21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第5回研究会レジュメ

《報告2》

 2003年9月20日(土)
於:京都大学文学部新館

寛容と無関心のあいだ
――村上春樹をめぐって――

松浦雄介(熊本大学文学部専任講師)

はじめに

 あるところで村上春樹は、かつて自分は社会からのデタッチメント(離脱)を目指していたが今はコミットメントを求めるようになった、と語っている。村上春樹の初期作品において追求されていたのは、七〇年代以降の消費社会のなかで、孤独でいることの倫理だった。主人公は、あらゆる対象から距離をとり、孤独を維持し、周囲にたいして無関心であることによって、あらゆる不可解な他者を受け入れる。それは一見、きわめて寛容な態度のように見える。しかしその態度を支えているのは、むしろ無関心である。それにたいして近年の村上春樹を特徴づけるのは、コミットメントへの志向である。この志向は『ねじまき鳥クロニクル』(1994~1995)において全面的に現われ、阪神大震災とオウム事件を契機として、いっそう深まる。前者への関心は小説『神の子どもたちはみな踊る』(2000)に、後者のほうは当事者へのインタヴュー集『アンダーグラウンド』(1997)および『約束された場所でunderground2』(1998)に、それぞれ結実している。また、『海辺のカフカ』(2002)は、近年の少年犯罪を意識して書かれている。
 この村上春樹の態度変更は、現代日本における寛容の問題の複雑な諸相を、独特なかたちで照明している。多元主義と自己決定を一般的な社会原理とする今日の社会において、寛容はある種の時代の気分となっている。しかしそれは、むしろ無関心と言うべきものであること、無関心が寛容と取り違えられることも、稀ではない。
 寛容と無関心は、自分とは異なる価値観や態度、生活様式をもつ人や集団を肯定する態度である点で似ている。それゆえしばしば混同されるが、両者は似て非なるものである。たとえばインドの政治家ネルーは「寛容と無関心はいつの時代にも紙一重だ」と述べている。また、二〇世紀オランダの神学者A・A・ファン・ルーラーは次のように言っている。「寛容は個人の内側にある傾向であり、人間であるうえで、そしてまた社会のなかでともに生きるうえで必須の要件である。寛容が無関心になるとき、それは破滅する」。寛容と無関心とは外的な帰結においては似ているが、内的な動機づけにおいて異なっている。寛容は他者の承認にもとづくが、無関心は放任ないし非関与である。寛容は他者へのコミットメントに由来するが、無関心は他者からのデタッチメントに由来する。「寛容は非寛容にたいして寛容になるべきか」という問いは、寛容にとってはアポリアとなるが、無関心にとってはそうでもない。
 本報告では、錯綜する寛容と無関心の関係を明瞭に問い直すための一つの準拠点として、村上春樹の小説を取り上げる。村上春樹はどのようにしてデタッチメントからコミットメントへと態度変更するにいたったのだろうか。そしてそのコミットメントは、寛容/非寛容とどのように関係しているのだろうか。この二つが、本報告における基本的な問いである。最初の問いにたいしては小説の読解をつうじて、二つ目の問いにたいしてはオウム事件にかんする著作の検討をつうじて、考察する。

1. 私的世界とデタッチメント

 村上春樹の小説の主人公は、絶対的に受動的な人間である。あらゆるものから距離をとり、無関心の態度を維持し、いかなる喪失にも執着せず、いかなる不可解な出来事をも受け流すこと、これが主人公のスタイルである。この無関心は、一種の倫理的態度として選択されている。出来事は世界の複雑な因果の網の目のなかで生起する。だからそれはつねに不可解なかたちで立ち現れる。主人公があらゆるものから距離をとるのは、世界のこの不可解さを、安易にわかったことにすることの拒絶である。私的世界にとどまることは、社会的世界における人間関係の葛藤を避けるという消極的な理由からのみ選択されているのではなく、不確定な世界のなかで、恣意的に因果関係を設定して責任を誰かに押しつけるよりも、複雑な因果の絡まりを掘りさげ、解きほぐしてゆくという積極的な理由からも選択されているのである。


 村上春樹の作品世界では、あらゆるものが相対的であるという事実だけが絶対的である、という認識の上に成り立っている。この認識が目を引くのは、それがある種の拘束感をもたらしている点である。この拘束は、自由を因果的つながり(原因と結果の連鎖)からの離脱=デタッチメントと捉えたところから生じた。そのことが明らかとなったとき、村上春樹の自由の概念にベルクソン的転回が生じる。すなわち、自由とは、事物の因果的な流れの外にあるものではなく、その中にある。因果的流れの多様性ゆえに、出来事の生成のプロセスは不確定である。自由はこの不確定性にある。このような認識の転回を遂げた村上春樹が、『ねじまき鳥クロニクル』において歴史へ、『海辺のカフカ』において記憶へと向かったのは必然であった。歴史も記憶も、出来事の生成にかかわる多様な因果的流れそのものだからである。

2. 『ねじまき鳥クロニクル』のコミットメント

 村上春樹のコミットメントは『ねじまき鳥クロニクル』において全面化する。物語は、おおよそ次のとおりである。ある時、主人公の妻が失踪して義兄のもとに行く。主人公は社会の暗部の象徴のような義兄と接触してでも、妻を取り戻そうとする。その過程で、他の登場人物の語りをつうじて過去のさまざまな歴史が介入し、物語の糸は複雑に絡まりあう。因果的つながりの複雑化による世界の不透明化は、初期作品以来、繰りかえされてきたモチーフである。しかし『ねじまき鳥』以前は、たとえ主人公には知られてなくても、一貫した因果的つながり自体はあるはずだという期待があった。それにたいして『ねじまき鳥』では、そもそもあるべき因果的つながりというものがあるのかどうかすら、疑われている。そのために主人公は、妻が失踪しても即座に行動には移ることができない。主人公がこの受動的状態を脱するのは、三年前の妻の堕胎が、今回の彼女の失踪と因果関係があることに思いいたることによってである。かつて主人公は、妻との結婚を「まったく新しい世界を作る」ことと考えていたが、彼女を失った今、自由なコミットメント(妻との結婚)の背後にある拘束(歴史)へ向かうことによって、その自由の回復を目指す。

3. 純粋な悪:オウム真理教と寛容の限界

 村上春樹のコミットメントが寛容の問題系ともっとも鋭く交錯するのはオウム事件をめぐる著作においてである。『アンダーグラウンド』のあとがきには、オウム事件に取り組んだ動機が書かれている。村上春樹は、マス・メディアやそれによって形成された世論の「オウム=悪」と見なしてすまそうとする風潮に違和感を覚える。「この地下鉄サリン事件の実相を理解するためには、事件を引き起こした『あちら側』の論理とシステムを徹底的に追究し分析するだけでは足りないのではないか。…それと同じ作業を、同時に『こちら側』の論理とシステムに対しても並行して行なっていくことが必要なのではあるまいか」[1999:740〜741]。しかし、この問題意識に照らしてみるならば、『アンダーグラウンド』は本質的に奇妙な作品である。「『こちら側』の論理とシステム」を解明する必要が説かれながらも、じっさいに本書でなされているのは被害者へのインタヴューだからである。
 村上春樹は悪を二種類に分ける。第一の悪は社会状況が変われば善になるかもしれない相対的なものであり、「人間というシステムの切り離せない一部として存在する」[同上:311]。第二の悪はそのようなものによっては説明のつかない絶対的な「純粋な悪」である[同上:312]。オウム真理教は、犯罪を犯した面を除けば、現在の社会に適合できない人たちの受け皿として一定の社会的機能を果たしていたが、サリン事件によって、純粋な悪へと変質した。
 ここに村上春樹における寛容のアポリアが立ち現れる。寛容が悪(それは異質なものの極限型である)を許容するのは、それが自己の存在や安全を危険にさらさない限り、すなわちそれが相対的な悪である限りにおいてであり、その限りにおいては、悪はむしろ自己の<現実>を成り立たせるために必要でさえある。しかし、それが自己を危険にさらす絶対的な悪に変質するとき、それは自己防衛のために排除される。この態度が便宜的にすぎるのは明らかである。第一に、それは<相対的/絶対的>を区別する基準が不明である。第二に、それは結局、寛容は自己や社会に都合の良い範囲でのみ実現されると述べているようなものである。しかし、おそらく問題は別のところにある。
 寛容は非寛容にたいして寛容であるべきか、というようなアポリアは、論理的に解決することはできない。テロ事件を起こしたオウム真理教にたいして寛容であるべきか否か、と問うよりも、オウム事件を生み出すにいたった社会の「論理とシステム」の解明こそが必要である。多様な因果的つながりによって生成した出来事を探求することこそ、村上春樹が『ねじまき鳥』において到達した認識であった。そしてオウム事件を「あちら側」の問題としてではなく、こちら側の論理とシステムとの相関において捉えようとしたとき、たしかに村上春樹はそのような認識を実践しようとしていたはずだった。しかしそれは未だなされていない。問われなければならないのは、寛容の社会的条件である。

【主要参考文献】

村上春樹1999『アンダーグラウンド』講談社 


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