21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第13回研究会レジュメ

《報告1》

 2005年5月9日(土)
於:京都大学文学部新館


朝鮮無教会キリスト教と社会主義

―金教臣を中心として―

金 文吉

 明治のキリスト教指導者であった内村鑑三は戦争に反対し、平和思想を唱えた人物である。明治のキリスト教指導者はその当時、全ての国民が戦争を認めている最中「余は日露非開戦論者であるばかりではなく戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない」 と戦争に反対し、アジアの平和を強調した。
 内村鑑三だけではなく朝鮮においても内村鑑三の無教会精神を受け継いだ金ヘ臣がいた。彼は戦争に反対し、平和を主張した。当時、朝鮮はロシアの革命や朝鮮の3・1運動によって平和思想は一層高揚しつつあった。植民地での朝鮮人は日本帝国統治下からの解放のためなら武力によってでも独立を成すべきだと叫んだ。
しかし、朝鮮無教会指導者金ヘ臣は武力によって平和を取り戻す方法よりは精神的に、即ち信仰をもって平和思想を呼び起こし、朝鮮の独立を獲得すべきだと主張した。ハンセン病を患う心身の不自由な兄弟姉妹に福音の道を伝えようとする金教臣の志は一層燃え上がったのである。韓国ハンセン病者の収容所は金南商興郡小鹿島に設立された(1916年)。設立と同時金ヘ臣は小鹿島ハンセン病者のために『聖書朝鮮』をおくり、無教会信仰を教えた。
 今回は朝鮮無教会がハンセン病患者に与えた影響の内容を調べることにする。文信換は「聖朝誌」を聖書と同じように取り扱い、昼夜を問わず持ち歩いていた。彼が金ヘ臣に送った手紙を覗いてみよう。

 「ああ!先生が送ってくださった聖朝誌と愛のメッセージ等は世人からは得ることのできぬ、キリストの尊い血と尊い肉に浸された真の愛であります。先生が送ってくださった聖朝誌を無力な私が手にして黙々と見ながら抑えきれない涙を流す、小生の心霊には愛慕する聖朝誌を耽読する前から口では申しきれないほどの喜びに溢れ、その上、霊的にも満ち溢れる次第でございます。ああ!私の生涯の望みは我が主の熱烈な心から発生される聖書朝鮮を通じて、我が父の永遠な胸元に抱かれ永遠に向かうこと。また、復活であり、真理であり、生命であるイエス・キリストの形状に似ていくことと、全ての全てが成就されることを信じ、無限の歓喜に満ち溢れていること」 。

 特に「聖書朝鮮」を通じて、金教臣が小鹿島のハンセン病患者たちに及ぼした影響は二つあったと思われる。 まず、一つは内面的信仰についてである。日帝時代、朝鮮キリスト教は日本のキリスト教布ヘとともにあらゆる教団の中に無教会真理と社会正義を覚えたことである。当時無教会の信者が金ヘ臣のあてに送った手紙の話を聞くと、無教会金教臣のキリスト教信仰に熱い感動を受け、人生が変化した事がうかがえる。

 「12月18日(日)、感無量で惠書を奉読させて頂きました。書信一枚がそれほど貴いとは思っていませんでしたが、先生の惠書は私にとってあまりにも貴いものでした。ハンセン病は主が私に下さった頚木であり、試練の鞭です。私はこのハンセン病を通じて二千年前ゴルゴタで釘を打たれた主イエス・キリストに巡り会いその真理を知り、救いの福音の中で生まれ変わった故、私がハンセン病患者であった事実を決して嘆いたりはしません。ハンセン病でなかったら私が新たに生まれ変わる(重生:再び生まれること─最初は肉の誕生二度目は霊の誕生)恩恵に恵まれなかったように、私がイエス・キリストを信じていたとしてもハンセン病者でなかったとしたら、多くの先生たちが信じていらっしゃる真の生きた信仰の別天地を得ることは不可能であったことでしょう。よってハンセン病者であることを至上の喜びと悟り、感謝せざるを得ません。今度の書信では信仰的に色々とご念慮して頂き真に有難く存じております。主イエス・キリストの驚くべき恩寵があることを求めます(小鹿島 中央里信者拝上)」 。

 二つめは、外面的な(行動として示される)影響である。きびしい土木工事、製炭事業、軍需用の松脂採取、叺(かます)の製造、兎毛皮の生産、煉瓦製造、神社参拝等の肉体的苦役が多くあったにもかかわらず、金教臣のヘえに従って苦しい生活も辛抱した。だが当時無教会信者の中で急進的な者は辛抱せず逃亡することも多く、苦しんだ李春相は、園長の周防正秀を殺害した。李の判決文を見ると 、

 「入園後間もなく癩病患者特有の偏狹性より更生園當局に不正事實の伏在するが如く憶測を逞ふし,或は患者の一時歸省許可の不公平及日常作業の荷酷を指揮し、或は朝鮮總督府癩養所更生園患者懲戒檢束規定に依り設けられたる同園監禁室を目し患者を殺害せむが爲の設備にして、法律に依らず患者を 殺害しつつありと爲す等、園當局の在園患者に對する處遇に關し、種種の偏見誤解を抱く至りたるが就中同園看護主任佐藤三代治の日頃患者に對する取扱極めて峻烈なりしのみならず、昭和十?年八月より同十七年四月までの間、重病不自由患者に對する定食配給米より一日一合位を減じ、且月一回?合宛全患者に支給し来れる間食白米を全廢したる處、是悉く園長周防正委(當時五十八)の意図に出でたるものと妄断し、同人に対し極端なる反感を抱くに至り(1942、12、10 死刑判決文一部)」

 李の判決にあるように患者の待遇が極めて悪かったことは言うまでもない事実である。院長周防正季の殺人に対して同宿していた証人の話を聞いてみると

 「二五歳で来た。村に。斷種手術しなければいけない。そうすれば結婚させてやると言われた。夫婦一緒に住める家も建ててやると。井戸を掘って、家を建てて、冬至に・・・院長(周防正委第四代院長)の銅像を建てなきゃならないんだが・・・院長の銅像を建てるために、金を差し出さなければいけないし、とにかく私たちが何もかも差し出さなければいけないと。・・・働いて、一日三銭。よけいに働く人は五銭、と言われたけれど全くくれなかった。・・・銅像を建てた(一九四○年八月)後は、夜明けの三時に銅像を拝めといわれた。・・・院長先生ありがとうございますと拜みにいかなければならなかった。・・・銅像参拝・・・神社参拝・・・それをしなければ賣國奴だ、反抗者だと言われた、この野郎、何故しないんだと言われたが、私はキリストヘ徒だからそんなことは出来ないと答えて監禁室に入れられて死んだ人々がたくさんいました」(金さんというひと 現在86才)。

 こうした背景を考えれば、この事件は、小鹿島ハンセン病患者たちに課せられた苦役にとうとう堪忍袋の緒が切れて李が犯した事件であった。この李の例からわかるように、金教臣の影響を受けた人々には急進派として行動した第2のタイプが見出せるのである。これを対して、先に述べたように 小鹿島の院生たちが相当の苦労をしていた時、金教臣の聖書朝鮮を通じてキリスト教の信仰を得られたのは事実である。信仰が有ったゆえ、園での生活に忍耐心を持って順応しながら生きることができたのであるが、しかし「聖書朝鮮」を通じて融合事業と皇民化政策に同調した人々が多かったことは、総督府の立場から高く評価された。現存している患者たちの証言によれば「聖書朝鮮」を通じて無教会信仰を得なかった者は院生活に適応できず、逃亡か自殺に至ったと推量される。
 おそらく金ヘ臣の「聖書朝鮮」の影響で無教会信者は忍耐心持って苦役も辛抱したのであった。金ヘ臣と信者との対話は155回におよんだ。これについて金教臣自身、無教会は小鹿島に花開いたと語っている 。
 現在から見ると急進的であった李春相の信仰は、非常に高く評価されている。現在李春相の追慕会が組織され、解放運動家として認めるように政府に対して署名運動が行われている。こうした点から見れば、金教臣の無教会キリスト教の社会正義の精神は、とくに急進的な人々においてはっきりと示されていると言えるだろう。


1近代思想研究会 『内村鑑三の言葉』、1977、207頁
2金丁煥 『金ヘ臣とムントウンア』、金教臣記念会刊、1998、30頁
3滝尾英二『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』、不二出版、2002、293頁
4金丁煥前掲書、30頁

                                                        

    (きむ むんぎる・釜山外国語大学日本語学科教授/キリスト教学)


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