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Newsletter No.7

2004年11月30日発行

目次

●「Birgit Kellner博士特別講演会発表要旨」(研究会リーダー赤松明彦教授による要約)
●編集後記

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「Birgit Kellner博士特別講演会発表要旨」

Dr. Birigit Kellner(研究会リーダー赤松明彦教授による要約)

 8月23日(月)に、京都大学文学部新館第1講義室にて、Birgit Kellner博士の特別講演会が以下の通り行われました。

発表者:Dr. Birgit Kellner(オーストリア科学アカデミー研究員)

発表題目:Dignāga's and Dharmakīrti's exposition of Pramāṇa and Pramāṇaphala


講演では、フルテクストとともに、Pramāṇasamuccaya 1.8cd-10と Pramāṇasamuccaya -vṛtti の還元サンスクリットテキストおよび翻訳が資料として配布されました。以下に、本研究会リーダーである赤松明彦教授(京都大学大学院文学研究科・インド哲学)が日本語で要約した発表要旨を掲載いたします。

******

Birgit Kellner 博士講演:「pramāṇa(認識手段)とpramāṇaphala(認識結果)についての、ディグナーガとダルマキールティの説」(要旨)

Birgit Kellner博士の講演は、以下の構成からなっている。

1.Introduction
2.PS 1.8cd-10: Dignāga on pramāṇa and pramāṇaphala
2.1 Part 1: The non-difference of means and result from an externalist viewpoint
2.2 Part 2: The result from an internalist viewpoint
2.3 Part 3: The means from an externalist viewpoint
2.4 Part 4: The non-difference of means, object, and result from an internalist viewpoint
3. Dharmakīrti’s position in PV 3.301-363
4. Takashi Iwata’s interpretation of PS 1.8cd-10
5. A uniform theory?


1.序説

 「正しい認識の手段」(pramāṇa)と「その結果」(pramāṇaphala)をめぐる論争は、仏教の認識論の伝統とブラフマニズムの認識論の伝統とを区別する中心的な論点のひとつである。一般には、後者に属するニヤーヤ学派やミーマーンサー学派が、認識手段と認識結果を別個のものだと考えたのに対して、前者は認識手段と認識結果は同一のものだと主張したとされている。この問題を論じた有名な哲学者には、その名を数名挙げるだけでも、仏教論理学派では、六世紀前半のディグナーガ、七世紀前半のダルマキールティ、またミーマーンサー学派では同じく七世紀前半のクマーリラ、さらにニヤーヤ学派では九世紀後半のジャヤンタ・バッタや十世紀のバーサルヴァジュニャなどがいる。
 ブラフマニズムの伝統においては、認識論の問題は、文法学によって与えられる枠組みの中で議論されてきた。つまり、文中の他動詞によって表現されるのが「行為」(kriyā)であるが、その「行為」に関与する要素として、行為対象(karman)、 行為主体(kartṛ)、 行為手段(karaṇa)が、文中に現れてくる。これを、「正しく認識する」(pramiti/pramā)という「行為」に当てはめてみるならば、その行為を実現するのに関与する要素として、「認識対象」(prameya)、「認識主体」(pramātṛ)、「認識手段」(pramāṇa)が、あることになる。そして、行為の実現に「最も有効な要素」が「行為手段」であるという文法学の定義に従って、「認識手段」を捉えるならば、それは、「正しく認識する」という行為の結果としての「正しい認識」を実現するのに最も有効な要素であるということになるだろう。それでは、この「認識手段」と、結果としての「正しい認識」の関係はいかなるものとして捉えられうるのか。(簡単に言えば、「正しい認識」とは、手段なのか結果なのか、また両者は異なる性質のものなのか、それとも同じものなのかという問題。)初期のニヤーヤ学派やミーマーンサー学派の文献では、この問題は、はっきりとは論じられていない。一方、後に見るように、ディグナーガは、彼が「外者」(bāhyaka)と呼ぶところの者を知っていた。「外者」は、正しい認識の手段の結果として、「正しい認識」を考えていた。そしてさらに、手段と結果を別個のものとみなしていた。では、これら「外者」とは誰であり、どのような立場をとる者たちであったのか。それについては何も知られていない。
 ディグナーガもダルマキールティも、認識手段と認識結果については、本来的には知覚認識(pratyakṣa)に関連して論じていた。そこでは、二つの異なった前提に基づいて議論が展開されている。その前提とは次の二つである。(1)外的な対象は、その形象とともに知覚認識を引き起こす。(2)対象は、心のうちにあって、内的なものである、そして知覚認識は、それ自身の形象と対象としての形象の両方を持つものとしてそれ自身を認識する。ディグナーガもダルマキールティもともに、議論の展開の課程で、前者から後者へと、その立場を転換している。
 ここで、認識手段と認識結果についての論争を検討しようとする講演者の主たる関心は、この彼らの立場の転換が、何を意味するのかということにある。正確なところ、彼らの意図はどこにあるのか。彼らは、単に外的な対象を内的な対象に置き換えることを意図しただけなのか。それとも、もっと何か別の改変を意図したのではなかったのか-たとえば人間の意識の理論の改変のようなことを。これらの転換に対して、われわれはどのような種類の動機を想定できるだろうか-それは主としては学説理論上のものであろうが、おそらくはまた社会的なものでもあろう。そこにおいて、おそらくディグナーガもダルマキールティも、前提のうちの一方ではなく他方を採用するということによって、あるグループの人々を説得したいと考えたのであろう。

2.PS 1.8cd-10: 「認識手段」と「認識結果」についてのディグナーガ説
 
 講演者はここで、本論においては、Sautrāntika(経量部)説とか、Yogācāra/Vijñānavāda(唯識)説という言い方ではなく、<外在論>(externalism)と<内在論>(internalism)という表現を使用した理由を説明している。目下の問題が、認識の対象を<外的>なものとするのか、それとも<内的>なものとするのかという前提の区別に関わるものであることを考えるならば、重要なのはその点であって、それを明示する表現を使用するのがよかろうということである。そして、<外在論>が意味するのは、認識主体の意識の外部にある実在が、その意識のうちにある認識の内容の原因としてあるということである。これを、経量部の説明にしたがって言い換えるなら、知覚認識は、外的な対象に基づいて、その形あるいは形象を帯びて生じてくる、ということになる。一方、<内在論>が意味するのは、当然予想されるように、外的な実在は認識内容とは関係なく、認識内容は意識それ自体によってもたらされるということである。さらに、ディグナーガおよびダルマキールティに関わる<内在論>では、認識は、二つの形象を持っている-それ自身の形象と対象としての形象である、そして認識は、それら二つの形象をもつものとしてそれ自身を意識することに他ならないということになる。
 以下、配布資料に示すように、ディグナーガの議論を四つの部分に分けて、本論を進める。この区分は、すでに講演者の解釈が入っているものであるから、批判的に理解される必要がある。

2.1 第1:外在論者の観点から:「認識手段」と「認識結果」は別のものではない。

PS 1.8cd: savyāpārapratītatvāt pramāṇaṃ phalam eva sat
[認識]は結果に他ならない。[しかし、それ]は作用を持っていると思い込まれているから、それは正しい認識の手段である。

 ディグナーガにとっては、認識手段と認識結果は別のものではない。なぜなら、両者はともに認識の単一の形象の二つの相に過ぎないからである。実に、認識は結果(phala)に他ならない。ただそれが作用を持っていると思い込まれているから、正しい認識の手段として比ゆ的に言及されているだけである。結果としての知覚認識は、原因としての外的な対象から生じ、対象の形象を帯びている(kāryabhūtajñānasya viṣayākārotpattim)。これが理由で、認識は、実際には作用など持たないのに(nirvyāpāra)、作用を持っていると思い込まれている。ディグナーガは、作用が何を意味するかは言っていないが、おそらく対象を<把握する>という特定の作用を言っていると思われる。というのも、彼はこれを一般的な結果と原因のあり方と比べているからである。つまり、結果は、その原因に順じて生じて来る。実際には、結果は作用を持たないのに、原因のかたちを<採っている=把握している>(*gṛhṇāti)と言われるからである。

2.2 第2:内在論者の観点から見た「認識結果」

PS 1.9a: svasaṃvittiḥ phalaṃ vā ’tra.
あるいは、自己認識がここ[知覚認識の場合]においては結果である。
PS 1.9b: tadrūpo hy arthaniścayaḥ.
なぜなら、[認識されるべき]対象の決定は、これ[つまり自己認識]のかたちを持つからである。

 自己認識とは、認識が、認識自身を、対象としての形象とそれ自身の形象という二つの形象を持つものとして、認識することである。ディグナーガのこの原理は、PS 1.11以降でさらにその正当性を主張されることになる。ではなぜ自己認識が「認識結果」であるのか。それは、PS 1.9bに述べられる通り、対象の決定が、自己認識のかたちを持つからである。対象の決定とは、Vṛttiによれば、対象を、望ましいものあるいは望ましくないものとして認識するということである。さらに、対象の決定が自己認識のあり方に随順するということは、認識手段の対象が、対象をともなう認識そのものである(saviṣayaṃ jñānam)ということである。このVṛttiが、<内在論>の立場から言われていることは明らかであるから、これが説明しているPS 1.9b は、<内在論>の立場を言うものとして理解されるべきであり、それゆえこのPS 1.9b によって説明付けられているPS 1.9a もまた<内在論>的に理解されるべきである。かくして、認識が認識自身を認識するそのやり方に応じて、望ましいものあるいは望ましくないものとして、内的な対象を人は決定するのであるから、対象は、<内的な>ものなのであり、それゆえ自己認識が「結果」であるということになるのである。

2.3 第3:外在論者の観点から見た「認識手段」

 第1では、外在論者の立場から、「対象の認識が結果である」と言われた。第2では、内在論者の立場から、「自己認識が結果である」と言われた。今、第3では、「認識手段」の役割を論じ、外在論者の観点から認識の本性を自己認識とする説を斥ける。

PS 1.9c-d1: viṣayākārataivāsya pramāṇam
認識手段とは、[認識が]対象の形象を持つという事実に他ならない。

 つまり、対象の形象を持つことによって、対象が知られるのである。

2.4 第4:内在論者の観点から:「認識手段」、「認識対象」、「認識結果」は別個のものではないということ

 ここ第4では、再び、内在論への転換がある。

PS 1.10: yadābhāsaṃ prameyaṃ tat pramāṇaphalate punaḥ / grāhakākārasaṃvittyoḥ trayaṃ nātaḥ pṛthakkṛtam //
[認識が持っている]形象が、「認識対象」である。把握する形相が「認識手段」であり、自己認識が「認識結果」である。それゆえ、これら三者は、別個のものではない。

3. PV 3.301-363 におけるダルマキールティの立場

 講演者は、ここで、PV 3.301-363の内容を順次要約しつつ、ダルマキールティの思想の特徴を取り出している。上述のディグナーガの主張との関連に重点を置いて、その要点を指摘しておくならば次のようになるだろう。まず、ダルマキールティの主要な関心は、ここでは、「特定の対象に知覚認識を結びつけるのに与って力あるものが認識手段である」ということにあるが、これは、PS 1.9cdに対するVṛttiのうちに見られる考え方と通底するものである。そして、ダルマキールティは、対象の理解が「認識結果」であり、対象のかたちを持つことが「認識手段」であるとするが、これは PS 1.8cd と PS 1.9cd を結びつけたものである。しかし、ダルマキールティは、ここから議論をさらに進めて、知覚認識と対象との類似性が、認識が特定の対象をとることを説明するという、この考えを問題にする。そこで彼は、外在論者と内在論者の対論という形でこの問題を展開している。

PV 3.320-321ab:
kā ’rhasaṃvid yad evedaṃ pratyakṣaṃ prativedanam /
tadarthavedanaṃ kena tādrūpyād vyabhicāri tat /
atha so ’nubhavaḥ kvāsya tad evedaṃ vicāryate /
[内在論者]さて、対象の認識とは何か?(kā ’rthasaṃvit)
[外在論者]知覚認識それ自体である。つまり、[対象に応じて]区別された認識である(yad evedaṃ pratyakṣaṃ prativedanam)。
[内在論者]なぜそれが対象の認識なのか?(tad arthavedanaṃ kena)
[外在論者]なぜなら、それはそれのかたちを持っているから(tādrūpyāt)
[内在論者]これは逸脱する。(vyabhicāri tat)
[外在論者]しかし、[対象の]認識が、[対象のかたちとは別の]いったい何に結びつくだろうか?(atha so ’nubhavaḥ kvāsya)
[内在論者]まさにそれこそが考究されるべきである(tad evedaṃ vicāryate)

 認識が特定の対象とるということを説明する根拠として、知覚認識と対象との類似性だけでは不十分なのである。そこでPV 3.323-332 では、内在論者の観点から議論が展開され、結論として、認識手段の結果は、「対象の理解」ではなくて、自己認識であることが言われる。しかし、ダルマキールティにとっては、対象が<外在的>であるときでも、自己認識が結果である。つまり、人は、外的な対象を何か青いものとして自分が<見ている>ことを意識した場合にだけ、青を見るのである。青は、人がそれを見ていることを意識することなしに、純粋にそのものとして理解されるということはないのである(PV 3.335-336)。PV 3.340までの議論を要約するなら。対象が外的なものである場合は、その対象についてのわれわれの経験の特性が、その対象を望ましいものあるいは望ましくないものとしてわれわれが決定するのに決定的な役割を果たす。一方、対象が内的なものである場合は、われわれの経験の特性は、そこに実際に存在している唯一のものである。このように「認識結果」としての自己認識をダルマキールティは説明している。
 PV 3.346-350 で、「認識手段」を論じる。そして、最後に PS 1.10におけるディグナーガの主張に戻って、認識には、本性的に区分がないことを述べ、「認識手段」とはそれゆえ認識自身を認識する心の能力に他ならないとするのである。
 ダルマキールティのここでの議論について、Kellner博士は次のようにまとめている。「以上要約的に見てきたことから、ダルマキールティの議論が主として次のように展開していることを、われわれは見ることが出来る。まず、「認識対象」と「認識手段」が外在論者の観点から提示される。外在論モデルの基礎となっている対象と知覚認識の類似性が、次により注意深く検討され、それが根拠薄弱なものであることが見出される。その結果、「認識結果」についての内在論者の見解が提示される。その見解は、認識の本性として自己認識に焦点を当てたものであり、認識は認識自身の一部であるものを知ることができるだけであり、それ以外の何ものによっても知られないという意味での自己認識である。次に、自己認識は、対象が外的なものの場合もまた「認識結果」であると言われる。この点において、ダルマキールティは、外在論モデルの内部で、認識結果としての対象認識を、自己認識と置き換えているのである。外在論的な認識結果についての当初の説明が、このように、後になって予備的な性格を獲得し、置き換えられている。しかしながら、「認識手段」は、二つのモデルを通じて区別されたままである。なぜなら、内在論的観点からの「認識手段」である<把握する相>は、内的に存在しているものの範囲にその存在は限られるからである。以上のことから、われわれは次のように結論することが出来るであろう。ダルマキールティによる「認識手段」と「認識結果」の説明においては、自己認識が重要な役割を演じている。たとえここではディグナーガの説明におけるのと同様に、内在論的モデルの詳細に関しては多くの問いが残されたままであるにしてもである。それらの問いは、PV 3の後続する箇所においてより周到に検討が加えられ、おそらく回答が与えられるであろう。」

4. PS 1.8cd-10についての岩田孝の解釈

 岩田孝博士は、著書 Sahopalambhaniyama (1991) において、(1)PS 1.9 は、外在論者の観点からその全体が理解されるべきこと、(2)ディグナーガが目指したのは、経量部と立場と唯識の立場の両方にとって有効な認識論の統一理論であったこと、を主張した。Kellner博士は、ここでまず、PS1.9 について、Jinendrabuddhi の解釈にも言及しつつ、岩田との立場の相違を明らかにしている。

5. 統一理論なのか

 さらに、岩田孝博士の「統一理論」仮説をとりあげる。Kellner博士の考えでは、ディグナーガとダルマキールティでは、意図するところが異なっており、ディグナーガは確かに統一理論を提示しようとしたと言うことが出来るだろうが、ダルマキールティの場合は、むしろ哲学者としての考察の態度がそこに現れているのであり、様々な可能性を検討し、心の本性について理論的に論じることに関心があったはずであり、理論や伝統の統一性には関心はなかっただろうと言われる。
[以上、赤松明彦の責任でBirgit Kellner 博士の講演の内容を要約した。]


編集後記


 本年も、あとひと月を残すのみとなりました。本年を振り返ると、海外からAklujkar教授、Wezler教授、Kellner博士など、インド学の第一線で活躍されている先生方をお招きし、有意義な研究会を開催することが出来たのではないかと思っております。今回のNewsletterでは、8月末に行われましたKellner博士の講演会の要旨を掲載いたしましたが、発行までに3ヶ月もの時間が空いてしまったことを改めてお詫びいたします。なお、Kellner博士の講演会資料を必要とされる方がございましたら、VAADA研究会事務局までご連絡ください。郵送いたします。
 本年のNewsletterはこれが最後となると思いますが、来年もまた皆様方のご協力を宜しくお願い致します。


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