【要旨】
1 公共性の二つの構成要素
@ フセインの口の中を調べることについてのジョーク
A 公共性の二つの構成要素 自由と開放性
自由が出現したのは・・・・・・彼らが「挑戦者」となり、自らイニシアティヴをとり、そのことによってそれと知ることも気づくこともなしに、自由が姿を現わすことができる公共的を彼らの間に創造し始めたからである。「私たちが一緒に食事をとるたびに自由は食席に招かれている。椅子は空いたままだが席はもうけてある」(Arendt)
2 現在の困難
@ 楽園と力――ケーガンの議論を手がかりに
- ジャングルの中に熊(説得不能な他者、ならず者国家)が跋扈していると想定している者(米)は、銃を持ち、熊と出会ってしまったときには、実際に戦うだろう。だが、ナイフしかもたない者(欧)は、熊と対面することを恐れるだろう。そして、熊などごくわずかしかいないと主張することだろう。果ては、熊の存在そのものを否認しさえするだろう。
- アメリカの軍事力によってヨーロッパの内外の安全が保障されているがために成り立っているということ、そしてそのことをヨーロッパが自覚していない。
- ヨーロッパ――必然的合意の想定 ハーバーマス
- アメリカ――アイロニスト ローテイ
- アイロニストたちの公共的な連帯――共通に忌避すること(屈辱)の回避によって。互いの「小さきこと」の尊重(非侵害)
- 社会空間が、互いに通約しえぬ「第三者の審級」の作用圏に分解している状態。
A MADの終焉――ローティ的世界の真実
- プッシュ・ドクトリン 先制攻撃という防衛
- MADを成り立たせていたもの。――相手がmadかも知れないという<不確実性>
- プッシュ・ドクトリンにおいて失われているもの。<不確実性>に対する感受性。
- しかし、絶対に解消しえない<不確実性>は、他者の他者たる所以、未来の未来たる所以ではないか。アメリカは、逆に、他者の他者性(<不確実性>)におよそ耐えられないところに来ている。
- 不確実な他者の存在そのものが、自らの「小さきこと」への脅威であると感じられているとしたらどうであろうか。
- 極限の寛容の極限の不寛容への転回。その原因は?
B 遠くかつ近い
- <不確実性>と最小限の疎外
- 『ゴースト・オブ・マーズ』(ジョン・カーペンター)――9・11テロの意図せざる隠喩。
- オウム、サリン
- 敵たる他者の内在
3 補助線
@ 1995年の沖縄
- 10.21県民総決起大会
- 知事選挙の以外な結果
- 95年の運動が異様な喚起力をもったのは、すべての沖縄県民が、米軍が駐留していることに由来する、それぞれに多様な苦難を、少女の暴行の悲劇に投影することができたからである。
- 暴行事件が公共化の作用をもちえたのは暴行レイプが、決して公共的に表現されえない、個人の内的な核に対する冒?だったからではないか。
A ホモ・サケル
- 清教徒革命――一種の民主化運動。「Kingのためのkingと戦う。」「王の二つの身体」論。
- ホモ・サケル(1)彼を殺害しても罰せられることはない。(2)犠牲に供することができない。アガンベンによれば、「主権」の源泉。
- ローマ皇帝の葬儀
- 生き延びてしまった「捧げ者」
- 生それ自身の中に、死を越えて生き延びる生が内在しているとする感覚。
B 1995年の神戸
- たまたま十分早く起きたがために、生き延びた女性の例。
- 「私こそ死者(夫)だったかもしれない」「死者(夫)こそ私だったかもしれない」
- この女性は、生き延びた「捧げ者」と同じホモ・サケルである。
- 根源的偶有性 「私はどうしようもなくこの私である」=「私は他者だったかもしれない」
C 「為しうる」ということ
- 身体麻痺に陥った女性
- アリストテレスのデュナミス/エネルゲイアの論。「]を選択する」=「]をしない」という潜勢態(受動性)の締め出し。
- 日本語の「自動詞」と「他動詞」 受身−自動詞−他動詞−使役
- 受身・尊敬・可能・自発 (R)ARERU−ある(ある自体が主体のコントロールを超えたところで生じている)
- 自動詞によって表現されている行為は、<私>の行為でありながら、<私>の制御の及ばないこととして生起しているように感覚されている、ということである。
- 「何かができる」ということの自覚の内に、他者性が、その行為が他者に帰属し、他者の選択に規定されているという感覚が、含まれているということ。
4 <普遍的公共性>の可能条件
@ 本源的受動性
- <私>が行為しているとき、<私>に内在している他者が、その行為を選択し、決定している。
- なぜ他者を殺してはならないのか? その他者がホモ・サケルであった場合には、心置きなく、殺すことができるだろうか?
- 殺されることをあからさまに拒否している身体よりも、そうした拒否を表面には示していないような身体を殺してしまうことが、より一層悪いことであると、人は感ずるだろう。
- 顔――「汝、殺すなかれ」(レヴィナス)
- 身体の求心化作用/遠心化作用
- 他者の受動性が、その他者への<私>の能動的な働きかけを、(能動的に)触発している、という循環。他者が無防備な受動的な対象としてあること、極論すれば、他者が殺されうる者としてあること、そのことこそが、<私>の行為が、その他者への働きかけとして存在しうることの必須の条件なのだ。殺人の不可能性の究極の根拠。
A ホモ・サケルとしてのキリスト
- 主権者の身体とホモ・サケルの身体の共役性。
- 沖縄の少女の先に、キリストの磔刑を見る。
- 人類のすべてのメンバーは、その個別の苦難を、十字架上のキリストの苦難に投射することができる。ハイデガー批判。神学理論上は、ここに理想的な<普遍的公共性>が実現している。
- 神は、人間を赦すにあたって、なぜ、自らの子を殺す必要があったのか? そんな回りくどいことをせずとも、神は、直接、人類を赦してくれればよいではないか?
B 神の回りくどい赦し
- すべての人に貫く、内的な他者性において普遍的に連帯する。公共空間の実現を阻んでいる究極の原因こそが、其の<公共性>の条件である。
- ホモ・サケルはその双子のパートナーとして、主権者=第三者の審級を外部に切り離すし、共同体を閉鎖してしまう。
- キリスト殺害の意味。超越的な神自身が、死んでしまう。神の内在的な人間(可死的人間)への還元。
- 超越的なものを首尾よく空無へと至らしめるためには、超越的なものが、つまりキリストが現象しなくてはならない。そして、殺害されるという事実を経由して、その実質を変容させなくてはならない。
- 聖霊。キリストが、一種の「捨石」として、否定的に介入しなければ、聖霊はその作用を発揮することができない。→人間=信者たちの<普遍的な公共圏>
C普遍的公共性の条件――二つの水準の内なる<他者>の重なり
- われわれの誰もがかかえる内在的な亀裂において、つまり誰もが他者であるというそのことにおいて、連帯すること。
- 超越的な他者(第三者の審級)もまた、自己充足的な同一性を有するのではなく、他者性に貫かれているということ、他者性を懐胎させているということ、この事実を開示することにある。
D 空無化した第三者の審級とは誰のことか? たとえば未来の他者。
5 実践的提言
@ 民主主義の二つのアイデア
A もうひとつの民主主義
21世紀COEプログラム
京都大学大学院文学研究科
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「多元的世界における寛容性についての研究」研究会
tolerance-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp