2003年4月26日(土)
於:京都大学文学部新館
在日コリアン文化の公共化
――「祭り」を中心に――
飯田剛史(富山大学経済学部)
日本の大衆文化(歌謡、映画、スポーツなど)において、多くの在日のスターが日本名を名乗って活躍して来たことは良く知られている。近年は、文学、芸術、学術などの領域でも優れた人々が輩出しており、そこでは民族出自を明らかにし本名を名乗ることが普通になって来た。
しかし「文化」は何か特別の才能によって生み出されるものとは限らない。むしろ「普通の」在日コリアンが日常生活と関わる領域においても多様な文化創造が行われているのである。私はこれまで在日の宗教・祭りについて調査を続けてきたので、ここで在日の文化創造の事例として「祭り」をとりあげ、在日文化の顕在化、公共化の過程を示し、日本社会における文化的多元化、「寛容化」の問題を考えたい。
政治史の認識は不可欠の条件であるが、在日コリアンを歴史の受動的被害者として画一的にとらえる「政治主義アプローチ」は採らず、むしろ生活形成者、文化創造者としての生き方を明らかにしたい。
政治史および社会学的構造‐機能的分析を前提にして、自己組織性論の視角から多様な生活、文化の形成、創造の過程を捕らえる。構造-機能分析は集団概要の把握に有効であるが、静態性という限界性を持っている。自己組織性論は、構造-機能論を補う観点として極めて有効であると考えられる。なぜなら今日の在日社会は、不完全、不均衡な構造条件のなかで、多様な人間的選択と社会的自己組織化の試みが実践されつつあるからである。一般の日本人にとって「慣習」的で「自明」な行為が、在日コリアンにおいては戸惑いと躊躇を伴う選択、決断として行われることが多い。構造的矛盾・不条理状況のなかでの意味解釈と自己決定の経験が、今日の在日のエネルギッシュな文化創造につながるといえるのではないだろうか。
政治領域 | 外国人登録法化の管理体制、「民団」・「総連」の対立体制 在日固有の共通政治目標設定しえず。 反差別運動(就職、入居、指紋押捺など) |
経済領域 |
底辺あるいは闇市からの出発、就職差別(ホワイトカラーからの排除)による職業特化・自営業(焼肉、飲食、風俗、パチンコ、ヘップサンダル、ケミカルシューズ、カバン、部品製造、土木建設など)、経済生活基盤の確立・一部富裕化 |
結合領域 | 公式組織よりネットワーク(同郷、親族、宗教など)に比重 |
文化領域 |
生活文化の同化・均質化の進行。戦後大衆文化と在日のスター達。民族文化運動の形成(言語、本名、農楽、宗教、祭り、など) |
これを社会システム論の枠組みで見ると、経済領域を別として、政治、結合、文化それぞれの領域で機能要件を十分に満たしていないことが指摘できる。すなわち経済領域では在日コリアンは今日一定の地歩を獲得し民族系金融機関や商工会への結合が見られるが、政治領域では「民団」、「総連」の影響力の限界から共通目標の設定・達成機能は不十分であり、結合領域では互いに閉鎖的な血縁・地縁の比重が大きく全体的な統合を欠き、文化領域でもアイデンティティおよび民族教育、宗教、祭りなどへの関心の多様性・拡散性が顕著である。
このように在日社会構造は、均衡・安定というより、分裂・矛盾の要因を基本的に抱えつつ、差別による民族境界とネットワ−ク関係によってかろうじて同一性を維持しているといってもよい。
このような状況のなかで80年代後半から90年代にかけて、つぎのような変動がみられる。そこには危機的要素も含まれる。
経 済 | 経済的地位の向上と危機 |
政 治 | 日本内の南北対立やや緩和、差別撤廃、人権獲得運動 |
社会統合 | 市民的連帯(少数性の壁) |
文 化 |
大衆文化・スポーツに続き、文学、芸術、学問領域での在日の輩出。 |
80年代に始まった在日の代表的な「祭り」として「生野民族文化祭」、「ワンコリア・フェスティバル」、「四天王寺ワッソ」をとりあげたい。これらの内容は全く異なるものであるにも関わらず共通の特質をもっている。すなわち少数の個人やグループの発意によって始められ、それぞれ独自のしかたで「民族」を象徴的に表現し、やがてヴォランティアによる大きな広がりを獲得し、今日も流動の過程にある点である。これらの「祭り」の共通テーマは「民族」である。「民族」はここではある宗教性、すなわち「聖」なる特性を付与された象徴的実在と考えることができる。
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生野民族文化祭 | ワンコリア・フェスティバル | 四天王寺ワッソ |
開始年 | 1983年 | 1985年 | 1990年 |
参加者 | 生野区の在日コリアン | 在日のプロ、セミプロの芸能関係者 | 在日実業家 日本文化人、政治・経済団体 |
場所 | 生野区内、校庭 | 大阪城野外音楽堂 | 四天王寺、谷町筋 |
内容 | 農楽パレード 民族舞踊、劇、遊戯 |
ジャズ・ブルース・舞踏・演劇・映画 |
朝鮮使節・渡来人のパレード |
メッセージ | 在日若年世代への「民族文化」による連帯意識、アイデンティティの呼びかけ | 在日若者へのポピュラー文化 による、「ハナ」(統一)の呼びかけ | 日本人、在日に、歴史的な朝鮮文化の日本文化への寄与 大阪文化のアジア性 |
共通性 |
非宗教性(世俗性)/創造性・80年代に始まる/在日人権運動の時期 |
その他の祭り
*ウリマダン(福岡市、1990年 3月から)
*長田マダン(神戸市、1990年から)
*芦屋マダン(芦屋市、1991年から、日本人、インド人、華僑、アメリカ人も参加)
*東九条マダン(京都; 1993年より。地域におけるマイノリティを含む住民の共生)
など。
1)「生野民族文化祭」は、第1回が1983年大阪市生野区で公立学校の校庭を借りて、農楽や伝統遊戯などを中心に催される。ここではいくつかの「民族的伝統文化」が選び直され、再創造される。若い世代にとって「民族文化」はもはや生得的なものでも自明なものでもなく、自覚的に求め、選び、学ぶべきものとなっている。そしてこの自覚的選択と複数グループの参加によって、「祭り」のありかたは多様な創造的展開の可能性をもちうるのである。
この祭りの特質は、ホスト文化への対抗性が強く、参加資格は、韓国、朝鮮籍者に限られている。差別されてきた者の、カミングアウト、自己表現の意図がこめられているからである。この祭りは、全国の在日集住地域の若者たちに影響を与え、福岡、神戸、芦屋、京都などでも、それぞれ特色をもつ「マダン」とよばれる祭りが行われるようになった。
生野民族文化祭は、2002年に20回を期して終了した。理由として「続けていくことの疲れ」「すでに意義を果した」などが語られている。
2)「ワンコリア・フェスティバル」は、第1回が1985年に始まった。野外音楽堂でさまざまな分野の在日のミュージシャンや芸術家がパフォーマンスを繰り広げるもので、日本人も参加し、韓国、北朝鮮、中国延辺朝鮮族自治区、アメリカ合衆国からも参加団体がある。目的は、南北対立を越えた「ワンコリア」の意識を、祭りを通して形成しようとするものである。
3)「四天王寺ワッソ」は、1990年に第1回。古代朝鮮から多くの渡来人が高度の文化をもって来日したことを、約3000人のパレードと四天王寺での聖徳太子による出迎えの儀式によって表現するものである。これは関西興銀(在日社会最大の金融機関)理事長の発意と、日本人歴史学者(上田正昭氏ら)の計画・考証によってプロデュースされた。しかし2001年度以降は、スポンサーである関西興銀の経営破綻により中止となったが、復活の努力が続けられている。
これらの「祭り」は、在日コリアンの新しい文化を、公共の場で表現し創造する運動であり、マスコミがしばしば取り上げ、大阪のユニークな祭りとして幅広く認知されるようになってきた。日本人と在日コリアン双方の意識を変革するはたらきをもつといえるだろう。
民族音楽や舞踊は、サークルや教室あるいは民族系学校で教えられるようになり、その中からそれを専門的に習得するために韓国に留学し、日本に戻ってその教師になる人も現れた。そしてこの運動は次の発展段階に達する。すなわちこのようなさまざまな「民族文化」運動の成長の過程で、それらが一つの総合化された形態をもつに至るのである。
生野民族文化祭は、一定のリーダーシップのもとに、「民族文化」の個々の要素を統合し、さまざまなグループを連結することによって構成されている。その意味で、これは民族文化運動のより高次の段階を画するものであった。
民族文化祭は、種々の民族文化運動を新たに総合ないし編集する試みであり、それは目的と動員しうる文化要素により多様な形をとることができる。それは「差異化の運動が協力しあって、既存の意味(差異)体系に割り込み、みずからの居場所を確保するような自己組織化の運動」[今田 一九九四 一七頁]にほかならないといえる。生野民族文化祭では、「発明された伝統民族文化」の諸要素が採用されている。
その目的は、在日コリアンの間に民族的アイデンティティと南北対立を越えた共通の民族的連帯意識を創り出すことである。そこには日本文化ないし日本人への対抗性の要因が含まれている。日本人は見物はできても、出演することはできない。この対抗性を通して、民族としての共同性がアピールされる。
しかし、京都で行われる「東九条マダン」は、日本人ないし日本文化への対抗性よりもそれとの共生や被差別者を含むさまざまな地域住民の連帯というテーマが掲げられており、日本人も企画・運営・出演者として参加している。ここでの主テーマは「民族」よりもむしろ「共生」にある。生野民族文化祭の影響は大きいが、その発展形態は多様な方向をとりうることを示している。
ワン・コリア・フェスティバルでは、現代日本のさまざまな文化ジャンルにおけるプロないしセミプロの出演者のパフォーマンスを中心に、在日コリアンによる「伝統民族文化」、本国や在中国(延辺朝鮮族自治区)のコリアンの芸能文化を集めることに主眼が置かれている。その目的は、生野民族文化祭との共通点である南北の民族的連帯に加えて、全世界の汎コリアン的な連帯をも志向するものである。ここではコリアンと日本人の仲間も加えたジャンルを問わない(「民族文化」にこだわらない)文化的創造性を主眼に置いているので、日本文化との対抗性の要因は相対的に稀薄である。
四天王寺ワッソでは、古代朝鮮からの渡来人の文化が日本文化のルーツであることを大部分が日本人である大阪住民にアピールしようとする。目的は、在日コリアンの社会的地位の向上、日本人とコリアンとの親和意識の形成および大阪の新たなオリエンテーションの提示である。ここでも日本との対抗性よりも「理解」「共生」のモチーフが重視されている。
実行委員長鄭甲寿氏は、在日学生運動に加わっていたがその政治主義に疑問を感じていたところ、生野民族文化祭の発足に参加し、「祭り」を通した「ワンコリア」運動の有効性に気がついた。ジャンルを広げ、南北、国籍を問わず多くの若者の参加を求めたい、という。町工場を経営していた家族の支援により「祭り専従」として活動している。2002年には大阪市も協賛団体に加わった。
これらの「祭り」は何らかの意味で「民族」を主題化している。そして「民族」は象徴として表現されることを通してのみ実在化する。すなわち、それは「象徴的実在」である。「民族」という社会的カテゴリーは、没主観的に経験的事実として存在するのではなく、象徴作用を通して、主体的に構成され意味づけられてはじめて人々の中に実在化するものである。
これらの「祭り」において象徴としての「民族」は、聖性と曖昧性を帯びている。
これら三つの「祭り」は、特定の宗教の枠内にあるものではない。これら「祭り」の中の「聖なるもの」は、宗教の領域を越え出て、「民族」を直接に聖化する機能をはたしている。
「祭り」において聖化された「民族」の共通体験は、その場に一つの連帯感をかもし出す。そして「祭り」に毎年参加するメンバーの間には、確かに持続的なネットワーキングという形での連帯が形成されてきた。またこれに刺激を受けて、別な地域であるいは別なグループで民族文化活動が展開される場合にも、ネットワーキングの拡大をみることができる。
しかし、それがただちに参加者と観衆全員を結ぶ確固とした社会連帯につながるわけではない。多くの観衆にとってはこの連帯感はつかの間のもので、「祭り」が終われば霧のように消えてしまう。それは「祭り」のリアリティを支える、組織化された集団あるいは地域集団が存在しないからである。
「祭り」がただちに在日コリアンの広範囲な社会連帯につながりにくいもう一つの理由は、そこでの「民族」象徴が曖昧なものにとどまっていることである。それはまず、これらの「祭り」において「民族」象徴そのものの表現形式が不定形で、宗教の場合のように、「聖なるもの」の象徴が、神像や仏像その他の図像のような共通に認識された形式で確定されていないことである。「在日」の場合、現在、自らの存在および「祖国」について共通に合意しうる呼称も旗印ももち得ないことがその大きな制約となっている。さらに「民族」が聖なる象徴であるという命題は、当事者たちによってそう表明されているのではなく、標語や呼びかけ、趣旨説明文の中で「民族」という言葉がキーワードないし主テーマとして用いられていることから、筆者が観察者の視点から、そのコンセプトを「聖なる象徴」と解釈したものである。また「民族」象徴の指示対象のイメージもごく曖昧である。「南北在日の連帯」あるいは「世界のワン・コリア」といっても、具体的な政治的プログラムに基づいているわけではない。それらは漠然とイメージされるユートピアでしかない。現在の政治状勢では、具体的な「統一」案はただちに対立と反目を生み出す原因にしかならないので、逆に「ワン・コリア」「統一」が漠然としたユートピアにとどまるがゆえに、多くの人の参加が可能になっているともいえるのである。
したがって、政治次元で今のところ、これらの「祭り」が、南北在日の統一という政治機能をもつとはいえない。
在日社会における文化機能に関してここでいえることは、生野民族文化祭の場合、一定の範囲で新たな民族意識を生み出していることである。
参加メンバーだけではなくより多くの観衆が、「祭り」を通して、民族イメージ、民族的自己意識がネガティヴなものからポジティヴなものに転換する経験をもった。極彩色で力強いリズムをもつ新しい「民族文化」を経験することによって、貧困や屈辱と結びついていた自民族のイメージを逆転させることができたのである。これらの祭りの経験を通して、多くの在日の若者が、共通の「民族」体験をもち、新たな民族的自己意識をもつようになったといえるだろう。
在日コリアンの祭りは、文化次元では、「在日文化」の日本社会での顕在化、公共化という大きな機能を果しているといえる。
これまで在日の宗教文化は、主として儒教式祖先祭祀や巫俗儀礼などのように私的で内輪の場で行われるものに限られてきたので、一般の日本人の目にはほとんどふれなかった。
しかし、民族祭が創り出され、そこに民族名のアーティストたちが登場し、それがマスコミで報道されることによって、「在日文化」の日本社会でのありかたに一つの確かな変化が起こってきたといえる。このことは近年、一般のマス・メディアにおいても民族名を名乗るミュージシャン、俳優、作家、研究者などの活躍が注目されるようになってきたこととも連動している。
これらの祭りは、テレビのニュースではほぼ定例的取り上げられ、またいくつかの特集番組で紹介されるようになった。テレビなどマスコミを通して、これらの人々の活動は、今日の日本文化の中のユニークで魅力ある領域として広く承認され、さらに最もエネルギッシュで創造的なセクションとさえ評価されてきているのである。
「祭り」は、このような文化創造の機能を通して、日本社会への在日の積極的参加と社会的地位向上に一定の役割を果たしているということができよう。
このような「祭り」が現れた背景として、八〇年代における在日の様々な反差別人権運動の展開が挙げられる。
80年代以降のマイノリティ側からの様々な運動は、日本人の市民運動グループによっても支援され、指紋押捺撤廃運動は、マスコミの支持するところともなった。
「在日コリアン」のみならず、諸外国からの「ニューカマー」が増え、今日の日本社会の課題として「文化的多元化」、「共生社会」が語られるようになってきた。上の祭りには、日本の行政、教育団体なども協賛、後援に名を連ねるようになってきた。このように「在日文化」は、現代日本の多元的文化展開の一領域として「公共化」して来ているといえよう。これは、日本社会の少数者への文化的「寛容性」の拡大ということもできるかもしれない。
しかし一方で同時に、日本人の自民族中心的・排外的傾向も強まってきている。
今後は、この合い反する二つの動きが、交錯しつつ展開していくことが予想される。
飯田剛史 2002 『在日コリアンの宗教と祭り――民族と宗教の社会学』、世界思想社
今田高俊 1986 『自己組織性――社会理論の復活』、創文社
上田正昭 1997 「四天王寺ワッソと難波の再生」、同『東アジアと海上の道――古代史の視座』、明石書店
小川伸彦 2003 「民族まつりへのアプローチ――京都・東九条マダン研究序説」、『在日コリアンのネットワークと宗教文化』(科研費報告書、近刊)
後記:報告後の質疑で次の点が検討された。
*「公共化」と行政の関わり
*「公共化」と在日の文化的均質化
*宗教的・政治的「寛容」と文化的「寛容」
*メディアとしての「祭り」とマスコミの役割
*方法論−構造・機能分析と自己組織性
21世紀COEプログラム
京都大学大学院文学研究科
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「多元的世界における寛容性についての研究」研究会
tolerance-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp