21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第4回研究会レジュメ

《報告1》

 2003年6月28日(土)

於:京都大学文学部新館

多元主義における「寛容」概念の明確化の試み

――村上陽一郎における機能的概念としての「寛容」――

今井 尚生(西南学院大学文学部助教授)

【要旨】

1.「寛容」概念の問題点

 「寛容」という概念は、社会における規範からの逸脱に対する態度・行為を特徴付ける述語として用いられるものと理解される。逸脱に対する規制が強ければ不寛容、弱ければ寛容とされる。これが、寛容を一つの徳として捉える仕方であると考えられる。しかし、このような寛容の規定には一つの問題がある。というのは、「寛容」が一つの徳であるとすれば、寛容であることが善しとされるが、果たして全ての価値を受容することが社会において許されるものか、もしそうであるとするならば社会秩序は維持されるかという問題が生ずるからである。例えば、常識的に考えれば、個人の宗教的信条に関しては自由を認める、寛容であることが善いと考えられるが、麻薬を常用することに対しては寛容であることが必ずしも善いとは言えないであろう。このように、もし寛容であることが常に善いということでないとすれば、「寛容」概念は価値観の衝突という場面における問題の解決に対して、何らの指針をも与えないことになる。即ち、「寛容」概念は、両者の価値判断の違いを調停する役割を果たし得ないことになる。
 村上陽一郎はこの問題を、異文化理解の事柄として考えている。文化人類学の理解によれば、ある行為に関する価値判断や意味を理解するのには、その行為の行われた文脈、この行為が位置づけられているところの文化の中においてこそ、この行為に関する正しい価値判断や意味づけが理解される。このことを無視して、異文化において行われた行為を、自らの文化の中に引き寄せてその意味を解釈し、その価値を判断することは慎まなければならない。このことは異文化を理解する際に我々が注意すべき重要な点として、文化人類学の教えるところである。
 しかし、この考えを厳密に推し進めるとどうなるのか。もし我々が異文化における行為を理解しようとするなら、その文化の価値体系などを完全に習得しなければならない。勿論そのことが異文化理解の最終的な目標であるのかもしれないが、もし異文化の価値体系を完全に習得した後に、その行為を習得した枠に位置づけて理解し判断するとすれば、それはもはや異文化の理解ではなくなってしまう。それはあくまでも、自らの文化におけるある行為の理解にほかならない。とすれば、異文化理解はどのように成立するのか、異なる文化における異なる価値観の相互理解はどのようにして可能となるのか。互いに矛盾する価値相互の調停の場はどこに開けるのであろうか。

2.機能的概念としての「寛容」

 では、互いに異なる価値観の対立の場面において、「寛容」ということがある役割を果たすとしたら、それはどのような場合であろうか。この問いに対して、村上陽一郎は、「寛容」をある価値体系における道徳的価値の一つと考えるのではなく、人間のもつ機能的概念として規定する。
 即ち、二つの価値体系の間を相互に往来することのできる機能を人間に認めるということである。人間はあくまである価値体系に帰属するローカル者でありながら、緩やかに他の価値体系に動くことができる機能を有しているということである。換言すれば、それは人間が、複数のペルソナ間を往来する中で、他者を理解し価値判断を下すというダイナミズムの機能を有するということであって、このようなダイナミズムを静的に把握した場合、それを「寛容」ということができると、村上陽一郎は考える。したがってそれは、ある価値体系における道徳的な一つの価値ではなく、機能的概念として規定されているのである。

3.普遍主義と多元主義

 村上陽一郎は、多元主義の成立の事情を次のように理解する。ある一つの文化(価値体系)が、自らの価値を他の文化にも普遍的に適応しようとした場合、潜在的に存在していた価値の違いが明確になり、普遍化に対する反発として多元主義が主張される。即ち、普遍化されるべき価値に対抗する別の価値の存在が主張される。したがって、多元主義は普遍主義の対抗として、個々の文化の等価性を主張するものとして生じてくる。ここに、普遍主義と多元主義との対立が生まれる。しかし、互いに相容れない主張である、普遍主義と多元主義は調停不能となる。というのは、一つの価値体系(それが既に存在しているか否かは別として)が普遍的なものとして存在するという主張と、個々の価値体系が等価であるという主張は矛盾するからである。
 そこで村上陽一郎は、このような普遍主義と多元主義との葛藤の場面において、言わばそのメタレヴェルとして、相対主義を規定し、そこに「寛容」を位置づけようとしているのである。勿論、彼の規定する「寛容」概念が複数の価値体系を緩やかに動くことのできる機能的概念である以上、「寛容」ということは、それら諸価値相互の判断を下す際の、判断基準になる訳ではない。即ち、「寛容」は問題解決の唯一の道を示すものではなく、問題処理の手続きに関わる概念なのである。「寛容」の示す方法論的処方箋は、絶対的な「唯一解を求めない」ことであり、「より摩擦の少ない解を求める」ということである。

3.まとめと問題

 以上のことを元にすると、互いに異なる価値体系を有するもの同士が、ともに生きるために新たな価値を創造してゆこうとする営みを機能的に支えているのが、「寛容」と規定できるのではないだろうか。
 村上陽一郎は、機能的概念として「寛容」を規定したが、現実問題としてはコミュニケーションが成立し、問題処理が比較的上首尾に行く場合と、そうでない場合とがある。それ故、「寛容」が異なる価値体系間の問題処理を機能的に保証する概念であるとしても、そこには尚、コミュニケーションや他者理解に関する、「能力」や「技術」の差があると考えられないだろうか。もしそうであるとするならば、そのような能力や技術の多少によって、寛容さの度合いを測る見方へと繋がるようにも思える。その場合は、「寛容」は徳の一つであるのか否か、という問題を改めて問わねばならないかもしれない。

[参考文献]

村上陽一郎 1994『文明のなかの科学』、青土社。


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