3rd Meeting / 第3回研究会

 

証言から歴史へ − 対話の臨界に立って −(1)

杉村 靖彦 (文学研究科 宗教学専修 助教授)


われわれの研究課題は「新たな対話的探求の論理の構築」となっている。だが、この題目自体が、われわれが直ちにこの構築作業へと着手するわけにはいかないことを示している。なぜ、現実に対話を実行しようと努める前に、「新たな対話的探求の論理」を求めなければならないのか。すでに行われている対話をより効率よく進めるための方法論が求められているにすぎないならば、「新たな」という形容詞はきわめて軽いものになってしまうであろう。「新たな対話的探求の論理」が問われるということは、そもそもこれまで考えられてきた「対話」なるものが根本的に問題をはらんでいるということでもある。それゆえ、従来対話の名の下になされてきた思索と実践を批判的検討にかけ、それが構造的に無視し排除してきたものをそれに突きつけなければならない。この解体作業を自らの構成要素とするような対話の概念 −そこでなお「対話」という術語を保持できるかどうかは定かではないが− のみが、われわれが構築すべきものとなるであろう。解体することが構築することであるような歩み、それがわれわれの研究に課せられている歩みである。

このような観点に立つ時、われわれにとって重要な意味をもってくる現代哲学上のトピックがある。それは「他者」という問題である。もちろん、「私」に対しての「他」が問題になるということ自体は、なにも今に始まったことではない。だが、とくに二〇世紀後半に現われたラディカルな他者論は、他者を「他我」あるいは「私の同類」と見なして「私」と「他」の関係を何らかの共通性に基づけるような立場に鋭く対立し、そのような立場が隠蔽し抑圧する絶対的な他者性を掘りおこそうとする。通常の対話概念が、対話者を私に対する他者として認めながらも、他者と私が対話を可能にする共通の場に立っていることを前提とする限りにおいて、このようなラディカルな他者論は対話という概念に対する強烈な批判とならざるをえない。しかし、ここで重要なのは、対話の成立自体を問いに付すような他者と私の断絶が強調されるにもかかわらず、絶対的な他者性が語られ、論じられているという事実である。幾重にも曲がりくねった、息も絶え絶えの言説によってではあるが、ともかくそれは語られている。このような思想的営みは何を意味しているのであろうか。おそらくそれは、われわれの課題である「新たな対話的探求の論理」と無縁ではあるまい。

しかし、絶対的な他者性をもちだす議論には、よほど用心して関わらねばならない。対話の概念は自己と他者の共通の場を前提としているがゆえに他者の他者性そのものをとり逃してしまう、といった類の批判は、それが切迫した仕方で現われ出る現場から切り離されるやいなや、「他者性そのもの」を独断的に振りまわす最悪の議論に変質してしまうという危険をつねに抱えている。現代を生きる者の経験に忠実であろうとする知的営為にとって、他者という問題は単なる思弁の事柄ではない。それは切れば血の出るような生々しい問題であって、われわれ自身が置かれている状況を少し掘りさげて考えれば、どこからでも浮上してくる問題である。この問題に対しては、もはや特殊を普遍に包摂するという従来の理解法で立ち向かうことはできない。だからこそわれわれは切実に「対話」を求める。しかし、そうして誠実に対話の可能性を追求し、他者を他者として理解しようとするまさにその時に、その努力自体が構造的に排除し抑圧する何かにわれわれは突きあたる。そこが他者論なるものがリアルに問題となる現場である。

われわれの探究もまた、この現場との接触を失わないような仕方で行われねばならない。そのための有益な通路になりうると私が考えるのが、「歴史」という問題である。現代の他者論が証示している「対話の臨界」を歴史という問題に即して描きだすこと、それがこの小論の課題となる。

1. 歴史叙述(historiographie)への不信

だが、一体なぜこのような文脈で歴史が問題になるのか。歴史を語ること、ましてや歴史を語るということを哲学的に説明することは、今述べたラディカルな他者論とは正反対の方向性をもつ営みではなかろうか。過去に起こったことを「実際にあった通りに(wie es eigentlich gewesen)」(ランケ)書き記し、語り伝えていくという営みは、今日が昨日のような日であり、明日もまたそうであるという一種の連続性の感覚を前提しているように思われる。そしてそのことは、過去の出来事の一つ一つに真の意味を与える歴史の全体性への確信と強固に結びついている。さしあたっては、前者は一九世紀に登場した実証主義的な歴史学によって、後者はヘーゲル流の歴史哲学によって理論的に洗練されたと言える。この二つは、歴史を扱う方法態度として全く相反するものであるように見えるかもしれない。だが、資料の組織的な収集によって「歴史的事実」を再現できることを疑わず、それらの事実の連続によって年表を埋めつくすことを究極目標とする実証主義的歴史学の営みは、何らかの形で歴史の全体性への信頼が働いていなければ保持されないであろう。しかし、連続性と全体性というのは、明らかに「絶対的な他者性」とは正反対の特徴づけではなかろうか。

歴史をそのように見ること自体が現代では時代遅れなのだ、と言われるかもしれない。一方で、二〇世紀の歴史学は、前世紀の実証主義的歴史学を起点としながらも、その手堅い学問的な手続きの背後に潜む偏りを意識化し、それを果敢に乗りこえてきた。その典型的な例として、フランスのアナール派歴史学を挙げることができる。ブロックやフェーブルといったアナール派の創始者たちにとって、それまでの歴史学が文書資料の徹底的な収集を基礎作業としていたことがそもそもの問題であった。一般的に言って、過去の出来事が大事件(とくに政治的な意味で)であればあるほど文書資料は多く残っている。それゆえ、文書資料に基づく歴史学は、「事件史(histoire événementielle)」しか描くことができない。そこでは、歴史を形成するのは諸々の政治的事件であり、権力を握った人物たちであることが無自覚に前提され、無名の人間たちの日常的活動によって織りなされる歴史は排除されるのである。この排除に抗して、「時間の内にある人間たち」の全てを捉えなければならない。そのためには、文書資料を金科玉条とするのではなく、過去の人間が残した全ての痕跡に目を留め、それらに問いを投げかけることによって、沈黙する歴史を自ら語らしめねばならない。こうして歴史学は、事件史から「社会史(histoire sociale)」へと重心を移し、過去の事実の単なる収集ではなく、過去に問いかけて過去から答えを引き出す「問題史(histoire-problème)」へと変貌するのである。

他方で哲学に目を転じると、二十世紀の哲学がヘーゲル的な歴史哲学をそのまま保持してきたわけではないことは明らかである。歴史と哲学の関係は、ディルタイからガダマーへと至る潮流が示しているように、「解釈学」という枠組の中で考えられるようになってきた。過去を解釈する者としてのわれわれは、歴史の全体という立場に一挙に立つことはできない。過去へと問いを投げかけ、それに呼応する答えを受けとるという営みを通して得られる自己理解の地平の拡大、歴史的認識とはそのようなものでしかありえないのである。

このように見ると、われわれの研究課題からすれば興味深いことであるが、二十世紀を通して、歴史学でも哲学でも歴史叙述を「対話」モデルで捉える立場が力を得てきたと言ってよいであろう。だが、このような対話モデルによる歴史理解は、本当に歴史の連続性と全体性という旧来の見方を超え出ているのであろうか。少し立ち入って見れば、この点について疑いをかけることができる。アナール派の歴史学は、沈黙する無名の歴史から事件史までの全てを包みこむ「全体史(histoire totale)」(ブローデル)を強く指向するようになっていくし、また、歴史性に関する解釈学的哲学の理論にしても、テクストの解釈をモデルにして、個々の出来事と歴史との関係を部分と全体の関係として捉えているのである。

では、歴史が連続的で全体的なものとして叙述されるということが今も続いているとした場合、一体そのことの何が問題となるのであろうか。また、歴史が作動し叙述される仕方は、そのようなものでしかありえないのであろうか。こうした問いにとりくむための手掛かりとして、歴史叙述に対する不信の念をもっとも尖鋭的かつ根源的な仕方で表明した一人の思想家の文章を読んでみたい。それは、ヴァルター・ベンヤミンの絶筆『歴史の概念について』(『歴史哲学テーゼ』)(1940)である。

『歴史哲学テーゼ』の第七テーゼで、ベンヤミンは次のように述べている。

フュステル・ド・クーランジュは、歴史家に対して、ある時代を追体験しようとするならば、歴史のその後の経過から知られる全てのことを頭から払いおとしておくのがよいと勧めている。このやり方は、歴史的唯物論が縁を切ったものであって、気にとめない方がよい。それは感情移入というやり方である。…この悲しみの本性が明らかになるのは、歴史主義の歴史叙述者はそもそも誰に感情移入しているのかを問うときである。答えは必定であって、彼は勝利者に感情移入しているのである。…地に伏す人々を踏みにじって歩いていく今日の勝利者の凱旋行進では、今日までの全ての勝利者が一緒に行進している。戦利品は、いつの時代もそうであったが、凱旋行進と一緒に引き回される。それが文化財と呼ばれるものである。…文化財が存在を得るのは、それを創造した偉大な天才の労苦によるばかりでなく、その同時代人たちの苦役によってである。それは、野蛮のドキュメントであるからこそ文化のドキュメントとなる。そして、文化財自体が野蛮を免れないのと同様、それが人から人へと渡ってきた伝承過程もまた、野蛮から自由ではない。それゆえ、歴史的唯物論者はこの伝承過程から身を引き離す。彼は歴史を逆撫ですることを自らの課題と考えるのである。(1)

ベンヤミンの批判は、直接的には、歴史のその後の経過を度外視して過去の事実そのものを再現しようとする実証主義的な歴史叙述へと向けられている。この点だけをとれば、ベンヤミンは彼とほぼ同世代であるアナール派の創始者たちと批判対象を共有していると言える。だが、アナール派の実証主義批判と比較した場合、ベンヤミンの批判の特異性が浮かび上がってこざるをえない。過去の事実そのものを再現しようとする実証主義的な歴史叙述を、彼は「感情移入」のかどで告発するのである。これは、実証主義的な歴史学が描く「事件史」は歴史の表層でしかないというアナール派の批判とは似て非ざるものである。ベンヤミンにとって、事件史しか叙述しないということは、歴史学のレヴェルでの不十分性のゆえに問題なのではない。事件史とは単に歴史の表層であるだけでなく「勝利者の凱旋行進」であって、敗者を踏みにじりその存在をなかったことにすることによって成りたつものであること、それゆえ、事件史を忠実に再現する営み自体が、直ちに「感情移入」によって勝利者に加担しその凱旋行進に参列することを意味するということ、この二点が問題なのである。

このようにして、ベンヤミンの思索は、歴史叙述という営み自体に深い不信の眼差しを向けさせるものとなる。アナール派の歴史学(少なくともブローデルの世代までの)やガダマー流の解釈学的哲学からは、おそらくこの種の不信感が生じてくることはあるまい。歴史の埋もれた部分に関心を向け、過去に問いを投げかけることによってそれを浮かび上がらせようという企ては、過去との対話を推進することによって歴史の理解をより豊かに広げたいという善意によって動かされているのであって、そこではこの善意自体が問いただされることはありえないからである。

それに対して、ベンヤミンは「歴史を逆撫でする(gegen den Strich bürsten)」という態度を選びとる。すなわち、歴史という織物に対して、その毛並みとは逆方向に(gegen den Strich)ブラシをかけてみる(bürsten)ことによって、あえて諸々の不連続面を浮かび上がらせようとするのである。ベンヤミンが思いを寄せる過去は、単に埋もれていて、光を当てられるのを待っているものではない。それは敗者の歴史であり、まさしく歴史を形成し語らせるのと同じ力によって、踏みにじられ、押さえつけられ、なかったことにされる過去である。そのような過去が浮かび上がるならば、それと相関して、連続体としての歴史の権力性はもちろんのこと、歴史を連続的なものとして語ることによってその「毛並みにそって」ブラシをかける作業自体の権力性も暴露されるであろう。歴史に対するベンヤミンの徹底的な批判は、歴史とその叙述に含まれるこのような力を鋭敏に感じとる研ぎ澄まされた感覚から発している。この感覚は、ほとんど歴史の原―存在論的把握ともいうべき域に達している。それをはっきりと描きだしているのが、ベンヤミンの偏愛するパウル・クレーの絵「新しい天使」への言及から始まる有名な第九テーゼである。

「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。そこで描かれている天使は、何かから遠ざかろうとしているように見えるが、天使はその何かをじっと見つめている。彼の眼は見開かれ、口は開き、翼は拡げられている。歴史の天使はこんな姿をしているにちがいない。彼は顔を過去へと向けている。われわれには事件の連鎖が見えるところに、彼は破局のみを見る。破局は絶え間なく瓦礫を積み重ねていき、瓦礫は彼の足下にまで飛んでくる。彼はそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、粉々に破壊されたものを寄せ集めて組み立てたいのだが、楽園から強風が吹いてきて彼の翼をふくらませ、その風があまりにも強いので、彼はもう翼を閉じることができない。この強風によって、天使は抗うこともできずに、彼が背を向けている未来へと運ばれる。その間にも、彼の目の前の瓦礫の山は天に届くばかりに堆くなっていく。われわれが進歩と呼ぶのはこの強風のことである。(2)

「歴史の天使」の目に映るのは、「逆撫でされて」浮かび上がった歴史の真相に他ならない。そこでは、「事件の連鎖」の深層に入りこんで「全体史」を捉えだすことが問題なのではない。歴史の天使の眼差しを規定しているのは、歴史が進行し「事件の連鎖」が形成されるというのは直ちに「瓦礫の山」が積み上げられることに他ならない、という洞察である。「楽園からの強風」とは、歴史をそのような仕方で動かす根源的な力のアレゴリーである。歴史を元始より瓦礫を作りだしながら進みつづける強風として見るヴィジョンが、ベンヤミンに特有の歴史の存在論であると言えよう。なにものもこの力から逃れることはできない。歴史を「事件の連鎖」としてしか見ることができない歴史家は我知らずこの力と一体化しているのであるが、歴史の天使とてこの力を免れるわけではない。歴史の天使は歴史そのものの力に対しては無力であって、彼の翼は楽園からの強風を受けて後退させられるためにのみ存在する。ただ、そうでありながらも、「後ろ向きに未来へと運ばれていく」彼の眼は、前進して止まない歴史が残した「瓦礫の山」を目撃することができる。歴史そのものへの鋭い不信を含んだベンヤミンの視線はここから出てくるのである。はたしてこの視線は、ベンヤミン個人の悲劇的な歴史観を示すだけのものであろうか。それとも、さらに本質的な問題を告げているのであろうか。

2. 「証言」という問題

ベンヤミンが歴史に対して突きつけた不信は、なるほど彼独特の術語とイメージによって表現される個人的な思索であって、それだけを論拠として議論を進めることは許されないであろう。だが、私の考えでは、ベンヤミンの思索に対応させられる問題系が、現代の思想状況の中で浮上してきているのを見てとることができる。それは「証言(témoignage)」という問題である。

少し注意してみれば、ここ二十年ほどの間、証言という語が広い意味での現代思想(哲学に加えて文芸批評、精神分析、政治・社会理論等を含んだもの)においてひんぱんに言及されていることが分かる。もちろん、その背後にはこの語が蓄えてきた意味の豊かな伝統が控えている(とりわけ、ユダヤーキリスト教の伝統において、この語が司法の領域だけに限らず、「神の証人」というように「信仰の証」という文脈でも用いられてきたことは注目しておくべきであろう)。しかし、「証言不可能なものの証言」(フェルマン)(3)といった捻れた表現が物語るように、この術語があらためてもちだされてきたことには現代に固有の事情があると思われる。これまでの物事の捉え方では事実として認められずになかったことにされてしまう何か、にもかかわらず表現され伝えられることを求める何かが、「証言」という言語様式を新たな仕方で必要としているのである。

このことをよく示しているのは、強制収容所の生き残りたちを始めとして、戦争状態において深く傷つけられた者たちがわれわれに関わってくる仕方が、しばしば「証言」として受けとめられているという事実である。二十世紀における戦争は、もはや人と人とが殺意をもって対峙する例外的な状況、といった図式では捉えられなくなってしまった。現代の戦争は、テクノロジーに増幅された非人格的な力によって戦闘員と非戦闘員の別なく全ての人々を巻きこんでいき、生きるよすがとなる一切の意味を剥ぎとられた異世界へと放りこんでいく。そこで何が起こり、どのような傷が生じたのか、それを叙述し説明する言葉自体が欠けている。何が、どこで、どうやって生じたのか、その原因は何であり、それによって何がもたらされたのか。そのような叙述様式は、むしろそこで起こったことをなかったことにし、意味に満ちた歴史の一齣へと変換してしまう。例えば「アウシュヴィッツの表象不可能性」(フリードランダー)(4)というのは、このような事情を指すのだと言えよう。それに対して、叙述し説明する纏まった言説と比べれば脈略を欠いた切れ切れの言葉でしかないもの、「瓦礫の山」としか思えないものこそが、その異常な経験の「証言」としてわれわれに迫ってくるのである。このように言えば、証言という問題が切実な形で浮上してくるのと比例して、ベンヤミン的な意味での「歴史叙述への不信」が増幅せざるをえないことが理解できるであろう。すなわち、歴史叙述は本質的に証言を排除するのであって、証言という問題を真摯に受けとめるならばそれとは別の道を探さねばならない、ということになるのである。

だが、切れ切れの言葉が切れ切れの言葉のままで「証言する」というとき、一体そこで何が起こっているのであろうか。それを掘り下げて考えずに証言の「理解不可能性」だけを強調し、他方で叙述し説明する言葉への不信を煽るだけであれば、新手の蒙昧主義にしかならないであろう。ここでは、論点を可能な限り明確にするために、リクールとデリダの証言論を下敷きにして考察しよう。リクールの新著『記憶・歴史・忘却』(2000)における「証言の本質的分析」は、証言を構成している本質的契機として、(1)「私はそこにいた(j'y étais)」、(2)「私を信じてください(croyez-moi)」、(3)「私を信じないなら他の人に聞いてください(Si vous ne me croyez pas, demandez à quelqu'un d'autre)」、という三つを挙げて、整然と議論を進めていく。それに対して、デリダが『滞留』(1998)等ここ数年の著作で提示している証言論は、例によって屈折を極めたものであるが、それでもかなりの点でリクールの分析と呼応するように思われる。そこで、リクールのスタンダードな議論をデリダの破天荒な洞察で補完していくという形で、私なりに問題の論点を纏めてみたいと思う。

「私はそこにいた」

この言い回しは、まずは証言の事実性の契機として受けとめられるであろう。だがそれは、単に見聞きした事実を「これこれのことがあった」と報告する場合の事実性ではない。証言とは、「これこれのことがあった」という事実の重みを「私がそこにいた」ことのみによって引きうける営みだということ、リクールが強調したかったのはそのことである。それゆえ証言とは証拠(preuve)ではない。「これこれのことがあった、その証拠は…」と言えるならば、その事実は「私がそこにいた」かどうかにかかわらず「客観的」に確証されるはずだからである。別の言い方をすれば、これは、証人とはある種の行為をする人間に外から適用される性格づけではなく、「自分が証人だと最初に宣言する者」(5)だということである。証言の事実性には、「私」が私であるということ自体が賭けられているのである。

だが、この「証人の自己指示」の背後に証言をなしうる私の「能力」を想定するならば、道を誤ってしまいかねない。例えば歴史家になろうとするならば、資料を集め、読み解き、説明を組み立てる「能力」が必要であろう。それに対して、証人であるためには、私が「そこにいた」ということだけで十分である。むしろ、「私はそこにいた」ということしか私に残されていないことによって、証言はその独特の質を獲得するのだと言うべきである。それゆえ、「自分が証人だと宣言する」というリクールの表現から、証人として「宣言」するかしないかを逡巡するような自由を想定するならば不適当であろう。私が証人であることを選んだり選ばなかったりできるのならば、証言に私の全てが賭けられていることにはなるまい。この証言は、もっと切迫した、止むに止まれぬものである。リクールの師ナベールが言うように、「人間とは証言しようとしていなくても証言できる存在」なのである(6)

この点をさらに際立たせるために、ここで証言の「唯一(unique)」性と「秘密(secret)」を結びつけるデリダの議論をもちだしてみよう。証言とは皆が共有できる証拠を提示することではなく、一回限りの「特異な(singulier)」出来事、その反復不可能性のゆえに「代替不可能」な出来事であって、この代替不可能性が証人の「私」を構成している。ここまでは上のリクールによる説明とほぼ同じである。だが、そこからデリダは極論へと走る。すなわち、証言はあまりにもユニークであるために証人自身にとっても秘密であり続ける、というのである(7)。それゆえ、証言とは自己の秘密を打ち明けることではなく、そこに明かしえない秘密があることを告げることである。もちろん、証人はそこに秘密があることすらも知らない。秘密であることさえ示されない秘密を全存在をかけて体現すること、それこそが証人であるというあり方なのである。どうしてそのようなことになるのか。それは、証言がこのような形で問われることが、「私の死」が問われるということと不可分だからである。「私はそこにいた」ということに私の全てが託されねばならないのは、「そこ」が私の全てを無化する死の脅威が支配する場所だからである。この場所から発してくる言葉のみが、今述べている意味での証言となる。それゆえ、証言は「秘密」であって、通常の纏まった言葉のような仕方で伝わることもなければ、そもそも証人自身によってそれとして自覚されることもないのである。

だが、このように論を詰めていくならば、証言はますます幻のようなものに思えてくる。はたしてそのような出来事がありうるのであろうか。ありうるとすれば、いかにしてありうるのであろうか。

「私を信じてください」

こうして問題は証言の確証ということへと移る。上で述べたことからして、証言を証言されたものと突きあわせて、合致するかどうかを調べるという道は絶たれている。リクールはこれを「過去の表象=再現前(représentation du passé)」のアポリアの一形態として論じている。たしかに過去は虚構ではなくかつて「あった(avoir été)」ものとして志向されるが、同時にそれは「もはやない(ne plus)」ものであって、過去の実在とそれについての現在の像の合致を確認することは理論的には不可能なのである。この時間的隔たりの内にデリダの言う「死」と「秘密」をも読みこむならば、アポリアはいっそう複雑化するであろう。

だが、もし「証人の自己指示」が証人自身にとっても「秘密」であるという上の議論を認めるならば、今述べた契機だけでは証言という出来事を構成するのに十分ではないことが分かる。「秘密」として生起する「証人の自己指示」をそこに認めるもう一人の誰かがいなければならない。証言は「誰かある人の前で」初めて証言となるのである。しかし、証言に関して実在との一致という意味での真偽が確認できないとすれば、一体その「誰か」へと何が伝えられるのであろうか。この点において、リクールとデリダの見解は完全に一致する。そこで問われるのは「信(croyance / confiance / foi)」だというのである。

「証人は信を求める。証人は「私はそこにいた」と言うだけではなく、それに加えて「私を信じてください」と言うのである。その場合、証言が完全に確証されるのは、もっぱら証言を受けとり受けいれる者の応答によってのみだということになる。したがって、証言とは確証されるだけでなく、信用されるものである。」(リクール)(8)
「私を信じなければならないから私を信じなければならない。それが信と証拠の相違であり、この相違は証言にとって本質的なものである。」(デリダ)(9)

こうして、「私を信じてください」という「他者の信への呼びかけ」が証言の第二の契機となる。証言は「真か偽か」という問いの手前で「信じるか疑うか」を問うてくるのである。もちろん、事実としての真偽を検討できる要素が証言の中に含まれている場合もあるだろう。だが、証言の成否は事実を客観的な正確さで再現することに掛かっているのではない。究極的に言えば、証言が伝えようとするのは正しい事実ではなく、「信への呼びかけ」である。厳密には、証言が「伝える」という言い方も正確ではないかもしれない。すでに確立された信念を他の人に伝えて共有してもらうことが問題なのではなく、いまだ形をとらぬ呼びかけが他者によって証言として見出され、信の対象とされることに証言の成立自体が掛かっているということが重要なのである。「証拠」を支えとすることのできないこの呼びかけが信じられるとすれば、それは、そこに我知らず投じられている証人の「私」が信じられた時である。そこでは、証言は情報が受けとられるような仕方で受けとられるのではない。証人の「私」が証言を受けとる者に触れるとすれば、それは証言を受けとる「私」の全体を動かして、この「私」を「証人の証人」に変えるという仕方でしかありえない。「信の呼びかけ」に応えるというのはそのような出来事に他ならない。証言は「証言の証言」を得ることによって初めて、証言として成立するのである。

だが、それが存在することさえ前提できないこの「呼びかけ」が、現実には容易に無視されうるものであることは言うまでもない。なるほど、そのような呼びかけによって、歴史叙述の「事実の連鎖」とは異質な何かに一瞬接したように感じられるかもしれない。だが、そうして歴史叙述に入れられた切れ目は、「例外的な状況」の下での「主観的な経験」でしかないと見なされて、直ちになかったことにされてしまいかねない。証言とは、所詮はこうしてかき消される定めのものなのであろうか。証言が証人と証人の証人との関係によって尽くされてしまうならば、この定めを免れることはできないかもしれない。だが、リクールもデリダもそうは考えていない。ここで重要になるのが第三の契機である。

「私を信じないなら他の人に聞いてください」

上の議論は証言と「信の呼びかけ」との本質的な結びつきを浮きぼりにしたが、注意すべきであるのは、証言は「信じるか疑うか」という問いを突きつけるのであって、証言の信頼可能性が問われるならば同時にその懐疑可能性も問われざるをえないということである。真が偽を排除するような仕方で、信頼は懐疑を排除するのではない。アプリオリに懐疑の可能性を締めだすような信は、盲信でしかあるまい。真実を証言しようとする限りは「虚構にとり憑かれ(hanter)ざるをえない」(10)、というデリダの「脱構築」的なテーゼもまた、この事態の先鋭化された自覚として解されるべきであろう。

言うまでもなく、この問題に超越的な次元から決断を下すことはできない。だが、ある証言が私に関わってくることによって、他の様々な証言が私の視野の内に入ってくるということはありうる。もちろん、一つ一つの証言はあくまでユニークであって、それらが同じ事柄をめぐっていると安易に言うことは許されまい。だがそれでも、ある証言が他の証言と突きあわされることによって、新たな判断の可能性が生まれ、信があらためて吟味にかけられるということはありうるだろう。証言が懐疑の可能性を根絶できないにもかかわらず信頼を要求するものであるならば、その「信の呼びかけ」の中には、そのような証言どうしの突きあわせの場へと進んで入っていき、そこで自らを証しだてようとする趨勢がなければならない。証言のそのような契機を、リクールは「私を信じないなら他の人に聞いてください」と定式化するのである。

したがって、この申し立ては、自己自身の証言の相対化をいったん受けいれるというような妥協策を意味するのではない。「私を信じてください」という証言の呼びかけはけっしてその力を緩めないのであって、だからこそ自ら進んで他の証言との突きあわせの場に出ていこうとするのである。ここにリクールは、アーレントの言う「人々の間にいること(inter homines esse)」としての「公共空間」の始まりを見てとっている。

リクールの証言論が証人自身にさえ究明しえない「自己指示」から論じおこしたことを考えれば、最終的に証言が公共空間の明るみへと招き入れられるのは多少安易に感じられるかもしれない。ましてや、証人を「自己の証言をいつでも繰り返す準備ができている者」(11)として捉え、そこに証言の「道徳的次元」を読みとるという彼の論の展開は、問題を含んでいると言わざるをえない。これに対しては、デリダの言う特異性と普遍性の逆説、すなわち反復できないことを反復しなければならないという逆説的な事態があらためて強調されるべきであろう。しかし、リクールの言う公共空間も、けっして証言の優劣をつける規準をあらかじめ備えているわけではない。それは、証言どうしの突きあわせからそのつど生じる判断と共に開かれる、本質的に脆さを孕んだ空間である。デリダはそれを不可能な経験の共同性としての「文学空間」と絡みあわせることで、問題をさらに錯綜させるであろう。

だが、われわれにとって重要であるのは、どれほど脆く錯綜した空間であろうとも、ともかくこのような空間への展開までも視野に入れて証言の問題を受けとめなければならないということである。その場合、証言を単に切れ切れの言葉として、歴史叙述の脈絡を寸断するものとして捉えるだけでは不十分であろう。もちろん、さまざまな証言を一様な連続的全体の中に塗りこめねばならないというのではない。だが、少なくとも、証言どうしがぶつかりあい、照らしあい、互いに切り結ぶ場面にまで考察を推し進めることが不可欠になるのは間違いない。連続性や全体性を前提にしない歴史(叙述)がありうるとすれば、それはここにおいて探究されるべきではなかろうか。「歴史叙述への不信」から証言の問題へと導かれた後で、われわれはあらためて「証言から歴史へ」の道を探らねばならない。

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京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「新たな対話的探求の論理の構築」研究会 / 連絡先: dialog-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp