21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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■第9回研究会レジュメ

《報告2》

 2004年6月26日(土)
於:京都大学文学部新館

移行期社会と宗教の変容
― 南アフリカにおける和解の模索 ―

阿部 利洋(日本学術振興会特別研究員・京都大学/社会学)

●報告の位置づけ

 アパルトヘイト後の南アフリカという変動期に置かれた社会を取り上げ、そこで和解という社会的目標をめぐって宗教的な動機や価値観がどのような変容を見せてきたか、という点について報告を行った。宗教多元主義というテーマとともに、宗教の変容という観点をあわせて考察する際のヒントを得ることを目的とした。

●具体的な参照対象:南アフリカの真実和解委員会

 これまで多様な形態のもとで実施されてきた真実委員会 Truth Commission の諸事例は、過去に生じた重大な人権侵害(拷問・誘拐・殺害・強姦その他)を調査し、その結果を記録として残し、(基本的には)公的アクセスが可能となるように情報を整備することと引き換えに、重大な人権侵害に責任を問われる個人や組織の裁決・処分を留保する、という課題を共有している。そうした先行する委員会の中でも、これまでもっとも実験的な試みであったと言われるものが、南アフリカの真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission of South Africa、以下TRC)である。南アフリカにおける政権交代は、武力行使を通じた勝敗決定による紛争終結ではなかったために、その後の紛争当事者たちの扱いは一括免責と徹底した訴追のあいだで揺れ動くことになった。TRCという選択肢は、そうした両極端な過去処理を排するなかで、さらに、複数の立場にまたがっていた紛争対立に起因する多元性を撚り合わせる必要性に見合うよう配慮されたものだった。移行期と称される社会状況の特徴としては、「勝者と敗者が明確でなく、過去にたいする一元的な権威・判断を体現する政治勢力が確立しない」点、および「総体として自己正当化が保証される組織や集団がない」点を指摘することができる。

●和解の理念とキリスト教的背景

  TRCの理念やスローガンは、社会的属性(人種・民族的カテゴリー)や政治的立場を異にするさまざまな支持者たちの口から語られ、その語りの多様性がまた、TRCをめぐる論争をひきだすという構図をもっていた。たとえば和解という理念をひとつあげても、その用語使用それ自体には同意を示す国民党NP(アフリカーナーとカラードの多くを支持集団とする)の政治家は和解を現政府による補償の問題として議論を進めようとし、イギリス系のリベラルな論者たちは「真実=事実」(と前提し、そ)の捜査と記録を和解に優先するものとみなし、パンアフリカニスト会議に連なるラディカルなアフリカ人たちは正義(社会的格差是正)のつぎに和解をとりあげるよう要求し、ズールー・ナショナリズムをかかげるインカタ自由党の政治家は「理念(和解)は認めるが、組織(TRC)は認めない」と頑強に反発しつづけた。このような概念理解は、(民族や政党としての)補償や責任問題、アファーマティブ・アクション(など法制度改革や税金支出)の論拠、(直接的には教育の場で)公定される歴史認識、さらには組織にたいする調査・捜査をどこまで許容するかといった事柄につながってくるために、論者それぞれの立場に応じて細かく細分化されることになるのである。
 TRCに体現された和解という目標は、上述のような立場的相違にもとづく無数の批判に対して、キリスト教的な背景をもつ二つの強力な言説によって擁護された。その二つをここでは、「ウブントゥ ubuntu 」と「回復する正義 restorative justice 」の二つとして紹介する。
  英語ではhumanness/personhood、日本語ではおおよそ人間性(思いやり、共感)と訳されるウブントゥは、「人は皆を通して皆のために人となる」のように用いられ、いくぶん冗談めかして「われ思うゆえにわれありではない」と付け加えられる言葉である。委員長ツツはこの語をしばしば用い、証言者の側からもウブントゥに言及するケースが見られた。ケープ郊外のググレトゥで開かれた公聴会では、息子を警察に殺された母親ノンブヨ・ンゲウは、和解とは加害者の人間性を回復することと考えていると言い、「ひとつの悪を別の悪で置きかえたくない」とした。彼女を含めた、事件によって息子を殺害された母親たちもその後「ウブントゥを希望」し、殺害者である警察官をコミュニティに再び受け入れるつもりであることを認めた。
  他方で、上述のツツとは異なり、より社会的正義――資源の再配分や補償問題など――を強調する立場があり、その代表的な論者としてTRC研究部長をつとめたビラ=ビセンシオがいる。彼もキリスト教的な背景をもっているが、「そのことが、あなたの仕事(注:TRC研究部長の職務)にどういう影響を与えているか」と記者から尋ねられた際には、「神学的な用語をほとんど使うことのない世俗的な仕事に従事しているいまこそ、これまでで最も神学的な活動をしていると感じる」と答えていた。そこでは和解の理念にかんして、回復する正義restorative justiceという理解から擁護する主張が展開され、「回復する正義という指針は、被害者・加害者・コミュニティがともに回復する方向性を模索し、うながすものであり、これは従来の司法に欠けていたものだ」とされたのである。
  和解という理念は、1994年の政権交代時になって現れたものではなく、1980年代をつうじて特にキリスト教的な背景をもつ解放運動グループのあいだで盛んに議論されていた。そして、アパルトヘイト期に和解を唱えることは、それ自体が現状維持に寄与する否定的効果をもつのではないかという懐疑的な視線を浴びることでもあった。つまり、当時から、解放運動に関与する教会関係者のなかには、一方で「和解を呼びかけ、赦しを語る」言説があり、他方で「あくまで正義を唱え、社会分析と体制変革の必要性を主張する」言説があったということであり、その立場の対照性はそのままTRCを通して表明されるにいたったと見ることができる。
  ところで、上で取り上げたふたりの政治的スタンスには、両者の神学的スタンスに対応する部分もある。両者ともに、解放運動に関与するなかでラテンアメリカの「解放の神学」に共鳴し、そこからツツは自身の文化的背景と反植民地主義思想をとりこんでアフリカ神学の方向で発展させ、ビラ=ビセンシオはボンヘッファーの神学を取り込んで体制変革の実践にくわわってきた。ツツはかつて、「ヨーロッパ人と宣教師の世界観にそぐわないすべてのものを否定する帝国主義と人種差別主義にキリスト教会が浸ってきた」事実を考えれば「神を語るために、われわれ自身の文化的メタファーを使う方法を発展させるべきだ」と主張した。こうしたツツの神学的背景に触れるとき、TRC活動について「法的な正当性が十分でない」とみなす視線や、「ウブントゥの概念はアフリカ的な要素を強調しすぎではないか」とする批判は彼にとって何ら新鮮なものではなく、それゆえどことなく意図的に自身のスタンス――文化的シンクレティズム――を強調しているような印象もうける。ひるがえって、ビラ=ビセンシオは1992年に出版された『再建の神学 A Theology of Reconstruction』のなかで、その神学の出発点を次のように定めた。「宗教と法の関係は、神学の進化にとって決定的に重要である。生活のただなかに、つねに神を新しく顕現させること、と同時に、日常のなかで神の顕現を識別すること。これはながらく神学の問題であり続けてきた(…)ボンヘッファーはこの顕現を、非宗教的な仕方で語る必要があると考えた。(…)それは世俗的な言説を通じて、法の支配と、社会変化の基礎を与える解放的な法の創出に寄与することになる」。彼にとって、TRCとそれにつづく活動が「解放的な法の創出」プロセスの一環であることは疑い得ない。そこに見られる神学的実践は、解放闘争から法システムへの働きかけという変遷に顕著なかたちの政治的世俗主義であったといえるだろう。

●簡単な考察

  南アフリカの和解をめぐる社会的実践から考察される点として、次の3点を取り上げた。

「宗教の復活」概念について
  従来、宗教の復活という文脈で取り上げられてきた諸事例と、本報告で扱ったTRC活動の違いは以下のように把握される。TRCは民族主義的な宗教ナショナリズム(例:ヒンドゥー・ナショナリズム)でも、アンチ西洋近代としての宗教原理主義(例:イスラーム復興運動)でもないかたちでの国民統合を求めるものであり、それはまた、アメリカにおけるキリスト教右派のような政治勢力にみられる、宗教的背景を前面におしだして社会秩序を要求する運動とも差異化されるものである。

「宗教の変容」概念について
  デリダはTRCを論じながら、そこから「今日では、このような赦しの場面は、地球上で増えてきていて、(…)このような赦しの場面の一般化が何を意味するかについて問わなければなりません」(『言葉にのって』)と問題設定をおこない、別の場所では「(…)赦しの「世界化」は、(…)潜在的にキリスト教的な、(…しかし)キリスト教会をもはや必要としないキリスト教化の過程に似てくる」という解釈を提示している(『現代思想』2000年11月号)。ここで、デリダの解釈については、@社会変動が宗教を変容させるという図式――(宗教の側からの、社会にたいする)同化的図式――ではなく、A宗教が社会にたいして抵抗し復興するという図式――分離独立的図式――でもなく、もちろんB前近代的な宗教優位の図式でもないかたちでの、C宗教的な形式が社会にたいして働きかける図式として理解されるべきではないか。

多元性と変容
  宗教間対話や宗教多元主義が論じられる際には「差異と共通性」がひとつの参照項とされているように思われる。他方で、本報告でとりあげたような紛争後・移行期社会における和解と社会秩序の模索に関して、「文化的シンクレティズム」や「政治的世俗主義」とみなしうる現実がある。こうした現実を目にする際に、どこまでの変容が同一性の範疇として許容されるのか。あるいは、同一性の維持が重視されない場合、固有の属性(例:キリスト教(的であること))を維持し続ける意味・意義・機能をどのように考えることができるだろうか。


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