トップ 各参加者の研究テーマ 研究会報告 NEWS LETTER

グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成

NEWS LETTER

(文学と言語を通してみたグローバル化の歴史)


No.5

2004年3月22日発行

バックナンバーはこちらです NO.4 NO.3 NO.2 NO.1

(主な内容)
特別講演会ご案内
第6回研究会の発表要旨
 他

<COE34研究会特別講演会のご案内>
  COE研究会特別講演会
  日時:6月1日(火)午後3時から5時
  場所:京大会館211号室
    (なお、同日5時より懇親会 212号室)

 講師:C. F. L. Austin (ケンブリッジ大学古典学部教授)

 演題:Euripides and the Women, as seen by Aristophanes

   ケンブリッジ大学古典学部教授、C. F. L. Austin 教授をお招きして特別講演会を行います。オースティン教授はパピルス解読、ギリシア喜劇のテクスト校訂における第一人者で、R. Kassel教授と共編になるPoetae Comici Graeci 8巻10冊は記念碑的な著作とされ、現在8冊までが刊行されています。今回はギリシア喜劇に留まらず、広くヨーロッパ演劇に関心をお持ちの方々に向けてのお話をしていただきます。ご講演の後に懇親会も予定していますので、どうか奮ってご参加下さい。

<第6回研究会の発表要旨>

中川さつき:メタスタジオのオペラにおける「文明」と「野蛮」

   メタスタジオ(Pietro Metastasio, 1698-1782)は、オペラの歴史において類を見ない成功を収めた台本作家である。彼はハプスブルクの宮廷詩人として多くの音楽劇を書き、それらは約百年にわたって、ヨーロッパの歌劇場を支配した。彼の台本は明晰な詩句、均整の取れた構成、作曲者への配慮といった点で画期的なものであり、後世の規範となった。
   メタスタジオが描く世界は、君主の寛容と臣下の忠誠が均衡を保つ、アンシャン・レジームのユートピアである。主人公たちは「美徳(virtu')」を備えており、劇中の事件は、彼らが「美徳」を発揮することで解決する。この場合「美徳」とは、社会的な義務を果たすこと、つまり君主は公僕として、自分の全てを国家に捧げ、臣下は君主に滅私奉公することを指す。全員が「美徳」によって自己を律することで国家の秩序は安定する。
   しかし時には「美徳」を十分に備えていない者も登場する。それは異民族である。ギリシャやローマの西方世界が、東方世界と対峙するような物語では、異民族の「美徳」は未熟なものとして描かれ、「文明人」による(時には強引な)教化の必要性が説かれる。
   ただし『インドのアレッサンドロ』(1729年)『シリアのアドリアーノ』(1732年)は、このような西洋/東洋の図式から逸脱している。前者ではインド人が次々に徳高き行いをして、アレッサンドロ(アレクサンドロス大王)を驚かせ、後者ではパルティアの王がローマの東方侵略を理路整然と批判して、アドリアーノ(ハドリアヌス帝)を絶句させる。そして最終場面では、アレッサンドロもアドリアーノも、勝ち取った領土を、もとの統治者に戻してやる。異民族は彼らの寛容に感謝し、大団円となる。ここでメタスタジオは、帝国主義的な侵略の是非に関しては、意図的に結論を避けている。しかし絶えず東方の脅威にさらされてきたウィーンの地で、異民族も「美徳」を備えており、自分たちが高潔で寛容であれば、和解できる存在として描いたこと、そしてそれが同時代の人々の共感を得たことは驚きである。オリエントの住人を含めた人間の「美徳」に信頼を置こうとする姿勢は、現実離れした楽観論ではなく、当時の思想の最良の部分として評価すべきであろう。

高橋宏幸:ローマの境界と世界

   オウィディウス『祭暦』第2巻,境界の神テルミヌスの祝祭を語る記事は「他の民族に下された土地には確固とした境界があります.が,都ローマの広がりは宇宙の広がりと同じなのです.」(gentibus est aliis tellus data limite certo: Romanae spatium est Urbis et orbis idem. Fasti 2.683-84)と結ばれる.この個所は一般にローマの覇権を誇示する表現によりカエサル家に媚びを売るものと理解されるが,ここには追従だけで詩人特有の機知や諧謔は込められていないのかという視点から再検討を加えた.検討に際してはとくに,(1)都(urbs)と宇宙ないし世界(orbis)の語呂合わせ的表現の用いられ方,(2)テルミヌス神に関わるプロパガンダの要素,という二つの面に注目した.
   (1)の面では,後世にurbi et orbiという形でローマ法王が全世界の信徒への呼びかけに用いることになるこの表現が古典期にもかなりの数の用例のあることを確認しつつ,後1世紀までのものを4つのタイプ,すなわち,(A)都(urbs)という語の起源を建都時の領域(母市境界)を示す円(orbis)に求めるもの,(B)都を世界支配の中心としながらも世界の一部とするもの,(C)賢人の達観として都と世界をともに同じ我が家とみなすもの,(D)都と世界をまったく同等視するもの,に分類した.分類を通じて,問題とした『祭暦』の例を含めて(D)の用例がオウィディウスに限られること,そのうち他の例ではそれぞれ作品の文脈に即した表現意図が認められる(そこで,『祭暦』の例でもなんらかの詩作意図が期待される)こと,加えて,この表現には4つのタイプに共通してアウグストゥス期の文学に常套化した「往古の卑小に比しての現在の壮大なローマ」というモチーフ(境界ということから言えば「拡大」)が深く関わっていることを指摘した.
   (2)の面では,カピトリウムにユッピテル神殿を新たに建立するため,そこにあった他の神殿が他へ移ったときテルミヌス神と青春女神の神殿だけが遷座しなかったという故事がローマの都には永遠に境界の変動がなく栄華を続けるという信仰,ないし,支配者にとっては覇権の持続の正統性を印象づけるプロパガンダに通じていた(関連して,とくに,都本来の領域である母市境界を拡大することが忌み嫌われた)ことに着目した.
   そこで,(1)と(2)では,ともに都の発展ないし繁栄が含意されることは同じだが,境界(線)に関しては,(1)は「拡大」,(2)は「不動」と,理屈の上では相容れない表象をともなっていることが指摘できる.このような相反する表象は,通常,わざわざ気づかれるように並置されることはない.ところが,『祭暦』のテルミナリア祭の記事では「拡大」と「不動」が一緒に語られている.ここには,テルミヌスは境界の「不動性」によって平和を守護するにもかかわらず,現在の平和を達成したローマは建国時の小さな領土から版図を拡大することによって,つまり,境界を動かすことで築き上げられている,というパラドックス,また,問題の詩句は「他の民族の確固たる境界」との対比において「宇宙と広がりが同じ」になった都にはいまや境界が消失している,つまり,境界を司るテルミヌスを讃える意図で始められたはずの記事が結末では,神の司る対象が現在のローマにはないというパラドックスが認められる.ここに詩人の機知が働いていると考えられる.

<活動状況>
 ◎第6回研究会 2004.2.19 14時から17時 所:文学部東館4階会議室
  出席者:川上穣、高橋宏幸、中務哲郎、藤井琢磨、マルチン・チェシュコ、山下修一、天野恵、菅野類、斎藤泰弘、澤田るい、渋江陽子、中川さつき、藤井裕一、池田晋也、川島隆、佐々木茂人、西村雅樹、松村朋彦、田口紀子、増田真。

下記の研究発表に続いて質疑応答と討論を行った.
 [研究発表]
 ・中川さつき:メタスタジオの音楽劇における文明と野蛮
 ・高橋宏幸:ローマの境界と世界


   <今後の予定>
 ◎第7回COE研究会
  4月15日(木)午後2時半より5時半

 報告者
  宮嵜克裕:19世紀フランスにおける文学場の自律化過程の一側面――1894年におけるマラルメの『文学基金』の提言とその受容を中心にして
  齊藤泰弘:18世紀ヴェネツィア社会と文化の研究(とりわけゴルドーニの演劇に見られる社会風刺)について