21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
top 趣旨 メンバー 研究会案内 関連企画 NewsletterCOE top

■第11回研究会レジュメ

《報告1》

 2004年11月13日(土)
於:京都大学文学部新館


親密圏への宣教論的眼差し
― 死者の居場所 ―

寺尾 寿芳

1. 揺れ動くカトリック教会

 筆者にとり身近なカトリック教会を中心にして述べたいが、この巨大な「世界(普遍)教会」は現在深い懊悩に苛まれつつある。宗教界における欧米の主導権がまだかすかに残っていた第二ヴァティカン公会議(1962-1965)の時代とは異なり、いまや脱西洋化が進んだ実質的な宗教多元主義の世界へと移行済みである。と同時に、それはたんなる民族的ないし文化的な次元で特殊化が進展することを意味しない。たとえば日本教会を例にとると、信徒水準では日本人が従来大多数を占めてきたが、近年急速に外国籍信徒が増大し、いまでは推定半数にまで至っている。まさに伝統的な普遍観や特殊観からは現在教会が直面している動態を理解しがたいのである。特殊教会を単純に集積していけば普遍教会になるわけでもなく、普遍教会を特殊性に投射すれば特殊教会が成立するわけでもない。ともかく問題性が先行する事態が生起しているといえるだろう。日本教会にしても、新国立追悼施設問題やヴァティカンの「アジア」に対する過剰な神学的警戒や人材枯渇不足といった内憂外患を抱えている(この事例では、信仰の視点と地域性の視点とで、内と外は入れ替わる)。

2. 『記憶と和解』文書をめぐって―教会論から宣教学への移行展開

 宣教の原点としてのまずは教会が自己をいかに理解しているかが焦点をなす。まず宣教とは「布教」ではなく「回心」という基礎理解があり、かつ、宣教地とは非ヨーロッパにかぎらずむしろより困難な再宣教地としてヨーロッパが挙げられる時代になっている。つまり、宣教学の根本的性格も自覚的主体が中心となる「伝える」から非自覚的状況にまつわる「伝わる」へと事実上の転回が起きているといってよい。従来型の教会論を前提とした演繹的な宣教学では実質的に無効であり、教会を包摂する社会性からの帰納的宣教学が要請される時代になったといえるだろう。

 ローマ聖座においても徐々に変化の兆しがみられる。現教皇ヨハネ・パウロ二世が過去の布教政策の過ちを認め、大聖年を迎えた節目に「ゆるしを願うミサ」(2000年3月12日)を奉げ、また教皇庁国際神学委員会はそのミサの理論的前提をなす文書『記憶と和解―教会と過去の種々の過失』を発表した。旧来の宣教に色濃く見られた排他的独善主義は影を潜め、自省的視線へと反転している。この転回は重要な変化である。がしかし、そこに顕著な審問の語法つまり教会は理性的に問題点を克服し、記憶を浄化しうるという確信には、統御不可能な他者が不在であり、自閉的で堅い正義に留まっている観がある。こうした眼差しを 〈共同性―統合アイデンティティ―強い正義〉と呼ぶことができるだろう。

 このような事態に対してカトリシズムに批判的でありつつも共感を覚える思想家や宗教学(たとえばVattimoやCasanova)から、社会に開かれ外部要素を考慮した自己理解と、それにもとづく柔軟な正義を希求する発想を知ることができる。この眼差しを〈公共性―均衡アイデンティティ―弱い正義〉と言うことができよう。しかしこの視線には社会的関係の調整を自主的に遂行できる啓蒙された主体性がいまだ残存しているといってよい。筆者としてはより開かれた、そして統御を断念したネットワーク的眼差し、つまり 〈無縁性―多重アイデンティティ―感応する正義〉がありうると考えている。そこに成立する宣教学は理性よりも情動あるいはその基礎にある感覚に根ざしたものになるだろう。

3. 親密圏を体現する現代「教会=共同体」

 齋藤純一による定義を借り受け、それに若干の補筆を加え、親密圏を「具体的な他者の生および死への配慮を契機とする比較的小規模かつ持続的な秘匿的関係性」とする。この親密圏を体現する組織は、公共圏で中核的な役割を果たす中間団体とは、非対等性、被縛性、受動性、異種混交性という点で異なっている。そして教会はこれらの条件を十分に満たしている。また教会の社会的性格を考慮すれば、いわゆる信仰共同体としての教会を超えて、多様な人間や出来事が共有される周縁性を加味した動態的な「教会=共同体」(church=community)とみなしたほうがよい。そこでは疑似家族的な親密さのなかで、同一性(同じでありつづけること:idem)を断念することで自己性(掛け替えなさ:ipse)に賭ける緊迫した生動的情況が生起しているといえるだろう。

4. 死者とともにある寛容

 近年の思想界を顧みれば、死者との共生という欲求が散見される。たとえば「死から死者へ(存在より関係)」(末木文美士)、「幽霊的記憶」(高橋哲哉)、「祈り―追放された感覚―夢―(主体ではなく)状況」(細見和之、田崎英明)、「死者と生者との同一化を想定する神秘的な作業」・「死者の人権」(米山リサ)などである。ここには、〈死(哲学者)―死者(宗教者)―死体(被差別民)〉構造における「死(哲学)から死者(宗教)へ」という移行が読み取れる。しかし教会はこの移行をただ受容するだけではなく、むしろ連動する形で「死者(宗教)から死体(民俗/土俗)へ」と眼差しを向けなおさねばならない。

 では、「死者の居場所となる教会」、「親密なる死者を迎え入れる現場の教会」のリアルなイメージとはいかなるものか。つまり死体に近い場所に屹立する「被差別教会」は可能かという極限状況の自覚へと問いは進む。それは教会=共同体の自己理解が傍観者から目撃者ないし証言者そして被害者へと降下していくことを示唆しよう。当然そこでは剛体的組織への依存を解体される経験―揺動・変容・成長―が見て取れよう。

 この志向は差別される立場に自己を同化することにまで至る。たとえば山口道孝神父のレポートに注目しよう。「プーナにイエズス会のJDV(サンスクリットで愛を修徳する)という名の神学校がある。…そのエリートの中にセバスチャンという神学生がいた。…留学から10年経って、プーナに再び行ってみると、彼は修道会をやめていた。それだけでなく、先祖がハイカーストの出であることがすぐにわかってしまう自分の名字を、もっとも低いカーストの名前に変えてしまっていた。そしてその地域全体のスラム住民が連帯するNGOを組織し、大勢の人から慕われる若い会長になっていた。カトリック教会からのサポートは1人のシスターと数名の若い女性だけのようだった」。注目すべきはこの元神学生がカトリックから離脱したわけではないことだ。むしろ彼は悲惨な状況に同化することで親密圏から再出発しようとしたのである。

 省みれば、西洋文明の世界展開における「第一波」(17世紀以前、世俗化以前)として中南米での文明融合的同化史を肯定したアーノルド・トインビー(『一歴史家の宗教観』)が指摘したように、既成文化を破壊つくした悲劇的な宣教こそが、逆説的に「土着の寛容」を懐胎する。リアルな死体の傍らに立ち尽くす絶望感や罪責感と一体になった絶対無差別性。それに依拠する寛容がありうる。そしてそこにある正義とは、無痛文明化した先進社会へ腐臭をもたらす剥き出しの暴力への高感度ないわば臭覚的識別能力[くわえて温感])に依拠しうるだろう。こうした寛容は、匂い/臭いが共有される親密圏において「うつる/帯びる」可動性といった「いかがわしさ」に添いきる感覚を特徴とするだろう。「死者の居場所」に寛容は生起するのだ。

5. ディアスポラ・カトリックの可能性

 情報発信において教会の意味づけは大きく変わったといえる。かつては中央から地方へと統制的に情報が送られたが、いまでは地方における現場の主に悲惨な状況を中央へ「問い」として送り届けるようになっている。そして現場での宣教はそうした情報発信にまつわる信頼性(誠実さ)に依拠した他者からの承認へと移行と重点が移行している。もはや信仰を前提とした教説ではなく、開かれた健全な常識こそが宣教の鍵をなしている。

 そもそも普遍教会と地方教会との関係はきわめて柔軟なものであった。教理省長官であるヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿が普遍教会の先在的優越性を唱えるのに対して、キリスト教一致推進評議会議長のヴァルター・カスパー枢機卿は歴史的にいって特殊教会のネットワークとして普遍教会が成立しえるのであり、中央集権化とは異質なネットワークに注目する。その際、カスパーは論考の中で、教会誕生の原点である聖霊降臨における焦点は普遍教会ではなくディアスポラだというM・テオバルドの主張を引用している。

 歴史的社会的な教会を回顧すれば、カスパーの主張はやや理想にすぎると思われるかもしれない。しかし古典的な剛体的教会像は意外にも「19世紀的現象」とでも呼びうる新しい性格ももっている。たとえば、地球規模に拡大した海外宣教の担い手は多く新しい修道会や宣教会が担当している。それらの多くは、フランス革命後の王制復古、第一ヴァティカン公会議(1869-1870、教皇ピオ9世により開かれたが、近代主義に対する過剰な反動を特徴とする)に設立されている(トレント公会議以降に先行して進出した組織もこの時期に「引き締め」られた)。つまり世界宗教史的にみて、宗教の拡大としてはかなり「急性」症状を呈してきた。ふたたびトインビーの言葉を借りれば西洋の世界進出の「第二波」における宣教は、均質な世界教会の急造ともいえるのである。換言すれば、世界大の「普遍教会」としての通念的カトリック教会は一種の「創られた伝統」にすぎないのだ。

 この状況が第二ヴァティカン公会議において一気に転換期を迎えた。しかし教会の「頭」ではなく「からだ」は容易に変わることはできない。結果、「古い皮袋に新しい酒を入れた」ことになり、破裂した「酒」つまり開かれた改革的精神が無残にも流れ出している(思想つまり「水」ではなく精神は「酒」であり、理性で把捉しきれない面をもつ)。こうして現在、宣教現場はいわば混乱のただなかである種の臨界状況を迎えている。

 インカルチュレーションがこの臨界状況において探求されてきたことは事実である。この志向はじつは「脱土地化」、つまり染み付いた西洋的付着物から離脱する脱西洋化だったのであり、本格的な土着化にとっては助走段階であった。そしていまやディープ・インカルチュレーション(「再土地化」つまり「深い対話(Deep-Dialogue)」[Swidler/Global Dialogue Institute]へと徐々に向かっているといえる。それは、しかし、平穏な事態ではない。もはや帰還不可能な「起源」を神話的にはいまだ共有しつつ(ただし規範提示力は強く保持されてはいる)、しかし根源的越境経験と相互参照が困難な同時並行的土着化の展開することで、カトリック教会のなかで疑似的分裂状況を引き起こしていることは否定できないのである。

 かくて現場の教会は統御を失いつつ、しかし独立志向とはまた別に自立していく。ここで筆者は「ディアスポラ」という発想を想起したい。「ディアスポラは散逸してきたものが想定しがちな一体性に抵抗する。ディアスポラは微細な力のずれが期待値を突然に無視して、別の場所に現れて急激な変化を表す『バタフライ効果』と同じ偶発性と予測不可能性をはらんでいる」と上野俊哉は語る。現実としてこうした事態を受容している教会は、現場の教会はまさに帰納的な宣教学の前衛そのものたりえよう。

 移住者としての記憶を保持しつつ、土着を受容する教会にとり根本的に重要な事態は、土地(死者)の霊魂(genius loci)の同化と思われる。現在の宗教間対話はそれに向けた無自覚の訓練期と想定できまいか。そこで反復されるのはヘブライへの回帰ではなく、むしろギリシア文明との邂逅だろう。(思えば、ヘブライズムで「死」が判断中止となるのに対して、国家による戦死者追悼はギリシア起源であった)。

 キリスト教のエキュメニカルな地球文明志向的課題として、「戦争の世紀」だった二十世紀の反省と総括があり、くわえて滞在外国人の受け入れ窓口としての無縁的教会=共同体がいま要請されている。ディアスポラの3大起因が貿易・戦争・宗教(トインビー『現代が受けている挑戦』)であることから、こうした課題はディアスポラ・カトリックに避けられないものである。

 より具体的に死の問題を考慮すれば、沈黙(余韻)かつ瞑目(残像)のなか、親密な土地やモノ(res)を感じ取るにたる臭覚の鋭敏化が求められよう。それは共同(協働)墓苑の構想へ発展し。やがては千鳥ケ淵戦没者墓苑(死体−遺体−遺骨)の発展解消的活用へと展開するのではないだろうか。同時にこのことは教会にとって扱いの微妙な殉教を再解釈することにもなる。さらには「聖地」の再整備(人類の「愚行」に寄り添う巡礼地)も模索されよう。いずれも「不意打ち」する記憶の移動空間(人も場所も動く)である。ともあれ、ジェノサイド証言のネットワークとして教会は説明責任を果たし、かつ、「無縁者」としての聖職者(司教、司祭、助祭)や修道者がただしくも「うさん〈臭い〉」存在として、この世を覚醒せしめる逆説的媒体となるものと期待したい。親密圏としての「死者の居場所」では生者も死者たるべきなのである。

6. 「たましい」への配慮

 最後に死体や親密圏を扱う際のひとつの発見的視圏として「たましい」の導入を提言しておきたい。このいかがわしい概念が学術研究において市民権を得ることによる利点は無視できない。

 教義により固定化されて久しい宗教的感性(これを「霊性」と呼んでもかまわない)を再生させるためには、いわく言いがたいことに耐える過程が不可欠である。それを倫理的要請へと展開するならば、「わからないことにこそ尊厳は宿る」という点に覚醒しなくてはならない。ここに「たましい」という発想が多用される領域が見て取れる(「こころ」を超えた深みとしての「たましい」[山田晶]もここに関係しうる)。そして世界の宗教的現場、ことに親密圏としての現場では、じっさい「たましいを語るものとどう出会い、対話するのか?」という課題はきわめて重要なものである。

 さらに多くの宗教対話が示唆するように、贖罪思想とならんで、東洋の神学が無化の思想を展開すべきだとすれば、〈魂にふれる=人間の限界を超える=無化という贖罪〉という視点はキリスト教思想の根幹にひびくものとなりうる。この難問は近代日本の民衆信仰の次元において、招魂システム(〈タマシズメ〉を通した〈タマフリ〉[西村明])への対処を探るためにも必要な観察点となるだろう。

 身近な、しかし360度の広角を保持し、「あたま」や「こころ」に左右されない(語弊を恐れず言えば)「動物的感覚」を備えた宗教性こそがおそらくは「解放/解脱」(liberation)の真実態を指し示すのではなかろうか。つまり人間を超えるという点で、神と動物はなんらかの共通性を秘めていると考えられるのだ。ここまで提示しえてこそキリスト教宣教学は実験現場として教義からの自立を果たしうると思われるのである。


補足1:当日質疑応答のなかで親密圏としてのカトリック教会におけるジェンダーに関して若干触れた。司祭の女性性について述べたが、カトリック教会を人的に構成する二大要素、司祭と修道女は、語弊を恐れず言えば、表面的(ないし公共圏的)な男尊女卑(司教および司祭が男性に限定されていること等)とは異なり、いわば「女性的な男性である司祭と男性的な女性である修道女」という一種の転回した関係にあるのではないかと思われる。この非日常的祝祭を想起させるジェンダー逆転現象の日常化は、親密圏としての教会においてなんらかの「深み」を醸成している可能性がある。まだ着想の域を出ないため、詳細は別稿に譲りたい。

補足2:本研究の過程で得られた着想をよりいっそう詳述したもの(ことに「臭覚的識別能力」に関して)として、以下の拙稿を参照願いたい。寺尾寿芳「死体とともにある寛容―親密圏からの宣教学」、『信愛紀要』(和歌山信愛女子短期大学発行)45号、2005年3月発行予定。


<主要参考文献(順不同>

<筆者による関連文献>

本稿(ウェッブサイト版)はペーパーメディア版Newsletter第10号掲載稿に、第5章、第6章を中心として補筆したものである。

(てらお かずよし・和歌山信愛女子短期大学教授/キリスト教学)


[このページの先頭に戻る]


top 趣旨 メンバー 研究会案内 関連企画 NewsletterCOE TOP

21世紀COEプログラム
京都大学大学院文学研究科
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「多元的世界における寛容性についての研究」研究会

tolerance-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp