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Newsletter No.4 <<Paper Version>>

2003年4月21日発行

活動報告

第4回PaSTA研究会(科学哲学科学史研究室創立10周年記念行事)

アインシュタインの思考をたどる 特殊相対性から一般相対性へ

日時:3月16日(日)午後1時─5時
会場:芝蘭会館(京大医学部北側)

あいさつ 伊藤 邦武(文学研究科教授)
司会  伊藤 和行(文学研究科助教授)

講演(一)相対的時空と等価原理
講演(二)重力と曲がった時空
内井 惣七(文学研究科教授)

コメンテイター
石垣 壽郎(北海道大学大学院理学研究科教授)
菅野 禮司(大阪市立大学理学部名誉教授)

講演「アインシュタインの思考をたどる」概要

内井惣七(文学研究科教授)

講演一 相対的時空と等価原理

1. 問題状況
2. 統合への志向
3. 二つの原理
4. 時空の見直し
5. 古典的時空
6. 同時性の見直し
7. 時空の相対性とローレンツ変換
8. 力学と電磁気学の調和
9. ミンコフスキ時空
10. 幾何学とメトリック
11. 特殊相対論の不備
12. 等価原理の着想
13. 慣性質量と重力質量
14. 等価原理の使い方
15. 新しい重力理論へ
16. 一般相対性の発想
17. 重力理論の新しい成果

講演二 重力と曲がった時空

18. 回転系の考察
19. 空間も曲がる
20. 自由なガウス座標とメトリック
21. 内在的幾何学
22. 座標系に依存しない構造
23. 不変量と一般共変性
24. 静的重力場についての思い違い
25. 座標変換の具体例
26. アインシュタインの目標
27. 穴の議論
28. 重力法則は一般共変ではあり得ない?
29. 数学的座標と物理的時空
30. 穴の議論から学べること
31. 一般相対性原理の多義性
32. 一般共変性と物理的内容
33. 一般共変性は一般相対論のエッセンスではない
34. アインシュタインにも相対性の誤り

詳細な講演内容およびコメントは本号のウェブ版(海外派遣報告 上演芸術に見る翻案と演出──アムステルダム大学における研修報告をかねて

若林雅哉(文学部非常勤講師)

 PaSTA研海外派遣プログラムにより、アムステルダム大学(オランダ)にて一月二十八日より二月十日までの二週間、文献調査およびI. デ・ヨング教授との意見交換を行った。教授はナラトロジーの成果を取り入れた研究で著名な古典学者であり、Narrative in Drama: the Art of the Euripidean Messenger-Speech.(Mnemosyne, Suppl. 116) 1991などの著書がある。また彼女の影響下に、ギリシア劇の翻案研究や、近年の文学理論と古典学の対話を試みる研究などが進められている(J. P. Sullivanとの共編、Modern Critical Theory & Classical Literature, Leiden, 1994)。わたしの関心とディスカッションの中心は、おもにギリシア劇における翻案(adaptation)の性質についてであった。予め提出した英語原稿の小論二編を検討され、二日間の議論の場と調査の便宜を提供してくださった教授に、そしてこのような機会を与えてくれた本研究会に感謝したい。
 わたしは、「作品」概念にまつわる「オリジナル」一元論を、主に翻案現象(adaptation)の検討から再考し、それを通じて本研究会の課題「一元性神話の解体」に取りくんでいる。オリジナルを頂点とする序列のなかに翻案を位置づける従来の見方は、わたしには自明であると思われない。それは、作品をわれわれが享受する際の受容の問題圏にとどまらず、作品の存在論的なあり方としても、再検討が迫られているのではないか。また同時に、作品を出発点=オリジンとし、演出や個々の上演が派生するという見方もまた今や自明であるとは思われない。メディアの変換を伴う多様な転用(例えば無数の映画“作品”(film adaptation)や、ドイツの作曲家Zenderによる“作曲された解釈”(Eine komponierte Interpretation)の試みなど)のあり方は、もはや派生という見方にとどまらない、作品と解釈や上演のあたらしい関係を提出しているように思われるからである。
 現在、当然のように「作品」として認められているギリシア悲劇作品もまた、制作当初は翻案の性質を帯びていた。それらは、観客の知悉する少数の有名な家系にまつわる伝承や英雄伝説、神話に基づいて繰り返し作られていた。それはいわば、観客の雑多な知識に取材する“オリジナルなき翻案”なのである。詩人は、その中から素材の取捨選択を行い、自らの作品の統一を形成するといえる(cf. アリストテレス『詩学』8章)。これらが「作品」として地位を得るのは、オリジナルを持たないからだろうか。ちがう。例えばエウリピデスの『ヒッポリュトス』を自らのオリジナルとして持つ、ラシーヌの『フェードル』はどうか。
 ラシーヌは自ら序文の中で、原作がエウリピデスであることを述べている(ギリシア悲劇は、もはや「作品」となっているが、それが伝説にまで遡ることにも言及していることも見逃せない)。そればかりか、第一幕においては、衰弱する女主人公の台詞をエウリピデス作品から引用している。古代の劇の中で愛欲の女神アプロディテによって恋を吹き込まれたパイドラは、その治療として(相反する貞潔の女神アルテミスのアトリビュートである)馬場や森に憧れる。ラシーヌはその台詞をほとんどそのまま引用するのである。しかし17世紀古典主義の劇の中には、すでに二柱の神は存在せず(漠然とした愛の女神ウェヌスがいるのみ)、ラシーヌの衒学を差し引いても唐突な印象は免れない。この古代の痕跡はエウリピデスの作品を参照することなくしては、意味が理解できない。件の台詞によって、17世紀の翻案は、そこにない古代のオリジナルを指し示そうとしているのである。ラシーヌの劇全体は、近代に大量発生したアンティゴネーたちめぐる劇についてG. スタイナーが主張したように、むしろ恋と政治の相克を扱うものなのである。フェードルが、恋の駆け引きと政治的同盟に二度、敗北を喫せねばならないのもそのためである。たとえば、こんなふうに理解することも出来るだろう。──個人と共同体の相克をめぐる『ル・シッド』論争を経た近代の作家として、ラシーヌは、情念と政治に翻弄されるフェードルを描いた。しかし彼女は成長していくヒロインである。第一幕・二幕での、政治的な和解を装いつつも情念のみに突き動かされる恋一途のフェードルは、いまだ古代のパイドラの面影そのものである。つまり、件の台詞は、近代劇の中に嵌め込まれた古代のイコンの様に機能しているのである。──もちろん、以上の解決は一つの可能性にとどまる。むしろこの可能性から、翻案から作品へと位置づけが変換される問題を、二点みてとりたい。(1)明らかなオリジナルの痕跡、しかもそれがいかに翻案の内部で異質に見えるときも、われわれは、コンテクストを(この場合、近代劇特有のねじれ、個人と共同体の利益の相克)を提供することで、たやすく構造内の意味づけを新たに与えることができる。その結果、あたらしい統一感を見出し、あらたな「作品」の誕生を認定することになる(われわれは、H. Bloom以降、その気になればクロノロジーを無視するようにさえなった)。ちょうどギリシア悲劇というオリジナルなき翻案について、伝承上のキャラクターによってでも物語の時間によってでもなく、詩人は、作品の因果的統一によって「作者」になるとアリストテレスが述べたように。そして、(2)事後的に与えられた、この“作家性”こそが、翻案にあらたな「作品」としての地位を与えるのではないか。しかも、受容美学を経過した現代に生き、「作者の死」というスローガンに馴染んでいるにもかかわらずにである。今なお支配的な、“創造”の近代的な幻想は、翻案をたやすく作品へと変換してしまうのである(Greek Tragedies as/in Adaptations: The Poetics of Fragments and Body, 15th International Congress of Aesthetics, 30 August, 2001)。
 以上に加えて、デ・ヨング教授には、アリストパネスによるエウリピデス作品の多彩なパロディをもつ喜劇『テスモポリアズーサイ』についての小論を提出したが、こちらについては省略する(Intertextuality in Aristophanes' Thesmophoriazousae, Aesthetics 10, 2002)。教授は、ギリシア劇の翻案研究を上演様式研究と並んで重要であるとし、オックスフォード大学で進行中のアーカイヴを紹介してくださったが、しかし「物語(narrative)とperformanceには厳然とした区別がある」ことを強調された。そこには、作品・翻案の序列と、作品・演出・上演という問題圏を重ねて見るわたしの研究計画への批判がこめられていたのかも知れない。しかし、翻案が作品へとすくい上げられるのと同様の事情によって、すなわち個々の演出・上演もまた、その“作家性”を認められることによって、現代では作品としての地位を獲得しつつあるのではないか。演出家の死後も各地の歌劇場で受け継がれる「ポネル演出」、そして氾濫するリミックス群に付される有名DJの名前など、──鍵は固有名詞、作者項の再生であるとおもわれる。
 あるいは、個々の演出自体が、既に翻案の様相を示しているとしたらどうか。そもそもは三人に限られた俳優により(仮面の交換で多数の役柄を処理しつつ)上演されていたギリシア悲劇(入退場の工夫により、その処理はテクストに構造化されている)を、ふんだんに俳優を投入し俳優=役柄のアイデンティティーを保持しつつ進行する「蜷川演出」と、原作小説を他のメディアに、たとえば映画へと翻案することの間には、程度の違いしかないのではないか。この時、むしろ警戒すべきは、諸翻案、諸演出のステイタスの違いを、どう分析していくかということである。もちろん、新たな序列を試みてオリジナルへの憧憬に賛辞をおくってはならないだろう。

今後の予定

第5回「現代科学・技術・芸術と多元性の問題」PaSTA研究会

日時:4月26日(土)午後3:00-6:00
会場:京都大学文学部東館4階(北東角)COE研究室

環境問題における一元性と多元性
 ―移入種の排除をめぐる意思決定の問題
瀬戸口 明久(文学研究科博士課程)

上演芸術に見る翻案と演出
 ──アムステルダム大学における研修報告をかねて
若林 雅哉(文学部非常勤講師)

※PaSTA研究会の電子メール通知をご希望の方は事務局までご連絡下さい。

後記

本号には紙版とウェブ版(

PaSTA研究会事務局
〒606-8501 京都市左京区吉田本町 京都大学大学院文学研究科
現代文化学共同研究室 瀬戸口(研究会補佐員)
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