21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第7回研究会レジュメ

《報告》

 2004年3月6日(土)
於:京都大学文学部新館


日韓キリスト教関係史の一段面
両国のキリスト者の接点をめぐって

岩 城 聰(本研究科博士後期課程/キリスト教学)

【要旨】

【1】始めに

 COE研究プロジェクト『多元的社会における寛容性についての研究』の一環として、2003年8月2日から7日にかけて韓国のソウルとプサンを訪問し、聞き取り調査を実施した。これは当初、日本と韓国のキリスト者の歴史的な相互関係、とくにその接触のあり方をたどることによって、日本社会におけるキリスト教の寛容性、つまり異文化や異民族に対してどの程度寛容を示しうるのかについての手がかりをえることができるのではないか、という発想から出発した研究であった。
 そのために、フィールドワークとしては2つの面から課題を設定した。一つは戦中・戦後の日本における在日韓国・朝鮮人キリスト者と日本人キリスト者の関係であり、これは日本国内での在日韓国・朝鮮人キリスト者とその教会活動を調査対象として聞き取り調査を行なう予定である。強制労働その他の事情で日本に移住した朝鮮人、中でもキリスト教信仰を持つ者を日本人キリスト者がどのように受容したかという問題は、日本のキリスト教にとってきわめて重要な問題である。もう一つの現地調査が、韓国キリスト者に対する今回の聞き取り調査であった。本調査は全く初歩的なもので、今後継続して行われる一連の調査の端緒として位置づけられる。実際に面接できた人数も限られたものであり、したがって得られた証言も限られた地方での限られた経験を反映しているにすぎないと言えるからである。しかし、日韓キリスト教史に関する先行研究等を参照しつつ、初歩的なまとめをしておくことは必要であろう[1]
 先行研究を参照した文献による研究は、およそ次のような構成でまとめられると考えている。

@ 全体の基調―植民地支配への積極的協力
A 韓国人キリスト者によって受容された日本人キリスト者たち

 今回は、研究に取り組むにあたっての視点のみを簡略に記述しておくことにする。

 なお、今回の調査に当たっては、釜山外国語大学教授・金文吉先生に大変お世話になったことを記し、謝意を表したい。

【2】全体の基調―植民地支配への積極的協力

 日韓キリスト教関係史は、日本による朝鮮半島の植民地支配という歴史的背景から切り離すことはできない。韓国キリスト教は、その受容期において、日本による侵略と植民地支配を同時に体験したからである。欧米の列強によって植民地化された国々や地域と異なって、日本という非キリスト教国を植民地宗主国に持つという条件の下で、韓国キリスト教は当初から民族的抵抗の担い手の一つとして機能せざるを得なかったのである。もちろん、日本植民地当局の政策は懐柔と弾圧を巧みに組み合わせたものであったため、韓国キリスト者の中には反民族的親日派も育成され、全体としては複雑な様相を呈した[2]。 
 その中で、両国のキリスト者がどのような関係を結んだかは、両国におけるキリスト教信仰の内容と性質を示す指標としての意味をもっている。異なる歴史的コンテキストにありつつ、共通した信仰をもつ両国キリスト者は、それぞれの立場から日本の植民地支配と天皇制による宗教弾圧に抗しつつ、互いに受容し協力し合う方向を模索する必要があった。しかし、実際に進行した事態はそれとは正反対であった。日本のキリスト教と日本人キリスト者がとった基本的立場は、日本による朝鮮の植民地支配を正当化し、それに協力するものであり、朝鮮人キリスト者にも対日協力を強制するものであった。これが、第二次世界大戦終結までの日韓キリスト教関係史の基調であるといえよう。

【3】韓国人キリスト者に受容された日本人キリスト者たち

 柏木義円は、1919年、朝鮮民衆による3・1運動が起こった際に、組合教会による朝鮮伝道方針を批判し、「日本人には朝鮮人が見えていない」と指摘した。その指摘は当時の日本人キリスト者の大勢を的確にあらわしたものであった。しかし、われわれは、例外的に朝鮮人のリアリティを認識し、彼らの間に住み、彼らを受容し、彼らに受容されたキリスト者、伝道者が存在したこともみておかなければならない。乗松雅休、浅川巧、織田楢次らがそれである。明治初期の津田仙や既に触れた柏木義円らも、主として日本に在住しながら、朝鮮におけるキリスト教のあるべき姿を指し示した人物として評価されうるであろう。これらの人物については、詳細な個別研究が必要とされる。
 例外的ではあれ、このようなキリスト者は他にも存在した可能性がある。彼らが朝鮮人キリスト者、さらには朝鮮人全体に対して取った態度と生き方、その思想と行動は、支配と被支配、殖民地宗主国と殖民地の関係、さらに暴力的支配の中での寛容のあり方を象徴的に示唆しているように思われる。

【4】非常に限られた信徒間の接触―韓国訪問聞き取り調査の結果をもとに

【調査の目的】

 2003年8月2日から7日にかけて、COE研究の一環として韓国のソウルとプサンを訪問した。訪問の目的は、解放前後の生活と信仰についての記憶を有している韓国のキリスト者に直接面接し、その時期における日韓キリスト者の接点を探ることであった。
 訪問に当たって準備した調査項目は、次のようなものであった(韓国語で準備)。

  1. これまでに(特に戦前・戦中、つまり日帝支配の時期、および解放後に)日本のキリスト教会、キリスト者と出会ったことがありますか。具体的に名前を挙げて聞かせてください。
  2. そのとき、日本の教会・キリスト者は、あなたにどのような態度を取りましたか。具体的に聞かせてください。
  3. それに対して、あなたはどう感じましたか。率直な気持ちをお聞かせ下さい。
  4. 韓国と日本のキリスト者の主にある兄弟姉妹としての交わりを確立するために、日本のキリスト者は何をすべきだと思いますか。具体的に意見をお聞かせ下さい。

【調査の結果】

 ソウルでは、大韓聖公会ソウル大聖堂を訪問し、大韓聖公会韓日宣教協働委員会のメンバーと懇談した。報告者の意図は、著名な指導者レベルではなく、日韓の無名の教役者(聖職者)や信徒のレベルで、プラスであれマイナスであれ、何らかの接触や交流があったのではないか、もしあれば、その証言を収集しようということであった。ところが予想に反して、そうした接触や交流はごく例外的であって、一般の信徒の間ではほとんど接触がなかったということが明らかになった。

 趙炳吽さんの証言

 日本人教役者は日本人会衆を担当し、韓国人に対する宣教は、アメリカ人、オーストラリア人、カナダ人の宣教師が直接担当した[3]。日本人会衆が比較的多い教会もあったが、日本人と韓国人は別々に礼拝をしていた。ソウルでは、人数の多い朝鮮人が聖堂で礼拝し、日本人は別のチャペルで礼拝していた。お互いに接触はほとんどなかった。1916年には「大韓聖公会憲章と法則」が採択されたが、日本人教会を管轄区内における独立した伝道区として扱うことが決められた。しかし、韓国における日本人教会は日本聖公会からの支援をあまり受けることはできず、南東京教区と神戸教区だけが伝道師を派遣した。1942年には工藤司祭が副主教に叙任され、公式に韓国における聖公会を代表することになった。

 李蘭姫さん[4]の証言

 兄が工藤主教のところにいて、働いていたので、日本人のことはよく知っていたが、韓国人が日本人とつきあうことはあまりなかった。兄はイムンサンといい、日本人のチエコさんと結婚した。兄は後に日本で生活し、チエコさんは現在日本にいる。また、今村貞子さんという聖公会信徒がいて、父親は大邱の公務員だった。今村さんは、韓国を本当に愛し、日本の植民地当局の悪を告発した特別な人だ。終戦になって日本に帰ってからも、韓国のために尽くした。韓国人から尊敬されている[5]

 プサンでは、プサン外国語大学の金文吉教授のご協力を得て、長老派(プレスビテリアン。韓国では長老教と呼ばれ、統合派、合同派、高麗派などに分かれている)の主要教会の長老(役員)のみなさんと懇談をもつことができた。戦前、戦後の様々な経験についての貴重な証言を得ることができた。訪問した教会の名称と教派は次の通りである。

* 釜山鎮(プサンチン)教会(長老教合同派)
* 草梁(チョラン)教会(長老教統合派)
* 水営(スーヨン)教会(長老教高麗派)

 釜山におけるこれらの人々からの証言においても、日本人キリスト者との接触はほとんどなく、その存在すらリアリティをもっては感じられなかったということが語られた。日本人といえば、植民地当局者と官憲、軍部であり、彼らから受けた残虐行為、さらには神社参拝などキリスト教信仰に対する迫害行為に対する怒りと恨みは今も強く韓国人キリスト者の間に生き続けているという感を強くした。従って当方が準備した質問に対する答えという形には必ずしもならず、インタビューイーのそれぞれの主張が自由に語られたと言える。その中から、これまでに日本のキリスト教会、キリスト者と出会ったことがあるかどうかの質問に対する答えのいくつかを示す。

【釜山鎮教会】

 光復教会長老・李康峻さんの証言

 この教会は組合派の日本人教会として建てられた。教会には日本人しかおらず、私の見た限りでは、韓国人では日本の教会に通った人はいなかった。

【水営教会】

 長老Aさんの証言

 私は日本の教会員にも会ったことがないし、当時は日本に行ったこともない。ただ、私の両親が生活の中で感じていたことを私も見聞きしたし、感じていた。日本人が私たちを支配し、私たちは配給を受けていたこと、悲しいことが多くあった。自分が農業をしていても自分のつくった作物を食べられなかった。私たちは自由がなかったし、それこそ奴隷だった。そういうことは幼いなりにも感じていた。

 Bさんの証言

 当時は日本の教会員をあまり見ることができなかった。礼拝の時はいたかもしれないが、(日本の教会に)行ってみても、あまり見当たらなかった。名簿上はいたようだ。名のある方たちは献金を送ったりしながら牧師の生活を支えていたのではないか。名簿には日本人の名前が書かれているのを見たことがある。神社参拝に反対したような日本の方には会ったことがない。

 Cさんの証言

 日本の教会員を私は見たこともあまりないが、とにかく日本に対する感情が良くなかったので、居たとしても親日派の韓国人以外とはあまり通じ合うことはなかったのじゃないかと想像する。あと、このすぐ横は城跡だが、この城の内側では日本人が居着くことができなかった。日本人に対する感情が悪かったので、向うの外側にみんな住んでいた。日本人はこの辺りで商売もできなかった。

 さらに、日本の植民地支配下における韓国人キリスト者の生活経験については、少年時代の体験と見聞をもとに、多様な証言が得られたことを付記しておく。またこのインタビューの本来の文脈から離れた証言であったが、印象的だったのは、解放後、朝鮮の学校が、民族の歴史や言語、伝統についての教育を担うことが困難であった時期に、朝鮮人の教会がそうした役割を積極的に担っていったという釜山鎮教会の長老の話であった。今後、こうした発言を文脈ごとに整理し、日韓キリスト教関係史の全体的コンテキストの中に位置づけ直す作業が必要であると思われる。また、聴取した証言は、限られた地域の限られた範囲のものであるため、全体像を明らかにするには、例えばアンケート調査などを実施し、調査対象を広げることも必要であろう。

【5】まとめとして

 ソウルと釜山における調査結果は、日韓キリスト教における寛容の問題について、深刻な事態を示している。「寛容」という概念は様々に定義されるであろうが、その中には「受容」、あるいは「関係性」という概念が包摂されるのではないかと思われる。そうであれば、そのために関心を示し、関わりを持ち合うということが「寛容」の前提となるはずである。互いに無関心であるがために摩擦もなく、放置し合うというのは「寛容」ではなく、むしろその対極であろう。
 戦前の日本政府による植民地支配と、天皇制による宗教弾圧・思想統制とが合い重なって、朝鮮のキリスト者は二重の苦しみを体験した。朝鮮半島在住の日本人キリスト者も、天皇制によるキリスト教弾圧の政策下に置かれ、逼塞状態におかれていたのは確かである。多くの証言で、「日本人キリスト者を知らない」という表現が聞かれたのは、実際にキリスト者が少なかったこともあろうが、仮にいたとしても隠れるようにしてしか存在できなかったということを示していると考えられる。そして朝鮮人キリスト者と没交渉のまま、時流にのみ込まれていったのである。「寛容」というのは、弱小である者が強大な支配者に自らを明け渡すことではないだろう。むしろ日本人キリスト者は、神社参拝に反対し、日本の植民地支配に抵抗しつつあった朝鮮人キリスト者に関心の眼差しを向け、彼らと同じ地平に立つことに努めることによって、互いに受容し合う条件を生み出すことができたのではないか。その条件があれば、数十年を経た今日、両国のキリスト者同士が、また両国民が互いにより寛容であることは容易になっていたであろう。例外的であるとはいえ、【3】で触れたように、朝鮮の地で朝鮮の人々と共に生き、神を礼拝し、朝鮮の人々を愛し、彼らから愛され受容された日本人キリスト者が存在したということは、困難な条件の下で互いに受容しあい、寛容である一つの可能性を示唆している。

【注】


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