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Newsletter No.9

2004年2月6日発行

活動報告

●Vladimir Sotirov教授講演会

日時:11月20日(木)午後4:00−6:00
会場:京都大学文学部東館4階COE研究室

Vladimir Sotirov (Institute of Mathematics and Informatics, Bulgarian Academy of Sciences)
Calculemus! A Realization of Leibniz's Programme

論文はウェブ上で閲覧できます(http://www.math.bas.bg/logic/vlsot/)。

●第12回PaSTA研究会

第12回PaSTA研究会は以下のように盛況に開催されました。

日時:12月14日(日)午後2:00-
会場:京都大学文学部東館4階COE研究室

真理の循環定義とパラドクス   金田 明子(文学研究科博士課程)
美の規範性とニーチェ   児玉 斗(文学研究科博士課程)
音響と映像のダイナミズム     碓井 みちこ(文学研究科聴講生)
メディアと/としての身体−現代のパフォーマンス・アートを中心に−      鮎川 真由美(立命館大学非常勤講師)

第12回PaSTA研究会要旨

●真理の循環定義とパラドクス

金田明子 (文学研究科博士課程)

 真理概念には多くの奇妙な振る舞いが存在することが知られており、それらは病理的振る舞いと総称される。よく知られるのは、自身が偽であることを自己言及的に主張する文「この文は偽である」の真偽にまつわるうそつきパラドクスである。パラドクス理論の課題は、病理的振る舞いの原因を解明し阻止することであり、タルスキの真理定義以来、多くの言語哲学的な分析と形式的解決策が提示され続けている。
 タルスキの理論では、文Sの真理は「Xが真であるのはSとき、そしてそのときに限る」という図式Tに対して、‘S’に文、‘X’にその名前を代入して得られるT-同値文によって定義される。例えば、文「雪は白い」の真理は、「『雪が白い』が真であるのは雪が白いとき、そしてそのときに限る」というT-同値文によって定義される。そして、与えられた言語の真理述語の外延は、言語のすべての文についてT-同値文を枚挙することによって一意的に確定する。しかし、図式Tを例えばうそつき文に適用するとパラドクスが生じる。このような循環表現を理論対象から排除するために、タルスキは対象言語とメタ言語からなる言語階層を導入する。こうして、タルスキの真理定義では、古典論理法則に合致した無矛盾で二値解釈の真理述語が定義される。しかし、真理述語は対象言語においてではなく、メタ言語において対象言語に言及することによって定義される。この結果、言語は自身の真理述語を持つことができない。
 真理の不動点理論では、自身の真理述語を無矛盾にもつ不動点言語を定義できる。この理論では、述語解釈の集合上で定義される単調演算子の不動点が、真理述語の解釈となる。ただし、不動点言語では真理は一般に二値解釈ではない。例えば、クリプキの真理の不動点理論は真理値ギャップをとる。つまり、真でも偽でもない文の存在を許容する。うそつき文などのパラドクシカルな文は理論対象だが、このような真でも偽でもない文とされる。クリプキの真理理論では、最小不動点言語において真または偽である文が「有基底的文」、真理値ギャップの文が「無基底的文」と定義される。有基底的文がクリプキの理論における非病理的な文だが、この文集合は直観的な真理概念に比べて非常に弱い。
 では、真理概念の表現力の強さは何によるのか?この問いに、グプタ、ベルナップの真理の改訂理論は、真理は循環概念だからと答える。循環概念とは、G(x):=¬F(x)∧G(x)のように、左辺の非定義項Gが右辺の定義項にも現れる定義式によって定義される概念をさす。循環定義は、推論を狂わせ時には矛盾を導く創造性を持つため、通常論理では非合法である。これは意味論的には、非定義概念の外延が一意的に確定しない現象と対応する。しかしグプタは、循環による創造性が、真理概念の表現量増加の要因と考える。そこで、循環定義の合法性を擁護するために、循環定義の論理体系を定義する。この体系では、通常論理では実質同値に従う定理式およびそれを支配する諸規則は、より弱く循環推論も形式化する定義同値に従う。そして循環定義は、非定義概念の仮説的外延を計算し、最終的には定言的外延を割り出すのに役立つ関数「改訂規則」を意味として持つとする。
 真理の循環定義の場合、二値の真理述語の解釈集合上で定義される演算子が、真理の改訂規則である。真理の改訂意味論では、改訂規則にしたがって仮説的解釈の改訂を繰り返すことによって、文は「定言的文」と「病理的文」とに分類される。定言的文は、どのような仮説的解釈の下でも真理値が一意的に確定する文といえる。この定言的真理は、クリプキの有基底的真理に比較してより強い真理解釈であり、さらに無矛盾でもある。このように真理を循環概念と見なしても、病理的文とそうでない文とに分類することが可能であり、そのことによって循環概念の合法性が擁護される。
 以上三つの理論から、パラドクス理論に共通する枠組みとして、この理論(の多く)が与えられた言語の真理述語を定義する形式をとり、そのために、文を病理的な文とそうでない文とに分類することがわかる。この点で真理の改訂理論は、強い意味論体系によって精密な分類方法を提供する利点を持つ。しかし真理理論一般を見渡したとき、こうしたパラドクス理論の成果が他の課題、例えば真理の対応説や余剰説などとどのような関連を持つのかを見出すことは難しい。改訂理論は、真理を循環概念と見なすことによって、分類にとどまらず分類の説明も試みていると考えられなくもない。しかしパラドクス研究は、こうした問いと独立になされ、研究成果も還元されずに、あるいはできずにいるのが現状と思われる。パラドクス理論が真理理論一般にどのように位置づけられ貢献するかは、パラドクス理論が答えるべき課題の一つといえるだろう。


●規範性とニーチェ

児玉 斗(文学研究科博士課程)

 ニーチェと規範性とを結びつけることは、一見あり得ないことに思われる。ニーチェはよく知られているように、「何ものも真ではない、全ては許されている」(Samtliche Werke:Kritische Studienausgabe 1988(以下KSAと略記)Bd.5 S.399)、「真理とは…誤謬である」(KSA Bd.11 S.506)、などと主張したのである。規範的どころか、その規範性などを「鉄槌の一撃」でもってして破砕しようというのが、ニーチェの言うところと思われがちである。だがあにはからんや、彼は規範性を重視している。それはどのように問題とされていたのか。
 ニーチェは哲学者としての営為を『悲劇の誕生』を著すことで開始した。この書は周知の通り、古典文献学者としての彼の将来を全く失わせた。しかし同じ古典文献学者たちの無理解は、彼をさほど苦しめはしなかった。なぜなら彼は、そもそもこの書を古典文献学の書としてではなく、哲学の書として書いたつもりであったからである。ニーチェがこの書で行おうとしたのは、巷説されるような、アポロン的なものとディオニュソス的なものとの対立こそが古代ギリシアの美学であった、などという主張ではない。彼は、当時の古典文献学界を、ひいては後に「教養俗物」(KSA Bd.1 S.165)と彼自らが名付ける者たちの跋扈する当の時代を、批判しようとしたのである。自身も属していた当時の古典文献学では、現代から全く異なったものとして客観的に、研究することが当然視されていた。古代ギリシアを他の古代と並べて「歴史的にhistorisch」(KSA Bd.1 S.130)研究すべしというのである。古典文献学者ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフがニーチェ批判の書で如実に言う、「少なくとも根本において学問的なものの共有財となった歴史的批判的方法historisch-kritische methodeは、ドグマに縛られいつもドグマを確認することを見出さずにはいられない考察方法の正反対である」(Ulrich von Wilamowitz-Mollendorff Zukunftsphilologie! in Der Streit um Nietzsches”Geburt der Tragodie” Hildesheim 1969 S.31)と。だがニーチェは、バーゼル大学に就任したときの講演でこう言っていた、「我々が古代に対して学問的にあろうとするならば、我々が今歴史家の眼でもって生成したものを把握しようとするならば…我々は古典期の雰囲気の素晴らしく教養的なものを、それどころか古典期の雰囲気の本来の香りを、失うのである」(Kritische Gesamtausgabe 1982 Abt.2 Bd.1 S.252)と。
 ニーチェが見るところでは、現代はソクラテスを原像と始祖とする理論的人間を理想像とするアレクサンドレイア的文化の中にあり、教養人といえば学者を指している(KSA Bd.1 S.116)。しかしこれとは違って、ゲーテやシラーと「同じ道を辿って教養とギリシア人たちとへ努力すること」(KSA Bd.1 S.129)が必要なのである。ここで言う「教養」とは勿論、教養市民層の「教養」ではない。彼は、「教養とは何か」と題した遺稿において、「教養とは偉大な諸目標という目的を持って偉大な精神の持ち主たちの意向に沿って生きることである」(KSA Bd.7 S.258)と定義している。これはまた別の箇所においては次のような変奏を見せる。「人は偉大な指導者Fuhrerを必要とする、そして全ての教養は服従とともに始まる」(KSA Bd.1 S.749)。かくしてニーチェは、古代ギリシアを規範的なものと捉えるのである。そして「我々は我々の道を照らす指導者Fuhrerから、すなわちギリシア人たちから、離れてはならない」(KSA Bd.1 S.147)。
 さて、それでは、古代ギリシアを規範とすることで何が生じるのか、何を目指して規範とするのか。天才の産出である(KSA Bd.7 S.355他多くの箇所で)。「天才は人類の頂点にして究極の目標」(ibid.)なのであって、「人類は、個々の偉大な人間を産出することに、絶えず従事するべきである――そしてこれが人類の課題であり、またこれより他には何ものも人類の課題ではない」(KSA Bd.1 S.383-4)。ここにニーチェはさらにもう一捻りを加える。それは彼が、産出された天才、これはまた産出した民族の目標でもあるのだが、産出した天才によって民族の特色が提示されるのではなく、その天才をその民族がどのように認識しまた畏敬するかという姿勢にこそ提示されているのだ、と考えることである。その天才をもまた規範として受け取ることでその民族全体は前進していくのだと考えるのである。この思想は、いわゆる中期の「偉大さとは方向を与えることである」(KSA Bd.2 S.324)という箇所などを経て、いわゆる後期の「未来の哲学者」(KSA Bd.5 S.59ff)像などに到るまで、ニーチェの思想の中を一貫して流れていくことになる。


●音響と映像のダイナミズム

碓井 みちこ(文学研究科聴講生)

 映画において、映像とともに、音は欠かせない要素である。しかしながら、現在の映画研究において、音に関する議論はまだ十分になされているとはいえない。確かに、文学研究・フェミニズムなど他分野の言説の輸入が積極的に行われていた1970−80年代の英米圏の映画研究において、音への言及は断片的な形ではなされていた。そこでは、映像にはない抽象観念を伝達する人物の話し言葉やオフスクリーンのナレーション、または、物語内世界に音源をもたない人物の心理描写・場面描写としての音楽、などが論じられていたのである。
 しかしながら、ほんらい映画における音は、話し言葉以外の様々な「もの音」、さらには声の反響・ボリューム・トーンなど話し言葉の音としての質など、より幅広い観点からとらえられるべきであろう。そうすることによって、音を、より映画的な特性にそくして理解することもまた可能となる。これまで映画の特性は、主に映像の側面から、すなわち、カメラ移動やモンタージュによって、周囲の秩序から対象の映像を任意に切り離し繋ぎ合わせて、人間の知覚にはない急激な変化を加えることであると説明されてきた。しかしながら、映画における音もまた、マイクや録音・編集機材によって、もともとの音源から対象となる音を切り離しその反響・ボリューム・トーンなどを任意に調整することで人間の知覚にはない急激な変化を加えられたものであるということができる。このような音の特性を踏まえた上ではじめて、音と映像のよりダイナミックな相互作用について論じることもできよう。すなわち、映像の側からだけではなく、音の側から映像の意味を枠取りさらには物語全体を規定する場合について論じることができるのである。そこで本報告では、上記のような観点から、ヒッチコック『恐喝』(Blackmail 1929)を中心に、ヒッチコックのサスペンス表現における音と映像のダイナミズムについて検討を加えた。
 とはいえ、今なぜヒッチコックなのか?ヒッチコックのキャリアを概観すると、音よりは映像によるモンタージュのほうが重視されているようにも見えるし、先行研究においてもその映像に主に焦点が当てられてきた。しかしながら、ヒッチコックは、実際には、音に無関心だったわけではない。なぜなら、ヒッチコックは、当時カメラやマイク、録音技術などの問題から、ショットサイズ・アングルに自由に変化を加えることが不可能となり、結果モンタージュの使用を著しく制約することになったトーキー・フィルムに対して、いち早く取り組んだ監督のひとりでもあったからである。とはいえ、当時トーキー・フィルムへの移行は、決してスムーズなものだったとはいえない。『恐喝』は、もともとサイレントとして企画されたが、トーキーとして全面的に計画が変更された。しかしながら当時、イギリス全土においてトーキー対応の映画館が、映画館総数の約20パーセントを占めるに過ぎなかったことから、トーキー版完成の後、すぐにサイレント版も制作され、トーキーに対応していなかった映画館にはそのサイレント版が配給された。その結果、『恐喝』は、ヒッチコックのキャリアにおいて初のトーキー・フィルムとなるとともに、同じ物語内容にトーキー・サイレントの両版が存在するという極めて特殊な作品となるのである。
 さて、先に完成したトーキー版においては、音を入れたことによって、モンタージュの使用が全体的に抑えられている。これに対して、後から完成したサイレント版においては、トーキー版でショットの変化が少なかった部分に、サイズ・アングルの変化をつけたショットが補われるなど、モンタージュを重視した変更がなされている。サイレント版は、ショットが補われたことからも分かるとおり、ショットの変化によって登場人物の見るものやそれに対する反応を観客に理解させることで、未来の展開に対する観客の想像を駆り立てるサスペンスとなっている。このような特徴は、ヒッチコックの他の作品のモンタージュにもしばしば見られるものである。これに対して、トーキー版では、登場人物の視線の行方やその反応を待たず、むしろショットの変化が少ないことを生かしている。つまり、次にショットが変化するまでの間、音の変化によって、観客自身の中の、物語の過去の展開についての記憶や未来の展開への期待により直接的に訴えかけるようなサスペンスとなっているのである。本報告では、このようなサイレント版とトーキー版のサスペンス表現の質の相違を比較しながら、トーキー版における音と映像のダイナミズムの特徴を、いくつかの具体的なシーンに基づいて分析した。紙数に限りがあるので、ひとつだけ挙げると、例えば、トーキー版においては、ヒロインの家を訪れた客の話し声の中の「ナイフ」という言葉、その言葉だけが際立って響き、繰り返されるたびにテンポが加速しボリュームが増大するという演出が採用される。このような「ナイフ」の声は、ナイフによって人を刺殺したことを隠しているヒロインの罪悪感を示すとともに、パンナイフとそれに伸ばされるヒロインの手のショットに重ねられることで、そのパンナイフの行方を観客に想像させる(「ナイフ」のボリュームが最大になったと同時にヒロインはパンナイフを落としてしまう)。これに対して、サイレント版では、「ナイフ」について話す客の台詞の字幕の後、ショットサイズ・アングルの変化やヒロインの視線のショットを使って、ヒロインと彼女の視線の対象であるパンナイフとを関係付けるとともに、部屋のドアがドアベルとともに開くというショットが新たに挿入され、ヒロインがドアベルに驚いてパンナイフを落とすという演出に変更されている。つまり、サイレント版と比較すると、トーキー版は、音のテンポ・ボリュームの変化を利用することによって、登場人物の視線の行方や反応への理解より先に、観客をパンナイフのショットに集中させその行方をより直接的に想起させるようなサスペンスとなっているのである。このように、観客を、登場人物を媒介せずより直接的にそのフィルム世界に巻き込むような、音と映像のダイナミズムによって表現されるサスペンスは、『フレンジー』(Frenzy 1972)など、実際にはトーキー化以降の彼の他の諸作品にも確実に影響を与えている。映像のみによっては決して明らかにならないヒッチコックのサスペンスのオルタナティブな側面は、今後いっそう論じられねばならないだろう。

●メディアと/としての身体−現代のパフォーマンス・アートを中心に−

鮎川 真由美(立命館大学非常勤講師)

 20世紀以後のパフォーマンス・アートは、その脱領域的な展開に特徴づけられる。それは、芸術という領域が、自己言及的な問いかけを果てしなく反復しながら、その自律性を保持かつ喪失してゆくような近代の構造そのものと、密接に関連している。マルセル・デュシャンの<レディメイド>やジョン・ケージの『4分33秒』と同様、パフォーマンス・アート、すなわち、身体を表現媒体とした芸術は、20世紀以後、既存の伝統、ひいては「書き込まれ」固定化した身体感覚の秩序に揺さぶりをかける<モダン>ないし<アヴァンギャルド>の実践として位置づけることができる。
 <芸術>という自明のレッテルへの問い直し、それは端的には、「これが芸術である」と名指す言語行為の実践としてあらわれる( ティエリー・ド・ドューヴ「デュシャン以後のカント/デュシャンによるカント」)。こうして、カント的な天才や趣味のというよりも、誰でも参入可能な領域として芸術は実践的に開かれ、諸ジャンルを超えて日常的な生活世界との境界すら曖昧と化し、脱領域化、ひいては脱主体化の運動を促す。異質なエレメントの共存するハイブリッドな主観的状態を、例えばジル・ドゥルーズは、「今やあらゆるエコーを信じることができたのです−もはや僕たち〔ドゥルーズ+ガタリ〕二人の間だけではなく、僕たちがくぐり抜けてきた諸領域のあいでも」と述べ、「美しい瞬間」とみなす( ドゥルーズから宇野邦一への1984年7月23日付けの手紙より、in:Gilles Deleuze. Short Cuts, hrsg.von Peter Gente u.a., Frankfurt a.M., 2001.S.75)。
 言語・記号的な芸術解釈の一方で、近代の視覚・聴覚上の複製技術・テクノロジーの発達こそが、先述のような、20世紀以後の芸術ひいては文化行為の<巨視的>形態に変化をもたらす最大の牽引役だった。身体に外在的な物質メディアのテクノロジー、ないしはメッセージを書き込む技術は、それを用いる身体というメディアを内在的に変化させ、そのプログラムを書き換える。言い換えれば、<微視的>形態としての身体の「知覚システム」(J.J.Gibson)にフィードバックされる。メディア理論家、フリードリヒ・キットラーによれば、「人間の本質が機械装置にとってかわられてしまったのだ。これまでの機械だと筋肉系を占領するだけだったのが、今度は中枢神経系も占領される」(Friedrich Kittler: Grammophon,Film,Typewriter, Berlin, 1986. S.29)。
 人間-機械は芸術においても古くて新しいテーマだ。例えば現代を「抽象」と「機械」の時代と規定したオスカー・シュレンマーによる「人間と人工人物(Mensch und Kunstfigur)」(1925年)の理論・実践、音楽では1968年に結成されたテクノ・ポップのグループ、Kraftwerkの『人間-機械(Die Mensch-Maschine)』(1978年)などがある。前者は身体運動-空間の幾何学的構成、後者は音の反復性に特徴をもつ。そして、ドゥルーズ+ガタリが一種の芸術として創造した概念のひとつである「抽象機械」。それは、物質的世界と記号的世界とが「ダイアグラム」的に絡みあい、自然へも文化へも還元されない機械である。これがカオス理論のなかで、秩序生成の場面、新たな時空間の生成場面で作動するとき、それは、単に経験的かつ物理学的領域にとどまらず、「場所なき場所」というカントの超越論的な認識主体の次元とも接続する(Pierre levy: Fraktale Faltung oder wie Guattaris Maschinen uns helfen koennen, heute das Transzendentale zu denken, in: Aesthetik und Maschinismus.Texte zu und von Felix Guattari, Berlin, 1995. S.95) 。座標系で理解される以前の過ぎゆく時間像とは、数学の「パイこね変換」的な抽象平面の反復的折り重ねで、己れを差異化しつつ、固有の時空間を生みだす運動そのものなのだ(Ibid, S.104f.)。例えば音響の秩序生成をめぐり、作曲家オリヴィエ・メシアンは、「多くの鳥は単に名演奏家であるだけでなく芸術家であり、何よりもまずテリトリーを標示する歌を歌うからこそ芸術家である」(ドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』邦訳、366頁)という。ノイズ/楽音の境界において、生物学的世界と文化的世界とが、音響という時空間、「テリトリー」の生成かつ「所有」という政治性をはらんでリンクすることが示唆されている。
 現代の日常文化シーンを特徴づけるリアル・ストリートを走るスケーターの少年たち。彼らにとってヒーローとは、ストリートの雑踏、カオスのなかに<場>を即興的に生みだす者である(DVD:LODOWN“marok.superlo8 chronicles”1996-2000.)。緻密な計算や加速への意志により、一定の行為をそのつど選択しつつ、カオス/秩序のボーダーを身体がすり抜けるとき、それは、既存の秩序での適応行動を超えた「自由」をめぐる実践的、超越論的領野と抵触する。鳥の鳴き声が音楽へ、身体障害者の不均衡な身体運動がパフォーマンス・アートへ。こうした自然と文化(芸術)の境界、ひいては両者を媒介する身体(人間-機械)、そして人間を含む生命体と環境との新たな結合をめぐる<アヴァンギャルド>的実践は、そのボーダーを決定づける行為選択の不確定性において政治的である。そして、身体の美的次元、快楽の強度が最も高まるのは、このような政治性が最も露になる地点においてだといえよう。2003年9月にアドルノ生誕100年を記念する会議でユルゲン・ハーバーマスが行った講演も「自由」をめぐってであった。

今後の予定

●THE ROAD TO THE ORIGIN, An International Symposium on Darwin

March 18 (Thu.), 2004, 2:00-5:00 pm,

at Kyoto University, Clock Tower, International Conference Hall

Speakers:

Randal Keynes, the author of Annie's Box, Charles Darwin, his Daughter and Human Evolution
James Moore, the author of Darwin, the Life of a Tormented Evolutionist (with A. Desmond)
Mariko Hasegawa, the author of many books and a leading figure among the Japanese evolutionary biologists

Chair:

Soshichi Uchii, a maverick philosopher of science and a Darwinian

How did Darwin come to his view on the origin of species, published in 1859? Two distinguished biographers of Darwin, Randal Keynes and James Moore, together with evolutionary biologist Mariko Hasegawa, will talk about the process, the circumstances, and the significance of Darwin's theorizing on man, animals, and the whole life.

■PaSTA研究会事務局
〒606-8501 京都市左京区吉田本町 京都大学大学院文学研究科
現代文化学共同研究室(瀬戸口)
TEL: 075-753-2792
E-mail: pasta-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp
Webpage: https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/jp/projects/projects_completed/hmn/pasta/