21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第5回研究会レジュメ

《報告1》

 2003年9月20日(土)
於:京都大学文学部新館

不気味さの論理
――オウム真理教と地域社会――

野中 亮(大阪樟蔭女子大学人間科学部専任講師)


※この報告で使用した調査資料は、熊本大学教養部現代社会研究会に端を発する甲南女子大学芦田徹郎氏主催の研究会が長年にわたって蓄積してきた資料[芦田, 1999]によっています。報告者は波野村の調査には参加していませんが、この資料に従って事例を紹介し、考察を加えます。



1.「不気味さ」と寛容性

「不気味さ」の原因:相手に対する理解や知識の欠如[フロイト, 1969]


(1)寛容性の諸側面

強者が弱者に示す「度量の広さ」
弱者の「適応」(現状の合理化や追認、あきらめに近いもの)
公平性(感情的齟齬や利害対立の調整、「痛み分け」)

 自由意志に基づく場合となんらかの規制や強制力(社会的資源の多寡、法、市民道徳)が作用する場合がある。これらを仮に「積極的寛容」と「消極的寛容」とに区別しておく。
 少々強引ではあるが、「不気味さ」を、こうした「消極的寛容」あるいは単純に「非寛容」の合理的根拠が自覚できない場合の反応としておく。「消極的寛容」であれ「非寛容」であれ、「不気味さ」の根元には、合理的な解釈枠組みや相手への理解・知識の欠如があると思われる。したがって、ここでは仮に「不気味さ」を以下のようにとらえておきたい。

「不気味さ」=相互理解を求めない「非寛容」の表出形態の一種、あるいは相互理解を欠いた無自覚な「消極的寛容」の表出の一種[1]。それを感じている本人にとっては「非寛容」の動機となりうる。

(2)波野・上九のケースの特徴

波野の特徴:特に初期の「恐怖」に基づいた根拠のないパニック。また、最後まで自分たちの行動を外部に対して説明する論理を持ちえなかった。

上九の特徴:オウムに関するある程度の知見を当初から持っており、パニックは発生していない。また、排斥運動の合理的根拠を持ち合わせているにもかかわらず、その効果が現れなかった。

 両地域での出来事の過程を追い、このような違いがどのようにして生じたのかを探る。また、事例の特徴から「寛容性」ではなく、「非寛容性」について議論を展開したい。その際、(1)定住・住民票問題、(2)相互理解への欲求の有無を「非寛容性」の指標として用い、それぞれの地域における特徴を考察する。



2. 熊本県波野村の事例

 波野村のオウム対策をめぐる出来事のあらましは別紙資料1のとおりである。おおまかに分類すれば、(1)初期対応の時期(90年8月まで)、(2)裁判闘争を含む全村一致での反対運動展開の時期(91年頃まで)、(3)村内分裂?「買い取り」にむけた運動の終焉の時期(オウム撤退まで)、以上4期に分類できよう。ここでは、特に90年8月12日の村民とオウムの衝突に象徴されるような、住民運動の高揚にいたるまでの経緯((1)?(2)の時期)について考えてみたい。
 89年にサンデー毎日による糾弾キャンペーンが行われたものの、波野村にオウムが進出してきた時期においては、まだ「オウム真理教」の名前は世間の大半の人々にとっては無名に等しい教団であった。そうした「無名の新興宗教」が人口1,800人程度(当時)の山村に進出してきたのが騒動の発端である。当然、村の人々のオウムに関する知識はゼロに等しい状況であった。最初の「オウム情報」は警察から役場へもたらされたものである。とはいえ、その「情報」とは、「サンデー毎日のコピー」と「今の段階では警察は何もできないので、行政指導で何とかした方がいい」というメモであったという(1990年5月30日のインタビュー)。
 人口2,000人足らずの村であるから、村幹部の知り得た情報はすぐさま村民に流布する。当時の状況を知る人々の話からすると、「みょうな」「おそろしい」「悪い」あたりがキーワードであろうか、最初はかなり漠然とした不安が広がったようである。その後、件の雑誌のコピーなどが回覧されたようであるが、いずれにせよ、オウムの犯罪行為はまだ「疑惑」の段階にとどまっていた時期であり、なにより波野村で具体的な問題が起こっていたわけではないので、村民にとっての「オウム像」はいわば「借り物」でしかなかったのである。
 しかし、このことはこの後の波野の動きを見ていくにあたって、あんがい重要な意味を持つ。なぜなら、結局オウムは波野になんら「実害」を与えないままに和解金を受け取って村を出て行ってしまうからである。いわば村の人々はオウムの「幻影的な恐怖」[芦田, 1999:169]に悩まされたのだといってよい。
 波野でオウム排斥運動が始まった当時の様子を取材した新聞記者は、その頃の様子を「理由なき反抗」であったと語っている。というのも、当の村民たちも「何が怖いのかわからない」状態だったからである。彼は、当時の村内の状況を「何か変な感じだった」ともいっている(1990年9月28日のインタビュー)。
 また、村民のなかには、実際にオウム関係者と会ったときに意外と礼儀正しい彼らの様子をみて、「言われているような人達ではない」という感想をもった人もいた(1993年5月30日のインタビュー)が、こういう人はむしろ例外だといってもよいかもしれない。なぜなら、村民の不安を合理化するような「うわさ」が大量に流布し始めたからである。
 もちろん、「村を乗っ取られる」というような現実味のある恐怖もあったようだが、村民によって実際の被害とされているものはかなり頼りない。観念的、あるいはうわさの域を出ないものが多く、また、そういう話ほど急速にかつ広範に村外にまで浸透していったのである[資料2参照]。'90年9月段階での聞き取りによると、「村への被害」として以下のものがあげられていた。

(1)(農家の)奥さんが、今までは1人で畑仕事に行っていたのに、オウム真理教の見張りがいるから、1人では行けなくなった。
(2)子供が誘拐されるのではないかという危惧から、父兄が同伴して子供を学校に送るとか、クラブ活動が短縮されたなど。
(3)物を壊されたりはしていないが、その心配はある。

 また、村のイメージダウンについても語られていた。たとえば、その一例として、「お嫁さんのきてがなくなる」ということがまことしやかに語られていた。これは実は新聞にも掲載された話である。当時の「守る会」の代表に「実際に縁談が壊れた例がありますか?」とたずねると、「それだけが理由ではないかもしれないが、少なくとも、そういう理由を向こうの(断った側の)親が表明したという話は聞いている」というこたえがかえってきた。
 他のイメージダウンの心配として、次のようなものもあった。それは、オウムが村にやってきたので、「よい先生がやってこなくなるかもしれない」というものである。「守る会」の弁によれば、毎年、波野にくる先生はいい人ばかりらしいが、「オウム真理教が進出してきたことで『余計に子供の心配をしなければならなくなった』から、先生達はそういう、余計に心配しなければならない所へわざわざ行きたくないと思うに違いない」ということである
 村がイメージダウンをとりわけ心配するのには、じつは、理由がある。当時、波野村は、「神楽」を中心に村の売り出しをはかっていた。そこにオウムがくると、イメージがわるくなり、観光客がこなくなるという危惧があった。オウムの土地購入は判明してすぐに開かれた村議会全員協議会の席で、楢木野村長(当時)が、「神楽の里で村おこしを進めている折に、宗教団体では何のメリットもない」と語ったことが、報道されている。
 また、村民たちが、「村とオウムは、相互にあいいれない」と考えていたことも、確かである。ふたたび楢木野氏のことばをかりれば、「神楽は神秘的/オウム真理教は新しいもの」とか、「波野村は純朴・自然が綺麗。オウム真理教はキタナイ、車に乗って遊んでさるく(熊本弁:遊んでまわる)」という対比がなされていた。これは、自分たちが持っている村のイメージと、オウムのイメージとが、「対極のもの」として語られる例である。
 要するに、波野村においては、現実的な被害は発生していないにもかかわらず、信者とのもみ合いで機動隊が出動したり、行政が法的根拠のない住民票不受理などの対応をとったり、ついには9億2,000万円というにわかには信じられない金額の「公金」を支出するはめになったり、という今からみれば笑い話にさえならないような対応をとっていたのである。


3. 山梨県上九一色村の事例

 上九一色村のオウム対策をめぐる出来事のあらましは別紙資料3のとおりである。波野村と比較した場合の上九一色村の反応の特徴は、(1)「実害」の存在、(2)質量共にオウム情報が豊富であること、(3)地域住民と村・県行政の乖離などがあげられる。
 (2)のオウム情報に関しては、少なくともマスメディアから取得しうる情報が波野村と上九一色村との間で大きく違うということは考えられない。しかし、自らの経験に基づくオウム理解・知識については相当な開きがあると考えられる。なぜなら、後述するように上九一色村の住民は実体的な被害を被っていたため、波野のように「幻影的な恐怖」のみに踊らされることは少なかったはずからである。
 まずは上九一色村住民が具体的にどのような被害にあっていたのかをみていこう。波野村のオウム施設が山中の人気のないところにあったのに対し、上九一色村では富士ヶ嶺(ふじがね)地区という戦後の入植地に集中して大型の教団施設が10棟以上、しかも村民の住宅のすぐそばに建築されていたのである。したがって、富士ヶ嶺地区の住民は、日常生活のいたるところでオウム信者と接触し、トラブルも経験していた。
 上九一色村の住民が訴えるオウム被害の典型的な例が次に紹介するインタビュー(1997年8月24日)である。第2サティアン[2]の工事が始まったときの様子を、道路を挟んだ向かいの住民は次のように語ってくれた。

 「最初は、薄汚い格好していたやつらがいきなりきて、プレハブと周りにトタンの高い壁をはりめぐらせた。冬なのに下着一枚、足は草履という格好。そんな奴らが朝も夜も、夜も電気をつけてやっている。それから、20〜30人の人がきた。風呂も入ってないような格好。「こんにちは」とこっちが挨拶しても知らん顔。パワーショベルや、岩盤を砕くブレーカーが真夜中の2時、3時まで。ガラス棚が振動して。夜になっても、ずっと工事をしていた。で、パトカーを呼んでも、30分くらいおとなしくしてから、またすぐ工事をはじめる。とにかく、寝てなんかいられなかった。
 警察へ連絡したが、警察は注意しかできない。注意されても、またすぐに工事をはじめる。また、ゴミをしょっちゅう焼いていて、その煙がひどい。牛舎のなかに煙がたちこめて。オウムにいうと、オウム側は「それは霧でしょう」なんてことをいう。消防車も2回くらいきたかなあ。煙があんまりひどかったので、近所の誰かかが連絡したんでしょうね。あと、スピーカーで外に向かってマントラを流す。流しっぱなし。私もそれで、だいぶ洗脳されましたよ(笑)。(搾乳量を)正確に計ったわけではないけれども、牛は臆病だから、騒音とかがひどいと乳量は減る。
 塀をめぐらせ終わってから、入り口のところに5、6人の見張りができた。中を覗こうとすると、カメラで撮られる。あと、車で通ると、ナンバーを控えたり。木刀もってうろついていたり。第1上九の周囲の土地に牛を放したりしていると、信者達があとをつけてくる。山菜採りに来た人たちにも、オウムがついてくる。おっかなくなって、誰も来なくなった。やっぱり、見張りが一番悪い。これが一番周囲の人たちをこわがらせた。」

 この住民は、造成地から異臭を発する廃液が垂れ流しにされたことが原因で周囲の牧草が枯れてしまったため、吉田保健所に調査を依頼したこともあった。また、オウム信者は1日に2、3時間しか眠らない生活を送っていたので、頻繁に交通事故を起こしていた。村民を巻き込んだに人身事故こそ起きなかったものの、信者が亡くなった死亡事故なども起きており、子どもの通学などにはかなり神経を使っていたとの話もあった。
 このように、騒音や振動、悪臭、事故などの生活環境にかかわる被害や脅迫まがいの行動など、富士ヶ嶺の住民達は相当な実体的被害を受けていた。こうした経験はオウムに対する幻影的な不気味さではなく、実体的な恐怖と嫌悪を生み出したと考えられるだろう。こうした富士ヶ嶺住民のオウム観に追い打ちをかけたのが、松本サリン事件直後の異臭騒ぎと盗聴事件である。
 「松本サリン事件」とは、'94年6月27日に長野県松本市で猛毒のサリンガスが散布され、7人が死亡、500人を超える人々が重軽傷を負うという事件であった。当初、各マスコミが警察のリーク情報を鵜呑みにし、松本市の会社員河野義行氏を犯人扱いしたため、地元松本をはじめ、全国的に松本サリン事件の犯人は河野氏だという風潮になっていたが、上九一色村ではすこし状況が違っていた。特に富士ヶ嶺地区の住民は、オウムの仕業ではないか、と考えていたのである。
 松本サリン事件の12日後の7月9日、第7サティアン近隣住民が真夜中に異臭と息苦しさに気づき、少し離れた高台にある隣家に避難するという事件が起こったのである。この第7サティアン前の住民のインタビューはできなかったが、この住民が避難した近隣住民の話は聞くことができた(1997年8月27日のインタビュー)。この住民によれば、7月に入って第7、11サティアン近辺のブナやイチョウが変色していることにすでに気づいていたという。次のような顛末だったらしい。

 「それから、わたしが見てて気付いたのは、木の葉っぱの色の変化。第7サティアンから第10サティアンにかけて。これは変だと思って連絡して、役場と警察と保険所にきてもらったんですけども、対策委員はこないんだよ。そのとき残念だったのは葉っぱや土のサンプルをとっとけばよかったなあって。そのときでたのは濃硫酸と苛性ソーダ。保険所がちゃんと管理しなさいって、注意してた。
 それが7月の9日だったと思うんだけど、その晩に異臭事件というのがあったんですよ。話前後するけど、松本サリン事件の1週間あとだからね。第7サティアンだけに松本サリン事件をあつかった新聞が掲示してあった。それと、面白かったのは、細川首相の辞職を彼のカルマがどうこうって書いてあった。松本はおまえらがやったんじゃねえずらなあ、っていうと、いやー、ちがいますよ、松本の支部は現場から遠いですからって。あの連中は全然知らなかったということでしょうね。
  悪臭事件のときは連中の動きはすごかったですよ。○○さん(第7サティアン前住民)がわたしんとこへ逃げてきて、わたしは寝てたんですけども、すぐいってみたらものすごい臭いで、下に下れば下るほど苦しくなってくる(注:この住民の家は、第7サティアンから少し上ったところにある。避難してきた住民の家は第7サティアンのほぼ正面)。そこにおれなくなってすぐに110番した。
 オウム教もばたばたして、車で人間を運んでたね、ほかのサティアンへ。(話者の)家は第11サティアンのそばだけど、そこで車のドアをあけて、どうしたんだー、いったら、だまーってたねえ。女の子がのってたなあ。それから第7サティアンにおりてったら、ガスマスクした10人から15、6人の信者が呆然自失という感じで座ってたよね。
 それであくる日に保険所と警察が来たんだけど、それは木の葉の変色を通報していたから来たんであって、悪臭事件できたわけじゃない。そういうひどい悪臭事件は1回だけど、いつもあそこは臭ってた。いまでも臭うよ、残ってんだね、いろんなもんが。」

  警察が来ても、オウム側は「臭いは感じなかった」「住民の臭いで迷惑することがある」「自分で自分の首をしめるようなことはしない」などといっていたという。のちにわかったのであるが、この異臭の原因はサリン生成の際に生じる副生成物が原因だった。
 さらにこの後、「オウム真理教対策委員会」の役員宅で盗聴器が続けざまに見つかるという事件も起きたが、これも富士ヶ嶺の住民にすれば、それまでのオウムの素行をみていれば十分に納得のいく出来事であったらしい。


4. 波野村と上九一色村における行政の動き

 3節と4節では波野村と上九一色村における住民側の被害の実態を挙げた。ここでは行政も含めた排斥運動・対策の概略を紹介し、これらの対応が被害実態と特殊な関係性をもっていることについて述べたい。

4-1. 波野村の対応

 波野村の対応の特徴を一言でいえば、行政を含めた全村一致での対応をとったということである。オウム進出当初より村行政と村民は一体となって行動し、しかも村は上級官庁である県の協力も取り付けることに成功した。村民同士、村民と村行政、村行政と県のそれぞれが緊密に連携してオウム対策が進んでいったのである。村民の一体化は「守る会」の活動に、村民と村行政の連携は住民票不受理に、村行政と県との連携は森林法や国土利用計画法の適用に端的に表れているといってよいだろう。
 そもそも波野村の場合、「村おこし」活動が盛り上がっていた時期[3]とオウム進出の時期が重なっており、全村的な運動を展開するための土壌がすでに存在していた。また、村内での政争が激しいという土地柄もあって(有力な)住民グループと村行政は、もともと「密な」関係にあったのである。住民票不受理を法的根拠が得られないままにつづけていられたのも、役場の窓口を「牛歩戦術」で封鎖してくれる村民達がいて初めて可能なことであった。
 この住民票不受理という村行政の対策は、当初から法的根拠を持ち得ないものであることがわかっていたにもかかわらず、不思議なことに、当時の村関係者からは「きっとなんとかなるだろう」という、甘さを通り越して不可解とすらいえる雰囲気が存在していた。もちろん、合理的な根拠はどこにもないのであるが、そもそも波野村の反対運動自体が、少なくとも実体的な被害への対抗運動という合理的な根拠をもつものではなかったのであるから無理もないかもしれない。
 それにしても、上級官庁である県までが、通常は書類送検で済まされる森林法や国土利用計画法というカードで村を援護していることは注目に値する。警察関係の圧力で国土利用計画法をオウムの一斉捜索への口実にした、ということは十分に考えられるが、そうであれば森林法での告発は必要なかったはずである。
 最終的には9億2,000千万円という大金を支払ったにせよ、オウムを追い出したのは村の運動と意志によってであり、波野村の対オウム活動が行政と住民が一体となった強力な運動だったということは間違いない。

4-2. 上九一色村の対応

 波野村でのオウム排斥運動が全村一致と呼んでも良い状況であったのに対して、上九一色村、というより富士ヶ嶺地区はほとんど孤立無援の戦いを強いられた。村内においては、他地域の村民の協力がほとんど得られず、村行政はバックアップどころか富士ヶ嶺地区住民との連携さえ不十分なままであった。もちろん、県が積極的に対策を講じたという事実もない。
 オウム進出当初は、富士ヶ嶺地区でのオウム排斥運動も盛り上がり、村としての体制も整いつつあった。しかし、けっきょく村はオウムとの融和路線を打ち出して信者の住民票を受け付け、それを期に富士ヶ嶺地区の住民組織の亀裂が表面化、対策委員会の改組にまで至ってしまう。当然、これ以降の運動は低調になり、散漫なものとなってしまった。
 村の融和路瀬を背景に、オウムは富士ヶ嶺地区への進出を加速度的にすすめるが、94年には松本サリン事件、第7サティアン異臭事件、盗聴器事件などあきらかに暴走の観を呈していた。ことここにいたっても行政からの支援が得られない富士ヶ嶺地区の住民はなかば「あきらめつつ、命がけで」運動を続けざるをえない状況に追い込まれていく。
 最終的にはオウムの自滅とも言える行為によって村は救われるのであるが、結果的に上九一色村における住民運動は村からのオウムの撤退には何の影響も及ぼしていないといってよいだろう。これはなにも報告者の独断ではない。第7サティアンの近隣住民の一人は「たまたまオウムが自滅してくれたからよかったものの、相手がもっとしたたかな連中だったら、どうなっていたんだろう」と述べている(1997年8月27日のインタビュー)。運動をしていた当の村民達でさえ、自分たちの運動がオウムを追い込んでいったとは考えてはいなかったということである。
 富士ヶ嶺地区の孤立の原因のひとつとして、波野村の場合と同じくもともとの村の情勢・権力関係という大きな要因があるのは事実である。とくに運動の焦点であった住民票の受理に関して言えば、富士ヶ嶺地区の「切り捨て」にさえ見える。こうした村の対応の背景には、オウム施設が富士ヶ嶺地区に集中し、しかもその富士ヶ嶺地区が南北に細長い村の南端に位置することから、オウムに対する「危機感」の村内地域差が生じていたことも大きく作用しているだろうが、住民達のインタビューによればそれだけではなさそうである。
 資料4からわかるように、富士ヶ嶺地区はオウム進出以前から伝統的なムラのなかでは「異端」であったようである。前者2名は戦後開拓民として富士ヶ嶺に入植した人たちであるが、オウム対策にみられる意識の地域差が、単にオウム被害の地域差のみによるわけではなさそうな様子もうかがえる。波野村における村行政と際だった違いを見せる上九一色村の対応であるが、この違いの原因の一端はこのあたりにもあるともいえるだろう。

4-3. 波野の「非寛容」と上九の「寛容」?

 波野村は最後まで住民票を受理せず、「手切れ金」を渡してまでオウムを村から排斥した。一方、上九一色村では91年の段階で住民票を受理してしまっている。さきに述べたような経過を鑑みれば、これを単純に「非寛容な波野と寛容な上九」などということは出来ないことは瞭然としているが、しかし、実体的な被害の有無というファクターと絡めてみたとき、奇妙なねじれが生じていることに気づかされる。実体的な被害がなかった波野村でなぜあれほど徹底した排斥運動が可能であったのか、また翻って、あれだけの実体的な被害を受けていた上九一色村ではなぜ排斥運動がうまくいかなかったのか。
 この問いに対するもっとも単純な答えは、4-1、4-2で触れたように、村内の状況や権力関係がそのまま投影された、という解答である。たしかにそれなりの説得力をもつものの、しかし、われわれの関心にとって十分な解答とは言い難い。なぜなら波野の場合、一山村が県までをも動かし得たことが説明ができないし、なにより「排斥への欲求」の質の違いへの視点を欠いているからである。
 上九における排斥の動機については、実体的な被害の排除という非常に合理的な、つまり誰に対しても説得力のある説明が出来る。ところが波野における排斥の動機は漠然とした不安や気持ちの悪さであり、すくなくともはたから見れば「何が怖いのかわからない」ようなものである。しかもそうした合理的根拠をもたない訴えに応えて、行政が法の綱渡りを演じるに至ってはまさに常軌を逸しているとしか形容のしようがない[4]
 動機の合理性という点で、県(行政や一般県民)やマスコミなど外部からの理解・援助を得やすいのは上九一色村の方であるはずであるにもかかわらず、「ねじれ」が生じてしまったのはなぜか。おそらく、合理的に考えれば外部の理解を得にくいはずの波野村の「不気味さの論理」は、実は外部のわれわれに対して独特な説得力を持っていたのではないだろうか。
 そもそも「排除」とは何らかの意味で相容れないものを共同体の外部にはじき出すという性質の行為である。上九の場合、「誰が見ても迷惑な行為」を反省もなく繰り返す者の排除という、いわば市民社会の論理に即してみれば誰にでも理解可能な原理をもっていた。一方、波野村の方は、何が相容れないのかを理解するための論理・意味コードが外部の我々には自明ではない。もっとも、この「コード」は意識的に理解できなくとも「肌で感じる」ことはできるタイプのものであるらしい。当時の熊本県庁もこのコードに反応したのだろうし、他愛のないうわさ話を笑いながら、そして少しだけリアリティを感じていた人々もこのコードを直感的に理解していたことであろう。
 波野の村民たちが感じた「相容れなさ」がどのようなものであったのかを明確に言語化することはむずかしい。2節で紹介したように、波野村民の説明自体が象徴的な説明でしかないのであるから。しかし、運動の経過から若干の考察を加えることはできると思われる。


5. 負のフィードバック

 2節で述べたように、波野にオウムが進出した当初には村人のオウム理解はマスメディアなどからの伝聞情報、2次資料に基づいていた。このデータ自体が負の性質を帯びていたからかもしれないし、もとが僻地と言ってよいような山村であるから伝統的共同体の常として排他性も強かったのかもしれない。とりあえず、波野村民はオウムを多くの疑惑を抱えた「好ましからざる客」として理解した。
 もっともこうした初期設定はその後の実際の経験によっていくらでも変更の可能性があるのだが、それを疎外する大きな要因があった。オウムが持つ閉鎖性である。村人たちがいだいた「不安」は、このオウムの閉鎖性、しかもかなりかたくなな態度をもって貫かれた閉鎖性によって増幅された。

 「たとえば、(90年)6月5日、楢木野惟幸村長(当時)らが現地視察を行うも、オウム側は立ち入りを拒否した。また、6月13日、住民約70人がオウムの施設を訪れ、4項目の申し入れを渡そうとするも、オウム側はこれを拒否する。6月16日、岩下平助村議会議長(当時)ら12人の村議全員が、オウム施設の視察を行おうとし、工事現場への立ち入りをしよとするが、オウム側は三度拒否する。これでは、村民が、「中で何をやっているのか」との疑念をもったとしても、おかしくはない。オウム側が拒否した理由は、「責任者がいない」というものであった。」[池田, 1999:61]

 経験に基づくあらたな知識や理解が外部からの情報の流入の増大に追いつかないという状況に村民は徐々に焦燥をつのらせていったようである。「うわさ」が流布しだすのはこうした背景の下でのことであった。うわさが「神話化」[5]すると「中で何をやっているのか」という不安は恐怖に変質する。なぜなら、「神話」はあらたな「うわさ」を産みだし、その「うわさ」はより強固な「神話」を形成するからである。
 「監視小屋」という以後の他地域でのオウム排斥運動で「定石」となっていく方策を編み出したのも、もともとはこうした状況下でオウムについての自前の知識を得るためであった。しかし監視小屋を建設した時期あたりから運動は激化してゆき、ついには機動隊が出動する事態にまでいたってしまうのである。一旦こうした状況に陥ってしまうと、アリジゴクのようなもので、あらたな知識を得ようすること、相手を自前のより多くの材料で理解しようとする試み自体が放棄されてしまう。資料1にもあるように、県の指導によって92年1月16日にオウム施設の居住確認検査をすることになったものの、村民たちはそれを拒んだのである。
 住民票の受理を恐れたためといえばそれまでであるが、それにしても村民たちの態度は明らかに硬化していた。オウム以外の外部に対する閉鎖性をも持ち始めていたのである。そもそも県の居住確認の指導も法的な問題はもとより、あまりにもかたくなな村の態度に業をにやしたという側面があったのであるが、村がこれを拒否したため、県との連携が切れてしまうのである。また、県行政以外の外部とのつながりも危ういものとなっていた。マスコミの報道や人権団体の活動など村にとって都合の悪い要素も出始め、「よそ者」とのコミュニケーションにかなりナーバスな反応を見せるようになって来ていたのである。このころには、「監視小屋」は「視」ことよりも「監」に重きをおいた装置と化してしまっていた。
 このような波野村での運動の経過をみていくと、村・オウム双方の閉鎖性が互いの負のイメージを拡大再生産する相互作用のメカニズムの存在に気づかされる。村側がオウムについてもっとよく知りたい(あえて理解とはいうまい)、という欲求をもっていた時期にオウムが胸襟を開いていたらどうなっていたかということを論ずる術はない。しかし、こうした負のフィードバックが波野村を追い込んでいったということは言えるだろう。皮肉なことに、一部のマスコミにおいてではあるが、あたかも社会との共生関係を確立しかけたかに見えたオウムが自らその回路を閉じてしまい、急速に閉鎖性を高めたあげく自滅してしまったのとよく似た経過をたどっていったのである。
 この負のフィードバックは可変性をもっていたオウム理解を硬質な、可塑性のない解釈枠組みへと変質させてしまった。もっとも、硬質化したイメージは当初の可塑性を失ってしまう分、いかにそれがダークなイメージであっても「不気味さ」を喚起することは少なくなってくる。もっと明確な恐怖や敵意、憎悪へとその姿をかえるのである。波野村におけるオウム騒動の後半期にはその様子が現れているとみてよいだろう[6]


6. 結びにかえて

 波野村の事例を中心に議論をすすめてきたが、ここで上九一色村や他の地域の事例についても触れておきたい。
 まず、上九一色村の場合、なぜ外部への訴求力が弱かったのだろうか。端的にいえば、5節で検討したような負のフィードバックが「拡大再生産」の機能をともなっていなかったことによると思われる。波野村における負のフィードバックが作り出した「神話」は、村外の人々をも巻き込んでゆくだけの力をもっていた。その力の源泉は「正体を知り得ないもの」がもつイメージの喚起力である。
 上九においてはオウムが持つ負のイメージが、「実体的な被害」という強い枠によって制約されていた。極端な言い方をすれば「単なる迷惑者」であり、その意味では、外部から見た場合、上九での騒ぎは不思議でもなく、不安がかき立てられることもないありふれた出来事にすぎない。オウムは巷によくある「問題のある信仰宗教」のひとつでしかなかったのである。死亡事故が頻発する交差点や暴力団の事務所、ダイオキシンをまき散らすゴミ処理施設と基本的にはなんら違いはない。当事者にとっては命にかかわる問題であっても、である。
 こうしたことは、サリン事件以降の全国各地におけるオウム(アレフ、アーレフ)信者居住反対運動[7]にも共通している。これまでに調査した地域のいずれも画一的なオウムイメージ(サリン、殺人、理解しがたい教義など)に基づいた反対運動がおこるものの、その運動が周辺地域も巻き込んで大きく展開した、という事例はいまのところ見いだせない。最初の情報があまりに堅固で「恐怖」こそ生み出されるものの、「正体不明のもの」に由来するいわく言い難い「不気味さ」を醸し出すだけのパワーは、今のオウムにはないようである。もっとも、これらの地域に関しては1回きりでしかも短時間の調査しか行っていないため、本報告では参考程度にとどめておきたい。
 この報告では、オウム真理教の排斥運動をめぐる地域社会の事例をもとに「非寛容」についての考察を行うことを課題としていた。「寛容性」の問題にどの程度迫れたか、ということについては非常に心許ないが、最後に暫定的なまとめをしておこう。
 本報告では、「非寛容」を多くの知識や深い理解に基づいた明確な解釈枠組みをもたずに、また解釈枠組みをそうした材料から構築することを拒んで、相手を拒否する姿勢のことを指している。この観点から上九一色村の事例と波野村の事例を、可能な限り相違点を強調する形で考察した。そのせいで運動の本来の全体像がわかりにくくなっているうらみもあるが、その代わりに同じ「排斥運動」であってもかなり様相が異なることは示すことができたと思う。もっとも、負の拡大再生産、もしくはフィードバックという分析は少々荒すぎたかもしれない。今後、さらに検討をすすめることを誓って、筆を置きたい。

【注】

[1]むろん「消極的寛容」と「非寛容」には、明確な排斥運動などの行為をともなうかどうかという点では大きな違いがある。ここでは暫定的に、相手に対する理解や知識のあり方のレベルで位置づけている。

[2] 重量鉄骨を用いた大型の建築物をオウムではサティアンと呼んでいた。

[3] 当時NHKを辞めたばかりの鈴木健二元アナウンサーがアドバイザーとして波野村の古典芸能の復活と宣伝に尽力したため、すくなくともその当時の地元住民には、「村おこし」は軌道にのっているかのように捉えられていたし、それだけに村民達は文字通り「全村あげて」様々な活動に精力的に取り組んでいた。

[4]住民票不受理はもちろん、慣例では書類送検ですますはずの森林法・国土利用計画法違反での強制捜査も、法曹の世界の常識では考えられないことであった。もっとも、地下鉄サリン事件以降にはこうした「非常識」が日本中で横行することとなったのであるが。

[5] 「神話」という言葉はエドガール・モラン[モラン, 1980]によっている。モランによれば、「うわさ」が広がることで解釈枠組みとしての「神話」が形成されるという。ただし、モランは本報告でいうような「うわさ」と「神話」のフィードバックについて論じているわけではない。

[6] 波野村における「オウム事件」は次第に「政争の具」と化してゆく。硬化したイメージが「不気味さ」とは無縁な日常性の中に着地したことの現れであろう。

[7] これまでに、不十分ではあるが、茨城県三和町・旭村、埼玉県川口市・都幾川村・吹上町、長野県佐久町・北御牧村・清里村などで聞き取り調査を行った。

【引用文献】

芦田徹郎他, 1999, 『オウム真理教と地域社会』科研費報告書
池田太臣, 1999, 「全村一致──波野村の対応」『オウム真理教と地域社会』科研費報告書
フロイト, ジグムント.,1969,「不気味なもの」高橋義孝他訳『フロイト著作集3』, 人文書院
モラン, エドガール., 1980,杉山光信訳『オルレアンの噂――女性誘拐の噂とその神話作用(第二版)』,みすず書房


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