21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第8回研究会レジュメ

《報告1》

 2004年5月8日(土)
於:京都大学文学部新館


宗教の神学とキリスト教の再構築

芦名 定道(文学研究科助教授/キリスト教学)

Contents

  1. はじめに−今後の研究会に関連して−
  2. キリスト教の諸動向と宗教の神学
  3. 宗教の神学の問題状況
  4. キリスト教の再構築
  5. 展望

関連文献

【要旨】

1.はじめに−今後の研究会に関連して−

 本COE研究会(「多元的世界における寛容性についての研究」)では、これまで主に宗教研究(キリスト教思想)と社会学という二つの学問領域で研究を行っている研究者によって学際的な共同研究が行われてきたが(第二回報告書を参照)、2004年度より、新しい段階(セカンド・ステップ)へ研究を進めようとしている。それは、宗教、東アジア、公共性という三つの論点を焦点として、多元性と寛容性という問題を集中的に論じることを意図しているが、本研究報告では、この三つの論点をキリスト教思想研究の観点から具体的にいかに結びつけるのかについて、実例を提示することを試みたい。その意味で、以下の報告は今後の共同研究への問題提起とご理解いただきたい。

2.キリスト教の諸動向と宗教の神学

 現代キリスト教思想に関しては、1960年代以前と以降との間に、つまりほぼ1960年代の半ば頃に、大きな転回を見ることができる。それは、指導的神学者の世代交代として、あるいはエコロジーやジェンダーなどの新しい争点の中に確認できるが、以下論じる「宗教の神学」とはこの新しいキリスト教思想の動きの中心に位置している。その背後には、第二バチカン公会議(1962-65年)とWCC(世界教会協議会)の諸活動というキリスト教会の世界的規模における歴史的動向が存在しており、宗教の神学は、キリスト教会が新しい歴史的段階にさしかかりつつあることを象徴的に指示していると言えよう。これは、多元性との関わりで言えば、近代以降のキリスト教の中心テーマであった教派的多元性から、宗教的多元性−ここでは、多元主義が諸宗教相互の目指すべき関係のあり方を示す規範概念であるのに対して、多元性とは現実の記述概念と考えることにしたい−への展開として見ることが可能であるが、この問題状況がもっとも先鋭的な仕方で現れている地域の一つが、東アジアなのである。東アジアは、宗教の神学を積極的に構築するにふさわしいポテンシャリティを有する地域と言える。
 「宗教の神学」とは、「宗教」をテーマとした神学的思索を意味するが、新しい神学の動向としての「宗教の神学」に関して注目すべきは、キリスト教も諸宗教と並ぶ一つの宗教であることを確認した上で−これは神学的には必ずしも自明ではない(啓示と宗教との峻別などにより)−、宗教の積極的な存在意味という観点から神学を再構築しようとしている点、つまり、「宗教」を神学固有のテーマとして位置づけることの必要性の自覚の上に展開されている点である。宗教的多元性は、神学にとって周辺的な事柄ではなく、神学思想にとって決定的な事態として登場してきているのである。

3.宗教の神学の問題状況

 まずヒックの議論を手がかりに、キリスト教による他宗教理解について、類型論的な整理を行い、問題状況の見取り図を描いてみよう。ヒックによれば、キリスト教が他の諸宗教を理解する際の態度として、排他主義、包括主義、多元主義の三つのもの(類型)が考えられる。これらは、宗教的多元性という現実に対する三つの異なる応答と言えるが、第一の排他主義は、「教会の壁の外の救いはない」という仕方で、人間の救済に関するキリスト教の独占性・唯一性を主張するものであって、宗教としてのキリスト教が伝統的に素朴な仕方で取ってきた態度と言うことができるであろう。それに対して、包括主義は、人間の救済にとって有効な働きが他の諸宗教の中にも見出すことが可能であって、仏陀やガンジーなど、他の宗教にも尊敬に値する偉大な人物が存在することを認める。しかし、この場合、こうした宗教的に良きものを良いと判断するのはキリスト教の基準に基づいてであって、他の宗教の偉大な人物が偉大なのはそれらの人々が「キリスト教的」だからである。さらに言えば、こうした偉大な宗教者は「匿名ではあるが実質的にはキリスト教徒なのだ」とまで主張される(カール・ラーナーの言う「無名のキリスト者」がその実例と言われる)。こうした二つの態度は、表明の仕方は異なってはいても、基本的に宗教の価値をキリスト教を基準に考える点で、キリスト教中心的である。こうしたキリスト教中心主義に対して、宗教的多元性の下でキリスト教が取るべき態度として、ヒックが提唱するのは多元主義である。多元主義は、人間の救済にとっては、それぞれの固有の基準を有する複数の道が存在することを承認する(「神は多くの名を持つ」)。多元主義は複数の宗教の存在意味を肯定的に理解する上で、もっとも徹底した態度であるが、問題は、これがキリスト教神学として可能であるかである。
 「宗教の神学」は、諸宗教の存在意義を積極的に論じるという性格からして、基本的には伝統的な排他主義を超える可能性の模索の試みであって−もちろん、個々の神学者の信仰者としての本音や実践的な現場での意見がどうであるかは別問題である。というのも、様々な教派間や伝統の差異はあるにしても、キリスト教は他の諸宗教に比較して宣教タイプの宗教という特徴を有するからである−、その点から、多くの論者の立場は、包括主義と多元主義の間に分かれることになる。
 次に、こうした「宗教の神学」内部の争点を、キリスト教思想に即して、整理することを試みてみたい。まず、この争点を考える上で注目すべき文献の内、代表的なものを列挙してみよう。

1. John Hick and Paul F. Knitter, The Myth of Christian Uniqueness. Towards a Pluralistic Theology of Religions, Orbis Books, 1987.
2. Gavin D'Costa, Christian Uniqueness Reconsidered. The Myth of a Pluralistic Theology of Religions, Orbis Books, 1990.
3.Pan-Chiu Lai, Towards a Trinitarian Theology of Religions. a Study of Paul Tillich's  Thought, Kok Pharos Publishing House, 1994.
4.Christoph Schwöbel, Christlicher Glaube im Pluralismus. Studien zu einer Theologie der Kultur, Mohr Siebeck, 2003.

 とくに、注目したいのは、最初の二つの論文集である。タイトルからだけでも、直ちにわかるのは、第一の論文集が、多元主義の立場からキリスト教の唯一性を「神話」と呼んでいるのに対して、第二の論文集では、逆に、キリスト教の唯一性を再考する立場から(排他主義的にとどまるのではなく)、多元主義の方を「神話」としている点である。このキリスト教の唯一性をめぐる二つの立場の相違は、三位一体におけるキリストと聖霊の関係を下敷きにして整理できるように思われる。キリスト教の固有性は、イエスとキリストとの同一視にあると考えることができるが、これによって、キリスト教はイエスの出来事の歴史性に決定的な強調点を置くことになる−仏教におけるゴータマ・ブッダの歴史性の扱いと比較せよ−。この点で、三位一体におけるキリストはキリスト教の歴史性の基盤であり、唯一性・特殊性の原理と解釈することができる。これに対して、聖霊は神の働きが2000年前のパレスチナにおける一回的な歴史的出来事に限定されない広がりを有することの、神の働きの普遍性・遍在性の側面を表していると考えることができる。
 以上のように解することができるならば、まず排他主義は、キリストの項に過度な強調点を置くことによって、聖霊の活動範囲をキリスト教会内部に限定する立場と言える。それに対して、包括主義と多元主義とは、聖霊がキリストから独立した独自のペルソナ(位格)であることに基づいて、その活動がキリスト教会の内外に普遍的に及んでいることを承認するものであり、聖霊の項に一定の自立性を認めるものと解釈できるであろう。その場合に、包括主義と多元主義は、キリストの項と聖霊の項という相互に一定の自立性をもった原理の関係についての理解の相違と言えるかもしれない。包括主義は、キリストの項が聖霊の項を基本的に規定するとする立場であり(聖霊は父と子の双方から)、それに対して、多元主義は聖霊がキリストの規制を離れて多様な活動が可能であるとの立場に他ならない(聖霊は父のみから)。こうした整理の是非は別にしても、こうした分析によって、現代のキリスト教思想における「宗教の神学」が一過的な思想上の流行であるにとどまらず、キリスト教の根本に関わっていることが示唆されている点に注目いただきたい。宗教の神学は、キリスト教自体の根本的な再構築に関わっているのである。
 ここで、「宗教の神学」の中で繰り返し取り上げられる「宗教間対話」にも簡単に触れておこう。ティリッヒは最晩年の思索の中で、宗教間対話に関して次のような議論を展開している(Paul Tillich, Christianity and the Encounter of the World Religions, 1963 (in:MW.5))。
 まず、宗教間対話という場合、その対話には、相互の伝道活動を通した対話、宗教の置かれた文化的伝統を介した影響関係(間接的対話?)、そして宗教者相互による個人的な対話(宗教者間対話)の三つの形態が区別される。これらの中で、ティリッヒが取り上げるのは、第三の場合であるが(これには、ティリッヒ自身が、久松真一などの仏教者と行った宗教者間対話が反映している)、ティリッヒはこの対話の条件として次の4つの条件を指摘する(cf. ハーバーマス)。1.相互に相手の宗教の価値を承認すること、2.対話の当事者がそれぞれの宗教を代表していること(対話に臨む者には、それぞれの宗教に対してなされる質問や批判に責任ある仕方で十分に答える能力が要求される)、3.共通基盤(common ground)が存在すること、4.相互に相手からの批判に開かれていること(「外からの批判を受け入れるということは、その批判を自己批判に変えることを意味する」(332))。
 これらの条件はきわめて示唆的である。なぜなら、通常の宗教間対話では、これらの条件は必ずしも満たされておらず、そのために、対話が不毛なままに終始することが少なくないように思われるからである(一種のセレモニーと化し、同じ地点を堂々巡りするだけの「対話」)。多くの場合、こうした対話の閉塞状態の背後にあるのは対話の相手である他者(他宗教)への無関心であって、問題は対話がそれぞれの宗教性の核心から遊離して形式的に行われていることにあるのではないだろうか。すなわち、宗教間対話でそれぞれの宗教に対して問われるべきことは、宗教間対話の必然性(自分たちにとって対話はほんとうに必要なのか。いかなるレベルで必要か)、可能性(自らの内に対話を可能にする前提は存在しているのか)、現実性(対話の具体的な手続き)を自らの宗教的核心に基づいて真剣に考えることなのである。

4.キリスト教の再構築

 すでに指摘したように、宗教の神学の問いは、キリスト教神学の核心(三位一体理解などのレベル)に関わっており、宗教の神学を具体的に展開するという課題は、キリスト教の再構築という問題に及ばざるを得ない。東アジアの宗教的多元性の状況下でキリスト教思想に問われているのはまさにこの問題に他ならない。つまり、アジアの状況における新しいキリスト教の創出という問題である。モルトマンは、キリスト教会の歴史的現実を構成する基本構造として、状況適応性と自己同一性の両極性を指摘しているが、この図式を用いるならば、アジアのキリスト教に問われているのは、アジアという宗教的多元性に規定されて歴史的状況に適合することにおいて、新たな自己同一性を実現するということなのである。もしこの状況適応性に関して失敗するならば、それは自己同一性の喪失の危機に陥らざるを得ない。
 こうした観点から、アジアのキリスト教を見るならば、インドにおけるキリスト教・アシュラムなどはキリスト教の再構築の良い実例であり、東アジアの文脈で言えば、宗教と家族・家との関わりがキリスト教再構築の重要なポイントになるであろう。また、本COE研究会の共同研究との関連で言えば、公共性とは、この状況適応性と自己同一性の両極が具体的にバランスをとる場の問題(文化の神学のテーマとなる)であり、また寛容とはこの場の質の問題であると言えるかもしれない。今後の研究課題としたい。

5.展望

 キリスト教思想の観点から宗教的多元性にアプローチするに際して、今後とくに留意したいのは次の点である。
 まず、すでに指摘したように、宗教的多元性、宗教の神学は、具体的な問題状況に即して論じる必要がある。本研究では、東アジアの宗教的なコンテキストにおいて、この問題を考えてゆきたい。それは、東アジアは宗教的多元性を具体的に論じる上で、最適の文脈と言えるからである。
 次に、ティリッヒが対話の条件として挙げていた「共通基盤」の問題から、公共性の問題への展開を試みたい。キリスト教が近代の教派的多元性や教派間対話(エキュメニズム)に取り組んだ際には、対話のための共通基盤は実体的な形で存在していた(正典としての聖書テキストや基礎的な信仰告白などの共有された基盤)。しかし、宗教間対話の場合、こうした実体的な共通基盤を見出すことは容易ではない(あるいは不可能である)。そこで、問題になるのが、諸宗教が共に置かれている公共空間の中で、直面している課題の共通性と、その課題の解決の前提となる公共性である。諸宗教の間の対話は、いわゆる制度的な宗教諸団体に属する人々と、こうした宗教組織の外部に生きる世俗的な人々とが、共通に直面する課題に取り組む中で、具体的に遂行されることが必要なのである。ここに、「何のための対話なのか」という問いに答える手がかりがあるのではないだろうか。
 最後に、こうした宗教間対話や宗教多元性に関して必要な理論構築を行うことは、宗教研究の基礎論のレベルで、次のような三つの課題に取り組むことを必要とすることを強調しておきたい。というのも、この点にこそ宗教研究と社会学との学際的研究が実りあるものとなる可能性が存在しているように思われるからである。第一の課題は、流動的に変化し多様な形態をとる宗教動向を適切に記述し分析するのに有効な宗教概念を構築すること、つまり、宗教的多元性において宗教とは何か、という問いに答えることである。第二の課題は、世俗社会において、なぜ宗教なのかに答えること、つまり、宗教批判に答えることであり、これは宗教間対話の意義を明らかにするという点に関わっている。そして、これらの二つの課題に答える中で、そもそも宗教的多元性にはいかなる意義があるのかという第三の課題に取り組むことが可能になる。こうした相互に絡み合った基礎的な諸問題に、公共性概念を手がかりにアプローチすることが、これからの本COE研究会の中心テーマの一つになるのではないだろうか。

【関連文献】

1.『ティリッヒと現代宗教論』北樹出版、1994年。
     第四章「ティリッヒと宗教の神学」pp.197-246。
     第五章「結び−キリスト教と宗教の未来−」pp.247-268。

2.「キリスト教と東アジアの近代化」、『アジア研究所紀要』、第25号、1999年、pp.137-162 亜細亜大学アジア研究所。

3.「「宗教の神学」の現状と課題」、『宗教学会報』No.11、2000年、pp.29-56、大谷大学宗教学会。

4.土井健司、辻学氏との共著
  『現代を生きるキリスト教 もうひとつの道から』、教文館、2000年。
    第二部第4章「キリスト教は寛容でありうるか?」
        第5章「民族主義と平和」

(『改訂新版 現代を生きるキリスト教 もうひとつの道から』、教文館、2004年、第4章「多元化・グローバル化とキリスト教」)

5.「南アジアのキリスト教の諸問題」、『アジア研究所紀要』第27号、2001年、pp.191-218、亜細亜大学アジア研究所。

6.「キリスト教思想と宗教的多元性」『宗教研究』第75巻、329-2、2001年、pp.199-245、日本宗教学会。

7.「東アジアの宗教状況とキリスト教−家族という視点から−」、『アジア・キリスト教・多元性』創刊号、2003年3月、pp.1-17、現代キリスト教思想研究会。

8.「第一節 宗教的多元性とキリスト論」
   「第七章 現代思想とキリスト論」、水垣渉・小高毅編、『キリスト論論争史』日本キリスト教団出版局 2003年7月 pp.531-542

9.「宗教的多元性とキリスト教の再構築」、星川啓慈・山梨有希子編、『グローバル時代の宗教間対話』、大正大学出版会、2004年2月、pp.121-157。

10.「死者儀礼から見た宗教的多元性−日本と韓国におけるキリスト教の比較より−」(金文吉・釜山学国語大学教授との共著)、『人文知の新たな総合に向けて(21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」)』第二回報告書V[哲学篇2]、2004年3月、pp.5-23。


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