21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第18回研究会レジュメ

《報告2》

 2006年5月20日(土)
於:京都大学文学部新館

東アジアにおける歴史的責任と寛容性

――戦争被害の定型化された語りの可能性――

松田 素二

【要旨】

はじめに―東アジアにおける戦争の記憶の傷跡

 今日の東アジア社会において、60年前に終了した戦争の記憶は、依然として現在的意味をもって再構成され社会に流通している。こうした状況のなかで、いかにして東アジアという文脈で、相互の理解と切り裂かれた紐帯の再生は可能なのだろうか。
 本報告は、アジアの戦争被害者、とりわけ在韓被爆者の被害の語りに焦点をあてて、和解と清算の可能性を検討することを目的としている。国民国家の争闘の世紀の果てに、今日、争闘の過程で具体的な被害を被った個々人が、過去そして現在に被った苦悩を訴え、恨みを解こうとする動きが生まれてきた。この個々の被害者が、被害の共同体を基盤としながら、圧倒的に強力な体制と向かい合い、自身の被害を語りはじめたときに、和解という言葉が新たな次元を切り開こうとしている。こうした状況のなかで、東アジアの戦争被害の語りを再定位することによって、語りの力のもつ新たな可能性を検討してみたい。

1 人権侵害救済の二つの方法

 グローバル化の進行とともに、人間観のグローバルスタンダード化も急速に進んでいる。ここで問題にしているのは、個人の人権を尊重し、国籍、民族、宗教の違いを超えてもその侵害には立ち向かうべきであるという人間観のことだ。このような人間観は、国際人権規約や国際法などを確固とした支えとしながら、さまざまな地域で生起する多様な現実を人権侵害として規定し問題にしてきた。独裁政権による拷問や殺人、内戦内乱によるレイプや大量殺戮などに対しても、この新たな人間観を前面に出して、真相糾明と被害者救済などの試みが行われてきている。
こうした大量殺戮や組織的な人権侵害は、被害者と加害者のみならず、共同体内部や共同体相互のあいだに容易に癒しがたい傷を残すことになる。
 このような国家権力の暴力によって人権を侵害された被害者は、いったいどのようにして、侵害された人権を回復できるのだろうか。現在世界各地で採用されている方法は、大きく分けて二種類がある。一つは、国際法廷(あるいは国内法廷)で加害者を処罰するという方法であり、もう一つは、法廷で裁かず真実をあきらかにして和解するという方法である。
 前者を採用している被害者の一つに、朝鮮人軍隊慰安婦などの戦争被害者がいる。現在日本だけで、朝鮮人や中国人の戦争被害者を原告とするいわゆる戦後補償裁判の数は数十件を超える。後者の和解の方法を採用しているのが、南アフリカなどで見られた真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission: TRC)方式である。国家暴力によって、著しい人権侵害を被った被害者たちが、法廷ではなく、公衆の前で被害と加害の事実を明らかにし、加害者を赦し国民和解を目指すという方法は、多くの国で実験された試みだった。

2 過去との和解―在韓被者と日本国家

 今日の和解の新たな地平は、従来、既成の社会秩序のなかの周縁に押しやられ、一元化され匿名化されてきた個々の被害者が、いかにしてそれらの強力な体制を相手に、苦悩を語り償いを得ることができるかという問題と深く関わっている。8月6日の平和宣言のなかの和解の文言を聞きながら、私の脳裏に浮かんだのは、この20年ほど聞き取りをつづけている韓国在住の被爆者のことだった。
 原爆投下時の広島には、朝鮮、中国、東南アジアなど十数カ国出身の人々が存在していた。そのなかの圧倒的多数は朝鮮人であり、その数は、広島の被者総数42万人のなかの一割を超える5万人と推定される。そのうち3万人は被直後に死亡した。残った2万人の生存者のうち、韓国に帰国した人は、1万5千人ほどだと言われる。
日本の被爆者には、1957年「原爆医療法」が制定され医療が無料化された。1968年には「特別措置法」も制定され、健康管理手当てなどの種々の手当て給付システムが整備された。これに対して、韓国在住の被爆者は、自らを被爆者として認識することも困難であり、また原爆に対する誤解や偏見から様々な社会的差別の対象となった。
 こうした被爆者がそもそも日本に来るようになったのは、当然のことながら、日本の朝鮮植民地支配と深く結びついている。たとえば1944年に二陣にわたって広島三菱に強制連行されてきたのは、京畿道平沢郡の貧農小作農たち3千名だった。だが広島の朝鮮人被者の圧倒的多数を占めるのは、慶尚南道陝川郡出身の農民だった。彼らは植民地支配の結果、日本の国策会社や地主に農地をとりあげられ、さらに農作物の供出命令によって生活基盤を破壊され離農を余儀なくされた。こうした人々は、故郷出身の成功者をたよって広島に流れ着いた。陝川から来日する移民の数は、1920年代から30年代にかけて急増した。彼らの多くは、市内のなかでも居住環境が劣悪な川沿いの低地に密集して住み、その結果一族全員が被爆するという惨事が多数発生した。
 こうして広島にたどりつき被爆した人々の多くは、その後の長い長い月日を、日本国家から何の援護も受けることなく、韓国社会の最底辺で苛酷な生を生きることとなった。彼ら彼女らは、今日、もういない。日本国家に強く深い恨の思いを抱いたままこの世を去ったのである。そして彼らと同様の恨の念をもつ数千の被爆者が、今なお、韓国各地で暮らしている。彼らの被った苦しみ、彼らが抱いた苦悩、彼らの恨の思いは、いかにして償われ、癒されるのであろうか。

3 法による救済

 在韓被爆者は、日本国家や徴用した企業が彼らに対して理不尽で不正義な行いをしたと感じている。この理不尽と不正義を糺そうとして、彼らは1967年以降、様々な行動を起こしてきた。その一つの試みとして、彼らは、この問題を日本の裁判所に提訴し、法による救済を求めた。
 この試みは、どのような取り扱いを受けただろうか。その象徴的な事例を、昨年3月に出された広島三菱裁判の一審判決に見ることができる。判決は、彼らの訴えをことごとく斥け、国と三菱の「無実」を断定した。年老いた被爆者が身体を壊しながら来日して語りつづけた膨大な証言について、裁判所は、いっさい事実認定をしなかった。ただ「原告尋問の結果によれば次の通りである」と記述するのみで、それを認定もせず、当然のことながらそれにもとづく判断もしなかった。
 過去の不正義は、いかにして不正義ではなくなったのだろうか。判決は、日本社会が戦後50年以上にわたって築いてきた精妙な無責任システムをあますところなく表現している。まず国家無答責が、判例として確定している。これは、「戦前の国家は天皇の国家であり、天皇は神聖にして犯すべからざるものであるゆえに過ちを犯すことはありえない。したがって天皇の国家も過ちを犯すことはないので、国家の権力作用にともなう賠償責任は発生しない」という単純明快な三段論法によって、天皇制国家を免責したものだ。この国家無答責が、今日の法にしっかりと根付いていて、過去の国家の不正義を「合法的」に無罪放免にしている。
 それだけではない。1965年の「日韓条約」によって、過去の財産や権利などについての請求権問題は相互に放棄することが定められている。「条約は国家間の放棄であって、個人の請求権を国は放棄できない」という正当な主張が出てくることを、国はあらかじめ予想して、「韓国民が日本国に対してもつ債権を消滅させる」ための法律144号を条約締結後、即座に制定して、免責の安全装置を強化している。それでおわりではない。時効・除斥制度も、「不正義」の強い味方だ。強制労働や賃金未払いについて、たとえ三菱に民法上の過ちがあったとしても、それらは1年または10年間の時効期限によって、主張の権利を法律のうえでは失っていることになるからだ。こうして幾重にもはりめぐらされた「免責」の安全装置によって、法による救済という選択は、事実上、無効化されてしまったのである。

4 法―外の救済

 そこまで鉄壁に防御された過去に対して、過去の犠牲者はいかなる手だてを講じて、苦悩を訴え償いと癒しを得ることができるのだろうか。
 この事実が想起させるのは、社会の秩序は、必ずしも法的回路を通して平準化され統合されるだけでなく、まったく別個の回路をもつ社会的規範によっても維持・再生産されるということだ。つまり日常世界内部や非日常的な状況のなかで、法がカバーしたり、対象化できる領域はきわめて限定されていたのである。国家が過去に行った不正義の償いという「難題」に限らず、交通事故処理や遺産相続といった領域においてさえも、法律言語は日常の想像力のらち外でしか流通していない。そのことは、法廷という空間の権力布置をみれば一目瞭然であろう。そこではまず論理一貫性をもった文字世界が圧倒的な価値を有している。口頭で語られる感情的表現や、ときに首尾一貫性を欠き相互矛盾を内包しているようなメッセージは、法廷空間では周縁化され排斥される。だからこそ70代の老被爆者が涙ながらに切々と語った日常の苦労や連行の際の欺瞞や甘言は、法廷言語によって、「彼らによればこう語られた」とだけ記されて放置されることになったのである。
 彼らが口頭で被害をいかに詳細に語ろうとも、過去の「客観的真実」として認定されることはない。そこでは文字で記された「書かれたもの」こそが意味を与えられ、しかも文字史料も幾重にも序列化されている。国家の中央機関の公文書を筆頭に、様々な公的文書がそれにつづき、私的な記録もパワーエリートへの親近度にしたがって「信憑性」が輪切りにされる。したがって大日本帝国体制下で周縁化された朝鮮人の、しかもその下層に位置する貧農・小作農の私的な通信や日記などは、最も「信憑性」の薄いものとして見なされる。こうした空間において、「国家が過去に犯した不正義」をただすことは不可能な相談だ。そのうえ、最上級の「信憑性」を与えられる国家の公文書の存在を国家自身が消去してしまうならば、法廷空間に「客観的事実」として「国家の不正義」が登場することはありえない。こうした法廷空間の知の序列化は、歴史学をはじめとする近代科学の知の認識論とオーバーラップしている。これら法廷空間や学問世界からのバックアップがあるからこそ、たとえば「慰安婦制度への国家の関与を証明する公文書はないから、史実として日本国家の責任は問えない」とするまやかしの議論が堂々と成立してきたのである。
 では「国家の不正義」でかつて被害を被った人々には、正義を追求するためにいかなる手段が残されているのだろうか。それは、法廷空間の知の序列と秩序を転倒させてみようとする試みである。論理、文字、首尾一貫性が支配する言説秩序に代わって、苦悩・情動を内に取り入れ、口頭での変異ある(ときに首尾一貫しない)語りが正統な表現方法として認められるような言説空間を構築する必要があるのだ。そこにおいてこそ、「過去の不正義」に起因する現在の苦難は、周縁化されることなく、中心に位置づけられ働きかけの対象となる。
 次に考えねばならないのは、こうした法廷空間の権力布置を転倒させた言説世界が成立する場所についてだ。これには二つの可能性がある。一つは、伝統的な小さな共同体であり、もう一つは、「おかしなことは、いついかなるところで誰がおこなってもおかしい」という素朴な条理が、普遍的な社会規範として定立しているような想像世界である。これら二つの世界においては、被害を被った者が語る被害事実の内容のみならず、その語りと連関する感情や思念をまるごと聞き取り、償いの道を模索する作業が、世界各地で進行している。日常の生活実感や「常識」と連動する、この法―外の「不正義救済」の手だてこそが、和解という営みの母胎となっていったのである。

5 真実和解委員会の実験

 こうした法―外の救済実践としての和解を、もっともよく表しているのが、この20年のあいだにドイツやグァテマラなど世界各地で15以上も誕生した「真実和解委員会」であった。そのなかでもっとも新しいものが、南アフリカの委員会(TRC)である。南アフリカにおける人種隔離・差別は、今世紀初頭から法制化されはじめ、1948年からは国家統治の大原則として、合法的強権的に推進された。
 1994年に全人種が参加する制憲議会選挙によってマンデラ政権が誕生すると、新政権は即座に「国民統一和解法」を制定して、真実和解委員会に「非和解的対立の歴史的和解」のための活動を委託した。TRCは、1960年3月1日から1993年12月5日までの期間に起きた、殺人、誘拐、拷問などの「重大な人権侵害」の「法―外の救済」をはかるために、被害者、加害者からの語りを聞く公聴会を組織しはじめた。その結果、1998年10月の最終報告書作成の時点では、21298件の事例が委員会に持ち込まれた。そしてその大半について、TRCとしての判断をくだし、400名以上を「重大な人権侵害を犯した責任者」として特定した。
 このTRCでは、その内部で三つの委員会が活動していた。一つは各地をまわって各界各層の市民から過去の人権侵害についての記憶を聞く「人権侵害委員会」であり、二つ目は、著しい人権侵害の結果殺されてしまった人の遺族や、心身に重い傷をおった本人に対して、補償とリハビリのための活動をする「補償・復帰委員会」である。
 第三の委員会は、後でもふれる「特赦委員会」である。この委員会は、政治的動機によって他人の「人権を重大に侵害」した場合でも、本人がたとえば命令系統を含めて事実をすべて告白し証拠を提出するなら、刑事訴追をしない保証を与える権限をもっている。
 TRCは、各地のタウンシップで公聴会を組織し、ときに首尾一貫しない口述の歴史を聞き取っていった。それは一方で、マンデラが言うように「新たな価値をもった人権文化」の創造という普遍主義志向の実践であり、他方、TRC幹部や政権エリートの思惑とは別に、それは各地のコミュニティが育んできた慣習的正義の具現でもあった。それが南アのTRCに、予期せぬ可能性を生み出していったのである。このことを次に述べてみよう。

6 語りの力

 南アフリカのTRCが、他地域のTRCと大きく異なっている点、そして法廷を通して正義を実現するプロセスと決定的に異なっている点は、被害者、加害者の生の語りへの注目と全面的肯定という姿勢である。法廷においては、被害者の主観的な思いや感情の発露は重視されないどころか、むしろ逆に排斥されることがふつうだ。
 ところが南アのTRCにおいては、被害者が被害の物語を語る過程こそが決定的に重要であるとする。その考え方は、TRC最終報告書第一部第五章「概念と理念」のなかの「個人的かつ口述された真実」という節に凝集して表明されている。それによると、これまで裁判ではふつうの市民は、自分個人の主観的経験から過去の真実を再構成していくことを認められていなかったため、つねに「沈黙」させられてきた。その声なき人々が、「主観的経験についての語りによって真実を創造する過程」が、TRCなのであり、それを通してこそ社会の和解が達成できるとする。つまり語りは、潜在的に癒しの作用を効果的に発揮すると考えているのである。
 したがってTRCの公聴会においても、できるだけ幅広く語りを記録することが要求された。これまで一貫して公式の記録のなかでは無視され相手にされてこなかった語りが、ここでは意味世界の中心に据えられたのである。そこにおける被害者の口述の語りは、「国家の不正義」と向かい合い人権侵害をただしていこうとする人々の大きな武器となるのである。
南アの判事A.ザッコは、こうした語りが創造する真実に注目して、世界における真実を二つにわけることを提唱する。一つは、顕微鏡型の真実であり、もう一つは対話型の真実である。前者は、法廷空間で支配的であった、客観的で検証可能な事実、文書化され証明されるような事実がみちびきだす真実だ。これに対して後者は、社会的に生成され、相互作用や対話、討論を通じて形成される経験がみちびきだす真実である。前者が支配的な世界では、結果として現前する事実のみが重要であるのに対して、後者を中心にする世界においては、その真実が創造されるプロセスとそれを公衆が認知する経過が最重要とみなされる。なぜならそのプロセスこそが、共同体の癒しと和解をもたらすからである。
 この二つの真実は、広範で深刻な国家暴力による人権侵害に対する二つの対応に、ぴったり照合している。すなわち責任者処罰による正義回復という法と法廷にもとづく対応は、顕微鏡型真実のうえに成立するのに対して、真実和解委員会による癒しと和解の試みは、対話型真実を土台にして初めて可能になるからである。

7 定型化された被害語りの力

 過去の被害の救済を要請しようとするとき、そこには被害の(想像)共同体がすでに出現している。こうした共同体は、被害の語りを定型化して反復していく。たとえばTRCにおいても、個々の被害は、アパルトヘイト体制を打破して新生南アフリカ国家を建設するための礎として、位置づけられた。そのうえで、この犠牲を「南アフリカ人」の創造のための貴重な貢献とする語りを、自分たち自身によって繰り返すことによって定型化していった。
 これと同じことは前述した在韓被者の証言をみても確認できる。そこには当初、個々人の日常的な欲望や願望、それに強制連行―強制労働―被爆という大きな物語からもれおちた個人的思いなどが語り込まれていた。しかしこうした切断され分散した語りは、徐々に、日常微細な差異をそぎ落として、範型化された集合的な語りへと変貌していった。
 たとえば今回の原告たちが、最初に国と三菱に公式な補償を求めたのは、1968年4月にまで遡る。当時結成してまもない韓国原爆被害者援護協会(以下「協会」)には、多くの元三菱徴用工が参加していた。それもそのはずである。広島にあった三菱の二工場は、1943年12月に操業を開始するが、当初から朝鮮からの強制連行者をあてにして建設されたものだった。事実、翌3月から朝鮮人徴用工が続々連行され、その数は3千人にも及んだ。帰国後「協会」結成に参加した彼ら元徴用工は、三菱重工に対して未払い賃金の支払いを要求した。そのとき三菱は「補償の問題は一応全部解決ずみ」と要求を拒絶し、未払い賃金の存在も認めなかった。しかも1948年にそれを法務局に供託した事実さえも、彼らに対して一切明かさなかった。
 1974年、同志会が結成されると同時に、元徴用工たちは国と三菱本社、広島工場に対して精力的な交渉を開始した。強制連行と被爆に対する国家補償、未払い賃金等の損害補償、それに犠牲者の遺骨返還、この三点が彼らの要求の骨子だった。しかし70年代に独力で切り開いた闘いの地平は、80年代の世界規模の右傾の時代になると、沈滞を余儀なくさせられた。彼らが最後の力をふりしぼって、ふたたび訪日を開始するのは90年代に入ってからだ。三菱重工社長への公開質問状、日弁連への人権救済申し立てにつづいて、1991年には同志会のメンバー16人が大挙して訪日し、広島と東京で三菱、外務省と直接交渉の場をもった。ほとんどマスコミにもとりあげられなかったこうした困難で粘り強い闘いのすえ、彼らが得たものは、「日本政府も三菱も何もしてくれない」という恨の思いであり、「相手にもされなかった」という憤りであった。
 そして昨年12月の裁判と今回の二次提訴に至ったのである。強制連行、原爆被害、戦後放置という「三重の被害」の補償を、裁判所がすんなり認めるわけがないことを、彼らはよく知っている。しかし「日本の人々に歴史的な事実を、やり場のない思いを知ってもらいたい」という気持ちが、集団提訴という困難な決断を支えてきた。
 裁判を起こすとなると、原告一人一人の被害事実をまとめなければならない。彼らの戦争の記憶を、フォーマルな書き言葉の歴史に移し換える作業が要求されたのである。
 それ以前に、何度か平澤市内にある同志会の事務所を訪問して、いく人かの元徴用工たちから証言は聞いていた。それによって、大体の経過はわかったつもりでいた。彼らは1944年8月から10月にかけて、ほぼ二陣に分かれて広島へ強制連行された。第一陣は、主として三菱造船所に、第二陣は機械製作所の鋳物工場で働かされた。たとえば第二陣の集合的記憶は以下のようなものだった。

1944年10月頃、村の役人から徴用令書を示され、そのまま連行されて日本人が経営する松本旅館に泊まらされ、 翌日城東普通学校の運動場に集められた。そこには村役人、警察官それに三菱マークの帽子をかぶっている男たちがいて、「給料の半分は家族に送金するから心配するな」と言われた(実際に送金されたケースは一例もなかった)。その後、兵隊が監視する貨車に載せられて釜山へ、そして下関から広島へと連れていかれた。機械製作所での生活も、奴隷労働に近い劣悪なものであった。まず宿泊場所である西寮は、周囲を有刺鉄線に囲まれ監視塔が備え付けられていた。朝鮮人徴用工だけを収容したこの寮の居住スペースは、一人当たりたたみ一畳分しかないかった。工場内にも監視がおり、月二回の休日に外出するときも、小隊長らが見張りについた。家族との通信は厳しい検閲を受け、安否の問い合わせ以外は書くなと言われた。さらに彼らを憤らせたのは、日本人従業員との差別待遇であった。朝鮮人の寮の食事にだけ、腐って異臭のするものがでたときには、暴動寸前までいったことがあった。8月6日朝、就労中に被爆した徴用工は、爆風で吹き飛ばされ負傷したものの、幸い死者は出なかった。被爆後、三菱から何の指示もないまま、徴用工たちは思い思いに、下関に向かい、博多や仙崎から闇船を仕立てて祖国に戻った。


 こうした強制連行の経験は、たしかに彼らの共通の物語であった。ところが、46人の原告一人一人の証言を聞くと、こうした共通の語り以外の部分があることが気になった。たとえば集合場所での訓話の内容、広島駅から三菱までの行き方、工場での監視や通信検閲の程度、被爆時の行動といった場面の記憶は、人によって微妙にずれている。だがこれは考えてみれば当然のことだろう。今から50年以上も昔の出来事を、何のメモや資料もなく、時をおって整然と復元できるとすれば、その方が異常だからだ。しかし書き言葉の歴史は、こうした些末なズレや不整合に不寛容である。
 この書き言葉の歴史にとっては、庶民の口から語られた経験は、歴史史料の価値序列の最下層に位置するもっとも信憑性の低いものとなる。元徴用工の場合も、こういうことがあった。ある老人は、自分は原爆が落とされた8月まで仲間と一緒に三菱で働かされていたと語る。一方、社会保険上の公文書では、彼の保険は5月で打ちきりとされている。こうした場合、老人の記憶が鮮明で、その存在を証言する同僚の語りがいくらあっても、書き言葉の歴史は、彼らの主張は虚偽であって老人は逃亡したと断定してしまう。こうした乱暴な歴史の整序によって、元徴用工たちの個人的な歴史の記憶は表舞台から消されていくのである。
 史料の序列化以外にも、個人的な記憶を消去するもう一つのメカニズムがある。それは、内部から記憶を整合させ統一した物語をつくろうとする力である。強制連行、奴隷労働、差別、弾圧、監視という大きな物語と整合しない小さな個人的経験は、このメカニズムによって物語から一方的に排除されていった。たとえば寮で三度の飯が食べられてうれしかったという、出身農村の貧しさゆえに味わったささやかな喜び、あるいは休日に宮島に遊びにいった楽しい思い出。これらの記憶は、牢獄のような奴隷労働という物語からはズレるために、集団的記憶からは抹殺されることになる。それは酒の席での雑談のネタにはなっても、フォーマルな被抑圧史からは消去される運命にあった。同じ抑圧される側に位置する、個人の戦争の記憶と集団の記憶との乖離がはじまったのである。

8 制度化から脱制度化へ

 こうした乖離に居心地の悪さを感じる人々が、歴史と社会をみる視点の根本的な転換を要求しはじめた。マクロな政治経済への過剰な意味付与から日常微細な生活世界へ、集団的運動から個人の行動へ、あるいはより直截に上から下へと視点を転換することによって、硬直化した近代主義の歴史叙述と社会認識から抜け出せると考えたのである。その限りで彼らの意図はまったく正しかった。ニューヒストリーやカルチュラルスタディーを自称する彼らの試みは、社会科学に限らず様々な社会運動にも新鮮な衝撃を与えたのである。
 定型化された抑圧者や被抑圧者のイメージに胡散臭さを感じていた人々のあいだに、こうした視点は共感をもって受容され浸透していった。この歴史の書き換えの影響をもっともまともに受けたのは、コローニアル・スタディーと呼ばれる植民地の社会・文化研究であった。たとえばヨーロッパ列強によって、1880年代以降一方的に分割され支配されたアフリカ社会においては、従来の一枚岩の支配者/被支配者の構図が批判された。均質化されホモ化された顔のない範疇から、ヘテロ化された多様な個性をもつ人間を見ようとする動きがでてきたのである。
 こうした転換は、日本の被差別者のあいだにも起こっている。彼らは自分たちを一元的に表象する定型的な語りを脱ぎ捨てようとする。貧困と差別に苦吟する民衆、差別に負けずしたたかに生きる女たち、抑圧をはねかえし不屈に闘い抜く人民、といったパターン化されたイメージに教科書的な歴史説明が付属する。こうしたイメージからはずれた個人的な事実は、物語の構成に不都合として背後に隠ぺいされてきた。だが差別者が多様に存在するように、被差別者も多様であり、その個人史は標準化された歴史の枠内に収まりきるものではない。
 新しい歴史叙述の方法は、個人の過去の記憶を、被差別者一般の歴史のなかにむりやり収めることはできないことを教えてくれた。とすると元徴用工の語る相互に微妙にずれた記憶も、そのまま受け入れるべきものなのかもしれない。強制連行、強制労働、被爆、帰国という彼らが共通に経験した戦争は、それぞれの過去の再構成の個人的営みのなかで、多面体として流動的に結像していくものであって、唯一の真実という標準化された言説のなかに取り込んではならないのだ。制度化された集団的な記憶から解放された、脱制度化された個人的な記憶こそが、被抑圧者の歴史の生きた側面だからである。

9 脱制度化の落し穴

 こうして、とるに足らぬ個人の多様で首尾一貫しない過去の語りが、歴史の表面に浮上してきた。それは、固定的で標準化された「近代的」なるものから、柔軟で流動的な「ポスト近代的」なるものへの知の枠組の組み替えに、ぴったりと適合したシフトであった。1980年代以降、これまで本質的人間区分と信じられてきた性、民族、人種、世代といった「自然」な人間分節は、次から次へと脱構築されていった。自他区分が鮮明な固定的範疇にとって代わって、浮遊し遊動する知とか、ハイブリッドでクレオールな境界なき人間分節がさっそうと登場してきたのである。
 そこで話を元三菱徴用工に戻そう。今までの議論から次のような結論が見えてくる。彼らが個人的に再構成した過去の記憶は、たとえそれが首尾一貫せず勇ましい闘いの言葉ではないとしても、集合的記憶によって消去してはならないという結論である。しかしことはそう簡単ではない。彼らは集合的記憶と個人的記憶の関係を、一方がバツで他方がマルというような平板な関係性では捉えてはいないからだ。二つの記憶は、彼らの思いと実践のなかで同時に統合されることなく、そのままの状態で共存しているのである。
 元徴用工たちがもし、画一化された集合的記憶を棄て、「流動的で浮遊する」個人的記憶のみで生きていくとしたら、日本から受けた「厳然たる暴力」に立ち向かうことができただろうか。そこには現実のせめぎあいから遊離してしまう危険性は生じないだろうか。というのは、個人的であれ集合的であれ、彼らの記憶とそこから発せられる叫び声をまるごと消去してしまおうとする装置が、日本社会にはすでに幾重にも作り上げられているからだ。
 第一の消去装置は、国家無答責と別会社論である。これによって、元徴用工の叫び声は日本人の視界からみごとに消去されてしまう。国家無答責については前述の通りである。三菱が持ち出す別会社論もなかなかのものだ。彼らは一方で「三菱百年」「近代日本とともに歩む三菱」を標榜しながら、裁判においては戦前の三菱重工と現在の三菱重工は商法上まったく別の会社であり、戦中の責任は一切関知しないと臆面もなくいってのけた。国と三菱のこの居直りの論理によって、彼らの叫び声の音量は限りなくゼロに近くなる仕組みが出来上がっていたのである。
 それだけではない。万一この消音装置をかいくぐって彼らの叫び声がもれてきたときのために、もう一つの消音装置も用意されている。それが法律144号である。これによって、元徴用工の叫び声はさらに一段と消音されてしまった。しかしこれでもまだ打ち止めではない。この先にはさらに時効というカードが待ち受けているからだ。

10 結び

 元徴用工たちは、一方で個人的な戦争の記憶を雑談として語る。その一方で、範型化された集合的記憶の語りを営々と継承してきた。それはたしかにテキストの反復であるかのようにみえる。しかしこの範型化された語りの反復によってこそ、日本社会に長年にわたって築かれた戦争の記憶の消去装置と正面から対峙することができた。その意味ではパターン化された語りこそは、日本国家に対する異議申し立ての武器だったのである。範型化にこめられた、このやりきれない恨の思いと悲しい憤りを、私たちは痛みをもって聞き取る必要がある。個人的な記憶を一つの集合的記憶へと編集しながら、彼らは日本国家と国策企業の責任を追求してきた。そして、ともすれば被害の集合的記憶を紡ぎだそうとする日本社会に対しても警鐘を鳴らしてきたのである。とするならば、この固定され範型化された集合的記憶は、けっして脱構築されるべきではない。
こうした集合的な被害の語りを共有するフォーラムを通して、切り裂かれた関係性の修復とそのさきにある和解は展望できるのである。
(まつだ もとじ・京都大学大学院文学研究科社会学教授)

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