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Newsletter No.6

2004年10月29日発行

目次

●「インド後期密教文献にみる仏教の四大流儀と真言の理趣-ラトナーカラシャーンティの理解を中心に-」大観慈聖(京都大学大学院博士課程・仏教学)
●編集後記

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「インド後期密教文献にみる仏教の四大流儀と真言の理趣-ラトナーカラシャーンティの理解を中心に-」

大観 慈聖(京都大学大学院博士課程・仏教学)

 仏教は「八万四千の法門」と言われる。仏教徒の求める真理はひとつであるが、そこに至るまでには衆生の数に応じてそれだけ多数の道があり、その方法を説く教えもさまざまであることを示すものである。インド仏教には「毘婆沙」「経」「瑜伽行」「中観」という四つの主要な「やり方」が存在した。そして、インド仏教史上最後に登場したのが「真言の理趣(やり方)」、すなわち密教である。インド後期密教の代表聖典のひとつとされるHVT(『ヘーヴァジュラ・タントラ』)、その第2儀軌第8章第9偈~第10偈([HVT-Ⅱ-ⅷ-9~10])には、このタントラを実践するまでに学んでおかなければならない科目が説かれているけれども、この中に仏教の四大流儀と「真言の理趣(やり方)」(以下HVT本文に付した五つの下線)を見出すことができる。すなわち、(以下、太字=タントラ本文の言葉)「まず最初に布薩(poṣadha)が与えられる。それに続いて十の学処(śikṣāpada)が〔与えられる〕。そこで、毘婆沙(vaibhāṣya)〔の流儀〕を教示すべし。その次にまさに経(sūtrānta)〔の流儀〕を〔教示すべし〕。その後から、瑜伽行(yogācāra)〔の流儀〕を〔教示すべし〕。それに続いて中観(madhyamaka)〔の流儀〕を教示すべし。それに続いて一切の真言の理趣(やり方)(mantranaya)を知って、ヘーヴァジュラを始めるべし。弟子は〔このHVTに対して〕敬意を持って受持するべし。〔そうすれば〕成就する〔であろう〕。このことに疑いはない」([Snellgrove]p.90/[HVT&MĀ]pp.222-223)という記述[HVT-Ⅱ-ⅷ-9~10]である。これら諸の「やり方」はそれぞれどのような特徴を持っているのであろうか?また、これらの中でいずれの「やり方」を採用するかによって成仏に関してどのような違いがあるのであろうか?ここではHVTの註釈書として、R(ラトナーカラシャーンティ)(10世紀後半~11世紀前半頃)作M(『真珠鬘』)Ā( [MĀ ad HVT-Ⅱ-ⅷ-9~10] ([HVT&MĀ]pp.222-223))を例として取り上げてみたい。そこで、HVTの記述[HVT-Ⅱ-ⅷ-9~10]に対するMĀの記述[MĀ ad HVT-Ⅱ-ⅷ-9~10]を示すならば、「布薩(poṣadha)〔と〕は、満月〔の夜〕から翌日の日の出に至るまで、八の学処(aṣṭaśikṣāpada)〔すなわち、八斎戒を守ること〕のことである。十の(daśa)〔学処〕とは、生命が尽きるまでに(yāvajjīvāvadhikāni)、身と語による悪しき行為七つを中止することと、意による悪しき行為三つを行わないこととである。離貪のために(virāgāya)説くこと(bhāṣā)が「毘婆沙」(vibhāṣā)のことであり、まさにそ〔の「毘婆沙」(vibhāṣā)〕こそが、毘婆沙(vaibhāṣya)のことであり、それは声聞乗(śrāvakayāna)のことであり、Avadānaśataka, Tridaṇḍakamālāなどの〔聖典(アーガマ)の〕ことである。経を(sūtrāntam)〔と〕は、Ekagāthā, Caturgāthā, [Gāthā]dvayadhāraṇī, Ṣaṇmukhī[dhāraṇī], Bhadracaryā, Caturdharmaka, Lalitavistara, Daśabhūmakaなどのあまり甚深ではない諸大乗経典を(anatigambhīrāṇi mahāyānasūtrāṇi)のことである。瑜伽行を(yogācāram)とは、「この一切は唯心である、対象が存在しないとき、潜在印象(習気)の力によって(vāsanābalāt)〔かき乱された〕心のみ(eva)が対象の顕現として生じるのである、例えば夢の如し」と〔いう意味である〕。中観を(madhyamakam)とは、中間の道を(madhyamāṃ pratipadam)のことであり、そ〔の中観〕もまた、「心は〔能取・所取の〕二つのあり方(rūpa)としては存在しない、色形(ルーパ)(rūpa)は〔能取・所取の〕二つを欠いているという点で、非存在ではない」と〔いう意味である〕。diśetとは、deśayetのことである。一切の(sarva)云々は、それに続いて(tadanu)と結合関係である。一切の(sarva)〔真言の理趣(やり方)〕とは、所作(kriyā)・行(caryā)・瑜伽(yoga)・上瑜伽(yogottara)・無上瑜伽(yoganiruttara)という区別によって五種類である。毘婆沙(vaibhāṣya)などのすべての流儀(prakārakārtsnya)がここに意図されているのであって、すべての趣意(dravyakārtsnya)が〔意図されているのでは〕ない、無辺であるから。受持するべし(gṛhṇīyāt)とは、なすべし(kuryāt)のことである。敬意(ādara)〔と〕は、このタントラに対する尊敬のことである」([HVT&MĀ]pp.222-223)となる。この二つの記述、すなわちHVT本文の記述[HVT-Ⅱ-ⅷ-9~10]とMĀの記述[MĀ ad HVT-Ⅱ-ⅷ-9~10]の中で、前者だけからも、「毘婆沙」「経」「瑜伽行」「中観」という仏教の四大流儀(顕教)の上に「真言の理趣(やり方)」(ここではHVT以外のすべてのタントラ、すなわち密教)を置き、さらにその上にHVTを置くという教判(教相判釈)論的な理解が可能である。すなわち、顕教に比して密教を優位に置くというものである。そして、MĀはHVT本文の「経」(sūtrānta)を「経」(sūtra)と解釈し、「それほど甚深でない」(anatigambhīra)という限定詞を冠したEkagāthā, Caturgāthā, [Gāthā]dvayadhāraṇī, Ṣaṇmukhī[dhāraṇī], Bhadracaryā, Caturdharmaka, Lalitavistara, Daśabhūmakaなどの大乗経典を挙げていることから、大乗仏教一般である「波羅蜜の理趣(やり方)」、すなわち顕教に対して、少なくともここでは「瑜伽行」以上のより「甚深なる」(gambhīra)大乗経典の存在を予想することができる。それはいうまでもなくタントラ、すなわち密教聖典を頂点とする「瑜伽行」以上の諸大乗経典に他ならない。
 さて、「甚深なる」という限定詞はRにとって一体何を意図する表現であるのか?そこで、われわれはMMT(『マハーマーヤー・タントラ』)に対するRの註釈Gu(『有功徳』)の考察に移るわけであるけれども、MMT本文の「甚深なる」(zab mo)という限定詞に対するGuの註釈箇所を考察する前に、まず「波羅蜜乗」と「真言乗」という両者の特徴を端的に言い表したMMT「第1説示」第3偈([MMT-Ⅰ-3])に対するGuの記述[Gu ad MMT-Ⅰ-3]を示すならば、「また、そ〔の方便〕は〔波羅蜜の大乗(pha rol tu phyin pa’i theg pa chen po)では〕諸菩薩が三阿僧祇劫の間修行される具体的方策を伴った道である。〔一方〕この真言乗(mantrayāna)では、まさにその非常に長大な覚りへの道の縮約形であり、より速疾に(kṣiprataram)、そしてより容易に(sukhataram)覚りを成就させるマンダラ輪などの形体を有する具体的方策を伴った道が、方便である」([MMT&Gu]pp.2-3)となる。これは「波羅蜜乗」(顕教)に対する「真言乗」(密教)の優位性を示す重要な記述である。ここ([Gu ad MMT-Ⅰ-3])でRが用いている「真言乗」(mantrayāna)という言葉は、密教を指すサンスクリットの一つとして同註釈に見られる「真言の理趣(やり方)」(mantranaya)という語と共に注意したい用例である。この「真言の理趣(やり方)」という語が現れる箇所、すなわちMMT「第1説示」第20偈ab句([MMT-Ⅰ-20ab])に対するRの註釈Gu([Gu ad MMT-Ⅰ-20ab])に「波羅蜜の理趣(やり方)」(pāramitānaya)という語とともに、「甚深なる」(gambhīra)という限定詞についての説明もあるので、ここに至ってその該当箇所を考察することにしよう。Rは「甚深なるブッダの教戒において、そ〔の勇者〕について私は説くとしよう」([MMT&Gu]p.16)というMMT「第1説示」第20偈ab句を註釈して「<1>何の乗物(yāna)において周知されているのか。〔本文に〕ブッダの教戒において(buddhaśāsane)と答える。その乗物によって覚者(buddha)となる、そ〔の乗物〕がブッダの教戒(buddhaśāsana)であり、〔「ブッダの教戒において」とは〕大乗において(mahāyāne)、という意味である。〔敵考あって〕このことは前の偈で説き終わったばかりであるのに、なぜ〔改めて〕私は説くとしよう(kathayiṣyāmi)といわれるのか。<2>この故に、〔本文に〕甚深なる(gambhīre)と答える。〔「甚深なる」とは〕甚深なる大乗において(gambhīramahāyāne)、〔すなわち〕真言乗において(mantrayāne)という意味である。<3>〔〔一般〕大乗(=波羅蜜乗)より真言乗が「甚深で」ある。〕というのも(hi)、真言の理趣(やり方)(mantranaya)においては、菩提心に関して、波羅蜜の理趣(やり方)(pāramitānaya)と性格が異なる印契の形象〔すなわち、配偶者〕と〔その配偶者の〕正確な選定がより速疾に(kṣiprataram)覚りを獲得させるものとして修習される〔べきである〕から」([MMT&Gu]p.16)と述べる。この記述([Gu ad MMT-Ⅰ-20ab])から、Rが<1>「ブッダの教戒」を「大乗」、<2>「甚深なる大乗」を「真言乗」と解釈し、さらに<3>顕教を指す「波羅蜜の理趣(やり方)」と密教を指す「真言の理趣(やり方)」という語を用いて両者のもつ性質を明確に区別していることが理解できる。<2>の解釈はRの仏教綱要書TV(『三乗建立』)に見られる「甚深であり広大であるものを有する乗は二種類であって、甚深であるもののみを有するものと、甚深であるものと広大であるものの両者を有するもの〔と〕である。これら〔二種類〕のみについて、大乗といわれる。まさに〔この〕二種類の分類について、以前の先生によって、波羅蜜の理趣(やり方)(pha rol tu phyin pa’i tshul)と、真言の理趣(やり方)(gsaṅ sṅags kyi tshul)〔と〕の大乗(theg pa chen po)であるとも確立しているのである」という定義(P:No.4535; rgyud 'grel,nu,112a2-3(Vol.81,p.153)/[林1996]pp.53-54, pp.71-72)と多少趣を異にしているから、注意が必要である。以上の考察により、「甚深なる」という語はRにとって「波羅蜜の理趣(やり方)」と「真言の理趣(やり方)」との両者を含む「大乗」、あるいはその聖典に対して用いられる限定詞であることが判明した。上述のTVに見られる「大乗」に相当する「甚深であり広大であるものを有する乗」、「波羅蜜の理趣(やり方)」に相当する「甚深であるもののみを有するもの」、「真言の理趣(やり方)」に相当する「甚深であるものと広大であるものの両者を有するもの」という表現はこの事実をよく示すものである。さらに、これら「波羅蜜の理趣(やり方)」と「真言の理趣(やり方)」との二者の中では、「それほど甚深でない」(anatigambhīra)「経」といったより低位の一般大乗と、それ以上に位置する「瑜伽行」「中観」の中でも「真言の理趣(やり方)」を採用しないより高位の一般大乗との二つを含む「波羅蜜の理趣(やり方)」、すなわち顕教に比してその速疾・易行の方便において優れている点で「真言の理趣(やり方)」たる密教にRは高い評価を与えていると結論できる。なお、Rの主著とされるPPU(『般若波羅蜜多論』)にも、[Gu ad MMT-I-3]とほぼ同様に、「波羅蜜の理趣(やり方)」に対する「真言の理趣(やり方)」の優位性が主張されている(P:No.5579; bstan ’gyur, sems tsam, ku, 151b2-3(Vol.114, p.236))。
 さて、HVTの記述から説き起こして、仏教の四大流儀と「真言の理趣(やり方)」、すなわち一般大乗たる顕教と真言乗たる密教の関係に注目してRの著作を中心に考察してきたわけであるが、記述[HVT-Ⅱ-ⅷ-9~10]は後期インド仏教徒が「毘婆沙」「経」「瑜伽行」「中観」という仏教の四大流儀と「真言の理趣(やり方)」を兼修し、これらの「ツール」を駆使して悟りを目指した事実を物語る恰好の例として、そして仏教のあるべき姿として重要な示唆に富む。四大流儀中、特にMĀに具体的なテキスト名を挙げる「毘婆沙」と「経」の扱いは慎重になされる必要があり、ここで問題にしたHVT本文の「毘婆沙」「経」「瑜伽行」「中観」というこれら四つの語は、「すべての趣意」(dravyakārtsnya)ではなく、「すべての流儀」(prakārakārtsnya)を意図している点は注意されたい。本稿において筆者が「四大学派」とせずにあえて「四大流儀」と表現し、またHVT本文の和訳において、「流儀」の語を補ったのはこの点を考慮したからに他ならない。なお、「布薩」と「十の学処」については保留とする。特に、MĀに見られるRのタントラ五分法は興味深いトピックであるが、本稿では蛇足と考え、説明を割愛した。最後に、本稿のテーマと関係しているにもかかわらず、紙数の都合上言及できなかったテキストとか論文の多数あることをお断りしておく。また、使用したテキストの問題などについても煩瑣な注記が許されないためにここでは触れることができなかった。これらの諸点を踏まえた考察については、他日を期したい。
【略記号と参考文献】
CIHTS: Cetral Institute of Higher Tibetan Studies.; D: sDe dge(Derge) Edition.; ed.: edition, edited.; Gu: GUṆAVATĪ(=Skt.ed.[MMT&Gu]/D:No.1623/P:No.2495).; [林1996]: 林慶仁「Ratnākaraśāntiの綱要書-Triyānavyavasthāna試訳-」『論叢アジアの文化と思想』5, pp.34-93.; HVT: HEVAJRATANTRA(=Skt.ed. [Snellgrove][HVT&MĀ]/D:No.417-418/P:No.10).; [HVT&MĀ]: CIHTS(2001), Hevajratantram with Muktāvalī Pañjikā of Mahāpaṇḍitācārya Ratnākaraśānti, Bibliotheca Indo-Tibetica Series-48, Sarnath.; MĀ: MUKTĀVALĪ(=Skt.ed. [HVT&MĀ]/D:No.1189/P:No.2319).; MMT: MAHĀMĀYĀTANTRA (=re-Skt. [MMT&Gu]/D:No.425/P:No.64).; [MMT&Gu]: CIHTS(1992), Mahāmāyātantram with Guṇavatī by Ratnākaraśānti, Rare Buddhist Text Series-10, Sarnath.; P: Peking Edition.; PPU: PRAJÑĀPĀRAMITOPADEŚA (=D:No.4079/P:No.5579).; R: Ratnākaraśānti.; re-: restored by CIHTS.; Skt.: Sanskrit.; [Snellgrove]: Snellgrove, David. L.(1959), The Hevajra Tantra: A Critical Study: Part 2: Sanskrit and Tibetan Texts, Oxford University Press, London.; Tib.: Tibetan Version.; TV: TRIYĀNAVYAVASTHĀNA(=Tib.ed. [林1996]/D:No.3712/P:No.4535).

編集後記


今回のNewsletter6では、6月末に開催された「若手研究者の会」における発表のうち、大観さんの発表要旨を掲載いたしました。次号におきましては8月に行われましたDr. Birgit Kellnerさんの講演会要旨を掲載する予定にしております。  今後とも、皆様のご支援とご協力を宜しくお願いいたします。 

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