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Newsletter No.5

2003年5月26日発行

活動報告

第5回PaSTA研究会は以下のように盛況に開催されました。

日時:4月26日(土)午後3:00-6:00
会場:京都大学文学部東館4階(北東角)COE研究室

環境問題における一元性と多元性 ―移入種の排除をめぐる意思決定の問題―
瀬戸口 明久(文学研究科博士課程)

上演芸術に見る翻案と演出 ─アムステルダム大学における研修報告をかねて
若林 雅哉(文学部非常勤講師)

PaSTA研究会報告要旨

●環境問題における一元性と多元性──移入種の排除をめぐる意思決定の問題

瀬戸口明久(文学研究科博士課程)

 近年、移入種による生態系の破壊が大きな問題になりつつある。これらの問題に対処するため、国や地方自治体による移入種排除事業が各地で始まっている。ここで哺乳類が駆除の対象とされた場合、排除派の自然保護論者と反対派の動物解放論者が激しく対立することがある。だがほとんどの事例では、前者が圧倒的に優勢である。なぜなら最近の生物多様性保全のもとでは、「移入種の排除」が国際的な原則とされているからである。しかし「移入種の排除」はそれほど当たり前のことなのだろうか。そもそも、移入種を根絶してまで守るべき「生物多様性」とは、どのような価値なのだろうか。また移入種問題のように、環境のあり方をめぐって社会的な対立がある場合、どのように意思決定をおこなうべきなのだろうか。
 本報告ではこれらの問題について、タイワンザル問題を事例として考察した。この問題は、2000年8月に和歌山県が県内に生息するタイワンザルおよびニホンザル・タイワンザルの雑種個体すべてを捕獲し安楽死させる「サル保護管理計画」に着手したところ、事業の是非をめぐって大きな論争に発展した事例である。
 生物多様性のために移入種を排除するという原則が叫ばれるようになったのは、移入種によって地域に固有の生物種が減少あるいは絶滅した事例が多く見られるようになったためである。けれどもタイワンザル問題の場合、雑種化によってニホンザル集団が消滅してしまうわけではない。むしろ一見、多様性が高まっているようにも思える。けれども「生物多様性」とは、単に多様性が高い状態を目指しているわけではない。そこでは「進化の結果もたらされた多様性」を保存することが目指されているのだ。ニホンザルとタイワンザルとは数十万年前に種分化して以来、別々の環境で進化をとげてきた。その結果、両者はそれぞれ独自の遺伝的構成を持つにいたっている。このような地域固有の生物集団に「人為的な変化」を加えると、長い時間をかけて形成された遺伝的な多様性を攪乱してしまうことになる。このような移入種と在来種との交雑は「遺伝的汚染」と呼ばれ、異種間だけでなく同種間の交雑でも問題とされる。
 けれども「遺伝的汚染」概念には二つの点で問題がある。第一に、「汚染」とそうでない状態との境界を一元的に引くことの困難がある。タイワンザルとニホンザルとは極めて近縁な生物であり、移入された個体数も少ない。したがって雑種化によるニホンザル集団の遺伝的構成の変化は、じつは考えられているほど大きなものではない。この程度の変化は何ら問題ではなく、「汚染」とは考えられないとする価値観も十分にありうるだろう。第二に、「人為」の介入した部分とそれ以外の境界を一元的に引くことが不可能に近いことが指摘できる。ニホンザルの場合、1960年代に盛んに捕獲・放飼が繰り返されており、種内の遺伝的汚染はある程度進んでいる可能性がある。過去に加えられた人為的変化をすべて特定することは困難で、もし出来たとしても、元通りにすることに疑問を持つ立場もあるだろう。つまり、移入種問題をめぐる論争は「望ましい自然」をめぐる多様な価値観のあいだの衝突なのである。このような場合、適当な手続きを踏んだ「合意形成」を通じて意思決定をすすめていくべきだろう。
 では、タイワンザル問題の場合はどのようにして「合意形成」がすすめられたのだろうか。この事業は「合意形成」が望ましい形で達成された先駆的な事例とされることがある。県民千人を対象に「安楽死」か「飼育」の二者択一のアンケートがおこなわれ、意思決定に一般市民が参加することができたからである。だが、ここでは生物多様性の価値観に対抗的な選択肢があらかじめ排除されていたことに注目しなければならない。安楽死案への強い反発を受けた県は、離島に放逐するなどの代替案を検討した。だがそれらの代替案は、移入種問題の根本的解決にならないとする専門家団体の要望により、行政の内部で却下されてしまった。その結果、市民がアンケートで選択することができたのは、多額の資金が必要な飼育案と、はるかに安価な安楽死案の二つののみになってしまったのである。つまりこの事業の意思決定では、生物多様性保全という一元的な価値観が優先することが前提とされ、市民が持つ多様な価値観は、その手続きからあらかじめ排除されていたのである。
 以上の考察から環境倫理学的な含意を引き出すならば、次のようになる。現在の移入種問題をめぐる対立は、「全体論的環境倫理学」と「動物解放論」の二者間の対立の一つととらえられている。だが、両者のどちらが正しいかという一元的な価値を前提とした問いを立てても、移入種問題の解決には何ら結びつかない。むしろ問われているのは、移入種が持つ多様な価値をどのように評価し、社会にとって「望ましい自然」をどのように決定していくのかという、多元性を前提とした意思決定の問題なのである。

●適応行為としての翻案・編曲・演出──川上音二郎、安田芙充央、H. ツェンダー

若林雅哉(文学部非常勤講師)

【作品か翻案か】 翻案(adaptation)とは、OEDによれば「あるものを他のものに相応しいように適応する処置、あるいはその成果」をいう。つまりオリジナルは、上演や受容のそのつどのシステムや文脈へと相応しいように変換され翻案となる。この適応としての翻案現象を上演芸術の動向において考察するとき、従来の“オリジナル一元論”(オリジナル>編曲や翻案やパロディなどの適応)や、上演行為に特有の“作品一元論”(作品>演出>個々の上演)の二つの序列は自明ではない。普通「作品」としての地位を疑われないギリシア悲劇も、そもそもは民衆の知る神話の、悲劇詩人による翻案制作であった。周知の神話を、舞台上で台詞を担当できる俳優を三人程度に限定するという当時の上演システムに適応するように入退場を構造化することで、それらは成立している。だがギリシア悲劇は、やがて「オリジナル」とみなされフランス古典主義など多くの翻案の元となり、ギリシアの女神を人間の情念へと合理化するという適応を図ったラシーヌの翻案『フェードル』もまた、やがてオリジナルとみなされ、S. Kane(2002), L'amour de Phedre などの翻案の元となる。以上の諸翻案が、われわれによる作家性の認定に基づき「作品」化していく一方で、たとえば『ヴェニスの商人』法廷の場を、北海道を舞台とし漁師・才六の物語へと翻案した川上音二郎の新派劇『人肉質入裁判 白州の場』は、オリジナルならぬ二次的な翻案、明治大正の新劇運動に先立つ代用形態として低い評価が与えられてきた。しかし、文脈の変換=翻案行為といった点では、上の諸例には程度の差しかない。もちろん、ギリシア悲劇と川上の制作の間には、翻案行為が後続するか否かの差異は認められるが、オリジナルへの昇格(?)にあたって、もともとの翻案性格がたやすく忘却されていくことを見逃してはならない。
【演出にみる翻案の性質:上演システムへの適応】 またギリシア悲劇「作品」は、いまも新しい「演出」という変換の元となっている。だが、俳優と役柄の一致が当たり前となり多くの俳優を動員する現在の上演システムへの変換を行う蜷川幸雄の演出にもまた、神話から三人俳優制システムへの変換が翻案行為であったように、翻案としての性質を認めねばならない。いやむしろギリシア悲劇作品にも、神話「演出」の性格を見て取らねばならない。さらにその都度の演出=翻案行為にもまた、作家性の認定の後、たとえば『NINAGAWAマクベス』のように作品の地位が与えられている。つまり冒頭の二つの一元論は互いに交差するだけでなく、その各階層に認められる演出あるいは翻案などのような適応という共通項によって、もはや確固たる階層関係を保持し得ないでのある。
【ツェンダーの「解釈」:受容システムへの適応】 上演システムの変換という点では、編曲もまた翻案の一形態としてよい。ミュンヘン在住の作曲家・安田芙充央によるヴェルディのアリアの翻案(Im Zauber von Verdi, adapted after Giuseppe Verdi, 2001)は、ピアノソロ上演システムへの適応である。これと、いまや忘れ去られたシンセサイザー伴奏編曲のバッハという当時最新のシステムへの適応(Concerto for 2 Keyboards & Synthorch. arranged by B. James, 1989)との間に、制作内部での差異は殆どない。さらにまた編曲により、われわれの聴取経験の変貌と、そこへの適応を試みることも出来る。H. ツェンダーの『シューベルト『冬の旅』:作曲された解釈の試み』(1993)は、われわれの聴取経験の歴史的かつ不可逆的な変貌をなぞる、システム変換の束である。シューベルトの後にブルックナーやマーラーのロマン主義、ヴェーベルンの点描を経過したわれわれの耳は、シューベルトに潜む、後世の展開の萌芽を聞きつけてしまう。ツェンダーの試みは、シューベルトの音楽を、ビーダーマイヤー風の弦楽四重奏やロマン主義的な管弦楽の咆哮、緊張と弛緩の目まぐるしい交錯など、後の音楽語法展開のなかに位置づけていく。ここでは、われわれの耳の変貌への、『冬の旅』の適応がはかられているのである(しかし彼の「解釈」もまた、演奏会のレパートリーとして定着し、折々の上演や録音商品化の元となる「作品」として祀りあげられる運命を免れることは出来ない)。
【翻案の諸相:パロディ、盗作・・】 従来の一元的把握の問題点、作品認定の恣意性を強調するために、以上では、適応という翻案的な性格を強調してきた。パロディという間テクスト的な装置のなかでの適応や、盗作や略奪(J. オズワルドによるPlunderphonic)といった脱法的なシステムへの適応もまた見逃すことは出来ない。しかしながら、いま新たに“翻案一元論”という一元性の神話を導入すべきではないだろう。むしろ、翻案的行為=諸システムへの適応のなかにみられる、編曲・解釈・演出などの諸相の多様性を認めていかねばならない。

今後の予定

●第6回「現代科学・技術・芸術と多元性の問題」PaSTA研究会

日時:6月1日(日)午後3:00−6:00
会場:京都大学文学部東館4階(北東角)COE研究室

フランス 看護の現場における倫理的問題 フランスでの研修報告
相澤 伸依(文学研究科修士課程)

動物実験の倫理的問題
鶴田 尚美(京都精華大学人文学部非常勤講師)

技術者倫理は多元的でありうるか?−国際倫理綱領の可能性の検討を通じて−
杉原 桂太(南山大学社会倫理研究所非常勤研究員)

●第7回「現代科学・技術・芸術と多元性の問題」PaSTA研究会

日時:6月23日(月)午後4:30−6:30
会場:京都大学文学部東館4階(北東角)COE研究室

Michael D. Gordin (Junior Fellow, Harvard University)
The history of biological and chemical warfare investigations in the 1980s.
(The Sverdlovsk anthrax outbreak in 1979 and the Yellow Rain debates of the 1980s.)

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