がランダムであるということを考慮すると、この事例は上でいう偶然による成功にあたることがわかる。
3.偶然の瓜二つ
因果説に対する批判のひとつは、因果説が機能の同定に関してそのアイテムの歴史のみに関心を持つことを問題視する。例えば過去の自然選択の歴史をまったく持たないような、しかし現存の生物に分子レベルまでそっくりな生物(偶然の瓜二つ)が偶然によってできたとしよう。そうすると、その「器官」や「構造」は機能を持つようにみえるのに、因果説ではそれに機能を与えられないことになる。
この批判に対して前述のミリカンは、この例と双子地球の水の例との並行性と指摘することで対処しようとする。つまり双子地球の「水」が本当は水ではないとされるように、「瓜二つ」の「機能」も本当は機能ではないというのである。しかし上で述べたように「瓜二つ」の例のポイントは、因果説が機能の付与についてアイテムの歴史のみに着目することへの批判であって、それを行なうためには実際は「瓜二つ」のような極端な可能性を考える必要はない。
また、確かに現在のネオ・ダーウィニズムの立場からすると、選択の歴史を経ずにある程度完成した形質が現れる可能性は非常に低いが、必ずしもゼロでなくてもよい。しかし一回でも「瓜二つ」に類することが起これば、因果説に対して問題になる。したがって「瓜二つ」が現在の科学理論と反する仮定を持ち込んでいるという理由で因果説はこの批判をかわすことはできない。
そうすると因果説にとって問題となるのは、「(a)非常にまれに生じるような、(b)自然選択を経てはいないけれども、(c)生物学的な出現の可能性のあるような、しかし(d)因果説的な機能を持つ現存の生物の形質に分子レベルまでそっくりなアイテム」である。しかし、このような特徴は突然変異によってできた形質も持つことができる。突然変異も(a)(b)(c)を満たす。また一塩基の置換で生じるような(つまり一回の変異で生じうるような)鎌状赤血球貧血症のような事例があることを考えると、(d)分子レベルまではそっくりとはいえないまでもかなりの完成度を持った突然変異も存在する(した)といえる。したがって「瓜二つ」と突然変異との間には本質的な差異はないことになる。そして突然変異に(因果説が考えるような)機能を付与しなくても問題はない。したがって、「瓜二つ」による批判は因果説に対する特別な脅威にはならず、「偶然の瓜二つ」に機能を付与する必要はないことになる。
現象学研究のメッカ,ルーバンカトリック大学,フッサール文庫所長のルドルフ・ベルネット教授講演会が開催されました。
Husserl’s
idealism essentially amounts to the affirmation that the meaning of the being
of all objects depends on pure (i.e. phenomenologically reduced) and
transcendental (i.e. constituting) intentional consciousness. Inspired by
Descartes, Husserl concluded from this in the Ideas I that the actual existence of transcendent objets and of the
real world necessarily depends on an actual perceptual consciousness, while the
actual existence of this consciousness only depends on its actual inner
perception by itself (“nulla re indiget
ad existendum”). Husserl was quick to realize that such a (metaphysical)
formulation of phenomenological idealism was highly misleading in that it
presented “absolute” consciousness as a region of being opposed to the region of being into which belong all transcendent
objects. Also questionable was its insistence on a solipsistic form of all
conscious experiences of transcendent reality. Finally, the hypothesis of a
possible “annihilation of the world” gave the wrong impression that
phenomenology, instead of accounting for the actual existence of transcendent
objects and of the real world was inclined to enclose itself in a sphere of
pure immanence.
In this
paper I want to show that almost simultaneously with the Ideas I, in his Revisions of
the Sixth Logical Investigation (Husserliana
XX/1) and also in other manuscripts to be published soon for the first time (“Transzendentaler Idealismus. Texte aus dem
Nachlass (1908-1921)”, Husserliana,
XXXVI), Husserl developed an alternative and more acceptable line of
argumentation in favor of a phenomenological idealism. This argumentation
reminds one more of Leibniz than of Descartes in that it understands the actual
existence of transcendent objects to
be the result of a “realization” of a former well-grounded (“real”) possibility. The statement that the
truth value of all belief into the actual existence of the world depends on its
fulfillment by actual perceptive experiences of this world here never leads to
a metaphysical opposition between the sphere of phenomenological immanence and
the sphere of transcendent reality. Quite to the contrary: just as the being of
an “ideal” possibility depends on its intuitive givenness in an act of phantasy,
just as the being of a “real” possibility depends on former perceptions, so
does the actual existence of the real world depend on its intuitive givenness
in a series of concordant actual perceptions. In all
this, phenomenology investigates the intentional correlation between the different modes of being of objects and the
corresponding forms of intuitive pure consciousness.
This second
line of argumentation in favor of phenomenological idealism leads to important
new developments concerning the merely “presumptive” certainty with which one
can “posit” the actual existence of the transcendent “things in themselves” and
the regulative function and adequate givenness of transcendent things
understood as “ideas in the Kantian sense”. It also contributes to a
clarification of the difference between phenomenological idealism and (Humean)
phenomenism. Its most spectacular contribution lays,
however, in its insistence on the fact that only a coherent manifold of actual
perceptions by an intersubjective
community of bodily subjects can
contribute of a phenomenological justification of the actual existence of the
real world. The phenomenological insistence on the purity of the transcendental
consciousness which constitutes the meaning of the being of the actual world of
transcendent objects thus goes together with an acknowledgment of the plurality of transcendentally
constituting subjects and of their bodily
experience of the actual existence of transcendent (“real”) objects.
アインシュタインの思考をたどる ―特殊相対性から一般相対性へ
3月16日(日)盛況に開催されました。次号で詳しく紹介します。
四大(地・水・火・風)の感性論―思想・アート・自然科学の関わりについての基盤研究
3月22日(土)
3月23日(日)
主催:岩城科研「四大(地・水・火・風)の感性論」 会場:京大会館102号室
共催:PaSTA研究会、京都美学美術史学研究会
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