蘭 由岐子
(賢明女子学院短期大学助教授/社会学)
- らい菌によって皮膚と末梢神経がおかされる慢性の感染症
- 発病および症状(病型)は、らい菌と個体の免疫能との関係で決まる
- 感覚障害と運動障害 二次的障害としての変形
- 治療薬 戦前:大風子油
戦後:プロミン(注射薬)、DDSなど
現在、DDS、RFP、CLFの多剤併用療法(MDT)
(1)法律11号「癩予防ニ関スル件」以前:漂泊する患者と外国人への体面維持
- 外国人宣教師による患者「救癩」
1889〜 テストウィード神父 神山復生病院
1895〜1941 ハンナ・リデル 回春病院 等
【1897 第一回国際らい会議 ハンセン病は伝染性疾患】
【1898 内地雑居】- 1899 北里柴三郎 伝染病研究所 そこに集まる病者を収容するために慰廃園(ケート・ヤングマン)を病院組織に。 東京市養育院(院長:渋沢栄一、主任:光田健輔)に回春病室
第13回衆議院「癩病患者及乞食取締ニ関スル質問」- 1900 内務省 第一回らい実数調査 患者数 約3万人
- 1902 第16回衆議院 「癩病患者取締ニ関スル建議案」
- 1905 リデル 大隈重信、渋沢栄一に病院への経済援助を要請 ← 通路づけ要因
- 1906 第二回 らい一斉調査 2万4千人
(2)法律11号「癩予防ニ関スル件」:「浮浪患者」の救護と療養所内治安維持
- 1907 法律11号「癩予防ニ関スル件」
「癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官庁ニ於イテ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ」 全国に5つの公立療養所の設置(1909年開設)- キリスト者からの「取締の危惧」の指摘(レゼー私見1907、リデル意見書1914など) と当局側の取締の強化(光田健輔:講演1914と意見書1915)
- 【1915 全生病院にて、初めてのワゼクトミー実施(違法)、および、それを前提にした結婚許可】
- 1916 細則「癩予防ニ関スル施行規則」改正 所長による懲戒検束規定
- 1919 第三回 らい一斉調査 1万6千人 資力のない者約1万人 → 第一期増床計画
- 1919.12 保健衛生調査会第4部 公私立療養所長のあつまり 意見の対立
離島隔離の是非、結婚問題- 1920 保健衛生調査会第4部 「根本的癩予防策要項」 決議 1万人収容を目標
公立療養所の増設拡張、国立療養所の新設、自由療養区の設置、従業禁止、生活不能患者への生活費補助、患者の請求による生殖中絶方法の施行など(翌年、5千床拡大案に修正)- 1925 「療養ノ途ヲ有セス」の拡大解釈 → すべての患者の療養所への収容
- 1930 「癩の根絶策」 (20年計画は、1936年に実施される)、国立療養所長島愛生園開園
【1910年代〜1920年代の優生主義の台頭との結びつき→「民族浄化」論、断種の容認】
【1925.6 賀川豊彦ら 日本MTL結成、1927「癩自由療養地設立請願書」】
【1926小笠原登 診療開始】
【1930ごろ 隔離政策緩和(人権尊重を考慮)の世界的潮流】
(3)「癩予防法」 1931〜1953 : 絶対隔離の時代
- 1931 癩予防法 すべての患者の国公立療養所への収容、伝染のおそれのある職業への従業禁止、国庫・道府県による費用負担
【各地で無癩県運動の実施】
【1938小笠原登 京大皮膚科特別研究室開設、1941学会論争】- 1945 敗戦
【1947 特効薬プロミン導入、プロミン獲得運動1949より予算化 根治治療への道が開ける】- 1948 優生保護法 ハンセン病患者への優生手術と中絶の合法化
- 1949 第二期増床計画(5500床)
- 1950 全国らい調査 1万5千人 収容定員 1万3500人(増床後1953段階)
栗生楽泉園の殺人事件に関連して、園内秩序維持のための懲戒検束権の行使は合憲
- 1951 全患協結成 基本的人権保障を求める
「三園長の証言」(参議院厚生委員会) 強制収容、断種、逃走防止の徹底を主張- 1952 全患協 抗議と改正運動
厚生省 「改正意思なし」から「改正」へ転換 → 1953 全患協の闘争
(4)「らい予防法」 1953〜1996 : 絶対隔離の徹底
- 1953 らい予防法
医師の届出、指定医による診察、国立療養所への入所、従業禁止、汚染場所の消毒、物件の消毒廃棄、外出の制限、懲罰規定、退所規定なし
【治療による社会復帰者の出現、生活向上を求める運動、改正運動】
【1960〜 世界:DDS投薬後の患者は感染源にはならないという判断 → 一般医療への統合】
(5) 「らい予防法」廃止と違憲国家賠償訴訟提訴・勝訴
- 【1963、1991 全患協改正要求、 1987所長連盟 嘆願書】
- 1992 大谷藤郎藤楓協会理事長「ハンセン病予防事業対策調査検討委員会」座長
「個人的見解」の提示 全患協、国立ハンセン病療養所所長連盟、日本らい学会へ- 1994-5 それぞれ「見解」発表
- 1995 「らい予防法見直し検討委員会」(座長:大谷藤郎)
- 1996 らい予防法廃止
- 1998 「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟提訴(熊本地裁)
- 2001 原告勝訴判決、国側控訴断念、勝訴判決確定
医学的知見に照らし合わせて遅くとも1960年までには行政による政策転換を、1965年までには国会による法の改廃をすべきであった。
(1)ハンセン病療養所
全国に国立13園、私立2院(1992まで3つ) 僻地、離島。納骨堂まである‘ムラ’=アサイラム
入所に際しての「自己の剥奪」、外出制限、患者作業、精神的安寧のための宗教と文芸
そのときどきの行為に関して、可視性が高い関係性
(2)ハンセン病患者・元患者、ハンセン病者
ハンセン病患者 → 療養所入所者
予防法の下では、 治癒≠退所 ∴ 療養所入所者=ハンセン病患者(入所患者)
予防法廃止 → アイデンティティの変容 「もはや患者ではない」
全国ハンセン病患者協議会(全患協) → 全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)
患者→回復者、元患者(判決・マスコミ報道)
ハンセン病者 : 患者・元患者双方を含む概念 医療社会学における「患者」v.s.「病者」から
*当事者個人にとっての「元患者」は単純でない
「菌検査陰性だから元患者」 1995〜
「菌ゼロでも麻痺はすすみますもん。『菌ゼロ』イコール『元患者』ちゅう扱いになっとうけども、私らがいう全治、全快とは違いますもんね。私らは、治った、『元患者』というと、この指も伸びらんと、治ったちゅうふうには考えないわけ。」
「社会復帰しきらん者は、いまだに『患者』ッタイな。『元患者』とは、いえん。」
(3)ハンセン病者の人生[被害](判決)
強制収容・終生隔離、家族・親族、友人知人、職業など社会関係の断絶、解剖承諾書への署名、偽名への変更、断種・堕胎、懲戒検束、患者作業という名の強制労働、外出制限、貧しい医療体制における病状・後遺症の悪化、新薬や研究の実験台、偏見・差別、家族への偏見・差別、等々。 + 退所者、入所経験のない病者の‘苦労’(外来診療体制の不備、隠蔽すること、など)
ここ数年の「ハンセン病問題」の理解=「差別−被差別」の文脈における「被害者」
(いうまでもなく、これを明らかにする意義は大きい)
(1)「病いの経験」を聞き取る
- 主観的意味の探究 : 個人の「思い、考え、感情」、独特のリアリティ = 「異口」
語り口や声を聞く しかも、それは重い、苦しいもの、「恥」(後の語り参照)- 「調査者−被調査者」の相互行為
立場の逆転 e.g.お茶を飲むことの意味
被調査者からの本質的な問いかけ 「なんでうちの話を聞いて録音するのか」
多様な関係性 フィールドワークの経験と調査者の自己アイデンティティ
権力作用の問題
忘れてしまいたいようなことを聞く=苦痛を強いる
「語らせるワーク」とその一方での、モデル・ストーリーから離れる語りを聞くに値しないものとして「語らせないワーク」
- 語ることの効用
語り手のエンパワーメント、カタルシスの経験
モラル・ウイットネス(A.クラインマン)としての聞き手
- 調査者の「揺れ」「罪悪感」 プロブレマティックな状況におけるフィールドワーク
- 語りと社会的コンテクスト 相互反映的
予防法廃止、訴訟過程を通じて、語りはじめた
「今度の予防法廃止でな、すこーしは、もう、なんちゅうか、苦しかったことを、いままでほんなこと、夫婦でも話さん、自分のうちのことを話さんことですよ、それがマスコミにこうしてまた、縁があって、弁護士会のあすこへ行って聞いてこられたけん、うちも安心して話すけどな、決して、素性のしれん人にな、あの、身内のことを話すことはありませんでした。絶対にない。…(中略)…もういままで園内でもな、よっぽど刎頸の友でないとな、やっぱり話すようなことはありませんでしたよ。それで、話しても涙が出たりはがゆいばっかりでな、ほんと、恥ずかしいちゅうか恥になることじゃけんな、恥と思うとる。偏見、差別受けるもとだもんだけん。」(1996年夏)
→ ・ 聞き手あっての語り
・ 「恥」から「被害」へ 自分の人生経験の再定義
→ 新たな社会的コンテクスト
(2)多様な「病いの経験」
- ひとりひとりの人生経験は個性的、独自性に富む
- ひととしていかに「病い」(病気よりもむしろ、社会制度、社会のまなざし、自己)と闘ってきたのか。あるいは、折り合いをつけてきたのか。
- 個人の生きてきた歴史の厚みのなかで意味は満たされていく
*「悔い」を生きる
ある島の療養所に暮らす吉田健さん(仮名)。長年、自治会活動と機関誌の編集に尽力したひとであった。「わたし」を家族研究者であると認知していたためか、語られた語りの内容は、結婚と在郷家族との関係が主であった。
吉田さんは、入所の経験を「一般論としては通用せん」といい、結婚生活が「普通じゃない」という。前者は、定員超過のところに自分から無理矢理たのんで入所したことを指す。後者は、男性が女性の2〜3倍いる療養所ではめずらしく2度の結婚と離婚を経験していることを指す。とりわけ1度目の結婚については、相手が障害の度合いを高めていった「にもかかわらず」離婚したからあまり語りたくないと言いつつ語った。さらに在郷家族(弟と姪)との関係も「水面下の交流」をもてたことを「よし」としていたものの、それは病気と障害のスティグマを受容してのことであった。長年「自分を殺すことによって、親類縁者に迷惑をかけんようにやってきた」が、あるとき「本名を忘れそうになった」。それでは「あんまり寂しすぎる」、「そこまで私を殺してしもうたら生きる瀬がない」と思い始め、それ以降、姪に自分の存在を隠すように以前にアドバイスしたことを後悔し始めた。さらにテレビ出演もした。しかし、だからといって自分の家族(弟や姪)を啓発することはできないでいた。「私個人の矛盾としては、自治会も役員なんかもやりながら、外に向かって啓蒙や啓発のようなことを盛んにいってね、で、自分の家族をそうできないというのは、なんか情けないような、矛盾しているような。」吉田さんの語りは、病気と障害のスティグマを受容しつつ、それを後悔する複雑な自己の語りであった。しかし、「後悔する」ことを通して吉田さん自身のなかでは、自己の変容(転回)がはかられていたに違いない。
*「正直に」生きる
中山義和さん(仮名)は、「強制収容」「優生手術」「偽名使用」のいずれも経験しなかったとあえて声にすることで多様な入所者像を強調しながら予防法廃止運動に取り組み、本名でマスコミにも登場した。その独特のアイデンティティをライフヒストリーにさぐった。中山さんは小学校時代に発病したようであるが、中学時代の担任の配慮もあって中学をすまし、その後奄美大島の療養所に「自主的に」入所した。その入所の経緯もあって、予防法廃止にともなって出てきた「補償要求」の動きに積極的ではなかった。その後、療養所内の定時制高校に進学したものの、大阪に出ることを決心し、高度成長期の最先端で働いた。もちろん、ハンセン病のことは隠したままであったが、垂足については「ハブにかまれた」ためとパッシングした。ところが、時代の最先端の業種で働くという重労働がたたったためか再発。もう隠せないと思った中山さんは親友に打ち明け、その上で、熊本の療養所に再入所した。そこから32年におよぶ療養所生活が始まった。ハンセン病ではなかったにもかかわらず幼い頃から療養所で暮らしてきた健常者の妻と結婚し、療養所入所者にはそれぞれ個別の事情があることを知る。さらに年の離れた弟が地元熊本の女性と結婚。自分の存在がネックにはならなかったこと、長男役割を果たせたこと、また、妻の葬儀に際してその弟嫁の親類縁者が臨席してくれたことは、まさに自分がハンセン病であることを隠さずに「正直に」生きた結果であった。この自信が予防法廃止に向けてのマスコミの取材協力に中山さんを駆り立てた。しかし、懸命にやるほど療養所内での評価が芳しくないことにも気づき、自分との落差を感じるのであった。そのため、予防法廃止に奔走したあと自治会役員を辞した。その後、裁判に対する自治会の姿勢に業を煮やし、勝訴を確信したので、熊本訴訟の結審前後に原告になることを決心した。勝訴後は、社会復帰の最後のチャンスをつかもうと、厚労省対策に奔走し、「退所者給与金」を獲得し、社会復帰の夢を実現させた。
*「6つの名前」を生きる
佐藤良子さん(仮名)は、結婚前の本名から戸籍名(前夫の姓)、現在の園内通称(二度目の夫の偽名の姓)まで、実際に使用されたもの、されなかったものを含めて、「6つの名前」をもつ「波瀾『億』丈の」人生であったと自覚的に語る。いまだ積極的な治療法がない時期の発病であったが、大学病院時代の大風子油による治療が奏功したのか、療養所に入ったときには自然治癒していたという。しかし、「癩予防法」成立のために、いわゆる「浮浪患者」以外の療養者も療養所に入所せざるをえなくなり、病者の夫とともに療養所へ入所した。その夫と正式に結婚しその籍に入ったことで、自分の実家の姓を名乗らないで済むことに「本当に感謝している」という。夫の出身階層のためか、療養所幹部の理解もあって、例外的に妊娠・出産した。「ふつう子どもなんか、その当時、私がひとり産んだだけだもんね。」子どもとは離れて暮らし、自分は戦前から戦後にかけての10年間婦人会活動に励む。敗戦直前、夫の死を経験する。戦後、再婚し、その夫を通して患者闘争を間近に見る。その結果、過去の出来事に遭遇したものとして「過去を語る」ことの必要を感じ、「自分史」を自治会機関誌に書くことにした。
孫子との交流は密にあって、彼らは療養所にも来るのであるが、病気のことは隠し通せていると佐藤さんは考えている。孫との交流という生き甲斐をもちながらも、入所歴60年にならんとする「自分の人生なんだったんだろうか」「なんのため、ここ(に)おるか」との疑問を繰り返す。ライフヒストリーを「聞き取ること」の意味を深く考えさせられたインタビューであった。
*「社会」に生きる
療養所入所経験をもつ社会復帰者3名のライフヒストリー。島田一成、武内太郎、沢口明さん(いずれも仮名)である。彼らは、予防法下においても外来診療を続けてきた関西の大学病院で、幸運にも退所後の医学的フォローを受けることができ、それによって職業生活を全うし、文字通り「社会復帰」することができていた。
聞き取りに際して、療養所入所者とはまた異なった細心の注意を必要とした。なぜなら、彼らはハンセン病であったことを妻にしか知らせず、あるいは妻にさえ知らせていなかったからである。それぞれ、職場や故郷においていかにパッシングするか―とりわけ後遺症のある島田さんは、障害そのものとさらには障害の理由を知られないように、細心の注意を払っていた―、その方法と苦労について語り、また療養所時代の生活について「むごたらしい」ことであったと語った。自身の人生についてそれぞれ、うそをつくのが上手になった人生、不遇な人生、静かな闘志を燃やし続けてきた人生であったと解釈していた。しかし、退所時に施された断種のために「あたたかな家族」をもてなかったことで自分の人生を「不遇な人生」と名付けた武内さんでも、現在、自分が力を注いでいるボランティア団体の活動プログラムを聞き取りの場に持ってきて、それはハンセン病の重圧にもめげず正々堂々とこういう生き方をやっているという証明であると語った。また、大学病院の医師への感謝は甚大であった。
聞き取り終了後、それぞれから丁重なお礼の言葉や手紙が「わたし」に送られ、聞き取りの場が、これまで語ることのできなかったことを語ることができた、きわめて「有り難い」機会であったことを確認した。
*「訴訟期」を生きる
訴訟のはじまりは、多くの病者たちに影響をおよぼした。ここでは、以上のライフヒストリーの語り手のなかから、原告にならなかった吉田さんと原告になったけれどもその重圧を感じていた沢口さんのふたりの語りを取り上げ、訴訟期における病者の生を考察した。
吉田さんは、自治会や全患協の本部役員として活躍したひとであり、厚生省との闘いは患者運動を通してなすべきものと考えていた。水俣病や薬害エイズの被害者とは異なって、ハンセン病者は療養所で国から「養われ」ており、そのような立場にある者が賠償金を請求することは、国民の支持が得られないからという主張であった。ところが、勝訴判決後におこなった聞き取りの場で、突然、療養所に入った経緯を話し出し、戦時中定員オーバーのところに無理矢理入所させてもらったというところに「恩義」を国に感じており、その心情が原告にならなかった理由であると語ったのであった。わたしは、その心情を受け入れることも病者の「救済」のひとつのあり方だと考えるようになった。
沢口さんは、原告になっていたが、証人台に立つわけでもないのに気をつかって証言調書の資料として「自分史」みたいなものを書いてから12、3キロもやせたという。「忘れよう忘れようとしてきた」こと、療養所での「悲惨なつらい生活」を思い出したことが身体に「こたえた」のである。訴訟が勝訴で終わって、賠償金が入ってくることもあって、息子たちに自分がハンセン病であったことを打ち明けたのだが、長男からその後連絡がなく、また、病気のことを知っているきょうだいにもあらためて話した方がいいのかどうか悩んでいた。裁判が勝訴したから「万歳」とはならないのである。また療養所への再訪も果たせずじまいであった。それは、戦争で生き残った後ろめたさに似た感情を療養所に対してもつからであった。療養所経験は沢口さんにとって「深い淵」であった。
- 個人の経験について、いかに解釈するか ←関係→ 「わたし」の‘位置’
- たとえば、「訴訟期療養所」において、原告でないひとに話を聞き、その翌日に原告の集会にでたとき、ライフヒストリーの聞き取りをする「わたし」は動揺し「罪悪感」を感じた
とても深く共鳴・肯定的に聴いていた
(=相手が自分を信頼して語ってくれた)
∴ 原告でないひとには、「わたし」は自分の裁判への態度を明らかにせずにその人の考えと同じ、という態度で接していたにちがいない(と思っていた)
「罪悪感」は、語り手からの手紙とこのときの調査を反省的に書くことで解消
- ハンセン病問題(病者たちの差別や排除の経験)をとらえる、裁判とは異なった視点
= 病者の経験、語り、声をどう聞くか- 自分の考えや思いの変化を記述することで、「わたし」の解釈を明らかにする
<参考文献>
蘭由岐子 2004『「病いの経験」を聞き取る―ハンセン病者のライフヒストリー』皓星社
蘭由岐子 2004(予定)「生活史を語ることの困難―あるハンセン病者の語りから」歴史科学協議会『歴史評論』12月号
小笠原登医師を偲ぶ会実行委員会 2000 『ハンセン病強制隔離に抗した生涯』パンフレット
解放出版社編 2001 『ハンセン病国賠訴訟判決―熊本地裁第一次〜第四次』解放出版社
藤野豊 1993 『日本ファシズムと医療』岩波書店
21世紀COEプログラム
京都大学大学院文学研究科
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「多元的世界における寛容性についての研究」研究会
tolerance-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp