21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第11回研究会レジュメ

《報告2》

 2004年11月13日(土)
於:京都大学文学部新館

「満洲」移民をめぐる寛容さの記憶
黒龍江省方正県の日本人公墓建立をとおして ―

坂部 晶子

【要旨】

はじめに

 植民地「満洲」の経験を題材として、かつての植民地社会がその歴史をどのようにうけとっているのかを、当該地におけるコメモレイションの様式をとおしてみていく。日本社会における「満洲国」関連の記念施設として著名なものに「舞鶴引揚記念館」があるが、そこでの主題は引揚のプロセスにまつわる「悲劇の物語」である。それにたいして「満洲国」の現場であった現中国東北地区での記憶の語りは、主として「日本の帝国主義侵略とそれにたいする民族的抵抗」というかたちをとる。しかしそのなかでも「植民地支配をおこなった日本人にたいする中国人の寛容さ」を示す言説もいくつか存在する。本報告ではこの「寛容さ」にかかわる記憶について特定の地域における記念行為の成り立ちをとおしてみていく。

中国東北社会にのこる植民地の記憶――日本人公墓の位置

 「寛容さ」の記憶の代表的なものは「撫順戦犯管理所」跡地の展示であろう。当施設は、日本人戦犯にたいし侵略時代におこなった罪を告白改悛させるというかたちで、死刑判決を一例も出さず(途中病死したものを除いて)全員帰国させたという経緯(その後日本で中国での経験を伝える活動をおこなった「中帰連」の事跡もふくまれる)を紹介している。

 もうひとつの例にあたるのが「方正地区日本人公墓」にまつわる語りである。ここは日本人の戦争犠牲者のために方正県政府が建設した墓であり、他と色合いが異なる。「満洲国」当時日本人の農業移民は「満洲国」国境近くに分散しており、植民地社会の権力体系が転倒し交通も途絶するなかで、多くの農業移民の家族が移住地に取り残された。その後黒龍江省東北部から哈爾濱方面へむけて逃げた日本人が集結したのが方正県近辺である。「満洲」からの引揚は困難を極め、途中で集団自決したり餓死・病死したりしたものも多く、そのまま中国に残された「残留婦人・孤児」を多く出した地域でもある。ここでの語りは、「侵略者であった日本孤児、日本婦人を養い育てた中国の人びとの寛容さ」というかたちをとっている。

「寛容さ」の語りの形成

 方正県は黒龍江省の省都哈爾濱から東へ164キロの小都市で人口22万人。県の北部は松花江に面し湿地帯が多く、主要産業は農業、南部は丘陵地となり林業を中心とする。

 方正地区日本人公墓は正式名称を「中日友好園林」といい、管理単位は方正県政府外事僑務弁公室、関係者にたいするインタビューではその目的を「中国の青年学生にたいし愛国主義教育をおこない、日本の軍国主義が中国を侵略した歴史を牢記すること」としている。年間の参観者数は最も多い95年に3000名ほどで、うち日本人が500名位、95%以上が団体客であるという。日本人墓参団は80年代になって始まり、外事弁公室の資料によれば、かつての「残留者」やその家族、日中友好協会、各地の平和団体などを中心に、毎年10数団体〜30団体、数百人が墓参に訪れる。

 方正県で亡くなった多くの日本人開拓団の遺骨を埋葬し、墓を建てようとするきっかけとなったのは、当地の日本人残留婦人のひとりの政府への陳情から始まった。当時中国では飢饉がつづき、日本人残留者の生活が逼迫するなかで、政府の政策として彼らの生活保障のための措置とともに、地方政府の手によって1963年に日本人の公墓建設がおこなわれている。当事者の松田ちえは、80年代に書かれた手記のなかで当時の気持ちを「人民政府に感謝します」という言葉で表現している。

 その後この墓を中心に他の地区の犠牲者の遺灰なども受け入れ、「方正地区日本人公墓」は黒龍江省内で死んだ日本人開拓団員の墓という性格を帯びてゆく。それはちょうど80年代にはいって日本からの墓参りに訪れる団体が増加していく時期と重なっているが、これらのかつての「満洲」とかかわりのある日本人たちの寄附によって、公墓の周辺は整備されて公園となり、展示館施設等も整えられていくことになった。「養育之恩、永世不忘」といった感謝の言葉や、「残留邦人の報恩の思い」「中国人民の善意にこたえるには」といった中国社会の植民地経験にたいする寛容さ、寛大さに感謝する言葉は、これらの人びとの手記などに散見されるものである。

 いっぽう方正県と日本の間を行き来する残留者や、「日本人公墓」を管理する県政府のなかでは、これらの言葉は(あたりまえだが)出てこない。そこで公墓に与えられる公式的な意義とは「中国の青年学生にたいし愛国主義教育をおこない、日本の軍国主義が中国を侵略した歴史を牢記すること」とされているように、東北地区社会に共通する植民地経験にたいするコメモレイションのレトリックである。

過去の経験を資源とした地域発展――観光ツアーの招致と日本への移住

 「中国社会の植民地経験にたいする寛容さへの感謝」という物語は、基本的には改革解放以降に方正を訪れた日本人参拝者たちによって形成されてきたものと考えられる。方正県側では現在、これらの日本人からの公墓へのコミットメントを資源として新たな発展が模索されている。

 ひとつめの方向性は日本人公墓にまつわる「記憶」を資源とした公墓の拡充計画と観光ツアーの招致である。外事僑務弁公室作成の「開発建設“中日友好園林”的可行性報告」によれば2002年から公墓拡大事業が行われ、方正県博物館(三階建て)の建設、植樹、人工湖、日本式建築物の整備、日本軍の侵華罪証のための文物の収集等が計画されている。また中日友好園林の開発建設の意義として、@中日両国の友好的交流と往来、A愛国主義教育、B方正県の海外知名度の上昇、C方正県の旅行業の発展とされている。県全体でも蓮花節の開催や蓮花湖、方正湖、方正原始森林景区等の観光地開発がすすめられている。

 もうひとつの方向性は、方正県に残された日本人残留者たちの「関係性」を資源とした「中国残留孤児・残留婦人」の帰国とその関係者の日本への渡航である。日中国交回復以降県内に残留していた日本籍の人びとは幾度かの身元調査を兼ねた日本への一時帰国を経て、現在ではほとんどが家族を伴って永住帰国している。その関係者を中心として、人口わずか22万人の方正県から、現在5万人ほどの人びとが日本へ定住、移住、出稼ぎ等でわたっている。日本からの観光客招致や援助等の流れと同様に、日本人残留者との関係性を元手にした日本への移動もまた方正県の大きな資源となっているといえるだろう。

おわりに

 中国東北における一種特異なコメモレイション施設である「方正地区日本人公墓」は、日本社会における植民地経験へのコメモレイション行為自体の困難さ、その種の施設自体の少なさもあり、日本人参拝者たちの中国での慰霊行為が拡大していった。その過程で公墓建設にまつわる「寛容さ」の記憶が日本人関係者のあいだで形成されていったと考えられる。現在ではこの物語を資源とし利用していくことによるツーリズムの拡大が行われている。一方で公墓建設の立役者でもあり中国社会に取り残され、その後数十年を経て日本社会へ帰国した「残留孤児、残留婦人」たち、その家族たち自身の語りは、これらの「寛容さ」の記憶と一種アンビバレントな関係をもっているのではないだろうか。

(さかべ しょうこ・日本学術振興会特別研究員・京都大学/社会学)

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