21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第20回研究会レジュメ

《報告3》

 2006年9月9日(土)
於:京都大学文学部新館

現代の文化的寛容性とマイノリティと倫理

野村 明宏

【要旨】

 文化的多元主義が広範に適用されていくに伴ない、多様な生のスタイルを営むひとびとのあいだで文化的差異が顕在化する機会が増している。「寛容性」について考えることは、そうした状況に直面しているわれわれ自身の切実な現実的課題となっている。

 ただし、寛容の実行には、原理的なアポリアが含まれている。そもそも寛容が「寛容」の名に値するのは、他者の価値観や慣習、信念への理解や共感がまったく不可能であるばかりか、その存在自体を許しがたく感じており、しかも彼らを宗旨替えさせることができれば、本当は当人たちにとっても幸せなはずだと固く信じており、にも関わらず、彼らの生き方をそのまま受け入れ、承認することである。つまり、寛容になり得ない者たちへの寛容が「寛容」というものであり、許し得る者への寛容は「寛容」とはいえないという原理的な実現不可能性をこの概念は内包している。ジョセフ・ラズや渡辺一夫、カール・ポパーらの寛容をめぐる見解や議論を通して確認されることは、少なくともこのような「寛容のパラドクス」の認識だった。

とはいえ、このパラドクスは、寛容の精神やふるまいなど全くあり得ないのだと諦観を促すこ
とになるわけではない。ここで明らかになるのは、寛容性が特定の集団や文化、宗教、あるいは諸個人には内的に所有され得ず、主体的行為として寛容を遂行することも不可能だということである。デュルケム流の知見を敷衍すれば、自らの価値や規範に抵触することへの不寛容は、むしろ集団の凝集性を確認する機会を与えており、寛容の限界はひとつの文化的コードを維持、強化するために必然的に要請されているといえる。要するに、寛容性は、個々の文化には内在できず、文化と文化の〈あいだ〉に備わり、文化間を横断する価値や公共性が要請されるときの社会的状況に寛容の場所があるということである。寛容は、誰も所有できないし、主体的行為によっても作り出せない。

 寛容のパラドクスを以上のように論点整理し、複数の文化間のマルチネットワークのなかで寛容性が生起するのだとすれば、さらなる問いの焦点は、寛容がどのような社会的条件の下であるのかということへ繋げられる。寛容が文化内にあるのであれば、そのコードにしたがって寛容への欲求や意志が構築されるはずだが、文化外に寛容があるということならば、それは主体的行為や意志や信念に基づかれた行為者に任せることは出来ず、われわれの状況を取り巻く外的な誘因をさぐる必要があることになる。

 本報告では、寛容思想の探求ではなく、むしろ文化的寛容の社会的条件や寛容な状況をもたらす外的誘因をさぐることの必要性の提示を主眼とした。また、このような社会学的考察が示唆するところはつぎの論点も含まれる。すなわち、現実に寛容が生起している場合、近代の知の枠組みが前提としてきた主体や主体的行為を超えるかたちでの行為の様態があり、他者との関係が動的に組み替えられ拡張しネットワーク化していることにも言及できるのである。
(のむら あきひろ・四国学院大学社会学部助教授)

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